海、かたちのない、単純に比類のない海
――――――― Marguerite Duras ; L'AMANT 




Besieged




 初めて逢ったのは共通の友人の許だった。
 革命思想家で運動家である木場修太郎の周りには時として剣呑とした男たちが集うことも少
なくなかった。大凡そうした剣呑な連中と関口の反りが合う訳も無く、だのに関口は厭なこと
にまで頷ける性分ではないから追従も出来ず、時としては酷い憎悪の対称にされた。尤も此れ
は木場には内緒だ。
 木場に後輩だと紹介されたのは童顔の青年だった。手を差し伸べられ、他人との接触が嫌い
な自分が能く握手に応じたものか今も不思議でならない。
「そんな幼な顔な野郎だが一端の過激運動家だぜ」
木場は甲高い声で笑った。
「関口、さんですか。宜しく」
「あ…どうも」
初対面は嫌いだ。言葉に詰まる。ただの挨拶さえ正面に交わせない。大概の人物はそれだけで
関口を区別する。
だのに青木は興味深そうに関口を見遣ると幼顔を緩ませて穏やかに笑った。そして関口は赤面
して、ただ静かに失語した。
それが関口巽と青木文蔵との出逢いだった。


 それから半月も経たず青木とはまた木場の家で合った。木場の家は人で満杯だった。どうや
ら会合があるようだった。関口は木場にさえ近付けない。
少しだけ面食らっていると青木が背後に立っていた。
「とんでもない時に来てしまいましたね、」
「青木くん」
唐突に降った声に少しだけ驚いて肩が震えた。
「あ、すみません」
肩に手を置かれた。穏やかな青木の顔を見るたびに何故此れが過激な運動家のモノなのか見当
が尽かなかった。
「今日なんかに此所に来てしまったら特高に眼を着けられますよ」
「…君には悪いけど、」ちょっと言い澱んだ。「僕には特別な思想は無いよ」
「特高の奴らにすれば関係ないですよ」
「あ、君は?」
「僕はもうとっくに眼を着けられてますからね。もういいんですよ。以前無茶をし過ぎたって
のもありますが」
「『いい』ってそんな無茶なことをしたのかい?」
「しましたよ。尤も、今はもうあの方法は間違っていたって知ってますが。木場さんはもっと
正攻法で臨もうって人だから。前の自分と比べれば木場さんの方法が明らかに現実的だし」
「それは…どんな?」
臆病な癖に知りたがりな性分なのだ。
「言えません。あなたにまで類が及びますからね」
軽々と言ってのけた。
人が口を噤み始めた。静けさが伝播する。一人の青年が木場と口論するように口を利いていた。
「出ましょうか?」
それを一瞥すると青木が言った。
「良いのかい?」
「あなたが『あれ』の話を聞いてはいけない」
あれと木場と話す青年を指した。
「耳が腐ります」
青木の口が皮肉を尽いた。
「木場は大丈夫なのかな…?」
友人を気遣った。木場修太郎はそれこそ関口にとって数少ない友人だからだ。
「あの人なら大丈夫ですよ。あの人は『正しく』生きてますからね」
「『正しい』?」
「ああ…うん。ちょっと違いますね。語弊があるな」
頭を掻いた。
「あの人は木場さんは、自分の好きなように生きている。あの人の良しとする『好きだ』『奇
麗だ』『気分が好い』そう言うことが偶然にも世の中で言う『正しい』と云うことと能く似て
いるんです。木場さんは自分の好き嫌いで行動してますからね。でも他から見ればそれは『正
しい』ことなんです。だから誰も彼を裁けない――――――」
国家であろうとも。
「それは彼の立場として良いことなのかな?」
「畢竟、そんなもんですよ」
会合が始まると同時に青木は関口を連れ出した。人が多い通りまで関口を連れて行くと青木は
何も言わずすっと関口から離れ、其の儘姿を晦ませた。辺りを見渡すと誰かが此方を不審に伺
っていた。素人の関口に見破れるほど、それは不審だった。
あれが特別高等警察なのだろうか。
彼らは秘密裏に此方を伺っている訳ではないのだ。隙を見せてはならないのは彼らなのだと思
うと、ぞっと寒くなった。


 次に青木と出逢ったのは、大学の構内だった。
解剖学の受講で献体を取り囲む白衣の集団の中に青木が居た。
其処で自分と青木が同じ大学の医学部で学ぶ学生であることを知った。白衣を脱いで廊下で煙
草を呑んでいると青木がすっと横へ立った。あの日居なくなったように不意に出現した。
「無事に、帰れたようですね?」
「青木くん、」
関口は青木を見上げた。
「彼奴らの尋問にあったら恐らくあなたは此所にいないでしょうから」
「あ…こ此の間は、突然消えるから吃驚したよ」
「危険でしたから」
あなたが、とそう言ってまた穏やかに笑んだ。其の儘会話が途切れた。ぎこちない空気。こう
した空気が好きではなかった。もっと正直に言うなら怖かった。関口には他者に対しての理由
の無い劣等感があった。
何か話さなくては、と思えば思うほどに、脳は徒に空転した。
「里村先生の解剖学、いつも助手をしてるんですか?」
口を開いたのは散々思考を駆使した関口ではなく青木だった。
「え、」
関口は医学部の助手を務めていた。此の大学では助手は未だ先生とは呼ばれない。
里村は外科の助教授だった。解剖学を受け持っていた。
「あ、否、今回は里村君に頼まれて顔を出しただけで。僕の専門は…細菌だし…」
「余り構内で見ないですよね」
「何を?」
「関口さんを、」
誰かにそんな風に求められることなど初めてだった。ほんのちょっと気に掛けて貰う。気に留
めて貰う。そんな僅かなことに何故か、心が震えた。
「僕は研究室を出ていることが稀なんだ。今日は引っ張り出されたんだよ。それよりも…君の
方が意外だ」
「何がです?」
「大学に通っているなんて、」
眉根を寄せて非常に巧みな表情で青木は苦笑した。
「慥かに僕は反政府的ですが、此所は治外法権内だし。僕…医者に成りたいんですよ」
「医者に?」
フィルタまで短くなった煙草を関口は灰殻入れへ放った。
「ええ、医者に。色色試みてきましたが、どんなに声高に自分の意志を主張しても過激なこと
をしても結局地に足が着いて無くちゃ何にもならないでしょう?社会の歪みってのは最も弱い
処に皺寄せが来るから。医者は此の国のもっとも底辺にいる真っ当な人々と出会うことになる。
少しでもそういう人たちに接しなくちゃ自分の主張なんて夢物語なんだって」
思ったんです。そう言って少しだけ笑った。
 彼の遥かに崇高で確固とした意志。眩しかった。穏やかで年少の礼を忘れず、その柔さの向
こうに見える、灼熱な苛烈の精神。
惹かれるのは、当然だった――――――


 共に暮らし出すまでに逢ったのは三度だ。僅かに三度限だった。そして実際共に暮らしたの
は一週間に満たなかった。都合一週間強が青木と関口が持った凡てだった。
その時分に青木が大きな事件に巻き込まれているとは思えなかった。
短い期間だったが彼は兎角慎重にことを運ぶ為人だと言うことを知ったし、今や青木が持つ理
念は急進的な思想ではなかった。


