人魚の骨の色





誰にも知られない生活を持ってやろうと思った
KAN KIKUCHI





─────昭和拾壱年弐月


橋の袂に立って、自分の両腕をさすりながら大きくぶるりと躰を震わせた。冬の空は曇天で今にも雪でも降りそうだった。外套は既に金に替えてしまって、今はメリヤスの粗末な襯衣姿だった。足許を見詰めながら、此の靴も売ってしまおうかと思考を巡らせ、洟を啜った。
「寒…」
呟く声を車の走行音が消してゆく。襟巻きや外套に身を包んだ人人は誰も一瞥もせず、ただ眼前を通り過ぎて行く。 冬風が冷たくてまた、腕を摩った。
何日物を食べていないのか、考えることさえ億劫である。日数さえまともに数えることも出来ない朦朧とした脳髄で其の儘屈み込んだ。屈もうとしたのだが、均衡が崩れて尻餅をついた。
臀部に橋の石畳の冷たい感覚が伝わる。
けれど、立ち上がることも面倒だった。
此の儘、凍死するのも良いことかもしれない。 
凡そ現在のことに未練はなかった。
度重なる母の叱責も、弟とのあらぬ関係も省みない父も、学校の同級たちの陰口や陰険な仕業や、教師の持余し気味の視線も全て振り払ってしまいたかった。
どのくらい其処に座り込んでいたのか、気がついた時には眼前に影が落ちていて、人の脚が其処にあった。
「死んでいるのかい?」
声が上空から落ちる。
ゆっくりと混濁した眼球を上げると、上等そうな外套と上等そうな帽子の影の中に目が見えた。
「良かった、生きている」
声を発そうと思ったが、何も云えなかった。「あぁ」とか「うぅ」とか唸ったそうな発声だった。
頸が落ちて瞼が下がった。何日食べて居なかったろう。冬の夜に睡るのは凍死を意味するから睡ることもしなかった。
久々に人と話した、喜びなのか安堵感なのか、睡魔が身の内を席巻する。
話しかけてきた男の声は急激に遠退いた。
もう、死ぬのだ、と関口は混濁して行く意識の中で認識した。
「………ずと…、車のドアーを……く…」
男の声が聞こえて、同時に浮遊感を感じた。


