神さまの書き忘れ 01




 初めて都下に出てきて、人の多さと忙しない喧騒に肩を落としたものだった。どうも亀のようにのんびりとしているものだから、順応できるのかどうかさえわからなかった。列車を降りて駅舎に立った時、其処が何処なのか、北はどっちで果たして学校は何処なのかさえ分からなかった。茫然と立ちすくんだ処を助けてくれた風呂敷を携えた学生服の…同学年のようだった、一高生がいなければ。

関口巽は自分の躰に圧し掛かる重みに耐えかねて漸と目を覚ました。見慣れた天井。其処から垂れ下がる乳白色の電傘は舶来のもののようで、此処が自分の実家ではないことを思い起こさせる。
そして恐る恐ると少しだけ頸を持ちあげて掛け布団の上に目線を走らせた。
居た。
少しだけ酒の臭いがする。
関口は小さく吐息した。そして、もう一度後頭部を枕と接吻させる。
何もかもが面倒だ。都下へ来て郷里で長く伸ばしていた髪など切ってしまったが、どうにも寝癖が付き易い。髪質が柔らかい所為もあるのだろう。寝癖の直し方が下手だし、基本的に寝汚く、丸まって寝ようとする習性から否応
にも寝癖だらけだ。
せめてもの救いは制服があることだろう。
水兵服に似たあの制服は和装が苦手な自分には将に救いだ。リボンを上手く結べないことを除けば。
もう一度吐息する。
窓罹の向こうは明るい。
朝だ。今日も学校はあるのだ。
思い切って上肢を置きあがらせると、朝日にふわふわと琥珀色に透けて見える髪が腿へと転がった。
「ちょ…起きて下さい、ねえ、」
制服に、寒くなったこの頃羽織り始めた手触りのよく暖かそうな外套を掛けて、自分の腹を枕としていた人物に声を掛けた。
因みに此の人は兎角寝起きが悪く、恐ろしい眼にあったことなどザラにある。故にそっと揺らしたり、小さな声で呼びかけたりするのだがまるで効果は無い。
再び溜息を付いて、辺りを見回した。
 文化集合住宅。近年流行りの代物だ。基本的に西洋風に作られている。床は板敷きに室内履きで暮らし、窓には窓罹が吊るされ、寝床は寝台に机と椅子。風呂は階下の一角に存在する。
到底馴染んだことのないものであり、また人気の物件だ。と此方に来て出来た博識の友人に聞いた。
けれど先刻まで眠っていたこの布団は寝台ではない。
寝汚い自分に寝台は無理だと云ったら、部屋の一角に箱段をつくり其処に畳を敷き詰めてくれた人がいたのだ。そこまでされる心算はなかったのに、慇懃としたでも傲慢な笑みに押し切られてしまった。あの時はどんどん逃げ道
が塞がれているのを感じ、酷く怖かったものだ。
「榎さん!」
少し声を荒げると、眠る人物が片頬を関口の腿へ(布団越しだが)擦りつけた。
擦り付けられた感触に思わず悲鳴を上げ、その人物、榎木津礼二郎は目を覚ますことと相成った。
 男女の七年にして席を同じくせず、と女学校の頃に礼記内則に習ったものなのだが、まるで通じる気配は無かった。

 関口の着替えを室外で待つ程には常識的で、制服に靴下、黒い皮靴、そして肩で切り揃えられた断髪姿を見ると榎木津は少し笑って、「行くぞ、関くん」と颯爽と歩き出した。
高い背丈に外套が翻る。
どうして関口の応答も無く、部屋に入れたかなど瞭然だ。彼が…否、『榎木津』が此の屋の持ち主であるからだった。
正しくは様々なことを関口に世話してくれた彼の兄総一郎の持ち物なのだ。紳士協定を云いだされて関口の住まいに榎木津が易々と入ってくることは兄に禁じられていたのだ。だが、総一郎が仕事で国外にいる今、門限のある学寮に戻れなかった時に榎木津は度々関口の部屋で夜を明かした。

 大通りに出ると、俥を見付けて関口を押し込み自分も乗り入れた。
何処に行くかは解かっている。彼の実家だ。こうして関口の部屋で夜を明かした朝は彼の実家で朝食を取ることが慣例となっていた。
 
 進学した高等女学校に学寮はなく、都内に実家のあるものは通い、またそれ以外のものは下宿をした。当然関口も他人の家へ下宿していたのだが、どうにも不器用な関口はお台所が苦手で次第次第と大家と険悪になっていった。男子学生でもあるまいし。そんな声が聞こえるようだった。
初めは友に相談したのだ。
何処か好い集合住宅的なものはないかと。もしくは破格の一軒家は無いものかと。博識で意外にも顔の広い友は探しておこうと云ってくれた。その場にあの男が来なければ。
何故、此処まで気に入られてしまったのかは関口には理解出来ない。
好意…とは違うだろう。
彼からは、むしろもっと愛玩動物的な…そんなものが見える。
榎木津礼二郎と云う人は破天候だった。破綻者と云うか、破壊者と云うか。言動が悉く関口の想像の少し斜め上を行き、何もかもが理解し難い。
そしてまた人目を惹くのだ。そんな、そんな男だのに日本人離れした…西洋陶磁器人形の如き、美男子だったのだ。
並んでいれば奇異な目を向けられ、時折有りもしない因縁さえつけられることも、然程多くは無いけれど存在した。