 だのに―――――


急襲は真夜中に行われた。
夜明けは遥かに遠くて、天空では月が輝いていた。
軍靴は何故あれ程自己を主張するのだろう。
他者を蹂躙することに長け、征服して行くことを正義と疑わない、強圧的な靴音。それが習慣
であるのか静かに停止した車の機動音に眼を醒ましたのは青木だった。傍らに眠る関口を揺り
起こした。同時に銃を構える音が聞こえた。寝起きの朦朧とした意識に不意に競り込んで来た
青木の声。
それは「逃げて」と告げていた。
扉を蹴破られる荒々しい音が遠くに聞こえた。玄関を突破したのだろう。
状況を把握出来ないで居ると、寝台から引き摺り下ろされ、襟首を掴かまれて窓際まで移動し
た。窓の外は暗い。街の郊外に青木の家はあった。窓の外の景色は農地の中に家屋がぽつりぽ
つりとあるだけのだった。
それを一瞥もしないうちに、背を圧された。
「あなたは、生きて―――――」
懸命な声だった。
真摯な眸。年少の童顔の恋人は此れが最期かもしれないと言うのに、口付けもせず、少しだけ
悲しそうな表情を見せただけで、関口を二階から突き落としたのだ。
それは部屋の扉があの強圧的な軍靴で蹴破られる、瞬前だった。
地上までの距離が酷く長い時間に感じられた。
何処までも続く浮遊感。
窓には既に彼の姿は見えなかった。
家屋で争う声が聞こえる。
彼の必死の抵抗の声だ。
彼は自分の主義を隠したりはしない。彼は真直ぐで清潔な男だ。それは木場と能く似ていた。
だからこそ、それを恐れた政府はこうして軍部に追捕させたのだろう。
「逃げて―――――」
それまで利けないでいた口が微かに動いたと同時に、家内で銃声が聞こえた。
躰が震えた。眼を瞑った。
此の儘地上に叩きつけられて死ぬのだろうか。此の地上に一人残されるなら、それでも良いよ
うな気がした。
仮令其処までの浮遊感が如何な恐怖であろうとも。
霧散した。
―――――垣根に背を抱き止められたのだ。
朦朧とした意識で、襲撃者が去って行く車の機動音が遠く成るのを聞いていた。
日が昇り朝が来るまで身を潜めながら泣き続けた。此の政権下では彼の姿を再び見ることが適
うのかすら判らなかったからだ。
日が昇り出して漸く垣根から抜け出た。
数多の小さな掠り傷に朝焼けが沁み、いつのまにか失禁していたのか、股間が冷たかった。


 その後数時間の記憶は無い。何処かで木場に合ったことだけは薄ら朦りと憶えていた。風呂
に押し込められて着替えさせられた。風呂場で少し溺れて木場に救われた。
「悪りぃな、」
木場が頭を下げた。
青木と関口が共に暮らし始めたことを「馬鹿な奴らだ」と罵りながら笑い飛ばし祝福した木場。
彼が居なくては出会えもしなかったのだ。
だのに何を謝ることがあるのだろう。
朦りとしていた。
感覚を何処かに忘れてきてしまったようだった。
「今回のことの遠因には俺も関わってるだろうよ、」
「木場?」
卓子に木場は旅券と切符を広げた。
それは関口のものだった。
「前にお前と奴さんが来た時に彼奴が置いてった」
彼は―――――今回のことを予測していたのだろうか。
「俺たちはいつ何時命を落とすか解からねえ。自分の思ってることを口にしただけで死ぬんだ
ぜ。馬鹿馬鹿しいだろ。でもそれが此の国の現実だ。だから「自分てめえに何かあったら」
って青木はお前の出国に必要な物を置いて行ったんだ」
「僕は―――――」
此の国を出て行く気は無かった。青木が追捕された今、それこそ出られなどしないだろう。
「此の国は狂ってる」
八年前に一部の過激な陸軍将校による首相府襲撃と云う軍事政変クーデターから
此の国はどんどん歪み始めた。綱紀粛正と云う名目の下、弾圧が始まった。
議会は停止され、テロが多発し、物流は悪くなった。インフレは止まらない。出版に検閲が復
活し、テレビもラジオも統制された。腐った奴らが腐った奴らを喰っただけだ。此の国は腹を
下した糞塗れの状態だ。と木場は評した。
「青木がこんなことになった今、お前も類が及ぶぜ」
「僕は…いいんだ、もう疾うに家族には絶縁されているし。それに木場だって此の国にいるじ
ゃないか」
「俺たちは此の国でドンパチやる為に生きてんだ。当然だろう。だがお前は違う。…第一、
青木が生きているのか、それさえ情報は攫めない」
「え、」
一瞬躰に落下の浮遊が黄泉還った。
「あの後、木下が青木の家に行ったんだ」
「……それで?」
関口は木場の脇に立った木下を見た。
血の海だった―――――と木下は苦々しく言った。
眼の前が俄に滲んで、暗くなった。
二階から落ちて行く時に、銃声が聞こえた。何発聞こえただろう。あの銃声のうち何発が青木
の躰に喰い込んだのだろう。
「関口!」
躰が揺れた。
「き、木場、」
喘ぐように呼吸していた。
木場の腕が顔の横にあった。
「大丈夫か?」
「あ…ああ…うん」
額に手を当てた。
「お前は此の国を出るんだ。俺が逐一連絡を入れるから、だからお前は外へ出ろ。出て、他の
国で医者になるんだ、」
命令だった。
医者への熱意を語ったのは青木だった。
医者になるべきは関口ではない。
それは青木の道だ。 
追憶に生きるには青木と過ごした日数は少な過ぎる。互いの間のぎこちなさも此れから解消さ
れる筈だったのだ。触れ合ったことさえ未だ数えるほどだのに。
凡てはこれからだったのだ。
此れから。




 船を二度乗り継いだ。どちらも三等席で夜には雑魚寝の様相だったので旅の十日余りの殆ど
を甲板から水面を見て過ごした。その間ずっと空には月があって、白く輝くそれを見ながら、彼
の言葉が幾度も黄泉還っていた。
「あなたは、生きて―――――」
あの言葉は、生きることを託されたのだろうか。
そう思うと耐え難い程に悲しくなった。
共に生きることを青木は選ばなかったのか。
疑心に塗れた眼で見る夜の海は果ても無くただ黒く、ただ広かった。

 旧い街だった。何処かを工事しようと思えば遺跡が姿を現して、遺跡の調査費用が工事費以
上に嵩む為、旧い建物を丁寧に丁寧に使って生活する。
そんな旧い街だった。
そして未だに中世を続けていた。
街の区画は凡そ五百年前其の儘に、立つ建物は古いもので四百年前から現在までのものだ。細
い路地が街を練り、丘に立つ役場は嘗ての領主の持物である。
石畳の街と石造りの建築物。
バザールのようなアーケード街。
街の中心には赤い屋根のドームを持つ教会が聳えていた。
関口巽は十二丁目の旧い四階建てのアパートに住んでいた。
奨学金を紹介して貰い、どうにか学費を考える必要はない。
それでも関口は暇も無く働いていた。
実際金は然程必要ではなかった。そもそも食欲が旺盛と云う訳でも無く奢侈にも縁が無い。
引き換えに、時間だけがあった。じっとしていれば、青木のことを考えた。
だから仕事が欲しかった。咽喉から手が出るほどに。
 十二丁目から五丁目まで歩いて往く。此の細い路地ばかりの街では徒歩か自転車が最も主流
の交通手段だった。


