私は君たちに、君たちの官能を殺せと勧めるのではない。私が勧めるのは官能の無邪気さだ。
    ──────────Friedrich Wilhelm Nietzsche;Menschliches, Allzumenschliches







魚の呟き




 新緑の頃と言うには少し空が灰色掛かっていた。本来ならば残照の眩い時刻である。
雑木林の向うに見える馬蹄形アーチの掛かった柱に支えられる本館。見取り図を思い出すならば右には講堂左には図書館がある筈だ。
不意に風が出て、目線を上げれば上空を覆う雲には風の筋が残り、上空の気流の速さを物語っていた。
嵐の予兆だろうか。
此の吉事よごとに不安が過る。
眼前の時計臺うてなは暗く暮れていた。そして柱と馬蹄形の接続点に備えられた黒色の鉄製枠をした電燈が二度の瞬きの後、朦りと点る。果たして今は正確には何刻なのだろう。上衣を弄り時計を取り出そうとしたが、硬質な感触が指に触ることは無かった。
「そんな処に突っ立ているな!」
思わず肩を聳やかした。良く通る声である。
「え、あ…」
大声に驚いて、恐る恐る背後へ頸を向けると長身の男が仁王立ちをしていた。果たしてヒットラユーゲントの来邦は八月の事だと聞いていたのだが─────。
一瞬見蕩れた。
口を開けて。
「なんだ君は、気持ち悪いなあ。正門に立っていたら邪魔だろう?颯々と行く!」
その脣がら紡がれたのは独逸語ではない。日本語だと認識した途端その人物は躰を折り曲げて、鞄が宙を浮く。否、その男が鞄を持ち上げたのだった。
「君、新入生。寮は此方だよ」
流麗な日本語。
そして滑る様に歩き出した。
髪が歩調に揺れて─────鳶色をしている。
戸惑っていると、男は少し頸の角度を傾けた。此方を見たのやもしれない。
流麗な稜線を描く鼻梁と形の良い脣。膚は石膏の如く白く透いていた。それでも彼の容貌が判然としなかったのは、偏に彼の顔半分を黒眼鏡が覆って居たからである。
「あの…」
長い脚で大股に歩くので、少し小走りになりながら後を付いて行く。そして小走りになる他人への忖度の様子は見えない。
「講堂は彼方」
右腕を伸ばして人差し指が背後を示した。
「入学式は彼処で行うから」
振り向けば木々の間に暗く沈んだ建物があることが僅かに確認される。跫を留めると、男は颯々と大きな建造物─────図書館の横をすり抜けて行く。
慌ててその背を追うと、突如眼前に現れたのは、三階建ての白い混凝土の建物だった。
歩みを刻む跫が緩慢になり、やがて止まった。
其処が此れから三年間を過す自分の住処である。 感傷的な為人では無く、只の鈍感なのもしれないが、此れまでの道程、然程の感慨も無く此処に立ってしまった。
けれども急に胸が高鳴りを響かせた。
前を行く男は此方を振り返ることもしない。 そして此方をまるで気にした風も無く、勝手に他人の荷物を持った儘、その白い建物へ入っていった。
流石に慌てた。 「あ、鳥渡…!待ってっ!!」
未だ心の準備が出来ていない。
その背に制止を伝える腕を伸ばすべく慌ててその後を追う。 段差を飛ばして、洋風の破風とそれを支える柱の空間はあっと言う間に過ぎ去った。
その男の背に手は届かない。
それ所か、目の前には頭を刈った男が十数名現れた。
跫を留めると、呼吸が切れていた。
此方にとっては突如現れた男たちであったが、男たちにすれば闖入者は此方である。 皆、その闖入者を見ると白地あからさまに安堵した様子だった。
「ええと君は、関口、くんかな?」
男たちの中央に居た髪を刈り込んで眼鏡を掛けた男が訊いた。
「あ……」
思わず、言葉が出なかった。
顔が熱くなった。
────失語と赤面が併発したのだ。
然し息せき切って来たことから、呼吸を整えているように見えた様である。
状況を把握すべく四辺へ眼を動かすと、幾つかの机が横に並び、其処から垂らされた紙には筆書きで『全寮委員會』とあった。皆寄宿制の高等学校に於いて、寮は完全な学生の自治下に有り、生徒主事たる教授を除いては如何なる場合でも学校の教師は手出しが出来ない。
そして寮内の首脳部こそ全寮委員会である。
「こ、今年度入学の理科乙類、関口です。関口、巽」
「解っているよ」
男たちは呆れたように云った。
「通知ちゃんと見たかい?関口くん」
名簿に丸を着けた男がその鉛筆の頭を関口に向けた。
「……え、」
「君、一番最後だぜ」
時計を何処にやっただろうか、関口は鞄を─────と思い次いで鞄を持って行ってしまったあの男は──────と顔を上げる。
鞄は机の上にあった。
「あの…それ…」
指差した。
ああ、それ君の物かい?」
「そうです」
「じゃあ此れを持って、南寮の十五番だな。他の奴らは既に入っているから」
並んだ机の最も右端に居た男が関口を手招きした。
髪を刈り矢張り眼鏡を掛けた彼は関口を案内してくれる上級生だった。食堂や浴場、茶菓部のホールの方向を指し示し、実に適当に案内しつつ関口を南寮十五番へ先導した。寮内は東西に廊下が伸び、北側に寝室、南側に自習室を設けている。
「あの…此の鞄を持って行っちゃった人は誰ですか?」
尊大な態度から上級だろうとは解った。髪も長い。新入生が髪を長くして入寮すれば大問題だろう。
先導する上級の顔が歪んだ。笑みの形に。
「その内解るよ。アレは目立つ」
慥かにあの人物は目立つだろう。長い鳶色の髪に六尺前後はあろう長身である。
「あの人の…あの黒眼鏡は?」
「さあ?」
頸を傾いで苦笑を閃かせた。
「意味は無いんじゃないのか?」
そう云って、理科甲類の二年だと自己紹介して男は「此処が十五番」と云い、戻っていった。
入寮式の準備が忙しいのだとも案内する最中にも云っていた。南寮十五番の扉前に関口はぽつねんと残された。扉の向うからは賑やかな声が聞こえる。関口は暫し俯いて大きく息を吐いた。幾許か逡巡し、やがて真鍮の把手を握った。





夢を、視る。
否、それが夢であるのか、確かな記憶であるのか、あやふやだ。 記憶の反復であるのかもしれない。 もう─────遠い昔のことで、既にその面影さえ朧げになってきているのに。
声が聞こえる。 銘仙の倹しい長着。
決して貧しい訳ではなかった。婚家は地元の素封家であった。彼女は他ならぬ跡取りの男児を産んで、夫無き家政を切り盛りしている。それでも、否─────だからこそ、生活は倹しくなくてはならない。
元来派手な人ではない。
懸命な人だった。
それでも婚家は如何許りにも彼女を苦しめる。
そんな抑圧の中で彼女の感情は只管に愛息へ向けた。
倹しい着物の膝の上で頭を撫でられる。
硬い掌。
優しい声音。
小波のようにささめく。

良き伴侶を見つけ、子を生して、慈しみ合い、仕合せな生を完うしてくれると─────

嗚呼──────。

嗟──────。

「嗚呼─────母樣」

眼を開ける。
四辺は無明の闇で、有るのは同室の者の寝息ばかりだ。
母の膝も、その人の囁きも、何処にもない。
厭な汗が躰を覆っていた。まるでたった今、羊水から取り上げられでもしたような。

