夏の雨の花嫁


雨の音がする。

果たしてそれが本当に雨の音であるのか、燭一つ無い世界で由良昂允は深く瞑目していた。 此の世の何ものにも実感は無かった。
ただ、目を閉じても其処に世界があるのだ、それだけが解った凡てだ。
夕刻に酷く降った雨は今はその勢いを失い、ただしめやかに静かに優しく降り注いでいた。 果たして輪廻転生があるのかは解らない。
だが、瞑目し雨音を聞いているとそれが雨であるのか、疑わしく成ってくる。そう、此の夏の暑さに発汗する躰と、雨音。汗は羊水に、雨音は血液の循環の音に感じられ、まるで自分が母の胎にいる胎児にでも生ったかのような。

兀。兀。兀。

誰ぞ、母の胎に囁きかけたか―――――

雫のような足音を聞いて、ゆっくりと瞑目を解くと、闇の中に関口がいた。

「伯爵、」
呼びかける声は矢張り何処か胡乱だった。
「貴方で四人目です。関口さん、」
暗闇に仄朦りと浮かび上がるその白い皮膚と襯衣。履いているズボンは闇に紛れ、彼は上肢だけを浮かばせた鬼神―――――否、幽霊のようだった。
「四人目?」
「諾。誰もが私を心配している」
逃げも隠れもしないのに。
「そう、私は―――――死なないのに」
「伯爵…皆さん、貴方のことをいつくしんで…いらっしゃるのです、」
ぎこちなく関口は云った。
脅えているように、困っているように、羞恥にさらされているように、そんな関口の姿に伯爵は小さく笑みを零さずには居られなかった。
「貴方も、ですか?関口さん、」
「当然です」
少しだけ気負った返答は、関口には似合わない。
「伯爵、」
「はい、」
「………」
関口は俯き、頸を捩った。言葉を捜しているようだった。
「どうしましたか?」
「貴方は明日には警察へ行ってしまう」
「当然の処遇です」
「………僕は………」
また黙った。
「…僕に…時間を頂けないでしょうか?」
「関口さん?」
「伯爵が今こうして…大事な時を過ごされていることは解ります。でもっ、その永啼き鳥の夜明けを告げるまでの、時間を…僕に、下さらないでしょうか?」
まるで何かを振り絞るように、小さく叫ぶように、関口は少しだけ早口で云った。
どうしてそれに抗えるだろう。
由良昂允は、彼を眼にした時のことを思い起こす。否、彼の小説を読んだ時間のことを。


彼は―――――新たな生の前の贄である。


「差し上げましょう。関口さん、私のほんの短い時間で宜しければ」
軒から滴る雨滴の音が聞こえ、関口は伯爵の傍らに立ち、その白い手を取った。
酷く―――――冷たかった。
「此方へ、」
「え、」
戸惑うと幽かに微笑み返された。
此の屋敷は由良昂允の鄙であった。その石造りの屋敷の廊下を関口はとても簡素に簡単に歩いた。 此の家の主人以上に、何処に何があるのか、凡てを把握していて、主催しているかのような素振りである。
反対に屋敷内の冷とした空気に、伯爵は歩を進めれば進めるほど、恐ろしさを増して往く。
此処は凡て見知っている。だのに、廃墟を彷徨うかのような感覚に陥る。 関口は自分を何処に連れて往くのか―――――

闇の向うには、未だあの黒鶴が―――――

鶴の鳴き声の恐ろしさの幻が聴覚に黄泉還り泡沫の如く消えて行く。
自分の思考が散漫に成っていることを自覚した。
何故なのか。
「此方です、伯爵」
二枚戸の右側を関口は開けた。
鍵は掛っていなかった。