 厭な夢を見た。
ゆっくりと寝台代わりの長椅子から躰を起こした。
卓子には夕食とも夜食とも尽かない食事の残骸があった。時計をみれば既にそれを片付けてい
る猶予はない。
顔を等閑に洗い、洗い晒した皺だらけの襯衣を着込んで紙の束と小銭を持った。腹は空いてい
たが、食べる物も閑も既に此の部屋には無い。部屋を出て鍵を閉めようとすると所々が剥げ落
ちた黄緑色の扉には家主からの張り紙があった。文面は家賃の未納を責めてていた。
張り紙をを見遣って錠を施すと張り紙も其儘に階段を下った。
アパートを左へ折れて関口は石畳を眺めやりながら、一路目的地へ向った。
 大きな方形をした五階建てのビル。郵便局である。中に入ると既に人で一杯だった。関口の
目的とする場所は二階だったが其処へは既に一階入り口にまで及ぶ長い列が出来上がっていた。
二階には海外郵便の窓口があるのだ。郵便事情の悪い此の街では、外国からの郵便物は自分で
取りに行かなければ成らなかった。
長い列は一時間近く待って漸く順番が廻ってきた。
一通の薄い封書。
それが関口の求めるものだった。
無愛想な郵便局員から小銭を払って封書を受け取るとまず鼻に封書を当てた。そうしても彼の
匂いはしないのに。ただ紙とインクと埃っぽい臭いだけが嗅ぎ取れるばかりだった。
道々に堪らず封を開けた。
木場の便りだった。友人は無骨な外観だが書かれた文字は丁寧で読み易い。時候の挨拶さえな
いことは矢張り木場らしかった。
内容はいつもいつも然程変わりは無い。
此方の安否や健康を気遣い、状況がまるで変わっていないことを謝っていた。
未だ青木は見つからない。
 門が見えると関口は手紙を仕舞った。
構内へ入ると声を掛けてくる人物がいた。視界の端で確認すると、それは鳥口守彦だった。
「関口さん、」
「やあ鳥口くん」
「おや疲れてますね、どうしました?」
疲れているのはいつものことだった。快活であったことなど一度も無い。鳥口といるのは少し
だけ居心地が悪い。鳥口が青木と同年代の青年である所為なのかもしれない。
「どうもしないよ。レポートを提出しに来ただけだ」
「薬学の?慥か正后までだからそろそろ窓口仕舞っちゃいますよ」
教務課の入る棟を指し示して鳥口は笑った。
「早くしてくださいね、此処で待ってますから。一緒に昼飯を喰いに行きましょう」
関口は漸く鳥口を正視したが何も言わず建物へ歩み出した。
教務課窓口でレポート提出の書類を貰い、それを鏡にして事務紐で括った。窓口の横に白い小
箱が置いてありそれに入れると同時に箱は引っ込められた。
どうやら関口が最後であったようだ。
壁の時計を見れば丁度正后を指していた。
結局どちらも舖に入れるほどの持ち金はなく、売店でパンとラテを買い朦りと鳩を見遣りなが
らの昼食となった。
「関口先生、」
鳥口がにやりと笑った。
関口を先生と呼ぶときには大抵原稿の依頼なのだ。
学生の傍ら趣味なのか職業なのか鳥口守彦は小さな出版社の編集をやっていた。関口は文章を
書くのが嫌いではなかったので時折依頼を貰っては小銭を稼いでいた。
「原稿かい?」
「やあ、暫くはそれは無理ですね」
「…どうしたの?」
「資金繰りが思わしく無くて、ですね。今は休刊中なんです」
「君のとこもジリ貧だね」
「赤貧矢の如しです」
鳥口の物言いに関口は少し呆れて笑いラテを口にした。
「色色申し訳ないんですがそういうことで暫し原稿はありません。で、先生慥か今アパート追
い出されそうでしたよね?」
「…厭なことを思い出させないでくれ」
今朝黄緑色の扉にあった大家からの退去勧告の張り紙を思い出した。関口は白地に厭な顔をし
た。
「じゃ此の後は役場ですな」
「は?」
「先生今日は授業ないし、掲示板を見て職を捜すしかないでしょう。奨学金だって限々ぎりぎりで、
先生これ以上痩せて如何するんです」鳥口が関口の背を叩いた。
薄い背にくっきりと肩甲骨が浮かび、掌を押した。
慥かに関口は筋と骨と皮で出来ているような状態だった。


 鳥口は何くれと関口について廻ることが好きなようだった。
青木と同年代であること以外此の青年に不満は無く、横に居るのも居心地が悪くなかったから
関口は共に出掛けて行くことが多かった。
 丘の上の役場は十八世紀の領主の第である。役場の半地下になった広間にパーテーションが
廻り、求人広告が張り巡らされていた。それを見ているのは平日の昼間な為か、人は関口と鳥
口の他に二人あるばかりだった。
強い陽光が差し込んできていて、硝子の屈折部ではプリズムが出来ていた。
「中々好いのありませんねえ」
ビラを捲りながら鳥口が言った。
そもそも関口には何も出来ない。
だから選ぶと言う行為は酷く不遜な気持ちになる。こうして鳥口に背を圧されなければ、役場
へ跫を運ぶことはなかっただろう。
鳥口は若く行動的な男だった。
沈着に見えた青木も嘗てはそういう男だったのかもしれない。少しだけ心が騒めいた。
役場の受付が騒がしいことに気が着いたのは、最後の掲示板を見終わった頃だった。
傍らには鳥口の姿は消えていて、掲示板室を見渡しても何処にも居なかった。
「先生!先生!」
「どうしたんだい。何か騒がしいな」
「何か珍妙な人が騒いでるんですよ」
「珍妙?」
問い返すと鳥口は大きく頷いて関口の手を引いた。
 受付には二人の男が居た。黒眼鏡サングラスの背の高い男が何か喚きたてているのに、役人だろうか黒
衣の険悪な顔をした男が説破していた。
「なんだい?あれは、」
「さあ?」
頸を傾げもっと前に行きましょうと鳥口は関口の背を圧した。
そしてその勢いに人集りの中を、一人飛び出すこととなった。
シン、と辺りが静まる。
黒眼鏡の男は眉根を寄せて、関口を見詰めた。
「うへえ、せんせぃ」鳥口は口の中で小さく呟いたが当然関口の耳には届かない。此の後どう
なるのか、予測が着かなかった。
「サルがいる!」
男は喚いて、その後大笑いをした。
「君、君、君、」
関口の許へ来て嬉しそうにその貧弱な肩を叩いた。
「猿くん猿くん、こんな処で何をしているんだ、」
「エノさん、市民に迷惑を掛けるのは辞めて下さい」
黒衣の男は男を「エノさん」と呼び諌めた。
「中禅寺、お前は全く無粋な奴だ!こんな辛気臭い役場に猿が出没したんだぞ。騒がない方が
無礼だろう!猿君の労力をまるで無視している!」
そういってまた大笑いをした。
対人恐怖症の気がある関口はただ固まっている他手段は無かった。関口が初対面で馴染むこと
が出来たのは生涯に青木ばかりのようだ。
「こんな役場にご苦労だったねえ。こおんな辛気臭い役場なんかに。まあいい。僕の家に来な
さい。うん、服を着た猿。見せびらかさないとな。お披露目会だ」
『エノさん』は其の儘固まっている関口を肩に担ぎ上げた。流石に此の儘では連れて行かれて
しまう。鳥口は男の前に進み出た。
「す…みません!」
「と鳥口くぅん」
縋るように関口は鳥口を見た。
「猿くん!君は話せるのか。ますます珍奇だな」
「否、そうじゃなくて、あの…関口さんを離してくれませんか?」
「誰だい?その一之瀬って」黒眼鏡の上の眉間が狭まる。
「榎さん、一之瀬じゃなくて関口だよ」
君、と黒衣の男は鳥口に水を向けた。
「此の『関口さん』の知り合いかい?」
「あ、え、はい。ちょっと其処の掲示板に用があったんです」
後頭部を掻きながら答えると「エノさん好い加減関口さんを下ろせよ。掲示板に用があるそう
だ」と諌めた。
「ふん、この問丸さんは掲示板に職を探しに着たんだな?」
『エノさん』は鳥口に問い質した。
「はあ、まあ」鳥口の受け答えは如何にも曖昧だ。
「じゃあ僕の処に来れば良い。うちで三食寝床着きのメイドに成ればいい。な、関の山くん」
「あの…関の山じゃないです。その人、関口」
鳥口は状況に飲まれたのか見当違いな指摘をした。
「ああ何だか面倒くさいな。関でいいや。な、関くん、」
許諾を求められて、当事者でありながらその状況に一番適応していない関口はああだとかうう
だとか唸ることと成った。
そもそも対人恐怖症で初対面の人間は苦手なのだ。