しかも男女問わずに。どうやら一部の人間には、酷く彼は魅力的なようなのだ。関口は怖くて仕方ないのに。

 「付いたよ」
俥の運転手がドアーを開ける前に、勝手にドアーを開け屋内へ入って行った。
「カズトラーカズトラー」
と呼ぶ声が聞こえている。
関口は乗り倒しと思われるもの厭だったので、そのまま車内にいると少しして和寅と呼ばれた前掛けをした同歳ほどの男が出てくるのを待った。
カズトラと呼ばれた男は運転手へ運賃を支払い、関口を俥から連れ出してくれた。彼とも大分顔馴染んだものとなった。
 アールデコと云う様式の白亜の御殿。もっとも家屋は広く、そんな前衛的な様式ではない、まるで赴きの違う洋風築物や日本家屋の棟々も奥には広がっている。
ただ庭に面した、市松模様の床のテラスを榎木津は気に入っていていつも其処に食事を用意させる。
最近漸く食べ慣れてきた洋食に、榎木津との付き合いの長さを思い起こさせる。
正直此の待遇は怖い。
早く卒業したい、と関口は常に思っていた。
卒業して、出来ることならば女子の進学を若干名ながら許している国内では唯一の東北にある大学に進学したいのだ。
そうすればもう榎木津に関わりあうこと無い。博識で頼れる友と疎遠になってしまうことは寂しいが、今味わっている、朝食の味が解からないほどの緊張と恐怖は味わあなくて済むのだ。
トーストされたパンがぼろぼろとスカートの上に落ちている。
一方の榎木津は大きな口を開けて見事にスマートに食べる。
「関くんは相変わらず食べるのも遅いな」
「う…煩いな」
「遅れるよ」
「榎さんこそ、未だお酒臭いよ」
そうかな、と榎木津は自分の腕を持ちあげて臭いを嗅いだ。
「着替えるか、」
と立ち上がり、戻ってくるまでに食べ終わっておくようにと厳命された。関口用に用意された箸でベーコンやオムレツを忙しなく口へ運び顎が怠くなるほど忙しなく咀嚼し、オレンジジュースで流し込んだ。
「終わりましたか、」
と白くて円い急須をもって現れたのは壮年の安和だった。そして紅茶を注がれる。立ち上る湯気が少しだけ甘くて芳しい。
「ごちそうさまでした」
少し頭を下げると安和は笑ったようだった。
「若御前は才気煥発とした人ですから、巽さんも大変でしょう?」
「え…」
身内の欲目なのか、安和にはそう見えているらしい。
「此処の御兄弟はどちらも才人然としていて、榎木津も安泰です。まあ毛色は大分違いますけどね」
どぢらも押しが強くて、怖いですとは口が裂けても云えない、と関口は困り果てた笑顔を作った。
「せきくーん、行くぞ」
いつの間にか現れて横に立った榎木津は関口の碗を持ち上げ、飲みかけの紅茶を飲み乾してしまった。
楽しみにしていたのに。しかし文句なぞ云えない。此処は榎木津の屋敷なのだ。
「安和、」
「はいはい車ならご用意してますよ」
榎木津家の車に乗って登校は目立つのだ。関口はそっと溜息を落とした。

 車は喧騒の中を抜け、関口が籍を置く高等女学校の傍へ停車した。
「ど…どうもありがとうございます」
謝礼を告げるが関口は些か腑に落ちない。どう考えても、女性の部屋に勝手に上がり込み剰え人の腹を枕にしていたのは榎木津なのだ。その後朝食を御馳走され、送って貰ったとはいえ。
礼には及ばないぞと居丈高なのはいつものことなので、関口は頭だけ下げて颯々と構内に入ってしまいたかった。そうすれば流石の榎木津も手出しできない。
ところが関口を追って榎木津は車を降りると、関口の肩を掴んで振り返らせ、胸のリボンを解いたのだ。一瞬悲鳴が上がりそうになったのをこらえたのは上出来だろう。人目に付きたくないのだ。
下手な結び目を解くと、今度はその長い指先で器用な結いを作り上げた。
「相変わらず、君は不器用だな」
笑う顔は朗らかで、思わず関口は見蕩れてしまう。困ったことに。
そう困ったことに、困ったことに、関口は榎木津のその顔が大好きだったのだ。

 図書館で読書に耽溺する中禅寺秋彦は自分の席の前にどかりと偉そうな態度で座った榎木津礼二郎へ視線を一瞥させた。此の先輩榎木津は構内ではまるで皇帝が如き存在に付き誰も彼を咎めることはない。この神聖なる図書館で声を上げようとも。潜めようともしないことも。
「辛気臭い本を読んでるな」
「最近ジグムントの話題を吹っかけられているもので」
「ふん」
榎木津は大きく欠伸をした。
「関口か?」
中禅寺はもう一度榎木津を瞥見したが、すぐに紙面へ目線を戻した。
「あれは楽しいな」
榎木津の声が浮かれている。中禅寺は溜息を付きたかったが我慢した。この話題には平常心が必要だ。特に関口は、上京したその日に知り合ってから、頼れる友としての場所を手にしているのだ。
「好い加減にしたらどうですか?」
「なにほぉぉ?」
再びの欠伸だった。
「好い加減にしないと、子供ができますよ」
一瞬榎木津の顔から表情が削ぎ落とされたのを中禅寺は感じた。そしてその唇が笑みへ歪むのも。
「そんなことはないだろう。未だ触れても居ないのに」
未踏破だと云う科白に図書館がざわめいたことに気付かなかったのは、その時は榎木津一人だった。





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にょた関。なんか女の子が書きたくなったような気がするので。
タイトルはoperaaliceさまより。