雨と夕暮れ





 眩い陽に満たされていた。
冬特有の気怠るさと穏やかな日差しに揺蕩い、朦りと駅のホームを眺めていた。
未だ午后を幾刻か廻ったばかりで、ホームに散らばる客も然程多くなかった。
最近頓に寒くなってきたが、それでも風の無い今日は穏やかに暖かなもので、鳥口はこうして学校の課題を済ませに出向いたのだ。学校に人気は疎らだった。
卒業論文は順調でも無かったが提出は歳を越してからで、今は未だ余裕綽々の思いで同じゼミの人間は誰も学校に出てきていない。




初めて飛び込みを見た。
黄色いラインの上に一人男が立っていた。
コートに両手を仕舞い入れ、日の光が眩いのか、顔を上げることもせず俯いて線路を見詰ているようだった。
その侭男は上体を傾け、彼は抵抗も見せず、自然線路に落下した。
近くで文庫本を手にしていた男子学生が叫んだ。同時にホームに電車の到来を告げられた。
気が着いたときには線路を足で踏み締めていた。
初めて人救けなどしてしまった。




 公園のベンチで、湯気を上げて冷めて往く珈琲を傍らに置き、暮れて往く世界の華やかさに身を浸していた。
高台にある学校に併設された公園は街が一望できた。
「冷めますよ、」
フェンス際に立った男に声を掛けた。
はにかんだような困ったような顔で振り返った。夕暮れの鮮烈な光輝に男の輪郭は融けてみえた。無風の今は西日を受けて温かさえ感じるが、それでも東から臨界し昼を侵食してくる暗がりに背中は悪寒を漂わす。
「ああ、うん…有難う」
「本当に珈琲で良かったんすか?」
「珈琲は好きなんだよ」
嘘吐き、と心で呟いた。
先刻の失態を消すにはまだまだ老いは遠い筈だ。男はゆっくりとした歩調で歩み寄り、珈琲を挟んで隣に座った。
 援け出し休ませるために駅前の珈琲屋に入ったのだが、程なく気分が悪いと訴えられ、目と鼻の先にあったこの公園に移動したのだ。珈琲の匂いに酔ったのだと言う。
緩慢な動作で紙コップを掴み漸く珈琲に口を着ける姿に安堵した。
平常だ。
今は不安定さの欠片も見られなかった。
ただ頬は痩け、顎の僅かな髭の剃り残しと、寸法があっていない外套は、彼をただ弱弱しく、より貧しく見せていた。
不意に、へなへなだったな、と思い出した。線路で抱き起こした時の感触を。
此の救助した人物は短躯だ。鳥口と比べれば痛々しくさえ感じられる。線路で抱き起こした躰は軽かった。
しかし、がりがりと印象はよりは、へなへなと言ったほうが相応しかった。
「なんだい?」
注視する視線に居心地の悪さを憶えたのか、男は顔を傾け苦笑を一つ滴らす。
幾度見ても年齢の知れない容貌。ただ酷く疲れて見えた。
「や、大丈夫なのかな、って」
男の苦笑は滲むように顔面に拡がった。
「あれは匂いが充満していたからさ。此の飲料は好物なんだよ。尤も人に言わせると私は味音痴らしいからね。此の自販機の珈琲で満足できるほどに」
そういう意味で「大丈夫か、」と訊いたわけでは無かったのだが、無理に訂正もしなかった。余りにも自分の思考が単純だったからだ。説明すれば相手が戸惑うだろう。理解させようと言葉を解体する。そうした過程が好きではなかった。
話がややこしくなることは嫌いだった。
 線路に落ちてから先刻までの酷い顔色を思い出す。脂汗を浮かべ此の儘病院に連れ込んだほうが良いだろうと思わせるほどに青かったのだ。あれは人の顔色ではない。
「寒くないっすか?」
「君は?」
「寒いです」
また男は笑った。
襯衣に薄い外套と言う出で立ちの男とは違い厚手のジャンパーにマフラーまで用意しているのだ。
「寓居に来るかい?」
男は言った。