 十二丁目から五丁目まで歩いて往く。
此の細い路地ばかりの街では自転車が便利だが、それを購う金さえ無い。昔家人に教え込まれ
たが今も乗れるかどうかは心許無い。
番地を遡るほどに家の感覚は広く成って往き、道も広くなって往く。
路肩には高級車の姿も見えた。
堂々と外に洗濯物が干されている風景は無くなっていたが、近くに駅があり人通りがあった。
 五丁目の榎木津邸は裏通りに入り、一見アパートのような造りに見えた。四階建ての大きな
建物だった。入り口のアーチの下に刻まれた名前を幾度と無く確認して、呼び鈴を鳴らした。
上階を見上げた。
扉の右側が開く。其処に立つのは背の高い人物だろうと思ったが、案に反して其処にいたのは
頭身も関口と余り変わらない青年だった。
「あの…」
言葉が続かなかった。絶句してしまったのだ。
「ああ!慥か関口さんですよね。ええ、聞いてますよ。うちの先生に、」
「…センセイ?」
「関口さん来てくれたって言うのに未だ寝ているんだろうな。今起こしてきますね。紅茶でも
飲んで待っていて下さい」
質素な身形の人好きのする容姿の青年は安和寅吉と名乗り、関口を招き入れ、持っていた小さ
な荷物を受け取った。
玄関は四階までの吹き抜けに、螺旋階段が巡っていた。
シノワの壷がチェストに立っていた。足許のモザイク調のタイルや、柱の先の繊細な彫刻。屋
敷の細部まで上品で優雅だ。然し残念なことに掃除が行き届かず埃が溜まって見えた。
安和は一旦奥に消えて、紅茶を持って出て来た。
「待っていて下さいね」
関口に紅茶を与えると安和は階上へ昇って行った。榎木津の部屋は階上にあるらしい。
通された部屋は広い。誰かの私室としてでも使っているのか、窓下の革張りのアダムチェアに
は薄汚れたタオルケットが掛けられていた。
其処へ浅く腰掛けた。
高い天井。天上まである扉。窓も矢張り天上まで届いて枠も桟も細く黒かった。繊細で華奢な
作りをしていた。それを朦りと眺めやった。
貴族の邸宅なのだろうか。
そんな品の良さが馨っていた。
暫くすると安和は眉尻を下げて申し訳無さそうに現れた。其処には榎木津は居なかった。
「すみません、関口さん」
「あ…はい?」
「先生が関口さんに来て欲しいって云ってるんです…」
「え?」
「一向に寝床から出なくて。先生の寝起きってのは徹底的に悪くて私じゃ駄目なんですよ。け
んもほろろって感じなんです。関口さんが来たことを言ったんですが、そうしたら起きると思
って。ところが…起きる気配も無く、此処に来いって詭言を」
「僕に…?」
「ええ、」
安和は困ったように笑った。
 階段は右回りに螺旋を上空へ向けて巻いている。足許は石造りでモザイクを施されていた。
てすりは幾何学を描いた繊細な鉄の工芸品だった。
一段一段ゆっくりと昇って行く。
榎木津の部屋は四階だと聞いた。此の屋敷の最上階だ。
二三階を途中で見かけたが使っていないのか、埃で何処か白っぽく見えた。行けば解るといわ
れたがそのとおりだった。
四階に昇りきると、僅かな踊場の横に左右へ廊下が伸びていて、一面は壁に覆われ、その右端
に片開きの扉がぽつねんと存在しているだけだった。
指の甲で叩いたがまるで反応は聞かれなかった。少しだけ不安になる。あれは戯言でまさか関
口が本当にやってくるとは思わなかったのではないか。しかし、安和はきちんと関口が今日此
処へやってくることを把握していた。
では此の家の主人は何なのか。
少しだけ溜息が出た。
廊下で存分に悩み、漸うと扉を開け内部へ侵入した。
舞踊バレエの稽古場かと思った。
向かいの壁は一面の硝子窓だった。間隔を空けて黄ばんだ白い窓罹が纏められて数本下がって
いた。
足許は木板で能く磨きこまれ、飴色をしていた。
何も無い、と思い少し戸惑い目線を左奥へ向けると、其処に黒い物体が見えた。
何故、と思った。
通常人が暮らす家に余りにそれは不釣合いな気がする。
そう思える程その物体は関口の生活には係わり合いの無い物だったのである。それが大きなグ
ランドピアノであると言うことくらい、音痴の関口でも知っていた。
そっと近付いてみると蓋が開いていた。
白と黒モノトーンの鍵盤。
少しだけ見蕩れた。
右肢が動いた。無意識の衝動だろう。短い指がゆっくりと鍵盤の上へ降りた。
柔らかく甘く清廉とした音が響いた。
手が伸びた。関口の腕など容易に掌に納めてしまう大きな手だった。形良く整えられた爪。手
荒一つ見つからない。
その腕が関口の左腕と捉えた。
関口は腕を見て次いでその腕が伸びる帳を漸く認識した。
「しどけなく睡る僕を無視してピアノに欲情するなんて君くらいだ」
藍色インディゴブルー天鵞絨ベルベットの向こうへ引き摺り込まれた。
腕の主はジャポニズムの真赤な内掛けのよな寝着に巻かれて大きな寝台の敷布の潮に埋もれて
いた。
「え…榎木…津…さ…あなた…」
「顔が赤いな。猿くん」
秀麗な寝惚け顔。希臘彫刻が動き出した。関口はその法螺のような現実に多いに戸惑った。
敷布に埋もれてしまった状況から立ち上がろうと腕を寝台に着いたときだった。波のように関
口を攫い、榎木津は関口を掻き抱いていた。
「離して…下さい…」
久々に触れる人の温もりに、脈が音を発てた。榎木津はそれを知ってか知らずか顔を接近させ
た。
だ」
関口の微かな申し立てを、快活に笑って榎木津は断った。耳に脣を寄せた。耳朶に僅かに触れ
る口唇。柔らかく擽たかった。
「君が、好きだよ、関くん」
囁いて、榎木津は丁寧な接吻けをした。
それは関口を蕩けさせるに足りた。