自然と關口の手は解かれる。そして伯爵を置き去りに関口は室内の中央に置かれた卓子に近付いた。
卓子の上あった洋燈を点すと、その小さな光明に卓上のものが浮かび上がった。
「―――――鶺鴒せきれい、」
「嗚呼…流石です、伯爵」
関口の嘆く声が聞こえた。
「伯爵、こちらも」
洋燈の作り出す仄めの小さな光明の環から抜け出すと、関口はまた別の卓子に環を作り出していた。
彼の歩んだ道は聖痕のようだった。
「―――――河雁、鷺、翠鳥、雀に、雉―――――。関口さん貴方は―――――」
云わんとしていることを理解し、瞠目した。
「―――――此の御屋敷は、鳥で満ちている。鳥は天鳥船神ともいうように、古には魂を天上へ運ぶと考えられたものたちです。ゾロアスター教などの鳥葬なども死者を鳥に食させることで、死者を天上に運ぶと考えられている。古墳などには度々雁や鴨、鷺や鶴などが巨大な建造物である古墳を取り巻く埴輪や、また玄室内部で死者に捧げる高杯などの形で配される。また巫覡は度々鳥のような装束で霊力を顕現しそれは日本だけでなく、東亜細亜の中で捉える必要のあるものです」
凡てあの能弁家の友人の受け売りだった。
「鳥は―――――太古に葬礼の象徴だった。貴方のお父上は此処に大きな殯宮を作り出したのですね」

河雁を以て持傾頭者とし、鷺を以て持帚者とし、翠鳥を御食人とし、雀を以て碓女とし、雉を以て哭者とす。

「貴方も薫子を悼んで…」
「否!」
関口にしては瞭然と発音した。
「…否、否…伯爵、僕は薫子さんではなく…」
逡巡し云い澱み、鳥を熟視めていたその濁った眸を漸うと伯爵に向けた。
「貴方を―――――」
ゆうべに太陽は死に、あしたに太陽は新たに生まれる。
夜が明ければ、由良昂允は警察へ出頭するのだ。
「あ、貴方に―――――」
「―――――せきぐ」
まるで敏捷な木の上の動物のように関口は動いた。
由良昂允は関口が肩と項に手を回し、木の幹を引き下ろすように自分の上肢を折り曲げさせ、互いの唇を重ね合わせていることを知った。
人の、温かさ。
唇の柔らかさがあった。
寝台の上で明け方には冷たくなっていた、妻たちとは違う。
関口の眼球を包んだ薄い皮膚に毛細血管の青さを見ると伯爵もやがて目を閉じた。
唇の柔らかさを合わせた唇で啄んでみる。 唇を開いた。互いの歯が僅かに当たる。
舌を摺り合せた。
互いの唾液が混じり合って、飲み下した。
唇を離すと、関口は濁ったような咳をした。
そして―――――


「貴方は陰摩羅鬼などに会うのではなく、鶺鴒に会うべきだったんだ」
掠れた声で関口は囁いた。

遂に合交みあわせむとす。
而も其のみちを知らず。
時に鶺鴒有りて、飛び来たりて其の首尾を揺す。二の神、見して学ひて、即ちとつぎの道を得つ。


再び、今度は伯爵が関口に唇を寄せた。歯があたると、関口の頬が優しい笑みの形に動いた。
関口の手が伯爵の胸を押した。傍には長椅子があった。
其処に背から落とすと伯爵はとても驚いた。
伯爵の細い身に圧し掛かりながら関口はまた唇を寄せた。
襯衣の釦を外しながら唇を落とし、ズボンの前を外すと撫で上げた。伯爵の呼吸が上がるのを聞く。
舐め上げると声を上げた。
「せ…関口さん…」
固くなり、それに酷く丁寧にじっくりと舌を使って、伯爵は喘いだ。
関口は長い時間を掛けて伯爵を受け入れた。


「関口さん―――――」
伯爵の上から関口は起き上がると、
窓辺へ立った。
着衣は一枚もない。
未だ暗い外界。
日の無い暁。
その窓を関口は開け放った。
「伯爵、暁です―――――」
間も無く長鳴き鳥が明時を告げる。
「今日は暑くなりそうだな。見てください、伯爵、太陽が、」
夏の暁は速いのだ。
朝日に包まれた関口の白い背を伯爵は目を細めて見詰めた。
雨―――――母の血の循環はもう聞かれない。


「私は―――――生まれたんだ―――――」








新生を告げる鳥の声に嬰児みどりごの産声を聞いた。














08/01/06


イザナギとイザナミは鶺鴒の交尾を見て、まぐわうことを知る。
陰摩羅鬼のヒロインは伯爵である。姑獲鳥で涼子さんがヒロインであったように。
そして関口が彼らを救う。

タイトルはオペラアリスさまからお借りしました。
タイトルの『花嫁』は伯爵。
でも関口は受け。あしからず