神さまの書き忘れ 02 女子の学問を奨励したい人なぞ少なくとも、関口の田舎にはいなかった。ただ母が教師であったために少しは人の目の刺々しさを緩和されていたのだとは思う。否、奇異な視線を分散化させていたのだ。母と然程に合うことはなかったが、勉学に対してのみが共通項だったのが幸いした。 高等学校に出てきてから、帰省したことはなかった。 催促をされたこともない。 吐息を一つ落とした。 独逸語は苦手だ。ジグムントの原典に当たろうにも一文章を解読するのに酷い時間がかかる。これでは友と会話を弾ませようにも、残念な時間が過ぎるのみだ。 女学校の図書室はなんでもさる財閥の長が寄贈した書籍で見事な充実ぶりだ。しかしその殆どが手付かずなのは些か頂けないと思うのだが、心行くまで耽溺できるのは居心地がよかった。 此処にいる間は教室の煩わしさも、あの人のことも考えなくて済むのだ。 今朝も校舎に跫を踏み入れれば白々とした目線が向けられていた。女子師範学校は優秀な女学生が集う女子の高等教育機関だが、男子と違い矢張り金銭的余裕のある富裕層と行く末を教師に据えた学生が多かった。 朝から名の知れた家の御曹司と同じで車でやってくる関口は白眼視されるのも尤もな話だった。 それどころか些かの敵視を持って見られていることに気付いた時には余りの理不尽さに叫びそうになったものである。 此の学校には『榎木津』に釣り合う家格の人間が多いのだと云うこともその時知ったのだ。 安穏な生活が送りたい。 榎木津のあの鳶色の眸に曝される時、この上ない恐怖を感じる。 それから解放されたいのだ。 少なくとも彼は関口を『愛玩』をしているだろうが、それ以上の何物でもないのだから。 俯伏せるように眺めていた本と辞書から起き上がり時計を見れば、あと半刻程で約束した時間になる。関口は本を棚に戻し、自前の辞書だけを鞄に積めて図書室を後にした。 「中禅寺、」 甘味屋の前に真直ぐに立ち片手で鞄を持ち、もう一方で本を器用に繰っている肺病然とした容姿の青年に声を掛けた。 「遅れて御免。何読んでるんだい?」 走った訳ではないが、関口の息は僅かに切れていた。 「ジグムント?」 「そりゃ君だろう?」 本から顔を上げて、中禅寺は関口を視線で一舐めすると再び目線を本の紙面に移した。 「今日は随分奇麗に結ばれているじゃないか」 「結ぶ?」 「その、タイだよ。不器用極まりない君が、上手く行ったものだね」 「ああ…うん。その…」 しどろもどろに頷くと、関口は自分の胸元を見た。 制服のタイの膨らみも角度も今朝からいっかなずれた様子は無い。美しい形状を保った儘其処に合った。確かな技術を感じさせるものだった。 「これはその…榎さんが」 中禅寺が視線を僅かに関口に呉れて、本を畳んだ。 「まあそんな筈は無いと思っていたよ。そして謝らなくてはならないことが一つあってね」 鞄にしまう本は画圖百鬼夜行と云う和書であった。 「謝まる?私に?」 「ああ。余り素気無くしてまた遊里に籠られても困るからね。…君もそんな顔をするな」 なんだと云うのだ。今日はもう会うことはない、と気を楽にしていたのに。 「だったら、なんで連れて来るんだ」 声を潜めながら関口は中禅寺と距離を詰めた。 「君を気に入っているんだろう」 「本気で君云っているのかい?」 確かに尊厳を滅茶苦茶にされるようなことは無いが、猫が遊ぶ玉のような玩具の扱いには違い無い。けれど人にその姿が如何見られているかなど、榎木津には関係無いのだろう。 榎木津は男子であるし、況して名家の御曹司だ。些細な噂など瑕疵にもならない。 けれど関口には不名誉なあれこれが加算されて行くだけなのだ。 曰く、猥らな、と。 「…中にいるのかい?」 「いるよ。そして正直君がいないと収まりが付かないんだ」 「は?」 よくわからないことを云われて、中禅寺は甘味屋の戸を開けた。 「いらっしゃいませ、タツさん」 にっこりと笑って前垂れの給仕姿の女性が関口を出迎えた。 関口をタツさんと呼ぶのは此の舗の看板娘である雪絵だけだった。 「私タツさんともっと仲良くなりたいのに、一週間に一度しか来てくれないんだもの」 雪絵はそう言って頬を膨らませた。 愛嬌のある顔をして雪絵は舗の奥に一旦引っ込んだ。 「遅いぞ関くん」 「すみません」 手が伸びてきて関口の手を掴むと榎木津の陣取る床几に転がされるようにして座らされた。 慌ててスカートを抑えると、中禅寺の溜息が聞こえた。 「何やっているんですか、」 起き上がると険悪な中禅寺の顔があった。呆れられている。 けれど中禅寺がいてくれてよかったのだ。後輩とはいえ、此の友は榎木津を諌められる数少ない人間だったからだ。 