意識の浮上に雨の音が耳に触った。
柔らかな冬らしい雨音だ。ゆっくりと目を開けると、見慣れない天井が其処にあった。高く、真っ白な天井に丸い乳白色をした電笠が下がっている。
それが鳥の子色に発光していた。
躰を起こすと足許の椅子に人が座っているのが目に付いた。
白い襯衣を身に着けて、脚を組み寛いで新聞に目を通している。
黒い前髪が時折揺れた。
目線が此方へ向けられた。
「目が覚めたね。気分は?」
椅子から立ち上がると、丸い卓子に無造作に新聞を置いて、寝台へ歩み寄った。
背の高い人物である。如何にもな端整な顔立ち。今までの生活で接したことはなかったが、彼が上流階級の人間だということは一見して判別できた。
寝台に腰掛、白い袖に覆われた太い腕と大きな手が伸びて、関口の前髪を上げて目を覗き込み、掌が顔の輪郭を撫でて頬を掴んだ。
「あの…」
「気分は?」
「……お腹が空きました」
関口は自分の薄くなった腹を触った。
恥ずかしさに顔を染めることさえ出来ないほど体力は消耗していた。
「うん、そう云うと思って今用意させているよ」
不意に自分から垢の臭いではなく石鹸の匂いが仄めいて、関口は自分を眺めやった。
黒ずんでいた掌や腕は、本来の不健康そうな青いような白さを取り戻していて、皮膚の下の血管が薄らと覗いていた。爪は短く切られ関口のものでない寝着が身体を巻き包んでいた。
「我が家に上げるに伴って、躰を洗わせて貰ったけど」
「あのっっ」
血の気がざっと音を発てて引いて行くことが自覚できた。
この貧弱で粗末な躰を誰かに見られることなぞ恐怖以外の何物でもなかった。常日頃、学友からはその粗末さから散々揶揄され、兄弟からはまた違った方法で揶揄されるのだ。
「何を思っているのかは分からないけれど…食事にしよう。その顔色の悪さをなんとかしないとね」
柔らかく云って、男は関口を寝台の上から抱え上げた。
「あの…!」
「何?」
言葉が出てこない。関口は男の腕の中で身を捩った。
「こらこら、暴れない暴れない」
背を赤子をあやす様に数度摩って関口を先刻座っていた椅子の卓子を挟んだ相向かいの椅子に座らせた。
腰にはクッションが宛がわれた。
「おどおどしている。怯えているのかい?」
椅子に座った男は腕を伸ばして、また関口の頬に触れた。
「貴方は…誰なんですか?」
「ふふ」
上品に男は笑った。
「漱石の『こころ』は読んだ?」
不意に思いがけないことを言った。
「は、はい」
「そう。あの先生が友人をただひたすら『K』と呼ぶ様が私は好きでね」
「はあ」
情けない相槌を打つ。
「私のことは『S』と呼ぶといい」
「えす…?」
「諾」
鼻腔を香ばしい香りが擽った。
「この男は『Y』と」
「ワイ、さん?」
年の頃は五十も幾つか廻った辺りに見えた。髪を短く刈って、和服に前掛けをしている。
「厭ですよぅ、若御前。そんな名前じゃあ」
「興を解さない奴だなあ、いいじゃないか。Yで。これからはそれで通すように」
Yと紹介された男は盆から一つの土鍋を置いて、朝鮮磁器の二対の碗と蓮華と、何処か異国情緒の感じられる揃いの白湯の入った湯呑を置いた。
前掛けのポケットから出した真新な晒しを出すと土鍋の蓋に乗せて、蓋を掴もうとすると、Sがそれを制した。
「いいよ、此処からは私が給仕をするから」
「でも若御前」
「お前の仕事を盗ってしまうのも悪いとは思うけど、此処は譲れない」
Yは嫣然と笑んだSの顔を見ると諦めたように溜息を大袈裟に吐き出した。
「御前さまに云い付けますからね」
「構わないが、あの人が帰ってくるのはあと一年以上は先の話だよ?」
憮然とした表情でYは部屋から出て行った。
「さて、Yの作る粥は中々美味くてね。ああ、その前にまず白湯を飲みなさい。唐突に胃に食べ物を入れたのでは後が怖い」
関口は湯呑を口に宛がった。
白い煙幕が一瞬眼前を覆って、今の状況は夢なのじゃないのか、と思わせた。白湯を口にすると舌がじんと痺れるように震えた。賀陽に冷えていたのか、白湯がゆっくりと舌から食道を通り、胃へ落ちて行くことが感じられた。
同時に鼻腔に玄米茶の匂いが立ち込めて、見れば茶色の粥が盛られた碗が関口の前へ差し出されていた。
「ゆっくりと食べなさい」
Sはにっこりと笑った。
「あの…」
「何?」
「僕のこと、きかないんですか?」
「訊いて欲しい?」
蓮華を口に運びながらSは問い返してきた。口籠もっていると、「じゃあ訊いてあげよう」と実に恩着せがましくSは云った。
「橋で君を見かけた時は浮浪児かさもなくば、家出少年、と云った処だと思ったんだが。後者かな?」
「…はい…」
「年齢は?」
「じゅう…ご、です」
「ふぅん。学生だね?中学校生、かな?」
関口は頷いた。
「名前は、」
「関口…と、言います」
「成程。じゃあ『関口くん』と呼ぼうか。ところで君は猿に似ているね」
唐突に酷く無礼なことを云われて、関口は蓮華を落とした。
「食べ方が下手なのか、握力が弱っているのか、」
手巾ハンケチでSは関口の口元を拭いながら熟視めて囁いた。
久々に物を食べた。物を喰うと云う行為は少しだけ奇妙な感覚だった。じんわりと体内に広がって、そっと熱を持ったから。
その間中、目の前ではこの端整な男は関口を見詰めていた。