囁く声が耳朶に残っている。
耳朶に触れて、その耳を塞いで、脣を噛んだ。

許して──────




中寮十番、理四の自習室で背後から声を掛けられ少しだけ藤野牧朗の背は伸び上がった。
「あ、すみません。驚かせましたか」
小声で謝りながら藍色の薄いセーターを着た声の主は藤野の左隣の机に着いた。
隣席に着いた人物の手元を見ると新独逸語文法教程と独和言林、カロッサのドクトルビュルガーの運命の抜刷が眼に入った。
「良かった、藤野先輩がいて」
口元が綻ぶ。
「関口くん、」
隣席の後輩の名前を呼ぶと関口巽は此方を見た。
「独逸語の予習?」
ええと関口は少し瞼を伏せた。
手元を照らす程しかない光源は、関口の睫毛に濃い陰影を齎す。白い指が抜刷の頁を繰った。
「数学も物理も何とかなるけど…独逸語は駄目です」
藤野は苦笑して「ドッペる?」と揶揄った。
それは学生の間では落第を差した。
「怖いことを云わないで下さい、」
拗ねるように脣を尖らせた。
寮内は十二時に消灯だ。未だ二時間ほどあった。
窓の外では月が猶予いざよう。
「中禅寺に聞いても、彼奴読む本があるとかでけんもほろろに蔑ろにされましたよ」
彼の同室の男のことを云い募ると不貞腐れたような顔を見せた。
 高等学校は入学志望時に文科と理科に分けられ、更に文科理科の中で外国語の履修別に甲類乙類丙類と組分される。理科を受験し、独逸語を選択した藤野と関口は共に理科乙類、理乙と略される、の所属である。
理乙の就業課程は週に国語・漢文が二時間、第一外国語は八時間、第ニ外国語四時間、数学四時間、物理三時間、化学三時間、植物・動物二時間、心理二時間、図学二時間、体操三時間、修身一時間と割振られている。
殊に独逸語の時間は八時間も有るのだ。独逸語が苦手な関口には悪夢に近かった。
勿論初めから苦手であったわけではない。
マンやヘッセ、フロイトなどは邦訳を読んでいた。
興味はあるのだ。
「明日までに読み下して置かなくちゃ為らないんですけど…鳥渡範囲が長くて、僕一人じゃ手に負えないんです。先輩の邪魔にならない程度で良いから教えて欲しいのですが、」
駄目でしょうかと関口の眸が気弱に懇願したのを見て、藤野は目を細めた。
関口とは組選で知り合った。
組選とは初夏に行われる一、二、三年生を縦に繋いで作った団体の対抗戦である。
一年生が入学し互いのぎこちなさが無くなってきた頃に、先後輩の親睦を深めることが狙いであるらしい。
猛々しく燃える闘志は藤野には理解しがたいものだった。
理乙陣営の端で待機しているばかりが役目である。
横に居た関口も同様であるようだった。
共に運動が苦手で組選では補欠、本当に代用が必要な時の大穴扱いだった。
初夏の日差しの中、喧騒は他人事に聞こえた。退屈に耐え切れなくなったのか関口は舟を漕ぎ出した。藤野は横でトリチェリの定理を読み耽っていた。
舟を漕いでいた関口の躰は大きく揺れ出し、藤野の肩へ寄り掛かってきた。余りにもすやすやと睡るので、起こすことは気の毒でその儘にしていた。
やがて藤野はその瞼が開く音を聞いた。
慥かに聞こえたのだ。
睡蓮が開くような音だった。
眼を開いた関口は突如開かれた数式の世界に唖然としたようだった。
余程意外だったのだろう。 数式の次にその紙面を持つ手の主の顔を、熟視した。
そして「君もやるかい?」と暢気な口調で訊くと、大きな眼を更に大きく見開いた。
こういう顔をした猿がいたなと想起しながら藤野は小さく笑った。
それが初対面はつたいめんだった。
因みに組選は藤野の同級、榎木津礼二郎の率いる文科乙類の優勝で幕を閉じる。
「君の為なら如何許いかばかりにも時間を裂くよ」
「……先輩…」
関口は困った顔をした。
彼の困った顔は愛眼するに足る。
「これ、高安先生だろ」
藤野が会話を変えると関口は安堵したように顔を上げた。
「そうです。高安先生、」
「あの先生は理乙に来た人間は全員医者に成るものだと思っている節がある」
そもそも理科乙類に進学して医者以外の道を志そうと云う者こそ少ないだろう。関口は数少ない人間の一人だった。
「僕も去年カロッサを読んだよ」
関口が頁を繰り、二十頁の十四節を指差した。
教材を覗き込むと藤野の頬に関口の億劫がって床屋にも行かず伸びた髪先が甘く触れた。
柔らかな髪が藤野の頬を嬲った。
「こんな単語あっかなあ?」
辞書へ手を伸ばすが、求めた物体を手にする寸前に関口は顔を上げた。
驚いた顔をしていた。
身を強張らせ後退さった。
呼吸が掛かる程に近い距離に互いが在り、関口の手は藤野に掴まれていた。
「ぅ……先輩、」
「藤牧でいいよ」
藤野は名前を略し藤牧と通称されていた。
「でも、」
関口の声が揺れる。
先輩後輩と言う間柄、通称を使うのは余りにも親密だ。 関口巽と言う少年は他者との触れ合いに慣れていないようだ。藤野は親指で後輩の手の甲を撫ぜてみた。否、慣れていないと云うより過敏に過ぎる嫌いがある。
顔が真赤だ。
「あの…お願いです、離して下さ」
言葉尻を奪う。
脳裏に黄泉還るあの人の囁く優しい声音。