何も無いけどね、温まることなら辛うじて出来るはずだ。
と男は言った。
公園から二十分ほど歩いた先に二階建ての洋館があった。
アールデコか大正モダニズムか区別が尽かないが、其処は瀟洒な建物だった。白い壁に窓の桟は凡て黒く塗られた鉄である。玄関は二枚の扉があって、男は右側だけを開けた。
「凄いっすね…」
思わず言葉が漏れた。
埃のような少し饐えた臭いが漂うのもこうした家特有のものに思われた。
男は苦く笑った。
「僕の家じゃないよ」
鉄のオブジェのよう手すりを持つ階段を上る。途中踊り場で折り返し、それは二階へ伸びていた。
「じゃあ誰の?」
昇りきり欄の下方を見遣ると渦が出来ていた。
二階の北側奥の部屋に案内された。其処が日常使っている部屋であるのか埃の堆積が薄かった。
広い室内には天井まで届いた書棚と薄汚れたソファと机と椅子、旧式のストーブがあるばかりだった。
「待って、火を入れるから」
ストーブの前で幾度か右側についたペダルを踏むが微動もせず、なにやらバネを左に引きながらストーブ本体の丸い窓を開け燐寸を擦って火を放り込んだ。
「凄え。ストーブまで値打ちもんじゃないっすか。僕、こんなん小学校で見たっきりですよ」
「何が凄いのか解らないけど、中々不便だよ。幅を取るしね」
「でも此の部屋矢鱈と広い癖にものないし、充分じゃないですかね。」
天井は三メートル以上の高さを持ち、部屋は二十畳を優に超えているように見えた。但し酷く荒廃していた。
「良家の子女なんすか?」
「そんな人物に見えるかい?僕が」
自嘲のように苦笑して椅子に外套を掛けた。着衣などの問題でなく、男は疲れて貧相に見えた。
「部屋が暖まるのに時間がかかるだろうから、未だ上着を脱がないほうがいい。ええっと…珈琲でいいかな?インスタントしかないけど」
頷くと男は部屋を出て行った。
既に夜の帳は落ち、新月の今夜は夜目も聞かない。
窓の外が解らなかった。ただ墨の刷かれた黒色一色の世界だった。
彼の机には紙が散乱していた。それは床まで傾れていて周囲は足の踏み場も無かった。
プラスチックのカードがあった。堀口病院と大きなクレヂットが見えた。近所の総合病院である。名前とハイフォンを含んだ十桁の数字。
「せきぐちたつみ…」
それが男の名前であることは知れた。
「どっかで聞いたことあるなぁ。」
扉の開く音が聞こえた。男が薬缶を下げて立っていた。
「見っとも無いだろう?どうも…整理整頓が下手でね。ついつい崩れても放っておいて仕舞うんだ」
「関口さんて言うんですか?」
「え、ああ、うん」
ストーブに薬缶を載せながら関口は肯いた。
眼前にカードを翳した。
「ああ…落としてしまったんだな」
「無防備っすよ」
「やっぱりかい?」
カードを受け取るとズボンに仕舞い、ストーブへ薬缶を掛ける。水滴が蒸発する音が聞こえた。
「僕の名前も訊かないし、」
名前も知らず家に上げてしまうのは余りにも無用心だ。
「ああ…そうか。訊いてなかったね。命の恩人の名前も」
「や、それはいいんすけど」
「名前は?」
「鳥口守彦」
ふうん、というようにでも関口は唸っただけだった。
「何処か悪いんですか?」
「ああ…いや…躰じゃないよ、」
関口は薄く笑った。
「ソファに掛けなさい」
促され、関口は椅子に座り、向き合った。
「……精神科に。心の病、でね。もっと正確に言うと、少し前まで僕は此の家から出られなかったんだ」
「はあ」
「こういう話は大抵引くからね。君がカードを見つけなかったらする話じゃないよね」
早く帰りたいだろう?と関口は訊いた。
「あの、精神科とか言って全部が狂人だと思うほど無知じゃないっすよ」
鳥口の眉が八の字を描いた。
「ええと、それは…自家中毒とかですか?」
それはストレスによる小児疾患である。尿中や血中ケトン体が急増したために中毒症状を起こすものだ。 「さあ?なんだろうな。医者が色色言ってたけど、生憎興味が無かったんで流してた。…うん、そうだな、まるで玄関に壁があるみたいだったよ。其処から出てしまったら「世界が終るぞ」みたいな強迫観念とでも言うのかな?まぁそんなかんじなわけだ」
「それってその時には解んないわけですよね」
「解らないね。振り返って漸く確認しているんだ」
「どうやって出たんですか?」
「解らない」
即答だった。
「誰かが連れ出したんですかねぇ」
「余りその辺りは記憶が錯綜しててね。ぐしゃぐしゃなんだ。記憶が無いのかと問われればイエスでありノーだ。現実なのか妄想なのか区別が尽かない」
まるで寝ぼけているときのようだ。と鳥口は理解した。
「ただ…今考えると僕は此の家に――――――」
関口の顔が歪んだ。否、笑んだのだろう。
苦笑でも自嘲でもなく、口端を吊り上げて目を細めて、ただ笑った。
それは何処か凄絶で、躰が震えた。
薬缶の蓋が浮き上がり下がり、湯が沸いたことを報せた。関口が釣られて立ち上がりストーブへ寄った。柄を素手で掴み熱いと声を上げ、襯衣の裾で再び柄を掴んだ。
腹が覗いた。
白い。
陽に曝されることも無いのだろう、白い皮膚。
余計な肉もなく、ただ白い。
不図、蛇だ、と思った。
蛇の腹に似ている、と朦りと思った。
「『蛇のような遊びをしよう』」
ぽつりと呟くのと関口が珈琲をカップに突き出すのは同時だった。
「朔太郎、好きなの?」
その一節だけで能く気がつくものだ。
「こうみえても物書きの端くれでね、」
「物書き…作家ですか?」
「一応。全然売れないけど」
不図思い出した。大学で友人が作っているミニコミ誌で特集していたのだ。「関口巽」を。
「あ…目眩の――――」
「………鳥口くん?」
「関口、さんですか?」
恥ずかしいのか関口は答えることもせず「朔太郎は好きなの?」と訊いた。
「あ…まぁ…なんとなく。高校の時、受験の合間にちょっと読んでたら、なんかこう厭らしくって…なんて言うのか…淫靡って言うか…忘れられなくて。や、朔太郎で憶えているんなんかそれだけなんですけどね」
「うん、ああ。君、蛇って嫌いだろ?生理的嫌悪って言うのかな。それに訴えられるのだと思うよ」
「はぁ確かに蛇、嫌いですけどね。にょろにょろ。でも普通嫌いだったら憶えないんじゃないですかねぇ」
「嫌いだから好きなんだよ」
「はあ、」
能く解らない。
「緑陰を白い腹の下に、うねりながら進むんだ。蛇のような遊びをしようと囁かれたら――――拒めない」
寸分の間断もなく張り巡らされる半透明の白い鱗。
拒めない。
あの白い腹で緑陰の茂みを踏む。
拒めない。
あの腹が目の前で震えたら――――
拒めない。
白い腹は―――――関口のものだ。
躰が震えた。
拒めないのは、その腹が白いからでも、蛇だからでもなく――――
否、否、否、否、否
拒めない――――

