06 脱いだ理由 薔薇十字探偵事務所へ赴くと、雨が降っていた。 否、実際問題あの破天荒な探偵の住処乃至は基地とはいえ、屋根は着いている。当然だ。だから雨が降るなどと言うものは実際に有り得べき事柄ではなく、飽くまでも主観なのである。 其処に足を踏み入れたのが他人であれば、全然別の事象として受け入れられたのだ。 そう、だから「雨が降る」と言う表現は飽くまでも比喩でしかない。 関口巽は訪う其処に幻視を見たのだ。 「何をやっているんですか、入ってくださいよ」 前髪を揺らして男は云った。 彼の名は益田龍一と云い、嘗ては神奈川県警の刑事だった男である。縁有って…縁などと言うべきではないだろう、或る事件で知り合ったのだ。その時の彼は刑事としての職務と全うしようとしている若い誠実な公僕だった。少なくともそう見えていた。だのに、此の事務所の主に会ったばかりに道を踏み外した。 ―――――そう、道を踏み外したのだ。 「関口さん、」 名前を呼ばれて自分の膜が弾かれた。 「いつも変だけど、今日も変ですよ」 そう云って益田は関口の背後の扉を閉ざした。 「ああ、ごめん」 けけけ、と益田は笑う。 「何だよ、」 「いやぁ、関口さんだな、と思いましてね」 「なんだその感想」 「嬉しく成っちゃって」 「は?」 鼻腔を擽るのは珈琲の馨しさだった。 「待ってたんですよ、一応関口さんを。こうしてちゃんとお持て成しも用意して」 「榎木津は?」 少しだけ益田の眉根が狭まる。表情が曇る。髪が更々と音を上げた。 「何だ、」 「『何だ』とは何だよ」 関口は応接用の長椅子に座った。 雨が降っている―――――。 またそう思った。 「僕に逢いに来てくれたのかと思ったのに」 「あ…」 関口の碗から黒い液体が毀れた。 「あーあ、流石関口さん。また零した」 「御免何か拭くものを」 益田が自分の襯衣の釦を外しだした。薄く細い縦じまの入った仕立ての良い襯衣である。臍の辺りから胸まで羅列された釦を外して、左腕を背中に回し、矢張り背中に回された右腕の袖口を摘んだ。前身ごろのが肩を剥いた。そして袖から右腕を抜くと、反対に今度は右腕を背中に回し、左袖口を引っ張る。左肩が剥かれると襯衣を丸めてすっと関口へ差し出した。 「どうぞ」 「ま、…ま、ま益田くん…」 「はい?」 益田の口元が下限の弧を描く。けれども眸は冷ややかに、眼差しは淡い。 「早く拭いて下さいよ」 「でも…」 「『でも』何です?」 関口の手の中に襯衣を捻じ込む。襯衣は未だ、温かい。その温もりは、先までそれが益田の肌身に接していたことを意味している。 「君、」 「はい?」 線が細い。 改めて関口はそう思った。 それなりに見慣れた心算なのだが、改めて関口は思った。 此の青年は線が細いな、と。 「いやらしいなぁ」 肩が弾んだ。 「そんな凝乎っと見て」 顔が熱くなる。 「あ…だって」 またけけけと青年は笑った。 雨が降っている。 耳朶に触るそれを漸うと関口は認識した。 益田は襯衣の下には何も着ていなかった。だから彼の線の細い上肢が関口の前に曝されていたのだ。関口は痩せているが線が細いとは誰も思わないだろう。貧弱なのだ。 「いいよ、それだったら僕は自分の襯衣を使うよ。だから此れを着て」 「早く拭いて下さいよ。床に滴ってしまうでしょうに」 益田は関口の襯衣を持つ手首を掴み、その儘腕を捻り、自分の襯衣をその液体の溜まりへ押し付けた。 白い布地をゆっくりと黒い液体が吸収される。 「これで、もう襯衣は着られない」 「益田くん?」 「生憎と此処には着替えなんか置いてませんからね」 「そんな」 益田の肩越しに窓がある。その向うには青い空が広がっていて、雲が揺蕩う。今のところ、雨の気配など微塵も無い。 「関口さん、どうしました?今日は何だか変だ。