良き伴侶を見つけ、子を生して、慈しみ合い、仕合せな生を完うしてくれると──────

言葉は、狂狂と螺旋を描いて、脳を汲々と雁字搦めにする。
夢にまで見るその呪縛。


嗚呼、許して─────。




廊下を行く。
床張る板が関口の体重移動─────歩行により音を上げる。
夏の頃とは違い、開け放たれている窓は一枚も無い。
あれ程蒸し暑くて、夏の頃に窓を閉めるなどと言う発想は露程にも思わなかった。
だのに今や夏頃の思考が自分のもので有るとは到底信じられない。
墨流しの外界を見遣るが硝子の鏡面現象に、窓に貧相な男が居た。
夜闇を遮る薄い硝子が夜の秋風に僅かに揺れた。
月の換わりに廊下の電燈が映り込んでいる。
関口が右手を上げると、硝子に映る貧相な小柄な男は左手を上げた。
左右対称の同じ動作を取るその男は勿論幽霊ではなく己であることを確認して、関口は己の顔を覗きこんだ。 南寮には馬の亡霊が出ると云う噂があった。然し、此の廊下を蒼褪めた馬が行けば、滑稽なだけで怖くはないだろう。窓には意思の弱い眸子が在って、脣を噛んだ。
そして不意に興味を失い、外界から眼を背けた。
南寮・中寮・北寮、夏に完成した明寮と四寮在る内の南寮に関口は居住していた。
内部には同室の男が一人寝台の上に胡坐を掻いて本を読んでいる許りだった。
他の同室生の姿は見えなかった。
「関口くん─────藤野先輩は居たかい?」
男は一瞥もしないで、関口の名を呼んだ。
違う人物だとは思わないのだろうか。
「………ただいま、」
男を眺め遣り帰室の声を掛けた。
南寮十五番は所謂部活や団体に属さず文科も理科も一緒の所謂一般部屋である。
通常十人部屋だが今、他の人間の姿は無かった。初めて此の部屋を訪れ九人の人間が一斉に自分へ目線を放ったのを思い出す。あれは中々居た堪れなかった。
対人恐怖症で赤面症で失語症を多大に併発したあの瞬間、助けてくれたのは此の同輩だった。
「居たよ。何処かの誰かさんと違って、優しく教えてくれたさ」
「拗ねるなよ」
漸うと同室の中禅寺秋彦は関口へ向いた。
「何をそんな立ちん坊しているんだ。全く君は落ち着かないなぁ。座り給えよ」
関口は荷物を持った儘、中禅寺の寝台の足許へ腰を下ろした。
中禅寺秋彦は文科乙類の同級だった。痩身で、眼光鋭く、頬はこけ、顔は蒼く如何にも不機嫌そうで、宛ら肺病患者のようだった。
「君の崩壊した独逸語に付き合ってくれるなんて実に奇特な人だよ。気の毒に」
中禅寺は右手で手刀を作り鼻先まで持ち上げて、藤野を拝んだ。 「尊敬すべき人さ。何処かのだぁれぇかと違ってね」
「だから拗ねるなよ。僕だって忙しいんだ」
「何が『忙しい』だ。本を読んで居るだけだろう?」
「それで充分じゃないか。文章に眼を走らせ、それを存分に舌上に転がして、咀嚼…理解し、飲み込む。実に忙しい。切り切り舞いだよ。君はどうやら眼に見えて忙しくしていないと許せないような人物みたいだが、そんな君の主義に随って二宮尊徳氏みたいに僕が本を読み乍らその辺を駆け廻ることは無いだろう?」
「うう…」
何もそんな極端はことは云って居ないのだが、関口は澱みなく吐き出される中禅寺の弁に唸り声を返すのが精一杯だった。思考は兎も角、口が廻る方ではない。
「でも…その…甲斐って物がないじゃ無いか、友達甲斐」
「友人甲斐?おやおや、君が友人だとは初耳だ。然しそれにしたって藤野先輩を選抜して上げただけで、充分だと思うけどね。充分な功労だろう?それとも君はもしかして榎木津の処に行きたかったのかい?」
あの榎木津に頼みごとをするには、先ずそれなりの覚悟が必要なことは関口自身が一番理解していた。
「ああ、もういいよ」
手を蝶のようにひらひらと振ると、背を丸めた。会話をしている間中さえ中禅寺は目線を動かすことはない。
目線は常に膝に置いた本へ向けられているのだ。
概ね中禅寺秋彦と言う男は本を抱えた儘離さない。文科乙類の名うての変わり者だった。
関口が黙ると、中禅寺も口を閉ざした。
互いに極々近しい距離に居ながら沈黙する。
秋の夜風に時折、窓硝子が揺れた。
「────関口くんは、」
たっぷりと沈黙を続け関口の上瞼と下瞼が交合しようと云う頃、能く通る声で中禅寺は関口を呼んだ。
「へ…な…なんだい?」
一瞬紙面から蔑むような眼が関口へ向けられた。
「君は物を書く心算は無いか?」
「────は?」
不意打ちに意味の解らぬ話題を振られ、関口は白痴めいた反応をする事となった。
「『モノ』ってのはなんだよ、」
「物語のことだよ。例えば────君が先般、偽名で校友誌に載せたような、ね」
胡坐を掻いたまま、関口は僅かに飛び上がった。そして顔は強張り、一瞬にして熟れた柿如く変化した。
「な…な…なんで…」
「なんでって…曽木逸巳たぁ、君、まんま君の名前の捩りじゃないか。それに毎夜布団から起きてこそこそ何か書いていただろう?」
「ち中禅寺、君…ね…寝ていたんじゃ…」
吃る声に中禅寺は呆れた溜息を吐いた。
「関口くんは犯罪者には向かないな。そんな簡単に襤褸を出してはね。探偵に詰め寄られたらあっと言う間に陥落だな。あのね、夜中にあんな風に燈を点けられれば誰だって起きてしまうよ」
慥かに手元を照らすだけの小さな小さな洋燈をつけていた。着けてはいた。けれどそれは中禅寺側には関口の身で光など殆ど漏れないだろう。中禅寺は心底莫迦にしたように関口を見て、その幽霊のような顔に薄い笑みを刻んだ。
「それにあの編集委員は文五だぜ」
文五────文科乙類一年二組、つまり中禅寺の同組の人間と言うことだった。
「………どう…だった………?」
関口は自分の膝頭を見詰め、散々逡巡した後に、中禅寺へ感想を求めた。
「頂け無いね」
一刀の許に両断された。
元より、中禅寺と言う毒舌男に色好いものを期待していたわけではないが、それでも意気消沈するには充分だった。
顔は一気に冷めた。
「読み初めには瞬間的に草枕のような印象を与えるが、視点は転々と変わるし────」
「いいよ、もういい。聞きたくない」
睡いし、耳に痛いことは沢山だった。
「そうかい。そう云うのならまあいい。君、物を書かないか?」
「…今良くないとか言わなかったか、中禅寺」
不平に満ちた顔を中禅寺は片眉を上げて見遣って云う。
「頂け無いと云ったんだよ」
「褒めて無いだろう?」
「おや、知らなかったな。君は褒めて欲しかったのかい?」
論うようなそれに関口の顔は朱に染まる。
「そ…そういう…わけじゃないけど…でも気遣いとか、仮にも同室の…」
「君が────」
中禅寺の声は能く通って響く。刃のような鋭さを以って関口の蛆蛆とした口調と精神に切り込んできた。
「え、」
「君が褒めて欲しいのなら、存分に褒めてやらないことも無い。君が望むなら」
目線は再び紙面の上で、其処から動かされることは無かった。
「先刻からそれに夢中だけれど、今度は何を読んでいるんだい?」
関口は寝台の畳に両手をついて膝を立ち上肢を伸ばして、中禅寺の手にする書籍へ顔を覗かせた。
「………」
互いの鼻先は五cmと満たないだろう。
不意に先刻同じような光景に出くわした、と関口は思い起こす。
思わず、顔が熱くなる。
あんな風に脣を貪られたのは久しぶりだった。
家────弟から逃げてきたのに、此処でも同じことをしようとしているのか。
これぞ本当の『目と鼻の先』にいる中禅寺を朦りと熟視めながら別の人間たちのことを考えていた。
目線だけを持ち上げると、兇悪な顔をした中禅寺の顔が其処にあった。
自然、眸はその薄い唇へ向けられる。
白く乾いた口唇。
脣が紅いのはその皮膚が薄いためだ。血流が透けて紅く見える。
常に不機嫌そうな此の男の血も紅いのだ。
此の儘脣を重ねたらどんな顔をするだろうか、日頃仏頂面をした此の男は。
それは酷く興味を引く思い付きだったが────関口はその儘、腰を下ろした。
中禅寺は不機嫌さを増したように見えた。
「それ────仏蘭西語じゃないか。君は文乙だろうに。仏蘭西語、読めたのかい?」
「辞書を片手に読んでいるんだよ、見えないのか?」
慥かに中禅寺の膝元には革張りの辞書がある。その他にも本が積み上がっているが、概ね中禅寺の周囲は本が空間を埋めている。 「開いてないじゃないか、」
「一度字面を見れば大抵のことは憶えているよ」
恐ろしいことを酷く簡単に言ったものだった。
関口は俄かに呆れた。
「書痴め。文字が書いてあるものだったら何でも読むんだな」
「生憎仏蘭西語は門外だ。好きで読んでいるわけじゃない」
「ふぅん、君が好きで本を読まないことなんかあったかな?」
「一々そう突っ掛からないでくれ。関口くん。創立記念祭があるだろう?」
「なんだよ話題が跳んだな」
毎年二月一日の学校創立祭には学校・寮共に開放されその名の通り祭が催される。
「その記念祭でね芝居をやることになったんだ。文科で、」
「芝居?え────、君が?」
黒いマントを着て毒苹果をもっていたり、自分が王女誕生に呼ばれず僻み王女に呪をかけてしまう魔女の恰好をした中禅寺秋彦しか思い浮かばなかった。
「莫迦、違うよ」
「なんだ、違うのか。でも似合うと思うよ、魔女」
目線は再び紙面に戻っていて、鷹揚に頷いた。
「僕は裏方だ。監督のようなもの、かな?」
「へえ、」
「其処でだ、関口くん」 「何処だよ」 「君、閑だろう?どうせ。芝居の脚本を書かないか」
唐突に云われ、関口は眦を裂いて「はぁ?」と云う如何にも間抜けな返答をしたのだった。
「題名はcyrano de bergerac」
「ああ────、なんだ映画キネマか。松竹の。あれだろう?白野弁十郎。月形龍之介の演じたあれ」
「関口くんは白野弁十郎を観たことは?」
「残念ながら無いよ。雑誌で月影龍之介の特集を読んだことがあるんだ」
「ほう。それだったら尚良い」
「何がだい?」
「余計な先入観が無くて」
「………もしかして、本気なのか」
俄かに不安となり、顔を顰めて問うと、虎のような目線が関口を射た。
「そうでなければ、君に話す訳が無いだろう。本気も本気。大本気だよ。関口くん。君も校友誌に書くような人間だ。興味はあるだろう?」
「校友誌って言ってもあれは本当に成り行きで…頁があったから偶然僕にお鉢が廻ってきたんだぜ」
「僕は頂けないと思うが、決して嫌いなものじゃなかった。これは本心だよ、関口くん」
「……真に受ける心算はないよ……」
「そうか、残念だな。……まあいい。慥かにそのシラノ・ド・ベルジュラックなんだ。白野弁十郎。だが映画の儘では面白味が無いだろう?仮にも僕らは学生で、映画其儘では知を疎かにすることにもなる。脚本から作ろうという取り決めになってね。ブルボン王朝の舞台を日本の院政期に移行する。シラノは北面の武士でロクサアヌは江口の遊女だ。否、受領の娘でも良い。時代考証を厳格にしてしまうと衣装などの面で費用が嵩んでしまうから、衣装は徳川とくせん時代のものになった。と────、如何だい?関口くん」
窓硝子が音を上げて揺れた。
そろそろ夜の十一時を廻る筈だが、何処からか酷い騒音も聞こえている。
ストームだろうか。
慥か七年前ほどにストーム禁止令が寮内委員会で可決した筈なのだが、伝統とは恐ろしい。未だに消える様子は無かった。
「脚本なんか書いたこと無い。文章だって此の間の物が本当に初めてなんだよ。無理だ、絶対無理」
「成程。そうだね」
一旦納得したように頷いたが、中禅寺は片眉を上げて右手の人差し指で天を示した。
『提案』の身振りである。
「それじゃあ何も脚本と言う形でなくても良い。君はシラノを文章にしてくれればいい。そしてそれを脚本の形に仕上げるのはこちらでやろう。生憎演劇かぶれには事欠かない」
「否、そうじゃなくて…。それに今、君はそれを訳しているんだろう?僕は仏語は出来ない!」
中禅寺が手にしている物は仏語のシラノ原書である。関口は独逸語にさえ手間取るのだ。仏蘭西語なぞ論外だった。
「君がやればいいじゃないか!そうでなければ文科、乃至は丙類の人間こそ得意だろう」
「厭だね、」
実に瞭然と中禅寺は言い放った。見れば先の不機嫌そうな兇悪顔は愉悦に揺らいでいる。
「第一、僕は読んではいるが、訳しては居ない。此れは攻めて雰囲気を感じ取ろうと云う努力かな。それに仏語を恐れる君には取って置きのものがある」
「…何だよ?」
正直に言えば、そんな愉悦に満ちた中禅寺なぞ恐ろしい外、無いのだ。
革の張られた厚い本を突き出された。
「君に流石に仏語まで読ませる気は無いよ。此れは、シラノの独逸語版」
「ええと…君は…つまり…僕に独逸語から邦訳をしろってことかっ!?」
関口は差し出された本を見遣って口吻唾を飛ばすが如くに関口は激昂した。
そうだよ
「ち…ち…中禅寺!君、僕の独逸語知っているだろう!?壊滅的って先刻いったのは誰だ!」
「壊滅的と入ってないよ。崩壊したと云ったんだ」
「同じようなものだろう!」
「いいじゃないかどちらでも。それに翻訳と言うものはね、それ一つで既に作品なんだよ。独逸語の一つの単語に関して、イコールになる日本語は必ずしも一つではない。どの単語を選ぶか、どんな口調にするのか、原文の意味を忠実に訳しながら、それを如何に日本語の作品として昇華するかは翻訳者に掛かっている」
「そんなことを云われたら」
猶更出来るわけ無いではないか。立てた左膝を抱えて関口は俯いた。
思えば本日学校で中禅寺が居なかったことを思い出した。午后になって終業後、部屋に帰ってきたら中禅寺が居たのだ。
「君は…此の為に今日学校を休んで本屋に行っていたのか?」
「そうだよ。幸い君と違って欠席可能日数が残っているからな。態々横須賀の書肆へ」
「横須賀?」
神奈川くんだりまで行って来たと云うのだろうか。
「洋書の専門家がいるんだ。倫敦堂さんと言う。彼が幾つか有る内の独逸語のシラノで此れが一番良いと推挙してくれた。なんでも優れた独訳らしい。────君が、どんなシラノを作るのか楽しみだ」
「………意地悪、」
「何を云う。人を揶揄うからだぜ」
そういって、中禅寺は憮然とする関口を見て快活に笑った。
どうやら中禅寺は先の関口の有らぬ思い付きを感知していたらしい。