――――欲しているのはどっちだ――――
関口の獣じみた貧相な横顔を望んだ。目は虚空を所在無く彷徨っている。腹の底が、熱くなった。
「あのっ!」
踵を鳴らし立ち、声を上げるとゆっくりと此方を振り返った。
「僕、そろそろ失礼します」
「え。ああ、うん。そうかい」
「お…お邪魔しました」
「僕の方こそ申し訳なかった」
関口は玄関まで送り出しくれた。
駅までの道すがら幾度か振り向いたが、関口の部屋は北側で確認できず、あの洋館は闇の中へ姿を隠し視覚上には存在認められなかった。




しとどに濡れていた。
濃紺、淡灰、濃緑、鈍色。
いつもあの雨の世界をどう著してよいのか解らない。雨水それ自体は無色透明であるのに。世界には色が着いていた。それも酷く陰鬱な色で。雨は嫌いではなかった。晴れた日などは暗鬱な気分に成るから、もっと積極的な言い方をするなら雨が好きだった。
その雨の日に拾ったのだ。
道端に落ち居て、傍を通り過ぎることは出来なかった。
薄闇の中で手が生えていた。だからそれを?んだのだ。否、?まれたのかもしれない。
記憶が不安定だった。
記憶が不安だった。
記憶が不貞だった。
路の潦では絶える事無く斑紋が繰り返されていた。
それだけが不確かで無い視覚的な記憶だった。




鳥口が或る事象を歪んで捉えることは彼の性質上有り得ない。彼は健全な男だった。故に関口に関しても彼は正攻法を持って準じる。感情が健全に発露する。それが鳥口守彦だ。
「師匠、」
「僕は漫才師じゃないと何度言えば解るんだい?」
「希譚舎って何処にあるんすかね」
師匠と呼ばれた和服の男は鳥口の後頭部を見た。鳥口は四六版の単行本を眺めている。
目眩と言う表題と著者名が小さく書かれていた。肩越しにその様子を見やって和装の男は本棚に向った。
「読まないのかね、それ」
背中合わせに言葉を交す。
「読みましたよ。鳥渡だけ。でも、なんて言うか…わかんないんすよ」
「学徒が言う台詞じゃないな」
「一個一個の言葉は解るし修辞も理解できるんですが…全体的な意味が取れない」
酷く陰鬱だったと言う余韻だけがあった。何が書かれていたのか思い出せないのだ。
「全く…健全すぎるのも問題だぜ」
「なんです?そりゃ。これって学力重視の此れまでの教育制度の弊害っすよ。ええ間違え無い」
「君がこういう小説の類に馴れていないだけの話だろうが。どうしたんだ、突然関口巽だなんて」
「いやぁ、ちょっと」
また男は鳥口を振り返った。相変わらず鳥口は本を眺めている。小さく吐息する。
「巻末に出版社の住所や電話番号が記されているよ」
漸く鳥口は本を捲った。
「おお流石師匠」
「普通知っているよ。そういうことくらい。君が本を読まない証左だな。偶には頭を使うんだね。馬鹿に成るぞ。その本買うのか、買わないのか。どっちなんだ、はっきりする」
鳥口は代金を置いて古本屋を出て行った。小一時間滞在すれど見事に客は皆無だった。流行っていないのだ。どうやって生計を立てているのか、不思議になるほどだった。


 インターホンなど見当たらなかった。把手を握ると鍵が開いていた。
「関口せんせーい」
呼んでみるが返答は聞かれなかった。鳥口は少々躊躇したが家内へ上がり込んだ。入ると矢張り饐えたような臭いがした。
階段を上がり北側の部屋へ往く。一応戸を叩いたが返事は無かった。開けると先日とまるで変らない情景が其処にあった。
「いない」
北壁と西壁の床上三メートルより上は総硝子張りであった。カーテンもブラインドも無く西日が強く差し込まれていた。
「やっぱ普通の家じゃないよなぁ」
不図先日の関口の台詞を思い起こす。あの時は聞き流してしまったが、慥か関口は自分の持ち物でない、と言っていた筈だ。鳥口にはアールデコもアールヌーヴォーも大正モダニズムも区別が尽かない。だが建物の持つ尋常ではない卓抜さだけは感じ取れた。
「名の有る人の設計かも」
鳥口は先日のソファに腰掛けた。
西日は熱く、外気を遮断した屋内は、温室のような効用を齎していた。
眠気が誘う。
記憶が途切れた。




拾ったのか拾われたのか、今でも判別が尽かない。
ただ雨の中で互いに手を取った。冬の雨は冷たくて、何故こんな処に居るのか、呆れた。傘も差さず其処に行き掛かった此方を呆れていたのかもしれない。
今となってはそれも解らない。
濛々と雨が降っていた。