否、いつも変ですけどね」 「人を貶すことは忘れないね君」 「まぁ、あんな雇い主と一緒に居ますとね」 「君が押し掛けてきたんだろう?」 益田の腕が伸びてきた。 「眼を瞑って」 云われるままに眼を閉じる。 初めに頬に益田の指が触れた。その儘指と掌は関口の顔を何故唇をなぞった。そして手より大きな積体の気配を感じ、唇を塞がれた。 耳朶には雨の音が触っていた。 唇が離れて、その儘じっと眼を閉じて漸うと、眼を開ける。 「先日君の部屋に行った時にも、此れ掛かっていたね」 関口の無骨な指が空を差す。 「ええ、はい」 「あの時、雨が降っていただろう?」 「ああ、そうだったかも」 益田は両目で右上を見上げた。視線が右を向くのは思い出そうとしている証拠だ。それは脳内運動と関わり合いがある。 「朝起きたときに音楽を流すの日課に成っているから」 それは実家に居た頃からの習慣だ。 音楽が好きだった父親がゆったりとした音楽を好んで朝に流していたのだ。その中で食事を取ることが当たり前だったから。 「うん、だから此処に入ってきて時、雨が降っていると思ったんだ」 ああ、と呻いて益田は前髪を掻上げ、指の間からその髪は零れ落ち、そして頭を掻いた。 「すみません」 その言い方が常の彼でなく酷く神妙だったので、関口は少し笑ってしまった。 「何がだい?」 「まぁ、なんと云うか…」 またうう、と呻いた。 顔を上げると赤かった。 「関口さん、ちゃんと僕に会いにきてくれていたんですね」 「…当然だろう?君と約束していたんじゃないか」 両手で益田は顔を覆った。 今日は快晴である。雨など降っていない。だのに、雨が降っていると思ったのは偏に今流している音楽の所為だろう。先日会ったときに雨が降っていて、尚且つ同じ音楽を流していたのだ。 関口は―――――だから―――――初めから―――――。 「今日はもう終いにしましょうか」 「え?」 「此の事務所ですよ。閉店」 「でも、」 「何処かの探偵は行き先も告げずに行っちゃったし、もう今日は帰ってこないでしょう。此処でもいいんですが、流石に後で僕が関口さんを見た時怒られそうで」 「益田くん、」 益田は椅子から立ち上がり、探偵の椅子に掛けられた上衣を羽織る。 「榎さんのだよ」 「ちょっと借りるだけですって」 肌に直に上衣を着ると益田は「意地悪をしてすみません」と云った。 「関口さんが榎木津さんの名前を出したんで、ちょっと拗ねたんです、でも―――――」 「でも、何だい?」 「否、いいです。僕の部屋に行きましょう」 「いいけど…変なことは無しだよ」 「変なことって何です?」 「此の間だって…あんな…帯締め何処から持ってきたんだ。暫く痕が残って…困ったんだからな」 ふふふと益田は笑った。 「あ、じゃあ此処でしますか?」 「また、無理難題を…。怒られるって云ったのは君だろう」 「僕もずっと考えていたんですけど、」 関口の横へ腰を下ろした。 「何を」 「あの眼をどうやって躱すか」 思わずじっと益田の眸を覗き込んでしまった。 そんなことを考えながら生活しているのだろうか。 「それはですね、此処で眼を瞑って、若しくはお互いに目隠しをして―――――」 「益田くん…」 「まあそれはいずれまた」 そう云って関口の二の腕を掴み、関口を立ち上がらせると益田は部屋の隅に行き、レコードを止めた。 「あ、」 雨が已んだ。 「さて行きましょうか」 青年は手を伸べて、関口を誘った。 01/08/06 ご覧になってくれる人が意味を酌んでくれるかが、不安です。 益田は関口が自分との逢引を蔑ろにしているような気分になって、 セクハラ紛いの意地悪をし、 関口は薔薇十字を訪ったはじめからちゃんと対益田モードだったんだよ。 と言うそれだけの話でした。 ではでは。 音楽はサティのグノシエンヌの壱です。 |