 そもそも運動が得意ではない。走ることは遅いし、球技は苦手だ。泳ぐことは出来るが、得意かと問われれば否だろう。力比べでも大概負けてしまう。
先日行われた南寮内腕相撲大会では最下位だった。因みに十四の頃に肉体労働をしないと決めた同室の中禅寺は出場を拒否した。 彼が如何にして就業過程の体操三時間を免れているのか関口は不思議でならない。
 所用があって中寮の廊下を歩んでいると、或る一室の扉が開いていた。其処がどんな部屋であるのか、関口ならずとも充分知っている。
文端────、正式には文科端艇ボート部と言う。
寮内を治めるのが寮内委員会ならば、伝統と体力に彩られた端艇部は謂わば軍部だった。
勿論文端があるのならば、理端もある。大概端艇部の連中は、身長体格どれを取っても関口は同じ人間には思えなかった。
廊下の端を殊更早足で行き過ぎようとすると、「おーい」と呼びかける声が聞こえた。公の往来である廊下を行くのは何も関口だけではない。
声を無視し肩を窄めて往き過ぎようとすると「無視するな、関くん」と声が掛かった。
胃壁に冷たいものが落ちる心持ちがした。
願わくば、その声の持ち主にも端艇部にも関わり合いたく無かった。
然し呼びかけられては、無かったことにすることなぞ出来ない。扉の前を僅かに行過ぎた関口は右斜め後ろをそっと振り返ることとなった。
「榎…木津先輩…」
上框に手を掛けて、廊下へ身を乗り出す背の高い男が其処にいた。
白皙の如何にも端整な容貌。鼻梁は流麗で、脣は可憐だ。大きな眼は薄茶色く、時には琥珀色に見えた。
鳶色の毛髪。
色素の薄い嫣然ちした、さながら文芸復古ルネサンスの彫像が動き出したような美丈夫だった。
自然己の顔が渋くなることを感じた。
関口は此の年長の美男が苦手だった。
 初夏に行われた組選後の夜を徹して続けられる反省会と言う名の後夜祭で、同室の中禅寺秋彦に紹介されたのだ。
眼前に背の高い人影が現れ、中禅寺が「どうもこんばんは、先輩」と応じたのだ。
親しい人間以外正面まともに眼を合わせない関口はその頸から下を窺っただけだった。
「文五の二年で文乙の総大将を務めた榎木津礼二郎先輩。君も理乙の陣営から見えただろう?」
リレーで榎木津は先頭を走りながら二着との差をどんどん拡げ、最後尾を走る理丙を追い抜かしたと云う伝説を作ったばかりだった。生憎日差しの心地よさに白河夜船な関口はそんな騒ぎが起きていることなど知らなかった。
「物見高い君にしては珍しいな。別に夢中になることでもあったのかい?」
中禅寺は皮肉った。寝汚い関口を揶揄って居るのだ。
「煩瑣いなぁ」
脣を尖らせ、中禅寺から眼を逸らすと、それまで黙っていた榎木津の視線が己に向けられて居ることに気が付いた。
遥かに身長差のある榎木津を漸うと見遣ると、
「……あ、」
声が漏れた。
その鳶色の髪にも白皙の容貌にも見覚えがあった。
もしかして────と思う。だが、次の瞬間口を開いたのは榎木津だった。

「────君は猿に似ているね」

榎木津の脣が優美な弧を描いた。
「此の男は鬱病だから苛めると失語症を併発する、先輩は躁病なのだし、彼を見習うのがいい」
多分に失敬な、関口にとっては最低な出逢い方だった。────筈だ。
中禅寺の言の通り、関口は硬直し、失語症を発症した。
頭が朦りとする。
話しかけられても一瞬の間が空いて、呂律が廻らなかった。
中禅寺がそんな様子を見て、「先輩が無礼なことを言うからだ」と楽しそうに云った。
何も失語症が発したのは榎木津のその傍若無人な物言いばかりでは無いことを関口は知っていた。入寮時に出会った黒眼鏡の男に酷く榎木津は似ていた。
そんな出逢いにも関わらず、榎木津と馴れ合ってしまったのだ。
そう────馴れ合ったのだ。
決して親しい訳ではない。

長い腕が伸びて大きな左手が関口の細い手首を掴んだ。
「逃げるな、関」
関口のことを『関』と呼ぶのは榎木津だけだった。
「何ですか?」
「肩が凝った」
榎木津の右手の親指が背後の文端の部屋を差した。躰格の良い男たちが榎木津と関口と言う珍しい組み合わせを鮮々と眺めやっていた。関口はそれを榎木津の影から窺い見て、泣きそうな顔をする。
「厭ですよ。彼処が文端の部屋だって言うことくらい僕だって知ってますよ」
声を潜めた関口を榎木津は怪訝に見下ろした。
「何で厭?」
榎木津は自分を判っていないのか。
掴まれた手首を払おうとしたが、関口如きの力で榎木津に敵う訳も無い。
力は一層強く籠められた。
此の学内で榎木津礼二郎を知らない者など居ない。
学問、武道、芸術、喧嘩、色事────どれ一つとして、彼に敵う者などいなかった。
況してその秀麗な容姿に、本人の口から詳しいことを聞いたことは無かったが、華族と云う出自。
其処まで揃い踏みならば、お手上げである。
『最大の欠点』と関口などが思っているその奇矯な性格でさえ魅力的な要素として受け入れられてしまうのだ。
時に帝王とも評される。
自然其処にいるだけで人々の耳目を集め────もっと単純に云ってしまえば榎木津は────モテるのだ。
「あの人たちに…」
己れはきっと目を着けられるだろう。
「怖いのか?」
怖くは無い。だが、きっと敵意を向けられるだろう。
「僕が居るよ、関くん」
囁かれ、榎木津の手が関口の頬を撫で上げた。
図らずも躰が震えた。
「ほら、此方だ」
結局文端の部屋へ引きずり込まれ、寝台を借りて、関口は軍部の連中の看視の許、寝転がる榎木津の躰を揉んだのだった。室内は乱雑なことはどの部屋とも代わりが無いが、運動をする男たちの何処か饐えた臭いがした。
「関は何処に行く心算だったんだ?」
うつ伏せになった榎木津が訊いた。
背中の筋と骨を指で確かめながら、関口は答えた。
「読書室と、あと藤牧さん…藤野先輩の処に」
仮にも先輩を通称に呼ぶことは本人が許諾していようと此の部屋ではご法度だ。
端艇部は殊に上下に厳しかった。
「藤牧の?」
榎木津の意外そうな声が上がった。
「何故?」
「今…鳥渡中禅寺から頼まれ事をしていて…藤野先輩に時々相談をしているんです」
「何の?」
「え、」
関口は言葉に詰まった。手を止めると榎木津が躰を反転させ、上肢を起こした。
そして関口の頭の上辺りを凝乎っと見詰めた。
「藤牧と、僕と夏にしたような」
慌てて関口は榎木津の口を手にで塞いだ。
その一瞬で室内が水を打ったように静かになった。
男ばかりが二十人近くいるのにこれ程静かになることなど、薄気味が悪い。
背中に冷たい汗が落ちる。
「あ、御免…榎…木津先輩」
手を離す。
「『榎さん』だろう?」
榎木津の腕が伸びて関口の伸びた前髪を引っ張った。
「独逸語の…訳を…藤野先輩に見て貰っているんだ。藤野先輩は僕と違って独逸語が得意だから」
「関、」名を呼ばれたので、下げていた目線を上げると不機嫌そうな顔をした榎木津がいた。
「はい」
「僕の専攻を知らない訳じゃないだろう?」
厭な予感がした。
慥か榎木津は────
「文乙の独法だぞ。先ず僕に聴きに来て然るべきだろう!」
「でも」
「デモもストライキも飯抜きも無い!」
榎木津は寝台から立ち上がった。そして関口の上腕を掴むと引き摺るように「失敬するよ」と部屋を出て行った。
此の恰も帝王の如く君臨する男と一緒に居ると度々奇異な眼で見られる。
関口にはそれが耐えられなかった。
皆、あの夏に起こったことを知っていて、声を潜めて関口を白眼視しているように見えるのだ。

