魚たちの恋 当時学校では『岡惚れ』と言えば或る特定の人物に恋心を抱くことを示していた。 「……岡惚れしている奴がいるらしいぜ、」 「はあ…?誰だよ、そんな身の程知らずな奴」 「何て言ったかなあ…。まあでも、付き纏っているらしいぞ」 「迷惑な話だよな」 「尊意尊意」 岡惚れとは、魚が陸を恋うようなものだろうか。 関口は背後で展開される噂話を耳にしながらぼんやりとそんなことを考えていた。 それはつまり決して実現することの無い願望を言うのだろう。 関口はつと小さく息を吐いた。 「関くん、」 大きな声が衆人の中を照らし出す光明のように響いた。 彼は破天荒な美貌と類稀な存在感で人の目を引きけずにはいられない人物だ。故に日陰に生きることを旨とする関口はできる限り近付きたくはなかった。 肩を潜ませて見つかる前に早々に逃げてしまおうと廊下の角を曲がろうとすると、後ろから腕が伸びて、羽交い絞めにされた。 「榎、さん…っ」 「僕を無視しようとは好い度胸だ」 「無視しようなんて」 「思っていただろう?君の思考なぞお見通しだよ。関くん。罰に肩を揉め」 「それが…最初から目的だったくせに」 そっぽを向いて小さく呟くと榎木津は少しだけ柔らかな表情を見せた。尤もそれは関口に知覚されることはない。 「まあどうでもいいよ。僕は疲れた」 「どうしたんです?」 疲れたなど余り榎木津から聞く単語ではない。 「肩を揉みながら教えて上げるよ」 と寮の一室に連れ込まれた。 榎木津は雲上の人物である。 教師だろうと彼の上級生だろうと、誰も彼に口を挿むことは出来ない。稀有なまでに明晰な頭脳と卓抜した運動能力。彼個人特有の破天荒さは衆人に寧ろ魅力的と評された。構内には軟派も硬派も綯交ぜとなった榎木津崇拝が存在した。 誰も彼を憚ることは出来ない。 故に学校なぞ彼にとっては体の良い昼寝の為の庭に過ぎないように見えた。 「関くんほら夏蜜柑だよ。剥きなさい」 「はい?」 『食べなさい』ではなく『剥きなさい』。榎木津にとって関口は完璧に従者扱いである。 「咽喉が渇いたんだ」 「……何をしてきたんです」 そういえば今朝から榎木津の姿を見かけていないことに今気が付いた。榎木津は目立つからいればすぐに解るのだ。 「家で腹を立ててきたら、咽喉が渇いた」 「ご実家に戻られていたんですか?」 「キリギリスのレースをしてきたんだが…兄が異常に強くてそんなことに熱を上げる父にも兄にも母にも腹が立ったんだ」 家族構成を余り耳にしたことは無かったが、どうやら榎木津は末っ子であるらしい。不図既に顔も朧気な弟を思い出した。 厚い皮を剥き、薄皮を爪で契ると、中から汁が滲んで指を濡らした。甘い香りと糊のような粘りを持っている。薄皮をそっと剥くと、黄色い粒が指の間で一つ潰れた。 指がしとどと甘い汁に染まった。 「はい、剥けましたよ」 両手を上空に向けて万歳の要領で榎木津を見ると、榎木津は「嫌だ」と言った。 「何が嫌なんです?咽喉が渇いたと言ったのも蜜柑を剥けといったのもあんたでしょう!?」 「手が汚れるのが嫌なんだよ。そんな関口くんを見ていたら益々嫌だ」 子供か、と関口は内心毒気付いた。 「じゃあこうしよう。僕が口を開けるから放りこんでくれ」 「……エノさん…」 脱力する。 「早く」 榎木津は口を開ける。綺麗な歯列と赤い口の中が覗けた。そして頸を逸らし、目を瞑った榎木津に関口は正面に見蕩れることになったのだ。 自分の顔にじんわりと汗が湧いて熱い。 そうだ。榎木津は綺麗なのだ。 不意に噂話が脳裏に黄泉還る。 「……岡惚れしている奴がいるらしいぜ、」 岡惚れする勇気などそれこそ持っていなかったが、それでも目の前の人物は余りにも美しかった。 ………。 血圧が急降下した――――― あれは誰の噂をしていたのだろう。 今のこの状態を見れば、人が勘違いをしてもおかしくは無いのではないか。 そして震える指で榎木津の口の中へ一房摘み入れた。 「え…榎さん!」 発した声は悲鳴に近かった。 