目を開けると関口が立っていて酷く驚いた。
「せ…先生っ」
「君、鼾掻いてたぜ」
扉を開けると鼾が聞こえていたらしいのだ。
「驚かせないで下さい」
「こっちの台詞だよ。鳥口くん」
関口は外套を脱ぎ椅子に掛けるとストーブから薬缶を下ろし、珈琲を入れてくれた。
「しかし無用心ですよ。鍵が掛かってなかった。暴漢でも入られていたらどうするんです?」
「君が言うな。これは不法侵入だよ」
「留守番の心算だったんですよ」
「熟睡していてよく言うよ」
差し出された碗に起き上がると何かが落ちた。床を見ればそれは
「それ…どうしたんだい?」
――――『目眩』だった。
関口が苦笑していた。
「買ったんですよ。先生がどんなのを書くのか。未だ読んじゃいませんがね」
「君も物好きだな」
「うへえ、物好きは自覚の上です」
今日の関口は綺麗に髭も当って、何処か身嗜みが行き届いていた。
「何処行ってたんですか?」
「ああ…人と会っていたんだ」
「人?誰です?」
「その本を作ってくれた人」
日は疾うに暮れていた。天井から下がった電燈は薄暗く、室内は陰影が濃かった。関口の長い睫毛が影を落としていた。
思わず――――見蕩れた。
「は…ははあ、成る程…仕事の依頼ですか?」
獣じみた容貌だと思う。髭も生えるし、口調は舌足らずだ。夜には脂も浮く。歳を悟らせないが、それでも自分よりは年嵩だろう。要は、腹こそ出ていないが、路傍の親爺と変らないと言うことだ。
だが面構えだけは繊細だった。
男に繊細などと言う言葉を初めて当て嵌め、我ながら酷く動揺した。
しかし、それでも、見蕩れたのだ――――
「そう言うことじゃあ無かったけどね」
――――健全な過ぎるのも問題だ、と言う声が聞こえた。
見蕩れたことも否定出来ない自分は慥かに健全だった。
歯列を辿り舌を搦め取り、涎液を堪能するように口内を蹂躙した。間隔を狭め、膝が触れ合った。
尚深く舌を押し込む。
関口は眉間を狭め両手で鳥口の顔をつかんで引き剥がそうとするのだが、顔面の人肉は思った以上に柔らかで、指が食込むばかりだった。
不図鳥口の顔を?む手から力が抜けた。
腹部に冷風を感じたからだ。そしてすぐに自分のものではない体温を感じた。
鳥口の手が襯衣の裾から侵入し関口の腹を這う。
神経系の音を聴覚が捉え、躰が粟立った。
屈強な躰が離れると、男はその頬を打った。




寒風が殴られた頬に沁みた。
背から戸の開く音が聞こえた。
「誰が店先で惚けていると思いきや。鳥口くんじゃないか。店先を君のような人物に陣取られるのは支障があるんだ。茫洋とするなら別の土地に行き給え」
「君のような男ってなんすか?」
「しかつめらしい橇犬ハスキーのような容貌の体格の良い青年、かな?」
「橇犬って…酷いっすよ。そんな恐い顔ですかね」
「安心し給え。その余りある愛嬌が鬱陶しいくらいだ。…今日は余計に鬱陶しいな。どうした件の人物を押し倒しでもしたか、」
「は?」
「関口巽だよ。興味があったんだろう?本を読まない人間が初めて本を買ったんだ。それも驚くことに少しは読みもしたという。おまけに関口は此の近所だぜ?」
「…師匠知っているんですか?」
「僕は芸人じゃないって言っているだろう。店に入り給え。君のような人物に店前を陣取られると客が寄り付かない」
「何時も開店休業のようじゃないっすか、」
男は取り合わなかった。
店中には時代錯誤宜しく火鉢が主人の帳場脇に置かれていた。火の上には五徳があり、南部産の鉄瓶がその上に鎮座していた。
主人の膝元には茶滓のこびり付いた碗が見られた。
「右頬、腫れてるよ」
「…目立ちますか?」
「中々ね」
「関口先生を知っているんですか?」
店主は黙々と書面に目を落としたままだった。
「師匠?」
「だから落語家じゃあ無し君のような弟子を取った憶えも無い。関口が此の土地の人間だってことは町内に住む人間だったら知っているだろうな。取り上げられていたんだよ。図書館の月報で。ありゃあ図書館で購入した新刊を紹介しているんだ。以前『目眩』が出版されたときに地元の作家と言うことで紹介されていた。稀覯本の取り扱いで親交があってね、月報が定期的に郵送されるんだよ」
鳥口は火鉢の炭を転がした。
「で本当にそれは関口に殴られたのか?」
店主は虎のような目で笑った。
「…………はい…………」
「見事に健全な男だな。君は。躊躇いとか、溜めとかの発想は無いのか?」
「なんです、そりゃ」
憮然と余所を向いた。
「然し、君と文士か。そぐわないな。どうやって出会ったんだ?」
「出会ったんですよ。駅で。線路に落下したのを救助したんです」
「君が?」
「はい」
帳台から煙草を取り出し、店主はゆっくりと煙を呑んだ。その侭兇悪な面構えの地蔵のように動かなかった。鳥口は出来るだけグラビアの多い本を手にとって眺めた。禅寺の精進料理とか言うダイレクトなタイトルのそれは藍色の作務衣に身を包んだ坊主が只管紙面を埋めているだけだった。
「…鳥口くん、あれは人を惑わす。大きな憑物だ。程ほどにするんだな。いつか後悔するぜ」
鳥口の背にそう呼び掛けてまた店主は口を噤んだ。




拾った男は決して優しい男などではなかった。冷酷で手前勝手な男だった。自分の感情の侭に行動した。世の倫理など通用せず、彼の善し悪しこそ、世界の凡てだった。
だのに、雨音の中で酷く優しく扱われた。
手荒な真似は一つも存在しなかった。根気良く一つ一つゆっくりと馴らされた。優しい手と優しい口付け、優しい目線。
意思は尊重されないのに。
上がる声と卑猥な物音の細めく夜の寝間を、雨音が窃視するのように無遠慮に垂れ込めていた。