関口は────、榎木津が苦手だった。

連れて往かれたのは、中寮八番の自習室だった。
自分が先に入り、関口に扉を閉めさせた。幸い自習室には誰も居なかった。椅子へ榎木津は腰掛け、横の机の椅子を出して関口を座るように促した。
「あの僕、矢っ張り藤牧さんの処に行きます」
榎木津と二人きりになることが好きでは無かった。
「関、」
低い声が関口を呼んで、長い指が椅子を示した。
常には大きな眼が細く睨め付けている。
気圧されて関口はゆっくりと着席した。
室内の明かりは机燈だけだった。榎木津の顔の陰影が深い。
関口は見蕩れる。
あの日も同じように、榎木津の手が伸びてそっと関口の脣を覆った。
脣を離すと「脣がざらざらだよ、関くん」そう云った戯けた榎木津の眸があった。
「約束────約束してくれたんじゃなかったんですか?あの後、戻ってきて!」
「憶えているよ、勿論。だから今まで我慢していた」
「じゃあ、なんでっ」
「君が藤牧にさせたからだ」
「違うっ!あれは…」
云い掛けて、関口の勢いが不意に已んだ。
「なんで………知っているんです?」
「さあね」
榎木津は顔を反らした。
けれども藤野が言う筈は無い。絶対に。
「鎌を掛けたの?」
「失敬な。そんな騙すような真似はしない」
関口は何を話せば良いのか判らなくなり、口を噤むと、その儘重苦しい沈黙が続いた。何かを云いかけるが、声にする段階で咽喉の奥で言葉は萎え、舌上にまで来ることはなかった。
榎木津は美しい。
破天荒で傍若無人で彼を見ていると痛快で、共に居ることは楽しかった。
中禅寺と榎木津と関口で出掛けた夏季の長期休暇の旅行までは。
電車を幾つも乗り継いだ、山中の秘境の温泉だった。尤も確かな計画の下に跫を伸ばしたのではなく、電車の中で乗り合わせた老爺の話を聞いて急遽行き先が決まったのだ。
一週間近く滞在した最後の一日だった。
夜半過ぎ、本を読みたいと云う中禅寺を置いて席口と榎木津は山中の河川へ行ったのだ。
あれ程無礼で最悪ば出逢い方をしたのに、榎木津と関口は気が合った。
源泉はもっと山の奥だと聞いていたその川はそれなりに広く、深そうだった。水面には月が揺れていた。河原には大きな岩がありそれに榎木津と上って、脣を貪りあった。
人は居ない。
夏には早い虫の音と猛禽類の啼く声が聞こえていた。
顔中を榎木津が脣で触れ、浴衣だった為に襟や袖、裾から榎木津は手を入れて関口を触った。擽ったくて身を捩った。
思い出すと、関口は体温が上がったような心持ちになった。
「藤牧さんの処に行きます…」
「関くん?」
「榎さん、僕は藤牧さんと口付けをしただけで。それも…なんて言うか…偶々って云うか…能く判らないんだ。僕は…僕は、」
逡巡する。
何もかもが曖昧で不明瞭で未分化で、手に負えないものばかりだった。
嘗てあった弟の有らぬ行為の整理も付いていない。逃げるように此処へきてしまったから。
あの儘旅行後も榎木津と関係を続けていてもきっと弟のことと変わらなくなる。
それが関口には厭だったのだ。
共に居ることは楽しかったし、あの夜の情事は素晴らしかった。
「関くん、藤牧に宜しく。彼奴に解らないことがあったら僕に訊きに来るんだよ。中禅寺でも無くてね」
不意に榎木津から紡がれたのは、優しい言葉だった。
「そして、僕に言う言葉を捜して置くんだね」
「え、」
榎木津が立ち上がって、関口の前へ立つ。
頬を撫でた。
「そういうことだよ」
扉が閉まる隙間に見た互いは苦い顔をしていた。




関口は実家に帰らず殆ど独逸語漬けで歳を越すことになった。
中禅寺も榎木津も実家に戻り、本当の少人数で正月を迎えた。夕食の折に見た残寮者は二十人に満たなかった。九百人が生活する空間にその四十五分の一にまで減ると流石に閑散としていて何処か寂しかった。いつもは各部屋毎に決まった卓子に置かれている夕食が、三十一日にはたった二つの卓子だった。その僅かな人数の中に藤野牧朗が居て関口は少しだけ心に喜色が浮かれたことを自覚した。
大晦日おおつごもりに相応しく、と言うよりも実に安直に、夕餉の品は掛蕎麦と数多の茸の天麩羅だった。
年越しの夜に関口は中寮十番の寝室にいた。
藤野の居住する部屋である。彼以外の人間は家へ戻り、部屋には一人だった。
相向かいの寝台に藤野は寝そべりつつ、関口は胡坐を掻いて、互いに無言で読書をしていた。
寝台の狭間には火鉢があるばかりで、それだけが此の部屋の暖房器具だった。
「戻らないのですか?」
不意に関口は紙面から顔を上げ訊いてみた。
「何処へ?」
「……ご実家に、」
何処に戻るのかと問い返してきた藤野に、何か家内に問題でも有るのだろうか、俄かに慌てた。
それではまるで己れのことのようである。
凝乎っと関口が見詰めていると、藤野は不図微笑し寝台に手にしていた本を伏せた。
「僕の家は甲州のまあそれなりの素封家だったんだ。榎木津の処みたいに桁違いじゃ無いけど。けれど僕は父を早くに亡くして、顔さえ知らない。母も十一の時に亡くなった。兄弟も無い。居るのは財産を管理している親戚だけだ。会えば、酒に酔った彼らは大概結婚を急くばかりだ」
「そんな未だ学生に」
関口が云い募ると「此方で変な蟲が着いてはならないと思っているようだ。彼らには娘がいるからね」
打算尽くだよ、と少し笑った。
上肢を起こし床に跫を着けた藤野が「いいかい?」と関口に声を掛けた。
それが何を意味するのか解っていたが、諾とも否とも云えず、気が付くと脣が触れ合っていた。
藤野の脣が関口を貪りだし、関口は深く瞑目した。
閉じる直前の眼の端に藤野の寝台から帳面ノートが落ちた情景が映った。

除夜の鐘を聴きながら、煙草を取り出した。
燐寸を擦って、口に咥えた煙草に火を近づける。直ぐに引火して、紫煙が緩やかに上った。
関口は出て行ってしまった。彼も部屋には一人だろうに。
足許に帳面が落ちていることに気がつき藤野はそれを拾い上げた。
躰が強張る。
何故帳面が今此処にあるのか────。
他の数学の帳面に混ざったのだろうか。
今は眼にしたくなかった。
彼女の筆跡など。
枕の下へ帳面を隠そうとすると、はらりと紙片が舞った。
古い、写真。
和装の────
囁く声が聞こえる。彼女の膝の上で聞いた。否実際に彼女の口から紡がれた言葉を此の耳で聞いたのか、それとも此れを読んでの心象なのか、区別が尽かない。

良き伴侶を見つけ、子を生して、慈しみ合い、仕合せな生を完うしてくれると──────

彼の脣の感触を思い出して、己れの躰の同じ箇所を触れる。胃壁を抓まれるような愛しさが募った。

嗚呼、許して─────。

「母様、」





 歳が明け、新学期が始まる前に寮には学生が戻ってきていた。休みの間に邦訳を這這の態で仕上げていた関口はその帳面を中禅寺に渡すことが出来た。
戻ってくるなり、渡されたそれを外套を脱ぐ間も無く読み始めた中禅寺は一時間後には読み終わり、茶菓部から戻ってきた関口に「悪くない、」と一言口にした。
「誰が江口の遊女ロクサアヌなんだい?」
関口は至極全うなことを訊いた。
茶菓部から持ってきた珈琲と、中禅寺の土産の饅頭だった。皮が薄く餡子が多い。中禅寺の好みだろう。
「関口くん、気が利かないな。饅頭に珈琲は合わない」
「食べているじゃないか、」
批難をするが中禅寺は気にした様子も無く、饅頭を口にして珈琲を飲んだ。
「ロクサアヌは、文二の─────」
名前を訊いて関口は大きく頷いた。
「諾。あのメッチェンか」
Madchen。独逸語で少女を意味した。酷く少女めいた少年が文科甲類の一年二組に居るのだ。関口も遠目に見たことがあった。
「それは適役だな。僕も見てみたい」
そう云って関口は饅頭を頬張った。その光景は実に榎木津の言う処の猿に似ているが、中禅寺は眉の刻みを濃くするだけで口にはしなかった。
創立記念祭は二月一日に行われる。正月気分も抜け切らない儘、此れから一ヶ月皆記念祭の準備に奔走することとなる。
学校も講堂も寮も開放し、普段は女人禁制の此の空間にも老若男女問わず入ることを許される。食事を持て成し、音楽を流し、各々趣向を凝らした出し物をするのだ。
「関口くんは何かあるのか?」
「何も。理四の連中は何か考えているみたいだけど、僕は君のに付き合ったからもう御免蒙る心算だよ」
「人の依頼を言い訳に使うわけか」
「充分だろう?それなりに働いたと思うぜ、僕は」
「ところで君は─────帰らなかったんだな?」
関口の様子が正月前と余りに変わって居ないのだ。
「家には独逸語の補修だって言って置いた」
それは本当だった。
「其処でも言い訳に使って」
「良いだろう、別に」
関口が脣を尖らせるのを見て中禅寺は声を上げて笑った。