「猿も木から落ちると」 「落ちてませんし、その前に上ってません。…榎さん、随分食べたんですね」 「うん、雪ちゃんが次々とと心太を持ってきてくれてね」 「榎木津さんは食べっぷりが良かったから。売上に貢献して下さって」 そう笑顔で奥から雪絵が盆に茶を三つ携えて出てきた。 床几の上には沢山の硝子の碗があった。しかし些か頸を傾げざるを得ないのは、今心太と聞たのだが、どうにも碗の残滓は赤いのである。 これはどう見ても、七味の色ではなく、一味唐辛子ではないのだろうか。 「榎さん、辛党でしたっけ?」 「否、」 榎木津はまるで屈託なく笑顔で一言否定して雪絵の持ってきた熱々の茶を一飲みした。 「雪ちゃんの淹れる茶は旨いな」 笑顔を雪絵に向ける。 そう。榎木津は女学生が好きだ。雪絵は歳の頃もそんなに変わらない。幾つか歳下だろうが、関口よりずっと確りしている。 榎木津は多分、女学生では無くなった関口になぞ興味の一指も動かさないだろう。 そう考えると此の制服の付加的な価値は図りしれない。 関口が女学生である証。 今すぐに脱ぎたいと思う。 こんなものから脱皮して、此の榎木津礼二郎と云う男の恐怖から脱してしまいたいと思う。 けれど。 けれど同時に別の思いがあることを、小さな小さなその思いの存在を関口は無視しようにも出来ないのだ。 榎木津が関口から興味を失なわれることが怖くて堪らない。 出逢ったその時に云われたように、榎木津にとっては女学生であるとともに「猿」なのだろう。正しく愛玩動物だ。そして愛玩動物は大概、飼い主よりも寿命が短い。 きっとその存在が喪われた悲しむだろう。 それは本当に悲しむのだ。 けれど、やがてその悲しみは癒え、再び別の動物を飼い始める。 それが恐ろしい。 「関口、」 中禅寺の声がした。 顔を上げると、中禅寺の骨のような指が関口の輪郭を触れるようにすぐそばにあった。 「顔色が悪いぞ」 「え、」 自分の膝に置いていた手を顔に当てようとすると、それを遮って榎木津の左指の背が関口の頬に触れた。 「少し冷たい、雪ちゃん何が温かいものと甘いものを持ってきてくれ」 榎木津の躰は大概冷たい。人としての体温を兼ね備えているのか不思議になる程だ。本当は、真実磁器で出来た人形なのではないのかと思わされる。 舶来の、総一郎が持って帰った人形が余りに精緻に作られたために命を持って動き出したのだと。 雪絵が心配そうに眸を揺らして「お汁粉でいいかしら」と榎木津に返事をする。 彼女が実に気付かわしげにしてくれているのに、関口は申し訳なくて身が竦むようだった。 雪絵の問いに榎木津が気易げに肯く。笑顔だ。 榎木津は誰にでも笑う。 彼の出自こそ敬われるべきものであろうに、榎木津は歯牙にもかけない。彼の前に貴賎はない。 有るのは『個』だ。 皆均しく、個と言う色の為に拍が付くことがある。 宛ら、関口が「女学生」であると云う存在であるように。 奥へ去って行く雪絵の後ろ姿を見ながら関口は未だ頬に置かれた榎木津の左手に僅かに、ほんの少しだけ擦り寄せた。 逃げてしまいたい。早く卒業して彼の手の届かない処へ行きたい。何処までも本心だ。 そう――――彼が関口から興味を失う瞬間を見るくらいならば。 想像するだけで奈落の暗い底に落とされるようだ。 勉強をしなくてはならない。嘗て、家を郷里を抜け出すのに、最大の武器だったそれを尚も研ぎ澄まさなくてはならない。 榎木津を二度と見ることがない分野で、都下を出て行くのだ。 もっと違う第三の世界を。 雪絵が抹茶と汁粉を持ってきた。小さな円くて真中が窪んだ上新粉の餅と甘く温かな餡が奇麗の漉された汁の甘い香りが鼻腔を擽る。 「ありがとう。でも此の量は…」 器は丼で、白い餅は小さくはあれど隙間を埋めるように詰められている。 「沢山食べて頂戴、」 いつもは確りとした雪絵なのだが、今は様子が慌てている。それだけ心配してくれているのだろうか。 申し訳ない気持ちが渦を描き、酔いそうだった。 仲良くなりたいとまで言ってくれているのに。 汁を匙で掬って口に運ぶ。 自身が冷たくなっていたからなのか、口の中に押し込んだそれが沁みるほどに温かかった。 ゆっくりと咀嚼し、嚥下すると温かさが、胃に落ちて其処から全身へ拡がってゆくのを知覚できた。 自分がどんなに厭らしい存在か、関口は知っている。 気持ちが過ぎるほどの膨張し、どんどん醜くなって行くことも知っている。彼の周りにいる人間を嫉妬しても仕方ないのだ。 彼の眼中にいるのは己だけではない。 何度も自覚を促すのに、榎木津の起こす行動はいつでも自分を醜悪に導く。 助けて欲しい。 03へ こういう話は少なくともおっさん関口では出来ない。 しかし、リクエスト内容からは遠く離れてしまったなぁ… |