関口は鈍々と長椅子から立ち上がった。
廊下の立て付けの悪い窓からの隙間風の所為で戸が揺れ、耳障りで仕方なかった。日が黄色味を帯びて低く家屋へ差し込んだ。
冬特有の眩さで。
じっと手を見た。
兇暴な手を。
先日は鳥口を打ち据えた手である。幾つもの罪を重ねて憚らない手。
「僕が――――殺したんだ」
呟いてその忌わしい手に顔を埋めた。
あれから鳥口は此処へは来ない。




図書館の中でその本を取ったのは偶然としか言いようがなかった。
『首都圏下近代建築MAP』
鹿島出版会から刊行された都内の近代建築を隈なく巡ったその本は、なんとなく興味を惹いた。
そして実に呆気無く其処にあの番地を見つけたのである。
「竣工は大正十年。うへえ、関東大震災を持ち堪えてる。所有者は…なんて読むんだこれ」 其処に書かれた所有者名は関口では無かった。
「エノキ…キヅ、かな。誰だ、そりゃ」
竣工・所有者榎木津家。
聞いたことも無いような姓名だった。




「こんばんは、」
顔を上げると鳥口が立っていた。
「な、なんだ、君は。驚かすなよ。挨拶もなく、」
机へ突っ伏していた躰を起こすと、同じく机に詰まれた資料や筆記具が音を発てて崩れた。
「ちゃんと声は掛けましたよ。でも先生、寝てましたからねぇ。無用心ですよ、ちゃんと鍵くらい掛けたら如何です」
「盗られるようなものは何も無いさ」
負け惜しみの様に言った。
机の上には書き掛けの原稿用紙が関口が眠った所為で襤褸襤褸になっていた。
鳥口は原稿用紙を取り上げて、皺を伸した。
「下手な字っすね」
「悪かったね」
「ま、でも読めないことはないですが」
前髪に寝癖が着いていると言うと関口は何度も前髪を掻き雑ぜた。無精にも程があるように思えたが、此処は彼の居住であるからそのくらいの好い加減さで良いのだろう、と鳥口は納得することにした。
「………あのぅ、先生」
「なんだい?」
顔を上げると鳥口が唐突に物凄い速さで腰を直角に折り曲げ、頭を下げた。
「すみませんでしたっ」
何に対する謝罪であるのかは自明だった。
「え…あ、ああ……。うん、いいよ、もう。ほら、僕も君を打ったし、」
言葉尻は何を言っているのか曖昧に成り、消えて行った。
「わ…悪かったね」
小声で関口が謝った。
顔を上げた。貧相な顔が尚も痩けたようにみえた。
「君は…京極、と知り合いなのか、」
「知っているんですか?」
「旧い友人だよ、」
「あの人も何でも知っている能弁家ですよね。会う度に説教されっ放しですよ。勘が好いのか、天眼通なのか、恐いほどです」
「あれは…悟りのお化けだよ。そう思えば、ほら、恐く無い」
赤子を宥め賺すように言った。
憮然と関口を見ると、彼は此方に視線を向けることもなく、窓から空を仰いでいた。
夕焼けの橙色が空を染め抜いていた。
いつも此の家は黄昏にある。
境界にある。昼と夜の。
「先生?」
「なんだい?」
振り返った関口の顔は、いつものように少しはにかんだ困ったような表情だった。
「もう帰ったほうがいいよ。すぐに暗くなる」
「はあ、でも僕あ子供じゃ無いっすよ」
「此処にいることを後悔しないうちに帰ったほうがいい」
身一つで放り出され、鳥口は混乱していた。
何故彼処に居ることを後悔することになるのだろう。何が後悔させるのだろう。




火鉢の上で旬旬湯気を上げる鉄瓶を取って、白湯を注いだ。
店主は横目で一瞥しただけで紙面から顔を上げない。
「師匠、」
呼び掛けても返事は無い。
「関口先生と友達だってえ言うじゃないですか」
「誰か友人なものか、あんなのは知人さ」
冷淡に言い放つ。
「何が知人なんすか!旧い友人だって」
「それ、関口が言ったのか?」
「…知り合いなんすね」
店主は返事をしなかった。眉間の皺は尚深く刻まれ、常に憤怒の形相にあるその容貌からは感情の機微は見出せない。
鳥口は口を尖らせた。
「なんで嘘つくんすか、」
「言っただろう。アレは人を惑わす大きな憑物だと」
「先生は師匠のことを悟りのお化けだって言ってましたがね」
片眉を器用に押し上げて店主は鳥口を見る。深い吐息をして漸く本を閉じた。
「関口に興味があるのなら、僕ではなく別人を紹介しよう」
「え、誰っすか?」
「稀譚舎の編集者だ」
「あのそれってもう関口先生のことを話題に出すなってことですか?」
「別にそうは言っていないよ。文学者としての彼の話なら喜んで聴講しよう。僕と彼とはもう長いこと会っていないんだ。此れから先会う心算も無い。だから別人を紹介するだけだよ」
「その編集者って、誰、ですか?」
「僕の妹だ」
背負った鞄の中に入った『目眩』の重量を意識した。