 一月の終わりには雪が降った。各部屋には無いが茶菓部のホールには唯一放熱機ラジエータがあった。関口は其処でフロイトを拡げながら、人々が走り回るのをみていた。
仮令雪が降り寒くてもこの時期に茶菓部には人が殆ど居なかった。
長椅子の端の腰掛けて珈琲を啜りながらフロイトを読み進める。
眼前には誰かの対局途中の将棋版がその儘残されていて、先刻少し覗いたが関口にはどちらの駒も動かせなかった。どうやら余程膠着した対峙であるらしい。
フロイトの頁を只管繰っていると、「関」と呼ばれた。
顔を上げると其処には榎木津がいた。
思わず関口の顔が緩んだ。彼が帰寮した際に新年の挨拶をしてから、永らく会って居なかった。
「どうしたんです?榎さんらしくない」
眼の下に薄らとした蒼い隈が浮かんでいたのだ。
「寝ていないんだよ、三日ほど」
余程忙しいのだろう。慥かに榎木津ほどの人間は此の時期には引く手数多なのだ。
「関、膝を貸せ」
「え、榎さん」
長椅子へ腰を下ろしたと思うと榎木津の頭部が関口の腿へ投げ出された。向こう側の肘置きに榎木津の膝が折れる。
「鳥渡…!榎さん。困るよ」
焦った。
「ぐちゃぐちゃ言うな。僕は高さが無いと睡れないんだ」
そう云って眼を閉じる。眼球を覆う白い膚に幾筋もの毛細血管が透いて見えた。長い睫毛は茶色である。
「部屋に往けば良いじゃないですか」
「寒いだろう?……関くん、」
「何ですか?」
「悪戯するなよ」
口を噤みすぐに規律正しい寝息を幽かに上げだした。
関口は少しだけその髪に触れてみた。榎木津の髪を触るなど、あの夏の夜に川へ落ちた時以来だった。





 記念祭は大入りだった。
普段閉ざされている空間を一目見たいと思うのかは知れぬが、学校や寮の廊下を学生以外が、特に女性が歩いていることは奇異以外、何ものでもなかった。
一人素見していると、肩を叩かれた。
叩いたものは手ではなく、ショゥペンハウエルであった。
こんな風に哲学書で人の肩を叩いてくるなぞ、関口には一人の人物しか思い浮かばなかった。
「大河内、」
常に哲学書を携帯している文四独法の同級だった。藤牧が居ない時には度々独逸語の相談に行ったのだ。
「閑そうだね、関口」
「うん、まあ。何も参加していないし。結構こうして見て廻るもの面白いよ」
「此れから用は?」
「三時に榎さんと会う約束だけど。向こうは忙しいみたいだ」
「それは反古に出来る?」
「…何でだい?」
「否、中禅寺が呼んでいたからさ」
「中禅寺が?」
「探し回っていたと云うか、ね」
「だって彼奴は…もうすぐで公演だぜ」
制服の上衣から懐中時計を取り出した。
「前に君、時計は無くしたって云ってなかったかい?」
「諾。これは、藤牧さんからの借り物なんだ」
「とても良い品に見えるけどね」
「所謂『舶来』物らしいよ」
古風な言い方を関口は態とした。
「藤牧さんの無くなったお父さんの遺品らしい。時計が無くて不便だと言っていたら貸してくれた」
「遺品を、君に?」
大河内は少し眉を寄せて解せないようにしていたが、やがて幾度か頷いた。
「あ、中禅寺、何処にいるんだい?講堂?」
「そう」
「じゃあ行ってみないとな。後で何か言われるのも厭だし。伝えてくれて有難う」
関口は手を振って講堂へ歩を進めた。
講堂の裏方は混沌としていた。薄暗い中で足も踏み場も無い。人間は入り乱れ、塵芥は舞っている。その中から中禅寺を探すことは一苦労だった。
漸うと中禅寺を探し当てた時には、其処には榎木津と藤野も居た。
関口は嫌な予感がした。
「関くん、君は訳者だ。大体の科白を憶えているね?」
中禅寺が唐突に訊いた。
「まあ、そりゃ…」
あれ程苦心したのだ。
「それは重畳。おい、衣装班。此れに着付けてくれ」
関口は中禅寺に『此れ』呼ばわりされ、更に云われた言葉に眼を丸くした。
「ど、どういうことだい?」
「今は時間が無くて詳しく話している閑が無い。─────が君のことだ。聞かないと気が済まないだろう?」
「と言うか、君が話していることが解らない。なんで僕の気が済まないんだ?」
衣装班の眼鏡に律儀に髪を刈った男が関口の腕を引こうとした。
「鳥渡待ってくれ。関口くん、手短に言おう。他に人間が居ない。穴を開ける訳にも行かない」
「だから、何が『僕』なんだよ?」
要領を得ない。
「主役が逃げたんだ。駆け落ち」
「は!?」
「ロクサアヌとシラノだ」
「だってあの…」
少女のような可憐な容姿の。
「そう。あのメッチェンだよ。稽古中に想いが通じあったらしい。曰く、僕らの芝居を見れば解る者は解ってしまうだろう。それが厭なんだ。秘した儘で居たい、だそうだ。書置きにあった」
「そんな…」
それは如何にも身勝手に聞こえた。
「あのメッチェンと関口は身長が殆ど同じだし、幸いにも君は科白を殆ど憶えている」
「待って。それは」
「全部言わないと君は解らないのか?そうだ、君がロクサアヌをやるんだ。大丈夫だ、君が極度の上がり症でも殆ど芝居用の厚塗りで皆に君だとは解らない」
「でも…急に言われても。心積もりが」
「君は新婚初夜の花嫁か!」
中禅寺はいい加減苛立っているようだった。
「其処にいる榎さんにやらせればいいだろう。さぞ美しい、ロクサアヌに」
「莫迦。榎さんは六尺以上あるんだぜ。そんな大きなロクサアヌがあるか。着物は寸足らずだし、第一榎さんにはシラノを」
「厭だね」
大道具の上に腰掛けて此方を一瞥だにしていなかった榎木津が鋭く言った。
慥かに鼻の大きな醜男なぞを演じたら、榎木津シンパの女学生、否女学生でなくとも、から悲鳴が上がることだろう。批難の。
「藤牧にやらせればいいさ」
実に冷淡な口調だった。常の榎木津らしくもなく。
「僕には無理だ」
藤野は苦々しく云った。
「無理な筈が無いだろう?君は関口の次に関口の書いたものを能く見ている」
中禅寺の目線が藤野と関口を行き来した。
「…慥かに時々、藤牧さんに聞きに入っていたけど」
そんな迷惑は掛けられない。藤野とて人前に出ることを好む人間ではないのだ。
「榎さんだったらすぐに科白くらい覚えられるだろう?」
その上榎木津は科白を忘れても即興アドリブが利く。
関口は藤野を庇うように、榎木津に訊いた。
その声に、大道具の上から冷たい視線が降り注ぐ。メドゥーサも斯く有るか、思わず震えるほどの恐ろしい目線だった。
「厭だね」
再び榎木津は拒否を示した。
「じゃあ決まりだな。衣装班、此の二人をシラノとロクサアヌに」
中禅寺は関口と藤野の背を押して衣装班に受け渡した。
そして関口にとって狂乱怒涛の創立祭が幕を開けたのだった。