 いつも榎木津は快活で明るく楽しい曲を選ぶ。屋敷は隅々まで榎木津の弾く音楽に満たされ
ている。
その音楽を打ち消すように耳元で粗悪な音が鳴り響いた。
目覚まし時計のベルである。
時間を見遣ってゆっくりと置き出し食堂へ赴くと既に安和はせかせかと働いていた。此の屋敷
の身分としては安和と変わりない。申し訳ない気分になった。
「おや起きましたか。じゃあ朝食にしましょう」
「あの…榎木津は?」
安和は天に向けて人差し指を差し出した。
此の家に住み込み出して数日になるが初めて安和に榎木津の職業を訊いてみた。榎木津本人に
訊いても正直に答えてくれないような気がしたからだ。
「ぴあにすとって奴ですよ」
と安和は言った。
「ぴあにすと?ピアニストってあれかい?音楽家の」
「おや言ってませんでしたか。ええ。うちの先生の部屋に大きなピアノがあったでしょう」
「ああ…あったね」
黒く艶やかで、優美な姿形フォルムをしていたピアノを思い出した。
「先生の御尊父、旦那様が紐育ニューヨークにいらっしゃいましてね、私は元々そのお屋敷に住み
込んでいたんですが…まあそれはどうでもよくって。昔、先生はじゅりあーどとか言う音楽学
校にお通いだったんですよ」
「…へえ…」
「まあ私も詳しくは知らないんですがその学校で非常に優秀でぴあにすととして将来を嘱望さ
れていたらしいんです」
「だったら…なんでこんな処に。何をしているんだい?榎木津は」
色色な疑念が湧いた。
「なあんにも。何もしてませんよ」
安和は実にあっさりと言った。
「旦那様は、先生の御尊父ですがね、まあこれが何と云うか大人物なんです。傑物。成人を過
ぎた人間を養う義務も義理も無いと財産を生前贈与されまして。そのお金で」
「此の屋敷を買ったの?」
「そういうことです」
「何をしているんだい?榎木津は」
「だから見ての通り何もしてませんよ。小さなりさいたるを開いたことはありますが、まあ弟
子も取らず人に聞かせることもせず毎日自由気儘に遊びに行ったりピアノを弾いたり」
「じゃあ僕が役場に行った時も」
「彼処には中禅寺さんと云う先生のご友人がいましてね。遊びに行ってたんでしょう」
関口は肩を落とした。
 安和と会話をしている間も途切れることなくピアノの音色は聞こえていた。興に乗ればいつ
までも弾いている。
今まで音楽に触れたことも無かった関口は、音楽をこの榎木津の屋敷で初めて知った。
そう安和に語ると「慥かにうちの先生は旨いが、それがその曲だと信じちゃいけませんよ。
小説家の先生」と笑った。
此の屋敷に越して一ヶ月が経過した頃、鳥口が原稿依頼の仕事を持って遣って来たのだった。
その折から何を勘違いしてか、関口が書く読んだことも無い雑文を小説と思い込み、安和は関
口を『小説家の先生』と呼び習わしていた。
「何故?」
「うちの先生はあれんじって奴を奮段に加えるんですよ」
云っている意味が能く解らず曖昧に笑った。
「小説家の先生、食事を終えたら今日は四階をお願いします」
関口は丁度朝食を終えた処だった。そして白地に困ったな顔をした。
「榎木津がピアノを弾いているじゃないか」
「昨日頼まれましてね。部屋を片付けろ、と」
「散らかっているの?」
「そりゃあ、もうっ新鮮な程です。昨日嬉々として三階の端っこの部屋を荒らしてましたから
ね。四階は彼方此方に楽譜が飛び交った状態ですよきっと」
少しだけ嬉々としているように見えた。
滅多に人の入らない三階は物置として使われていてその西端には楽譜が仕舞われている部屋が
あった。
 関口は掃除道具の入ったバケツを持って階段を上った。広い屋敷なので毎日毎日掃除しても
飽きることがない。今日は三階の東端、今日は一階の…と云ったように違うところを追って掃
除する。
 榎木津は興に乗ればいつまでもピアノを弾いていた。まるで飽きることを知らない。
今もピアノを駆って居る処だった。
あの大きく綺麗な手が、鍵盤を撫でる様を想像すると知らず咽喉がなった。
榎木津はピアノを弾いているときは何も目に入らない。
そう思うと少しだけ安堵した。
階段の途中でてすりに凭れて立ち止まった。
あれから、時折、耳鳴りがする。
榎木津の声で。
「君が、好きだよ、関くん」
あの時の吐息や、榎木津の温もりを思い出すと、鼓動が速度を増す。
関口は頭を振った。
颯颯と掃除を片付けて、未だ時期には早いが、郵便局へ行こうと決めた。
青木の何かしらの報があるかもしれない。
そうして関口は鼓動を正常へ導いた。


榎木津がピアノを弾いている時は、声を掛けることやノックはしない。邪魔をしない。それが
此の屋敷の不文律だった。
それに従い四階の部屋に入ってみれば、安和の言った通り其処彼処に散らる紙。紙。紙。紙。
五線譜が引かれ、其処に踊る数多の音符。
それを見ても関口は音律を紡ぐことができない。
ただの符号にしかみえない。
異界の言葉でしかない。
どうしたものか迷ったが、その端に記された文字を追って関口は慎重に慎重に紙を重ねて行っ
た。
「置いといてくれれば自分で後で纏めるよ」
声が頭上へ降って来た。
耳を澄ますと、既に音楽は已んでいて、眼前には跫が二本屹立していた。
恐る恐る顔を上げると、鳶色の髪と同色の眸をした秀麗な眉目が見下げている処だった。
「あ…」
何故か失語した。パニックに陥ったのだ。そして自分の心理が解らなかった。何故パニックに
陥る必要があるのか。
「おはよう、関くん」
綺麗な声音だ。
黙っていると榎木津は少し笑った。
「そうしているとまるで猿だ。「おはようございます」だろう?関くん」
ズボンに突っ込まれていた手が伸びて膝に抱えた楽譜を一つ取り上げた。
この時また平生気にしない自分の鼓動を聞いた。
「シューベルトだ。弾こうか?」
取り上げて榎木津は自分の目に近づけた。目でも悪いのだろうかと思わせるほどに近い。
「…いいえ…僕、学校があります…から…」
「じゃあ勝手に弾こう」
幾つかの旋律を弾いて、榎木津は不意に指を止めた。
そして関口に振り返って、手を招いた。
関口は使用人で榎木津は雇い主なのである。
逆らうことは出来ない、と思った。
傍に寄ると榎木津は笑った。
そして関口の脇腹を掴んで持ち上げた。
「君は軽いな、」
「え…榎木津さん…!」
関口の臀部が置かれた場所は先刻まで榎木津の指が踊っていた鍵盤だった。
不協和音が響いた。
「やめて…下さい…」
関口が此の家に来て日は浅いが、その間不協和音なんて聞いたことが無かった。榎木津はピア
ノを粗雑に扱ったことは無かったのだ。
「君は能く能く僕を焦らすのが好きなようだね」
少し身動ろぐだけで鍵盤は揺れた。
それが関口には何故が甚く罪悪に感じた。
「何がですか?」
「此の間の返事は如何した?」
「返事…?」
「二度も聞きたいのかい?君も欲張りだ」
顔が近付いた。動けばまたピアノが鳴る。それだけはしてはならないような気がした。
秀麗な顔が艶を孕んで笑む。
正面に見蕩れた。
顔が熱い。
「赤猿だ」
そう呟いて、榎木津は再び関口を蕩かした。


 時折暇潰しに榎木津は丘の上の役場を訪れる。
此の街にやってきた折に多額の寄付金をした榎木津は役場の中では中世の領主のような存在で
あった。
そして殊更に華美な応接室で仕事をする羽目に陥るのは中禅寺と云う官吏であった。
「…もう充分でしょう。あんた嫌われているんだ。気付かないのか」
長椅子に寝転がっていた榎木津に呆れたように中禅寺は言った。
「何が?」
長椅子からむくりと顔を上げた榎木津には涎の痕が見えた。先刻まで熟睡をして、その後唐突
に起きて関口との一部始終を語ったのだった。
「嫌われてなんか居ないよ」
「榎さん、あの関口とか言う男はあんたの玩具になるような奴には見えなかった」
「関くんに失敬だぞ。中禅寺。あんなに面白そうなのに」
「だから…」
「まあそう僻むな中禅寺。関くんは僕を拒まなかったんだから」
「自慢しに来たのか?」
「勿論。情事は人に話してこそだ」
「莫迦莫迦しい」
過去の関係する綴に全て目を通し決済の書類を作り上げた中禅寺は自分のサインをして三つ目
の仕事を終いにした。
「まあ尤も僕も人の艶っぽい話は御免蒙るがね」
「あんたは本当に自分勝手だ」
中禅寺は呆れて言った。榎木津を見物に来た女子職員から茶を受け取りそれを飲み干すと、榎
木津は欠伸をしながら役場を後にした。


 学校帰りに郵便局へ行くと手紙が届いていた。
榎木津の屋敷は屋上があって其処は植物で溢れていた。宛ら空中庭園といった赴きである。
関口は手紙を持って屋上へ行く。
白さがハレーションを起こすほどに強い日差し。陰の中にいるほうが好きな関口だったが、今
は此の日差しさえも愛しかった。
開けてみればいつもと変わらない文面が其処にあった。
然し此の手紙を出せるということは木場も無事だと言うことだ。少しだけの安堵。そしていつ
もより手紙の分量が多かった。
追伸に「昔、俺に宛てた青木の手紙が出て来た。読んでみると良い。」と書かれていた。
次の紙に捲ろうとすると手紙が浮遊した。
顔を上げると、日差しに金色に見える頭髪が見えた。
「木場修じゃないか、」
声が上がった。
「榎木津さん、」
「関くん、君は木場修の知り合いかい?」
聞き馴染んだ、懐かしい単語を榎木津の口から零れた。
「あの…榎木津さんは…木場…を知っているんですか」
「昔馴染みだよ」木場からピアニストの友人がいるとは一度も聞いたことは無かった。それが
況して此の国の、此の榎木津だとは。
「昔?」
「奴がカルチェラタンの熱血弁士で暴れまわってる頃にね。故郷がヤバいって帰ってからは音
信不通だけど。奇妙な偶然だね」
手紙を眺め廻しても榎木津の表情に何の変化もなかった。
慥かに大した内容ではない。
その間関口は榎木津をぼんやりと見ていた。動く彫像。破天荒な麗人。そういわれる所以を短
い期間ながら関口は目の当たりにしてきた。
そしてその唇からは――――――