そもそも何かを詮索したかったわけではないのだ。
ただ彼に関わる情報が欲しかった。稀譚舎に古書肆の妹を尋ねたのも、単純に関口の近況を知っているからだと聞いたからだ。
「兄貴の知り合いだって言うからどんな変った人かと思って内心びくびくしてたんですよ」
稀譚舎傍のカフェで珈琲を前に中禅寺敦子は快活に笑って言った。
「あの、師匠名前中禅寺って言うんすか?」
「師匠?兄貴のことですか?」
鳥口が頷くとまた笑った。
「あの人が婿にでも行ってない限り中禅寺でしょうねえ」
古書肆と此の恐らく鳥口よりも年少であろう女性はまるで似ていなかった。溌剌と健康的で美しい。まるで少年のようだった。常に不健康な肺病患者のような風貌のあの古書肆の血縁者には思えなかった。
「………関口先生のことでしたよね、」
敦子はゆっくりと頸を傾げた。
「ああ…はい」
「木場さんにはお会いしましたか?」
「え、」
キバとは初めて聞く固有名詞だった。
「そうですよね。お会いになってれば私の処に来るわけ無いですよね」
一人合点して幾度も敦子は頷いた。
「また自殺未遂なさったんですってね」
「自殺未遂、」
「関口先生」
平然と落ち着いた口調。動揺は微塵にも見られなかった。不意に鳥口は不安なった。
「あの…また、って」
「駅で。鳥口さんが助けたって昨夜電話で兄貴から聞きました」
否、あれは事故だ。関口自身が失神して落ちたのだ、といっていたではないか。
関口自身が――――
「――――あれは自殺未遂なんですか…?」
表情が強張るように笑みの形を作り上げた。菩薩のような。
「私、関口先生のことが好きだったの」
唐突な台詞の連続に鳥口は戸惑う以外に無い。
「多分今もそれは変っていないと思うんです」他者を語るように言った。
「そうでなかったら小泉さんに無理矢理同行したりしないと思うんですよ」
「ああ…先生が会いに行った編集の人って中禅寺さんのことですか、」
「それ、関口先生から聞いたんですか?」
敦子は微かに苦笑した。
「…腹の探り合いは止めた方がいいですね。って探っているのは私だけか」
探られていたようだ。鳥口は胸に手を当てた。腹だと言うのに。
「あの、先生はなんであの家にいるんですか?」
「ああ…有名な建築だからすぐに解っちゃいますよね。あの家の所有者なんて」
所有者それは関口ではない。
「設計者は磯崎不比等。明治から大正のモダニズムを彩った建築家。けれど此の国は建物の移り変わりが早いですからね。今や往時の儘、唯一現存する建築物」
鳥口は先日読んだ本の文章を総括した。
「先生、酷い不安定に陥って暫く誰とも口を利かずあの家から出ることも無かった時期があるんです。もう何年も前の話ですが」
「今も病院に通っているって聞きました」
「それも関口先生から?」
「偶々診察カードを見つけてしまったんで」
鳥口が珈琲を空にすると、敦子は目の前のビルから漏れる夕日の光輝に僅かに目を細めた。
「昔、先生、人を拾ったんです」
「拾った?」
「その人が言うには『拾った』と。でも関口先生からすれば僕が拾われたんだ、と」
「言い分が食い違ってますねえ。なんとか言う小説じゃないんですから。ほら芥川賞の由来になった作家のアレ」
何の小説であるのかそれではまるで解らない。
「ええ。食い違ってますね。でも、両者の言い分はどうでも良いと私は思っているんです。だって其処に在る事実は『二人が出会った』こと。それだけですよ」




雨の中で口付けをした。
双つの肉の狭間に間断無く氷雨は注いだ。口腔の涎液に時折冷水が入り、やがて混じり合って、咽喉の奥へ追いやられた。
雨の闇の中、交わった。
雨は滂沱と皮膚に冷たく伝うのに、酷く熱かった。
泥に塗れた手は砂を含んで躰を弄った。
鈴口の割れ目を堅く尖らせた舌の先で撫ぞられる時でさえ、ざらりと――――
入り込んできたその異物感に思わず喰い縛った奥歯も砂を咬んだ。
人通りの少ない路とは言え、通りに面した公園の茂みの中で交わる二人に、時折車のライトが照らし出して言った。非道く興奮して、それを耳元で揶揄された。
その吐息さえ今も覚えていた。




「――――殺人――――」
鳥口は繰り返した。
「勿論未遂ですけど」
敦子は笑んだ儘だった。
「あれから兄は先生に関わることは辞めてしまいました。また被害者が一切を不問にしたので表沙汰には成りませんでした」
「何で…何が…何があったんですか…?」
「詳しくは私も知りません。私は部外者なんです」
光輝の残滓が揺蕩い、迫り来る夕闇に紅く棚引いていた
。 「ただ先生は今もあの人を殺したと思い込んでいる」
「え、」
「長い時間を掛けてあの家から出られるようになったけど、先生は何も変ってません。今もあの人を殺したのは自分だと思って苦しんでいるはずです」
「そんなのっ、奇妙しいでしょう!人を殺して不問に成ることなんて此の国にはありませんよっ。鳥渡考えれば解かるじゃないっすか」
「それすら理解出来ないほど、先生は病んでいるんですよ」
「第一、先生が苦しんでいるなら…何で誰もっ」
「先生は安寧よりも苦しみを選んだんです」
九角形のグラスの水滴に指を這わせながら敦子は呟いた。
「どういうことっすか?」
緩緩と頸を振った。
「あの家の…地下を見たことありますか?」
「地下…が在るんですか?」
「あの家崖の斜辺に建っているんですよ。だから道路側から見れば二階建てですけど、他方から見れば三階建てなんです。便宜上地下って呼んでますけど、ちゃんと窓もありますし」 そういえば二階と言うには階段の欄の下方を見遣ると渦が出来ていた筈だ。
「多分、今も彼処には血が飛び散った儘の筈です」
それ限り、敦子は口を開かなかった。
会話が途切れた頃遣ってきた給仕に割り勘で清算し、暫くそのままだったが、日が完全に暮れると敦子が立ち上がった。
「もう出ましょうか」
「あ…はい」
稀譚舎の大きなビルの前で敦子は未だ仕事があると言った。
「すみません。時間を割かせちゃって」
「…木場さんには未だお会いに成ってないんですよね」
「キバ?」 先も敦子はその名を出していた。
「赤坂署の刑事さんです」
「刑事ですか?あの…その人が先生の事件を担当したんですか?」
「担当とはちょっと違いますね。世話をした、と本人は言ってますけど」
「は?」
「事件は警察沙汰にはなってないんです。言ったでしょう、被害者が不問にしたって。つまり個人的に世話をしたんだ、と」
「どういうことですか?」
「木場さんは警察の方ですけど、先生と被害者の共通のお友達なんです。お会いになるのだったら、此れどうぞ」
名刺を渡された。中禅寺敦子のものだったが、その裏に木場の名前と電話番号が記されていた。
木場修太郎とあった。
敦子は鳥口が戸惑う程深いお辞儀を見せて、ビルへ消えて行った。