 二月の後半雪が降って、何年か前の同じ日にクーデター未遂が起こったことを思い出した。あの日も矢張り夜半から雪が降っていた筈だ。
関口は両腕を摩りながら部屋に戻ってきた。
寮内は疾うに消燈を過ぎていて、室内も真っ暗だった。
読書室だけは消燈が無いので序々時間を忘れてしまったのだ。厚手のセーターを脱いで和装に改めると慌てて寝台の中へ潜り込んだ。関口の育った家庭では和装の方が珍しく、和服を纏うのは大抵睡眠時に寝着として用いられる時に限られていた。
枕の上に冷たいものがあって見れば、それは封書であった。
怪訝にしていると、横の中禅寺が小声を掛けた。
机燈を手元に本を読んでいるようだった。
「榎さんからだよ」
郵便で配達されたものだった。
此の寮の住所が記され、宛名は関口だ。消印があって、封書の裏には榎木津の署名があった。何処からか投函されたのだ。消印は不鮮明で判読は不可能だった。
「なんだろう?態々郵便で。燈、良いかい?」
封筒を千切り、指先で内部を確認するとそれは厚紙が数枚入っている感触だった。
中禅寺は机燈を関口に渡した。
封筒から引き出すと、写真だった。
日本髪の髢を着け、鉄紺色の江戸褄に紅い縞帯を柳結びにした関口巽が紙の中にいたのだ。小柄で撫肩。芸妓の衣装一式が何故か関口の肢体に吸い付くように似合った。似合ったのはその体型であって、到底女装向きの顔立ちでないのは関口自身能く自覚していた。
それは記念祭の、スチール写真だった。
「ほう、これは、」
元を覗き込んだ中禅寺はその肺病患者のような容姿で実に愉快そうに笑った。
「返しに…抗議しに行ってくる。思い出したくも無いのに、」
実際散々な出来だったのだ。
思い出すたびに顔が熱くなる。
そして、大きな鼻を着けた藤野の目線─────
関口は頭を振って、上肢を起こした。
「抗議してくる」
「無駄だよ」
「解っているよ。そのくらい。返り討ちに合うのが精精だって。でも骨くらい拾ってくれるだろう?」
「そりゃ君の屍がその辺に転がっていたのでは通行人に迷惑だから、端に避けるくらいはしてやるがね」
もう中禅寺は目線を膝に置いた和綴じへ向けていて、関口を見ていない。
「榎さんは今居ないよ」
「え、もう十二時過ぎだぜ。何だよ、実家にでも戻っているのか?」
榎木津の実家は都下にあるのだ。
「否、そうじゃなくって。あの人を記念祭からこっち、見ていないだろう?」
「…そういえば…」
関口は自分の記憶が確かではなかったので云い澱んだ。
「健忘さんはこれだから。どうやら授業にも余り顔を出さないらしい」
秋風が窓硝子を揺らした。 「上級に訊けば何か知れるだろうけれど。僕に訊く気は無いぞ。面倒なことになるのは知れているだろう?まあの人が宿が無いなんてことは有り得ないだろうから皆放っているんだよ」
慥かに榎木津に宿が無いことなど有り得ないだろう。
関口は不安が胸を渦巻いていた。
榎木津は記念祭から此方、関口の傍に寄ってくることが無かったのだ。それは関口が望んでいたことではあったが、胸が苦しかった。
身勝手だと解っていても。





雪が降っている日は地下道を通って図書館に往く。
中禅寺が地下道へ跫を踏み入れると前方に藤野の姿を発見した。
「先輩、」
声を掛けて足早に近付くと、藤野は厚い眼鏡の向こうで温順に微笑んでいた。
「中禅寺」
「図書館ですか、」
「借りた本が今日が期限なんだ」
藤野は手にしていた数冊の数学の本と帳面を中禅寺に見せた。
「その本、以前に関口が持っていましたよ。錯視と言うんですか?」
「諾、又貸しをしたからね。中々面白い」
「ずっとコンパスと定規片手に首っ丈でした」
「そう、良かった」
口端を僅かに上げて藤野が笑んだ。朝露の綺羅めきにも似た微かさだった。
「─────藤野先輩は」
「藤牧で良いよ。彼もそう呼んで居るだろ」
彼とは関口を差す。
「じゃあ、藤牧さんは関口に時計を貸してますね。父上の遺品だとか」
「……諾」
「何故です?」
「関口くんが自分のものを無くして不便だと云っていたから」
「記念祭のシラノはとても評判が良いんです。代役だと云うのに、吃驚するくらい。尤も関口は記念祭の話をするのさえ嫌がるけれど。関口のロクサアヌは中々良かった。文二のメッチェンはあれほど着物が似合わなかったから」
「そうだね」
曖昧に藤野は相槌を打った。
「あなたのシラノは鬼気迫って、悲しかった。とても」
僕らの芝居を見れば解る者は解ってしまうだろう。それが厭なんだ。秘した儘で居たい。
「中禅寺くん─────」
藤野が呼んだ。
「何です?」
「………否………否、」
暫し藤野は口を噤んだ。
地下道には二人の他に人は無かった。二人の靴音だけが響く。
「榎木津は─────何で僕にシラノをやらせたんだと思う?」
それは独白のようで中禅寺に答えを求めているようには聞こえなかった。
「先輩落ちましたよ」
帳面から落ちた紙片を中禅寺は藤野に渡した。
「女性の写真ですか?」
「諾、そうだね」
「未だ若い。……夏に先輩が鬼子母神で見かけた女性?」
それは遠き記憶だった。云われなければ思い出さなかっただろう。
あの時寮の有志数人で出掛け、母に似ている女性を見掛けたのだ。似ている人がいる者だ、と見詰めていると有らぬ噂を立てられた。尤も人の噂も七十五日と言うもので、皆新学期が始まることには忘れていた。
「否、此れは…亡くなった母だ。何処かに紛れ込んでいたんだな」
そして地上へ出る階段が現れ、二人は図書館の中で分かれた。





食堂で催うされる全寮茶話会のに榎木津の姿が無かった。常に人目を引く存在に、その喪失もまた一層目立つのだ。
然し誰もその不在を疑念には思わない。彼が不意に姿を消すことは度々あったからだ。
茶話会とは申せ、当然酒が入る。
弱いのに何故か酒を幾杯も重ね関口は早々に意識を泥のようにさせていた。周囲の声が聞こえない訳ではなかったが、応えるだけの余力は無かった。
その関口を横で呆れて見遣りながら、中禅寺は榎木津の同級に声を掛けた。文端の先輩だった。
「最近、榎木津先輩を見ませんけど、どうしたんですか?」
寮内の軍部と呼ばれる彼らは、赤く成った顔を見合わせて、実に下卑て笑った。
「それがなぁ」
朱に染まった頬が揺れる。
そして目線は中禅寺の横で突っ伏する貧弱な男へ向けられていた。
「能く似ている芸妓が居たんだ」
「そうそう。良く似ていた」
酩酊した彼らは互いに相槌を打ち、大声で笑った。
創立記念祭の後日、榎木津の同級は五人ほどで連れ立って料亭へ行ったのだ。その足取りは中禅寺も聞いていた。
当晩は寮に戻ったことは確認されていた。翌日授業に出たことも。然し、その後から足取りはふっつりと途切れていた。
「酌しかしない芸妓でね、唄は歌わない、三味線は弾かない。顔もなんだか…鳥渡、陰気でだったな。躰付きもつるっぺたで」
一級上の男は自分の胸を撫でた。自分の胸筋を自慢しているようにも見えた。
「榎木津が唄わせたんだよ。細棹を借りて爪弾いたんだ。それが中々見事なものでさ、彼奴は何でも出来る男なんだろうな。芸妓たちは歓んでいたしな」
其処までされて、その芸妓が拒否できる状態ではなかった。
榎木津の長い指の、労働をしない柔らかな指の腹が、撚られた絹糸を震わせる。少し天神に触れ、さわりが付いていることを確認した。
榎木津の爪弾く節に合わせて芸妓はか細く声を出した。
「その芸妓もこれが本当に下手でさ」
「声は伸びない、音程は外れるし。でも榎木津はそういうところを伴唱して助けながら唄わせたんだ」
そんな優しさを寮内で終ぞ見たことはない。
中禅寺は日が西から昇ったような兇悪な顔をした。
「気に入ったみたいだったぜ」
文端の人々は互いに頷き合って、硝子碗に注がれた酒を煽った。






似ているものは同じものなのだろうか。 例えば、植物の分類は門から始まり、網があり、目を云って、科を示す、属に即して、種小名がある。けれどもその何れの経歴も違っているのに、似ている種が植物には度々存在している。
「だから─────試してみたんだ」
「何を、です?」
襖が開いて、陰気な女が顔を覗かせた。か細く笑んでいる。
「否…」
男は言い淀んだ。
「何だったんだ?」
「…お女将かあさんが、」
女も言葉を途切れさて困ったように笑ったので、男は「もう退くよ」と応じた。
「直ぐに金を持って来させるから」
「そう…なの?」
声の調子が白地あからさまに落ちた。
「そろそろ授業に出ないとな」
年間六十日の欠席が認められているが、既に二十日ばかりは使っていたのだ。
「…そうか、そうね」
此の美しい男が自分の許を訪れた時のあの驚愕と高揚を如何表現してよいのかわからない。
今まで、座敷であれほど優しく扱ってくれた客など居なかったし、己を蔑んでいた姐さんたちの馬鹿みたいに口を開けた顔は何とも爽快だった。
それまで自分個人の部屋など持ったことは無かったが、男が訪れて急遽部屋を開けて貰った。
その後殆ど此の身を借り切って、座敷に上がることもなく、怠惰に此処で過していた。
女として─────否、産まれて初めての、至福の時間だった。
けれども、此の男は今も語るように公立の学士で、矢張り己とは違う世界の人間なのだ。
「吾が手ながらも羨まし 恋しき人の見ると思えば恥ずかしき」
あれ程苦手だった小唄の節回しが口を突いて出た。