外界では雨が零っていて、曇よりと暗いが、それでも昼間だということには変わりない。関口は寝台に戻されて、Sは其の儘椅子の上で新聞の続きを読み始めた。
陸軍の文字が紙面に躍っている。関口は頸を巡らせて室内を眺めやった。十二畳間が双続きほどの広さの部屋だった。中ほどに一局三層の衝立が立っていて、空間を分けていた。衝立向こうのドアー側にはクローゼットと天井まである書棚と物書き机が見えた。寝台と椅子と卓子の置かれた、衝立の此方側には足許に絨毯が敷かれている。西洋建築の室内である。
寝台の左側の壁には大きな窓が連続していて、外光をふんだんに取り入れられるようになっている。外界は森のように木々が鬱蒼としていた。
乾いた音が聞こえたのは、関口がうつらうつらし始めてからである。それがドアーを叩く音だということは、扉が開いてから認識できた。
「若御前、お客さまがお見えです」
Sが立ち上がり衝立の向こうに消えて客を迎えた。
「雨の中、すまないな」
「否、大尉殿から音信があって少しだけ驚きましたが…貴方ではないようですね?」
「私ではない。患者は寝台に居る」
自分の肩ほどにしかない男を伴ってSは現れた。
「これは…?」
Sよりも幾つか年上らしい男は関口を指して訊いた。男は黄土色をした制服を着ていた。足元は黒い長革靴である。髪は短く刈っていた。
「父から送られた向うの猿だ」
「成程、指猿アイアイ、ですか」
「暫く断食をしていたようでね、躰に変調があったらと思って君を喚んだのだが」
「了解しました。では、脈を拝見」
手首を握られそうになって、思わず関口は身を引いた。
両眉を上げて男はSを見る。くつくつと苦笑してSは寝台に歩み寄り寝台の脇に腰掛けた。
「ほら、悪いようにはしないから」
Sは関口へ手を差し出した。
「ほら、」
俯いた関口は唇を薄く噛んで、怖怖と腕を出した。Sは肘の辺りを掴み男に差し出した。
「で、では脈を拝見」
手首に左手の中三本の指を当て、懐から出した時計を見やりつつ、脈を数えていた。
「正常、です。では口を開けて下さい、」
舌と咽喉を調べ、次に関口は寝台に横たわり、胸を測らせた。
その間ずっとSは関口の手を握っていた。
「ほぼ、正常です。少々栄養失調気味なのと、気になる外傷…痣はありますが、」
ちらりと関口を見る。
「栄養になる注射を打っておきましょうか?」
有無を言わさず、男は蝦蟇口の黒い鞄を開けて注射器を出して針を装着し、関口の青い腕に宛がった。
ゆっくりと透明な液体が関口の中へ押し入るかわりに赤い鮮血が注射器の中へ伏流する。
それを関口は為されるがままに見詰めていた。


「血を見るのは厭?」
「怖かった…」
枕に突っ伏しながら関口は答えた。
「軍人、なんですね」
「誰が?」
「Sさん」
「あの人は軍医でしょう?」
「そう。だから今は少し睡ったほうが好い」
うつ伏せになっていた関口を仰向けにさせるとSは関口の髪を掻き上げて、額にそっと唇と落とした。
「少し睡ったほうが好い。睡つかれないのなら、何か読んであげよう」
眠れぬ子供に囁きかける。
"Shall I love you?" said the Swallow, who liked to come to the point at once, and the Reed made him a low bow. So he flew round and round her, touching the water with his wings, and making silver ripples. This was his courtship, and it lasted all through the summer.
Sの声は優しくて、外に降る冬の雨ほどに柔らかで、関口はゆっくりと眠りの坂を転がっていった。