何を言い出すのかと思った。
手紙から目線を関口へ動かすと、榎木津は薄く笑った。
見蕩れるほどにそれは美しくて。
其処に同じ男としての劣等感など存在し得ない。
僅かに眩暈がした。
だからその言葉は馬鹿馬鹿しいほど空々しく聞こえた。


「一緒に暮らさないか?」


「…もう一緒に暮らしていると思いますが、」
「そういう意味ではなくてね、」
傍若無人な榎木津が言い澱み、少しだけ困った顔を見せた。
それは胃を抓られたようだった。
「君は本当に焦らすのが旨いね。何処で憶えた?」
「…何を、です?」
焦燥に駆られる。
逃げ出したい。
関口は束の間に切に願った。
脳裏に青木の像が結ばれたからだった。
笑い掛ける、幼顔の青木。初めて寝台を共にした。
あの夜『逃げて、』と囁く青木の――――


「君が好きだ。此の儘ずっと君に此処で暮らして欲しいんだ」


榎木津は明るい。関口は東洋に観るタオ論者では無いが、二律で行くなら榎木津は陽の男だと思っていた。
イシスの愛し子。
光度も照度も榎木津の為にあるのだ。
榎木津は太陽だ。
余りに眩くて正視することなど、以ての外だった。
見れば目が、潰れてしまう――――。
「僕と一緒に」
榎木津は太陽を背にして、まるで後輪を頂いた神の子の絵図のように、関口を見下ろした。
関口は榎木津から目を背け、ゆっくりと目を閉じた。
そして瞼の裏には青木がいた。
真摯な眸。
青木は、関口を、見ている。
「あなたは、生きて―――――」
懸命な声だった。
今も耳の中で鳴り響いて已むことはない。
「…此の儘ずっと?」
呟いた。
「君が好きなんだよ。解らないかな?此の儘僕と一緒に此処にいて、君は医者になればいい」
灼熱の日差し。
「僕には、恋人がいます…」
「関くん?」
訝しんだ顔を見せた。
「二世を誓った、男だ」目を背けたまま、口を開いた。榎木津を見ることはできなかった。
「医者に成りたいのは、僕じゃない。彼だ」
「此の、青木と云う人物かな?」
榎木津は木場の手紙を見ながら言った。
「彼は立派な人だ。信念と理想を持った誰に恥じることも無い思想を持った人だ。医者に成って人人
を救おうとしていた。だのに危険思想の持ち主だと、或る夜に軍部に家を襲撃された。そして僕だけが逃がされた」
今も青木の声が木霊する。
「今も彼が何処にいるのか判らない。木場が調べてくれているけど、それでも解らない!僕を
好きだと言うのなら…彼を…!」
咽喉が乾乾だった。
固く目を瞑り、関口は声を荒げた。
「彼を僕に返してくれ!」
脳天が痺れた。そして暫く痺れるが儘にさせていた。
幾許かの時を経て榎木津の「成程、」と云う声が聞こえた。
「君が欲しいものはそれか、」
奇麗に手紙を折り畳むと榎木津がそれを関口の掌に供えるように置いた。
「余り此処にいては日射病になるよ関くん」


 異変に気が着いたのは玄関脇のシノワの壷が消えた時だった。清朝の乾隆帝の頃完成した黄
色を地色とした華やかな色彩の壷だった。関口の顎辺りまである、大きな壷。安和の話では、
あの壷は本物で、そして特に良質の品物であるらしい。
そうして注意深く辺りを見回してみれば、屋敷の中から物が少しづつ消えて行くことに気が付いた。
寝起きの榎木津が「おはよう」と声を掛けていた、階段の踊場にあった大理石で出来た紀元前
の首の無い有翼女性像が消えていた。
嘗て友人の借金のかたに差し押さえたものだと言っていた食堂に飾られていてたシューベルト
の肉筆楽譜が消えていた。
シーラのラフも無い。
何かが怪訝しい。
 関口は自室の寝台代わりに使っている長椅子に浅く腰掛けながらつと息を吐いた。風呂上り
で髪が濡れていた。
頭を振ると水滴が辺りへ飛散した。
それを見遣って、何かが怪訝しいと改めて思い返した。
あれから、榎木津に会うことは無かった。彼は自由人だ。生涯を喰うに困らない財産を持ち、
毎日気儘に遊びピアノを弾いて暮らしている。だから規律に満たされた関口の生活とは元来
生活の時間体が違っていた。
それにも況して榎木津は関口の前に姿を現さない。
関口を斟酌してのことだろうか。
出て行くべきなのだろう。だのに関口はのうのうと此の屋敷にいるた。
然し出て行ける経済状態ではないからだ。だから榎木津が姿を見せないことは少しだけ関口の気を楽にしていた。
医者にならなくてはならないのだ。なんとしても医者にならなくては。
それは木場への感謝と、青木への誠実の証しだった。
目を瞑ると、青木の顔が近付き脣に触れた。そしてやがて青木の像は歪んで―――――
大きく頭を振った。
「何で…」
榎木津の顔が浮かんだのだ。 愕然としていると、耳に音楽が障った。
今夜は榎木津が居るようだ。
扉を見た。
何故かその向こうに人が立っているような気にさせられた。
両手で耳を覆う。
「青木くん…」
低く名前を呻いて、早くあの年少の青年に抱かれたいと願った。


 税金の支払いとついでに掲示板を見ようと、役場へ行くと不健康そうな外見の男に声を掛け
られた。強烈な眼光と能く通る声で関口を睨め付けた。
「榎木津は近頃忙しいようだけど、どうだい?」
榎木津と会った日にいた役人だということはすぐに知れた。あの日も酷く不機嫌そうに見えた。
慥か中禅寺と名乗った筈だ。
「あ…最近余り見ないから、」
「忙しいようだからね」
「え?」
片眉を吊り上げて鷲のような目で関口を眺め遣った。。
「君、聞いてないのかい?紐育と君の母国とリサイタル準備の三面六臂で大忙しだ。
ああ、そう。今度のリサイタルに組み込んで欲しい曲目があるんだが、伝言を頼めるかね?」
また、胃を抓られたようだった。
「…紐育と国を…?リサイタル…?」
男の言っている内容がわからなかった。
「…慥か安和くんの話では…榎さんは…リサイタルとか、そういうのをやらないはずだけど」
「そう」
少し嬉しそうだと、何故か中禅寺の此の不機嫌そうな表情に思った。
「他人に聴かせることに意義を見出さない男だからね。榎木津は。でも奴も金が必要なんだ」
「金?」
これほど榎木津に似つかわしくない言葉があっただろうか。
美貌に恵まれ、貴族趣味の屋敷に無造作に棲み、仕事もせずに遊び歩き、日永ピアノに興じて
いる。安和の話では既に紐育の父親から一生を無理なく暮らせるほどの財産を贈与さ
れている筈だ。
だのに、未だ、何故、そんな金が必要なのだろうか―――――?
「まさか自分のピアノを見世物にする日がくるなんて榎木津自身思いもしなかっただろうね。
それも高く売ろうとしている」
何かが―――――怪訝しい。
落ち着かなくなってきた。
「なんでそんなことを…」
「そりゃあ君の国にあれだけ法外な金額を吹っ掛けられればね。流石の榎木津と言えど梃子摺
るよ」壁掛け時計を中禅寺は片眉を上げて見遣った。「おっと時間だ。僕は戻るけど。それ、
税務課に出すんだったら預かろう」
中禅寺は黄色い封筒を受け取った。
榎木津の屋敷で住み込みで稼いだ給金で支払う税金だった。