夕方に寮の前で外套を着込んで襟巻をした藤野を見て、関口は声を掛けた。
「藤牧さん、お出掛けですか?」
関口は、藤野の眼を真直ぐに見て微笑んだ。珍しいことだった。
「ああ…鳥渡、榎木津の処に」
躰の深淵に冷たいものが落ちるのを藤野は感じた。
「僕も行きます。荷物を置いてくるから、鳥渡待ってて下さい」
藤野は関口を門扉の前で待っていた。此の学校には正門主義と言うものが存在した。何があろうと此の正門からの出入りしか許されない。姑息な手段は許されないのだ。正門を塞ぐものがあればそれを退かして突き進むことこそが此の学校の学徒と認められた。
「藤牧さん、あの人は─────何処に居るんですか?吉原?玉の井?洲崎?」
関口の口から出たのは震災以前も以後も栄える遊郭だった。見れば後輩の顔は心なしか険しく、苛立っているようにさえ見えた。
「否、置屋らしい」
学校前の駅舎から電車に乗り込み、榎木津が指定したという置屋へ向かった。
目的地の駅について吐き出される人人の波の中を歩みながら、小柄な関口の外套が掛かる撫肩を熟視めた。伸びそうになる腕を留める。
「君のロクサアヌ、」
「あれは─────云わないで下さい」
関口は恥らった。
「なんで榎木津は僕にシラノをやらせたのかな」
「え、」
「まるで、僕の心を知っているようだ」
藤野が後輩を見ると、彼は瞠目していた。
眼が合うと、そっと俯いた。
だらりと落ちていた手を藤野は到頭、握った。
そして自分の外套のポケットへ差し入れた。
関口は、藤野を熟視めたが、抵抗はしなかった。
神社が見えた。その社は芸妓が信心するもので、置屋街が近付いたことを報せていた。裏手から神社に入って境内を抜け、鳥居を潜り、階段を下ると、黒塀が巡っていた。料亭と置屋が肩を並べる界隈だった。
「僕は、こう言う処、藤牧さん好きじゃないと思ってました。遊郭には行かないし、芸妓にいる座敷にも近付かないでしょう?」
「君の親御さん健在かい?」
「故郷で教師をしていますよ。先輩のご両親は…亡くなられたんですよね」
「そう。僕が幼い頃に。だからなのか、ずっと家族を作ることが夢だった。だから遊郭と言う存在がずっと理解できなかった」
「理解できない?」
「商売や借金の為とは云え子を生す為の躰を道具にすると云う、それが理解できなかったんだ。うん…好きじゃなかったね」
良き伴侶を見つけ、子を生して、慈しみ合ひ──────
それは母の教えに背いているから。
「僕は耶蘇じゃないが、廃娼運動なんかは当然だと思っているよ。でも今は鳥渡違うね。印象が、」
「印象?」
「そう云う職業も有ってもいいだろうと──────」
母の教えに背いてもいいだろうと──────
「思うんだ」
 置屋の一つを確認すると、藤野は関口の手を解放した。
戸を開けると内部から三味線の音色が聞こえていた。声を掛けると、支度中らしい女性が出てきた。
「榎木津と言う男から連絡を頂きまして」
制服姿と榎木津と言う名に女性の顔が明るくなるそして中へ入ること促した。
「関口くん、申し訳ないが、お舗さんには君が払ってくれないか、」
財布を渡す。
「あ、はい」
「僕は先に榎木津の仕度をさせて置くから」
「………はい………」
鈍く関口は頷いた。





室内に居た男は、藤野の頭上辺を一瞥すると、ついと部屋の主と化した男は窓に掛かる簾の狭間から暮れ泥んだ外界を見遣った。
藤野の頭上辺を一瞥すると、ついと部屋の主と化した男は窓に掛かる簾の狭間から暮れ泥む外界を見遣った。
「君に来てくれとは云わなかったんだけれどな─────」
「中禅寺くんは所用が入ったらしい」
榎木津から連絡を受けたのは中禅寺だった。然し、中禅寺は榎木津の役に立つ心算はない、と偶然傍にいた藤野に頼んだのだった。
「榎木津に訊きたいことがあるのでしょう?」
と囁いて。
衣桁に掛かる制服と、甘い香。三味線が襖の内側に転がり、敷布を乱した褥には幾枚もの女物の着物が渦を巻いて、榎木津は紅い襦袢を羽織り、臑を見せて胡坐をかいて藤牧を出迎えた。
「嘘も誠も命毛に 契いしことの判じもの 待つも幾夜の後朝に」
小唄を口ずさんでいたが、「連れて来たのか」と少しだけ厭そうな顔をした。
「彼も心配していたんだ」
「ふぅん。まあ当然だな」
嘯いた。
「なんで当然なんだい?」
傍にあった三味線を抱えると指に弾いて、榎木津は応えなかった。
「何故、僕にシラノをやらせたんだ?」
藤野は榎木津に質問を重ねた。
暫くして、不図榎木津の口端に笑みが刻まれた。
「関は─────抵抗しなかっただろう?」
「…何を…」
榎木津の長くて美しい指が紅い脣を差した。
思わず眦を裂いた。
何故、知っているのか─────
あの人に許してと懇願しながら漸うと為したその口付けのことを。
母の教えに背いて。
「僕にも最初、そうだった」
「え、」
「抵抗しなかった。そして、僕を受け入れた」

藤野の顔が紙のように─────

「夏にね」
夏─────。
中禅寺と榎木津と関口は三人で旅行に行った。藤野も誘われたが、所用があって一緒には行けなかった。
否、旅行は盆に差し掛かり、母の回向を─────
弔う為に。

母の教えを。

良き伴侶を見つけ、子を生して、慈しみ合い、仕合せな生を完うしてくれると──────
耳の中で反復して増幅して、渦を巻く。
幾度も許してと懇願したのに。
仕合せになるには、慈しみ合わなければならない。子を為さなければ仕合せに離れない。子を生すには、伴侶を。けれども心惹かれたのは、同性の後輩だった。
彼が相手では母の言う仕合せにはなれない。それは自明だ。 けれど彼の居ない仕合せならば、仮令その教えに背こうとそんな仕合せはいらない。
そう思っていた。
彼は口付けを受け入れてくれた。手を繋ぐことさえも。
だから。
だから──────


母の教えに、願いに、その慈しみに溢れた思惟に背くことさえ怖くは無かったのに──────





「榎さん、」
声を掛けて室に入ると、此の部屋に来るまで想像して覚悟した、予想していた様子ではなかった。
制服に外套を着て、その端然とした立ち居住まいに正面に見蕩れた。
「もう帰るぞ、関くん」
そして一歩関口に寄ると、その後頭部へ腕を回し、盆の窪辺りを摘み上げ、唇を合わせた。
「榎さん…!」
「大きな声を出さなくても声は届くよ」
「あんた…!自分が何をしていたか…」
「解っているよ。君を裏切ったことくらいね」
「じゃあ!」
「鳥渡した仕返しだ」
「え、」
「君への、だよ。─────似ているものがあるから同じかなと思ったんだ」
「は?」
「でも、全然違った」
榎木津が関口を凝乎っと熟視した。
「あれはあれで可愛かったから、鳥渡居過ぎたかな、」
不意と目を反らし、関口の撫肩を掴んだ。
「それより関くん、そろそろ僕に言う言葉が見付かったんじゃないのか──────」
関口は口を開いたが、何も発することなく閉じた。脣だけが小さく開閉し、言い淀んでいる。
「あのね、関くん、僕が独占権を持つことを許してくれないか」
「榎さん…」
関口は脣を噛んだ。そして俯くと榎木津に腕を伸ばして抱きついた。
「僕…僕は、あんたが…置屋に居続けしているって聞いて……凄く凄く苦しかったんだ。だから──────」
榎木津が苦手だった。
その秀でた容貌。横暴で破天荒な性質。関口の思惑なぞまるで気にも留めないで心に肉薄するその明快さ。
どれもが眩くて、関口には毒のように刺激が強過ぎた。
そして何より、関口が榎木津を好きだと云うことを知っていた。
とても卑怯だ。
榎木津の腕が関口の腰と項に回り、力が籠もった。そして耳許でうふふと言う笑い声が聞こえた。
そして暫しその儘だった。
「鳥渡…いい加減苦しい…。あ、藤牧さんは…」
関口の口から他の男の名が聞こえると、榎木津は関口を離した。
「藤牧は先に帰ったよ」
「え、」
「所用が─────あったらしい」





季節は巡る。

再び夏へ──────。

否、夏と言うより残夏に当たるだろう。
「中禅寺、僕はどうしたらいいのか、」
藤野は問うた。
「先輩?」
「彼女が欲しくて堪らないんだ。昨夏に見掛けた…。そう、久遠寺医院の娘であるらしい」
彼の亡母に似ていると以前藤野は独白していた。
「先輩はどうして彼女を?」
藤野が微笑んだ。眸が光を失い、何処か荒んで見えた。
「自同律の不快──────」
呟いた。





昭和十五年九月九日のことである。











15/11/06



関口最低。藤牧御免。シラノまるで関係なし!

31500hitの御申告有難うございました。
リクエスト内容は
「榎木津+藤野+関口 置屋に連泊一ヶ月の無敵帝王とドイツ・ロマン派を地でいくドリーマーの軋轢(についていけない後輩)」
でした。
読んで頂いて解るように……謝る以外ない。
(ドリーマーは寧ろ私だ)
楽しく書かせて頂きました。
本当に有難うございました。倖せでした。
では。

タイトルはオペラアリスさまからお借りしました。