軍服姿のSは昼過ぎに帰ってくることが多かった。その度にSは颯々と着替えて百貨店へ関口の服を見立てつつ西洋料理やミルクホールへ出かけた。
女給たちがいつも意味深長な目線を投げかけてきた。
それを不平気味にSに云うと「君ほどの若さの人間が此処にくることはないからね」と軽く流された。
Sを見るたびに不思議だったのは、此の若さで大尉と言うのは相当な高官だと思うのだが、Sは取り立てて役職には無いらしく、いつも閑そうにしていることだった。
関口は眼前で着替える男の筋骨の美しい肢体を熟視めつつ、考えていた。
「何?」
「いいえ。今日も本を読んでくれますか?」
関口はSの膝の間に入り、背をSに預け、彼の声を耳許で聞くことを好んだ。
時々Sの手が関口の足の付け根で悪戯をした。


陸軍省内でSは同輩の男に声を掛けられた。
「大尉、」
生憎と名前を失念していたが、顔には見覚えがあった。階級はSと同じだったが、年齢は上のはずである。
「何かな?」
「少々お話があるのだが…」
「また今度にしてくれないか。今は忙しい」
「最近頓にお帰りが早いようだが?」
Sは薄く笑った。
「猿を飼っていてね。甘やかしたいんだ。失礼するよ」
身を翻すSの後ろで男は敬礼をした。
「どうだ、大尉は」
「なんと言うか掴み処の無い人だ。猿を飼っているらしい」
「ああ、お父上は南方の博物学がご専門とか聞いたな」
「子爵が?」
「諾。大尉のあの変人ぶりに上も変な役につけるわけも行かないようだ」
「ほう、」
「士官学校も帝大も出て尚且つ英国留学した名うての秀才だ。温存しているという話もあるが」
「どういうことだ?」
「だからさ、切れすぎて困っているんだよ。有事には強いが、その反対の状況では只の疫病神だだろう」
「しかし、あれだけ見場のする男も中々いないな」
「天の与えるものは二物も三物もあるんだろうよ」
廊下で二人の青年将校は息を落とした。


「関口くん、」
すぐ傍で低い声が聞こえた。耳朶を擽って、寝台の中で躰を丸めていた関口は己の肩を竦め、頬に摺り寄せた。
「そろそろ起きて」
深く寝入っていた処を起こされて、酷く関口の返事は胡乱なものだった。漸うと薄目を開けると視界いっぱいに、家の主の顔があった。
「おはよう、夕方だよ」
軍服の侭Sは関口の両脇に手を着き、其の儘寝台の住人の頬に唇を落とした。寝台の端にSは腰掛、関口が上肢を起こすのを眺めていた。
そして関口の目が驚いたように大きく瞠いた。
「あの…その恰好は…」
軍服と言っても常のものではなく、所謂礼装だった。濃紺地に胸の左右には金釦が縦に並び、腕にも金糸の刺繍と、襟には左右ともに金の星形が三つ並んでいた。
礼装に身を包んだSは実に美しくて一瞬関口は言葉を失った。
「似合わないかな?」
「否っ…あの…その…」
眼前で否定を意味するように両手を振って見せた。Sの関口を熟視める双眸は蒼く清廉で、その眼差しに関口は声を萎ませつつ俯き小声で「綺麗だなって」と答えた。
頭を撫でられる。
「これから出かけるから」
「え…だって、もう夜ですよ?」
「夜だからこんな恰好をしているんだろう?今日は関口くんと夜会と洒落込もうと思ってね」
「夜会?」
「着替えてくれ、」
寝台の上にSは大きな箱を置いた。関口は箱を開けてあからさまにたじろいだ。
「こんな恰好…何処に行くんですか?」
「それは行ってからのお楽しみだね」
Sは寝台の脇で着替える関口を、キネマを見に来たようにじっくりと眺めやっていた。
「余り、そう見ないで下さい」
「折角の着替えなのに、勿体無いだろう?」
「Sさん!」
恥ずかしさに堪え切れず、声を荒げた。
「怒らないで。見るなと言うなら見ないよ」
苦笑しつつ、Sは関口に背を向けたが、硝子に映った関口の姿を鑑賞することとなった。口元に笑みを刻んだ。