 白い腹を視て蛇がの様だと言ったのは榎木津だった。
関口はソファに半分ずり落ちる様な体勢で腰掛けながら朝焼けを見ていた。夕昏を逆再生しているように思えた。
汗掻きで在るにも拘らず、関口の平均体温は低い。
時によっては三十五度を遥かに下回る。だから榎木津は関口の上に覆い被さった儘「猿の癖に変温動物とは何事だ!」と訳の解からないことを怒鳴ったのである。
前々より関口を猿だと評して憚らない榎木津には憤慨ごとだったのだろう。
脂肪と筋肉の少ない皮ばかりの腹は、背を屈めると幾重もの横筋を作り、蛇腹の様に見えたのもその要因だった。
鈍々と関口は立ち上がる。
眠れないばかりか、益々目は冴えて行った。
顎を摩って髭を剃ることを思い出した。
目は冴えているのだがどうも頭が耄としていた。
刃が膚を掻いた。
鮮血が音を発てて落下し、洗面器が朱に染まった。
薄らと痛みを感じて、其の侭関口は意識を失う。
ただ眠かったのかもしれない。
鳥口を受け入れることが出来たのをずっと不思議に思っていた。
ああした屈託の無さはもう随分無縁で、忘れ去ったものだった。ただそれに憬れただけだったのかもしれない。
けれど瞼の裏に榎木津の影を浮かび上がらせた。今も連綿と思い続ける男の影を。
だがそれは滲んで茫漠と薄れ、やがて鮮明に鳥口の影を繰り出した。




 胸の携帯電話が鳴った時、木場は会議中だった。
捜査第一課では会議中だろうと携帯電話の呼び出し音をバイブレーションに換えても、電源を落とすことは無い。依って携帯のバイブレーションを感じれば誰でも会議を中座して良いことになっている。
辺りに頭を下げて木場は廊下へ出た。
長い時間鳴っていたが、それでも木場が廊下へ出る頃には止んでいた。
着信履歴は見たことの無い番号だった。同僚だったら木場がちょっと出ないだけで引き下がるようではない。ならば刑事以外の人物だろう。
不意に木場の脳裏に浮かんだのは、関口だった。
「然し、奴は持ってなかったよなぁ。携帯なんか」
呟いて、不意に先日の中禅寺敦子を思い出した。
紹介したい男が居ると言っていた。木場が敦子の兄であったなら、素は結婚相手かと思う処だが、生憎木場の妹は別に居て既に婚姻済みである。
「あれか?」
勘は良い方である。
掛け直すべきか否か迷ったが、後輩が遠くに見えて、つと吐息して発信釦を押した。
「はい、」
と相手が出て、何と切り出すべきか些か戸惑い、木場は頭を掻いた。
「木場さんですね?鳥口といいます」
未だ若い男の声だった。
飄々として屈託の無い健康的な若者の声だった。勘は良い方である。
「おう、木場だ。今会議中だからちょっと待ってくれ。後で連絡する」
通信を終えて、携帯を胸に仕舞っていると後輩が近付いてきて声を掛けた。
「木場さん、会議は?」
「今戻るトコだよ」
無愛想に言って木場は室内に入って行った。
今も鮮明に耳朶に残って止まない。
電話口の荒い呼吸。
「下駄男、」
と呼ぶ、余りにも珍しい神妙な声。
あれも会議中であったはずだ。そして駆けつけた先で見たものは淋漓とした朱の世界と、二つの骸。否骸に見えただけで実際には、ちゃんと生きていたし、他方は血に染まっていたが無疵だったのだ。
「来たか、立方体。禿医者を呼べ」
偉そうに命令したのだ。
白昼に木場はあの日のことを幻視した。