そして同時に扉が開く。人が入ってくるところだった。 「………何やっているんだい?関口くん」 中禅寺だった。 いつも不機嫌な白い顔が黒ずんで見えた。 「あ、中禅…寺…って、辞めてくださいよ!榎さん!」 関口の人差し指は榎木津の口の中だった。 肩が持ち上がって震えた。 「爪の間なんか汚いですってば!」 そう叫ぶと、漸く解放される。目が笑って、関口の向うの中禅寺を見た。 「何やっているんだ。扉を閉めろ。中禅寺」 扉の向うに人集りが見えた。 榎木津の言葉に中禅寺は黙って扉を閉め、向き直る。 「関口くん、いつの間に榎木津を釣った?」 「釣ってなんかいないよ。榎さんが蜜柑を剥けって言うからそうしたら…」 指まで喰われたのだ。 「人の爪の間なんて黴菌の宝庫ですよ」 「能く磨いてあるじゃないか」 「そりゃあ、洗いますからね」 「だったら問題無いだろう」 「有ります!」 「……解らないな、何処に問題があるんだい?君は黴菌を問題にしているが、きちんと洗ってあると言う。なら僕の舌が其処を舐めても問題は無いじゃないか」 「……それは…あの…」 言い澱んでいると、腕を獲られる。そして果実の蜜と榎木津の唾液に濡れた指が再び榎木津の口腔へ誘導された。 「ほら、甘い」 榎木津は綺麗だ。 微笑まれた顔に思わず見蕩れ、絶句した。 榎木津の外見は関口の好みに弩真中だった。 関口巽は自分如何を棚に上げ、美しいものが好きだった。 故に榎木津が傍にいれば落ち着かなく緊張した。最近漸く榎木津の外観に馴れたと思ったら、妙な噂が拡がった。 『関口は榎木津に岡惚れしている』と。 甘味処で炭酸水を口にしていると、背後で噂されている話題に益々関口は背を丸めることとなった。 何故ならその話題の渦中の人物こそ、彼だからである。 相向かいの席で餡子のどっさりと乗った餡蜜を口にしている中禅寺秋彦はにやりと片眉を上げて笑った。 噂を口にしていた人人が漸く背から退き、関口が背を伸ばすと中禅寺は角切り寒天を口に運んで「関口くん、大変になことになっているぜ」とのたまわった。 黒文字の木で出来た杓子を関口に向ける。 「…冗談じゃないよ。全く…。僕が一度でもあの人を好いたことなんて」 「強ち、的外れでも無いだろうに」 「……そりゃあ…あの外観だし…。誰だって一瞬は見蕩れるだろう!」 「生憎と榎木津に見蕩れる回路は持っていないよ」 表情一つ変えずに嘯いた。 最も困ったことはその噂が強ち的外れでも無いことだった。だからこそ、関口は噂を一々否定することも出来ず、じっと貝になっているしか無いのだ。 「でもそれは、本当に外見だけの話で…」 何故惚れているなどと云う話になるのか。 中禅寺を前に言い訳をせずにはいられなかった。 その所為で此処の所関口は災難に見舞われる結果となっていたからだ。 「階段から突き飛ばされる、夕食が喰われる、果たし状は三通、袋に入れられ秋葉神社に放置。忙しいな、関口くん」 指を一々折り曲げながら中禅寺は皮肉った。 「慥かに。慥かにね榎木津の外見は好きだよ。それは…認めるよ。でもそれは君の話を聞くのが好きだと言うのと同じことで」 榎木津に惚れるなど、正に魚が陸に上がりたいと言う願望を持つようなものだからだ。 跫も無ければ肺呼吸も出来ない魚。決して実現することはない。 実現不可能の絵空事を言うのだ。 だからこそ、榎木津に想いを掛けることを『岡惚れ』と云うのだ。 榎木津はそれだけ構内で絶対的だった。 一人暗く沈む関口を余所に中禅寺秋彦は腹に渦巻く毒黒い感情を抑えられずにいた。 関口の『岡惚れ』の話は勿論榎木津に届いている。 そしてそれを容認し、また人人に見せ付けるように行使しているのだから、榎木津の真理は一つだ。 付き纏い、想いを掛けているのは、関口ではない―――――。 ベクトルは逆なのだ。 榎木津の光明に目の眩んでいる人人を余所にそれに気が付いているのは、構内で中禅寺秋彦ただ一人であった。 17/05/05 一昨年辺りに思いついて今頃かきました。 |