 ―――――予感がする。
自分の知らないところで、何かが起こっている。何処かで何かが蠢いていることは解るのに、
それが何であるのか察知できない。
否―――――知りたくないのか。
レポートを作成しながら一字も進まなかった。
此の儘書いていても埒は明かない。
夜半に関口は部屋を出た。
貴族趣味の屋敷の螺旋階段には月の光が差し込んでいた。月光はモザイクの階段に積もった埃
を薄らと浮かび上がらせた。
歩みは食堂へと向っていた。
頭をすっきりとさせたい。珈琲が欲しかった。
然し食堂は面に安和の領域なのでそれが無理ならせめて水でも口にしたかった。
夜中の石造りの屋敷では跫音が響くことを関口は知った。
月が眩い。
此の国に渡るまでの船の上を思い出した。
夜の間中眠れずにこうして甲板の上を彷徨っていた。あの時と今とで違うことは、此処は揺れ
もなく、潮の香りもしないことだった。
此の屋敷では食堂とはキッチンに置かれた小さな方形をした卓子と椅子を指した。人を呼ぶこ
とが無いからこれで丁度いいとは安和の言である。成程、榎木津は余所に出かけることはあっ
ても人を此の屋敷に招くことはない。
 安和が片隅で眠る玄関脇の大きな部屋を擦り抜けてキッチン兼食堂に入って行く。
そこは月光の溜りのようだった。
卓子の上に溜まりがあって、その上には紙が置かれていた。
生憎と英語で書かれていた関口には読むことができなかった。
「眠れないのかい?」
不意に玲瓏とした声が関口の耳を穿った。声のした方向をじっと見据えれろと、キッチンの陰
影の中から白月の許へ姿を現したのは他でもない此の家の主人である榎木津だった。
何日か振りに逢う榎木津は少しだけ疲れて見えた。
「えのさん…」
「久し振りだねえ」
そしてじっと関口を見詰めた。
「それが―――――青木くん?」
「え、」
「その、こけしみたいな」
「『こけし』…?」
なんのことを言っているのか解らなかった。
「ふん。君が操立てするだけの人物には見えないけどな」
「榎さん、何を…?」
言っているのだろうか―――――
「これは君が見ちゃいけないもの」
卓子の上にある、紙を折り目通りに畳んで榎木津は襯衣へ仕舞いこんだ。
「僕は英語が苦手だから、読めませんよ」
一応弁解をした。
それに榎木津が気を止めた様子無かった。
「そしてこれが君の分」
「え、」
長い腕が関口へ伸びてきて、鼻先へ紙を突きつけられた。綺麗な指が手紙を摘んでいて、そっ
と紙を外した。
はらはらと落下するそれを関口は慌てて受け取った。見慣れた文字が並んで見えた。
「眠れないのなら酒でも呑むかい?」
「…否…レポートを仕上げているので…何か頭をすっきりさせるものが…」
欲しくて此処まで来たのだ。
酒では逆効果だ。
「珈琲だったら和寅を叩き起さなくちゃならないよ」
「水でいいです」
榎木津は軽く頷くと、グラスに水を汲んで卓子の上に出来た月溜りの中へ置いた。
「ごゆっくり、」
陰影の中へ靴音が消えて行くのを聞いていた。
残されたのは関口一人と一枚の紙だった。
文字を見れば誰からの手紙なのか、理解できた。それは木場からの手紙だった。
彼らしい 短い文面だ。
知らず文字が頭の中に入ってくると、もしかしたら他に幾枚も手紙は続いていてその中の一枚ではないのか、と推察した。
何故なら文脈の意味が取れないのだ。


『紐育からの要請で漸く軍部が応じる構えを見せた。それどころか先日は俺の許にま
で丁重に連絡が入った。此の俺の処にまで。金の力は偉大だな。青木は首都の収容所にいる。
面会は未だ許されない。何せ彼処は軍部の内部中の内部だ。俺がぶち込まれることはあっても
無事に出てくることはできない処だ。
以前提示した額を鐚一文負ける心算はないようだ。先に来た軍人は暗に圧力を掛けて行った。
青木を引き取るなら前金と後金に別けての取引が必要だろう。実際俺も青木がどういう状態に
いるのかは皆目見当が尽かない。最悪の状態を想定してもおかしくないくらい此の国は狂って
いる。何もしてない青木をぶち込むくらいだ。それも人家を襲撃しての強攻だ。奴が収容所を
出次第、此処から船に乗るまでは俺が責任を持つ。
だからせめて、関口を宜しく頼むん』


青木が見つかった―――――


「木場…?」
旧友の名を呟いた。木場からは何の連絡も入っていない。…それどころではなく、故国からの
手紙は一ヶ月以上の日数が架かるのだ。
何故木場はそんな重要で、最も大切なことを、すぐにでも関口に伝えないのか。
疑念が湧く。
関口の分と榎木津は言って此の一枚を渡したが、如何に読んでもそれは関口に当てたものでは
ない。
青木が見つかった。
それを木場が関口に伝えないわけはないのだ。
ならば、木場は関口と榎木津双方に当てて同時に手紙を出している筈である。
であるなら、此の手紙は関口へ充てた物より早く此処に着いているのだ。
―――――脳天から背筋を通って臀部を抜け爪先まで、駆け抜けて行く、其処果敢とない漠然
とした、しかし鮮やかな不安の焦燥。
幾度も関口は手紙を読み返した。
幾度もだ。
文章を頭から追って、次には単語だけを拾って、また次には殿から遡った。
躰が震えた。
家の中から物が消えていっている。
その名品珍品を売った金は何処へ行くのか―――――。
思考を無理矢理遮断する。
考えたくなかった。知りたくなかった。
青木は生きている―――――。
眩暈がした。
しかし、彼が生きていることを喜んでいるのか、悲しんでいるのか、自分の心理がしれなかった。其処に大きな洞を見た。


レポートは仕上がらなかった。
あの夜から五日が経つと言うのにもう何も手に着かない。
疑念に取り付かれて、レポート用紙と参考文献を目の前に積み上げて、ただただ錠の下りた扉
を見詰めていた。
此の街に来て何も手に着か無いなどと言うことは初めてだった。今まで青木の将来を自ら成り代わろうと、必死でいたのに。だのに気が付くとしらぬ間に足許の階段は抜け落ちていた。
教会の前の噴水縁に腰掛けながら、何処から集ってくるのか知れない数多の鳩を見遣っ
ていた。
まるで老人のようだ。 「せんせーい!」
声がした。
顔を上げれば、鳥口が駆け寄ってくるところだった。
「先生!」
肩で息をしながら鳥口は関口の前に立った。
「どうしたんだい?鳥口くん」
「どうしたも何も…」
慌てた風体だった。
「何も知らないんですか?」
「は?」
「先生の所の榎木津さん」
また、胃を、抓られた。
「鳥口くん、君も慌てた男だな。僕はあの屋敷の使用人だよ」
「なんでそんな暢気なんですか!ピアノが、」
榎木津の屋敷の脇には、役場へ辿り着く長い階段があって其処には藤が群生していた。
「ピアノを運び出していましたよ!」
四階のグランドピアノがスタンウェイ製で態々紐育から運ばせたと言う話は鳥口と二
人で安和の手伝いをしながら聞いたのだ。
あの時はジャガイモを剥いていてナイフで指を切った。
「先生?」
関口はゆっくりと立ち上がった。
「鳥口くん、悪いが…帰るよ」
「え、」
「そんな話聞いてない…!」
目に見えて躰が震えた。翻って駆け出すと、すぐに咽喉が痛くなった。
鳥口は追って来なかった。