 鳥口と木場が会ったのはその日の夜である。
木場のアパート近くのガード下の赤提灯である。木場と言う男はこうした場所が能く似合った。鳥口も背の高い方であったが木場は更に数センチ上を往く。
全体的に四角い印象を受けた。
「榎木津の野郎はぴんぴんしてるぜ」
「え、」
「彼方此方で騒動起こしちゃ、他人に迷惑の掛け通しだ」
赤提灯の親爺が注いだ冷酒を煽りながら出し抜けに木場が言った。
「そんで、こと有るごとに関口に会いたがってる」
親爺から一升瓶を受け取り木場は鳥口の碗に酒を注いだ。
「自分が何したか、何をされたか、解かってねえんだろうなぁ」
「あの…」
余りにも簡単に快活に言う木場に戸惑いしかなかった。
重苦しさを見つけられなかった。殺人未遂が起こったというのに。
「俺も解かんねえんだよ。何が起こったなんてよ。ま、痴情の縺れってやつかな」
「え…あの…痴情って…」
鳥口は奥手ではない。幾人がそういう対象の人物はいるし、先だっては関口に口付けまでした。だが、流石に…戸惑ったのだ。
「聞いてねえのか?」
苦笑した。
「まぁ、そういう仲だったってこった」
そう言えば敦子も意味深長なことを言っていた。鳥口は改めて顔を歪ませた。
「関口は色色忘れてやがるし、榎木津は普段から何言ってるか解からねえ野郎だからな。結局真相は『藪の中』だ」
芥川龍之介の「藪の中」。
証言者の言い分は喰い違い、結局有耶無耶に事実だけが残る、王朝物である。
「あいつら学校の先輩後輩だったんだよ。関口には婚約者があったし、否、今もいるんだがな」
それは初耳だった。
木場ははんぺんを突付いた。
「雨の中で拾ったらしいんだな。榎木津の野郎が公園の土の上で寝てて、関口が。で、其の侭。当分、関口と榎木津は持ち家のあの家で暮らしたんだ。どうしてそれがあんなことに成るのかが解からねえ。榎木津なんか瀕死だったんだからな。馬鹿なんだろうな。馬鹿。あいつら」
「何で今も関口先生は彼処に棲んでるんですか?」
「榎木津が其の侭で。ってな」
木場が笑った。
「奴らに付き合ってると馬鹿馬鹿しくなるぜ。一人は見事に隠遁しやがった」
不図一人の男のことを思い出す。未遂事件から付き合いを止めたと敦子は言っていた。
「師匠の――――ことですか?」
「師匠?」
「古本屋です」
木場は幾度も頷いて、「お前な、落語家かよ」と言い、大根を喰んだ。
「それでもお前、いいのか?」
どうやら木場は見透かしていたようだ。鳥口は頭をがしがし掻いて頷いた。
「ま、呑めや」
空になった儘の鳥口の碗に酒を注いだ。
「――――先生は今も、その…榎木津さん、を殺したと思ってますよ」
「ああ承知してるぜ。でもな、俺はそれで良いと思ってんだよ。それで関口が均衡を持ってんだってなら。関口は取り返しの着かねえことを仕掛けた訳だしよ」
「罪を感じて生きていくんですか?」
「あれだけ榎木津を熱愛したんだ。本望だろうよ」
鳥口と木場は只酒を呑んだ。聞いてみれば感嘆ではないにしろ、呆気無いことだった。
其処に二人の男がいるだけだった。
「うへえ、雨だ」
アスファルトの色が変わって往く。
「ありゃあ、もう客は着ませんな」
店の親爺が呟いた。
雨音と電車の音が会話を中断させた。
電車が過ぎ去り、ピアニカのような音だけが残った時鳥口は襟巻と外套を装着した。
「ええと、俺が喰ったのって」
鳥口は財布を出した。
「行くのか?」
「あ、はい」
「じゃあ俺の奢りだ。行けよ」
顎を杓った。
「どうもです!感謝感激大雨小雨ですっ」
訳の解からないことを叫びつつ、鳥口は雨の中を駅へ急いだ。




相変わらず灯火一つ無い家だった。
鳥口は構わず、鍵のかかっていない玄関を勝手に入り、二階の部屋へ上がって行った。
濡れた外套を襟巻を取った。
壁を触り突起を探し当てると、それを左に移動させた。
何度か瞬いた後、電燈が着いた。
部屋の中では人が倒れていた。
駆け寄ると、眼球を剥く。
戦慄した。
朱に染まった洗面器と中には剃刀が沈んでいたのだ。
「先生!」
両の肩に手を掛けると、服には大量の血が付着していた。
「先生っ」
再度の呼びかけに、瞼を震わせ、しばたいてやがて関口は目を覚ます。
慌ててよくその顔を見ると、顎に疵があり、血の流れ出た痕があった。
「良かったあ」
「ああ…鳥口くん?」
「恐かったですよおお」
腹を空かせた子のように憔悴し喚いた。
ストーブに火を入れ、疵の手当てをすると関口は呟いた。
「鳥口くん、僕はね、人を、人を殺したんだ――――」
涅槃のように微笑んで。




 鳥口は休日の繁華街の交差点を渡っていた。
そして後ろから肩を掴れた。
驚いて振り合えると、長身の美貌が其処にあった。日本人だろうが色素が如何にも薄く、西洋磁器人形のようだった。
半眼で鳥口の頭の上辺りを凝視すると、うふふと笑った。
「笑っているな!笑っているだろう!」
声を上げて笑い、鳥口を揺さぶった。そして如何にも嬉しそうに去っていった。
「待ってくださいよ!榎木津さんっ」
鳥口の横を擦り抜けて往く、前髪の長い男。
「益田くん!?」
大学で同じ学部の四年生前期で学校を辞めた男だった。
「え、鳥口くんっ。久し振りって…ごめん、久闊を叙している暇ないんだ。榎木津さん!」
エノキヅと言う珍しい姓はそうは居まい。去ろうとする肩を掴み、
「あの人榎木津って言うのかい?」
と訊いた。
「そう、滅茶苦茶な探偵でね。就職したの、あの人んとこに」
歩行者信号機が点滅を始めた。
「あ、じゃあ!」
手をヒラヒラと振り、益田は榎木津の後を追って人込みに消えて往く。
鳥口は木場に連絡を取ろうと思った。






大円団。