屋敷に戻ると屋内は伽藍洞としていた。入り口にあったチェストも既に無い。日差しの中でた
だ埃が舞っているだけだった。
「和寅くん、和寅くんっ!………え…榎さんっ」 物の無くなった屋敷の中で関口の声と跫音は能く響き渡った。
安和の基地であった台所へ赴くと、シンク横の濃藍と水色のタイルの上にメモ書きがと電報が置かれていた。
此処のテーブルも既に無かった。 悪筆と云うのか、安和の鉛筆書きメモである。
『先生の言いつけに従い御屋敷に戻ります。安和』と甚く簡素な置手紙だった。
咽喉が渇いた。
目が熱い。
涙が出る一歩手前の症状だ。
然し何故泣くのか、理由が掴めなかった。
電報を朦りと眺めれば、木場からのものだった。
『アス ノ アサ トウチャク』
誰が、とは記されていない。
ゆっくりと自室へ赴いた。
廃墟と化した此の屋敷の中で其処だけが何も変わらなかった。 背で扉が閉じる音を聞くと、関口は崩れ落ちた。
もう此の家には何も無い。
古代からの名品珍品も、数多の楽譜も、あらゆる家具も、安和も、関口に音楽を教えたピアノさえも。
あの、榎木津のピアノの、官能、さえも、無いのだ。
夕暮れの橙が目に沁みた。


「あんたも最悪な男だな」
感心したように中禅寺は榎木津の背に語りかけた。
「此処は酒も呑まない奴の来るところじゃないぞ、中禅寺」
華やかな美貌が艶を含んで中禅寺を眺めやった。
中禅寺は一適も酒をやらない。だから此の酒を出す舖に来ることなど先ず有りえない。昼はカフェだが夜には酒も出す。
大学に程近い此の舖は関口も榎木津も常連だったが、専ら関口は昼に訪れ、榎木津は夜に来る。
だからお互い此処では顔をあわせたことは無かった。
「未だ、足りないのか?」
「足りないねえ」
榎木津は嘯いた。
「明日着くそうだ」
「明日?」
「そう」
「あんたは全く…」
「悪趣味だと言いたいんだろ?」
「その通りですよ。榎さん。」
「いいだろう?お前にはできない芸当だ」
榎木津は美酒を傾けつつ艶然と笑った。


 夜は更けて、雨がささめき始めた。
春先の雨夜は甚く膚寒い。指先が白くなり、体温も下がって行くことを感じた。それでも動く気には成らなかった。
家内に灯を燈すことさえも。
体中が心臓に成っているようだった。
心音が関口の耳を苛んだ。血液の循環の音は増幅増大して何処からが始まりで終わりなのか、解らない。

扉が開き、階段を上る跫音がした。
螺旋に廻る階段を、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上り、上る。
彼の匂いがした。初めて此の屋敷に遣って来て彼に抱きこまれた時から離れない、彼の匂い。
雨の匂いと、彼の匂いが、家屋の中に充満して行く。
榎木津が戻ってきたのだ。


肺から気管を競りあがった沢山の二酸化炭素は口唇から吐き出された。
目が、眩んだ。
「関口さん―――――」
脳裏で青木が呼んだ。
彼に逢えたことは、自分の余りに惨めな生の中で望外の出来事だった。
幼い頃から酷く臆病な子供だった。学友等の侮蔑の視線と教師からの持余した優しさと母からの叱責に脅えて暮らしていた。長じてもその劣等感は拭えずにいる。そして解るのは己が醜悪な人間であることだけだった。概ね此の劣等感は自己の存在の意識の過剰さと、他者に対しての甘えだ。ナルシズムに人は同情さえしないだろう。
それなのに、誠実で実直な彼が、自分に優しくしてくれて、剰え好意を持ってくれたこと自体奇跡だった。
家族からも絶縁された人間に、だ。
自分の生命の危機に関口を逃がした青木。
堪らなく愛しかった。己が身よりも関口を優先したことは、此方が捻りたくなるほど、嬉しかった。青木はそれだけ関口を愛してくれているのだと解って。
愛情もある。
恩もある。
借りばかりだ。
だのに、
それでも、
今望むのは―――――
手が床に触った。
そしてゆっくりと立ち上がり、扉の把手を握った。
階段は闇の中、雨音だけが響いていた。
駆け出した。


階段を四階まで駆け上がった。四階には榎木津の広い部屋が有るぎりだ。
肩で呼吸をして、扉を叩いた。
「開いてるよう」
明瞭な声が聞こえた。
ゆっくりと扉を開けた。
久々に見る舞踊の稽古場のように広大な部屋には何も無かった。
黒光りするグランドピアノも、青い天鵞絨の帳を廻らせた寝台も、窓に罹ったカーテンも。
あるのは榎木津の座る緑色のアダムチェアだけだった。
「遅いよ、関口くん」
「関口さん―――――」
榎木津の声と脳裏の青木の声が重なる。
胸が疼いた。
未だ、惑うのか。
未練があるのか。
未練。
何に―――――?
頭を振り、榎木津の座るチェアに片膝を乗り上げて、口付けた。
榎木津は容易に関口を受け入れた。
そして―――――
「榎さん、」
ゆっくりと、蕩けて往く。
関口はささめいた。
「ピアノをどうしたんです?」
「安い代償だ」
「…何故…?」
「未だ言わせるのか?ほとほと、君も欲張りだ、」
何度も聞いた科白だった。
そうだ。
欲張りだ。
榎木津にそう囁かれることが―――――好きだった。
彼の声で優しく、甘く囁かれる度に、自分は蕩けていたから。
普段は鍵盤を滑る榎木津の大きな手が関口の髪を梳いて、頭を捕らえた。
耳に呼吸が罹った。
くすぐったさに首を竦める。
そして榎木津が口を開く瞬前に関口は自分の手で、彼のの口を塞いだ。
完全に蕩ける前に自分が言うべきなのだ。
「アナタが―――――好きです、」


その夜は四階で夜が明けるまで榎木津の腕の中で過ごした。
蛇の様に濃厚な交尾をした。
自分の躰で彼の脣が触れなかったところは無かった。



太陽も昇りきり、一台の車が屋敷の前で停車した。ぼんやりとその機動音を聞いていた。
誰が来たのかなど、愚問だった。
彼を関口に贈る為に榎木津は高い高い代償を払ったのだ。
彼を求婚の貢物として関口に受け入れて貰うために。
暫くして呼び鈴が鳴った。
板張りの床の上で、関口は榎木津と見詰め合った。
アダムチェアは無用の長物のように広い部屋の中でぽつねんとしている。
互いに一言も発さなかった。
再び呼び鈴が鳴る。
雨は上がっていた。
また、呼び鈴が鳴った。
関口はゆっくりと立ち上がった。榎木津の痕跡を残す躰を曝しながらアダムチェアに向った。
其処には剥ぎ取られた関口の衣類が罹っている。
それを身に着ける。
革靴を履いて、爪先を少し鳴らした。
そしてまた榎木津を見た。
相変わらず裸躰の儘関口を凝視する榎木津は瞬きもしない。
関口は扉を開けた。
一言も発せず、もう口付けもない。



榎木津は閉じる扉の向こうへ消える関口の背をみつめ、階段を下りて往く関口の跫音を聞いていた。
いつまでも聞いていた。








長々と申し訳ありませんでした。
京極シャンドライです。
一応100hitの御礼だったんですが、
きっと榎関で御申告為さった方もいらっしゃっていないと思うので
名前を挙げるのは避けさせていただきます。
でもでも、アリガトウ御座いました。
17/03/05

漸く後半に少し手を加えました。
関口は最悪の男でいいのです。一人を選べないような。
私の好みだから。
なんでこう手児奈みたいのが好きなんだか…
榎木津=キンスキーも一夜を過ごすのに高い代償払ったなあとは思います。
が、
榎木津=キンスキーも関口=シャンドライがそうせずにはおけないような状態へ追いこんだのだからよりたちが悪いと思うのですよ。
DVDの煽りに「すべてを犠牲にして捧げる、無償の愛」とか、
「シャンドライの恋」とかなんかいい感じの題名がついてるけど
英題はまんま【Besieged】で包囲するの意。
キンスキーの策略勝ち。
やな男だ。
11/05/05