「生憎車夫まであの人についていってしまってね。私に貸し出されたYは車の運転は出来ないし」
黒塗りの車を運転しながらSは快活にそういった。
「あの…何処に…」
「もう、着くよ」
幾何学模様を彫刻した大谷石、黄色い煉瓦を外観に配し、水平に深い軒が目立つ。それは何処か日本ではない、面影を秘めていた。
「此処は?」
「帝国ホテル。今日は陸軍の主要幹部とその他の華族と宮家、そう、愛新覚羅とかもいるらしい」
「Sさん!」
「何?」
「そんなところに僕が行っても…」
「大丈夫だよ」
背を押され、 Sが現れたことに、人人の声と吐息で細波が構成されるのを聞いた。Sは細く丈の長い硝子碗を給仕から一碗受け取ると、壁に己の背を押し付けた。舞踏場へ二人で向かい合う態勢になった。
「呑む?」
「…苦手だからいいです」
「舐めるくらいは」
「…厭です…」
関口は顔を俯けた。人の目線の集中砲火に曝されているのだ。Sは馴れているのかまるで気にした様子も無く、盃の中の薄黄色く泡を内包した酒を飲み干すと硝子碗を給仕の盆へ戻した。
「そんなに恥ずかしがらないで。大丈夫、君は可愛い」
関口は長袍を着ていた。淡い黄色地に全通の宋錦、縁取りは薄黄土色と紺色の三段に襟は詰まって花釦が一つ頸元を飾り、裾上六十センチから脇まで三つの花釦が止めていた。下に履くものは黒色のズボンで、のっぺりとした黒い革の靴を履き、まるで関口は迷い込んだ唐子のようだった。
先刻車内で唐子のようだと云う感想を口にすると「頭にお団子を二つ作ればよかったかな」と大笑いをした。
「猿に似ているって云ったくせに」
「指猿を見たことはあるかな?」
「無いけど」
「今度、写真を見せてあげよう。大きな円らな目と大きな耳をした可愛い奴だ」
Sの手袋を嵌めた長い指が壁際の半円形をした卓子へ伸びた。その上では伊万里窯の色彩豊かな花瓶に活けられた白い寒椿の花頸を手折った。
そして関口の右耳へ飾る。
「…恥ずかしいのですが…」
「そうかな?」
声を上げてSは笑った。
「さあ、お披露目だ」
「何のです?」
口元でにやりと笑ったばかりだった。
室内楽はワルツを奏でた。三拍子の軽快さ。幾人かの女性がSに歩み寄った途端、Sは壁の花になることも、彼女らの相手をすることも拒否して関口の手を引いた。
「踊れませんよ!」
「ダンスホールで幾度かみたことがあるだろう?」
「…それだけじゃ…絶対っ無理!」
「大丈夫、私の顔を見て。君はちゃんと踊れているよ」
不適に陸軍の礼装をした男は笑った。
実際関口は足がもつれると思っているのに。
「あなた、明日には変な噂を立てられますよ?」
関口は顔から湯気が立ち上るような熱さを感じる。
「何故?」
「何を好き好んで男同士でおどっているのかって。しかも支那服を来た子供となんて」
「女性の過剰な脂粉は苦手だと答えるさ」
背の低い関口のために腰を折って、その耳へ囁きかけた。
「知っているかい?ワルツは常に革命と共にある。人々の熱気を誘発する。否、熱気があるからこそ、ワルツを好むのか。千八百年の墺太利からそれは変わらない。今も此の危機的状況の中、実に優雅に踊り酔い痴れている。……これからの日本は何処へ行くのか」
「Sさん?」
真摯な目でそんなことを語ったことは共に暮らして半月も過ぎたが、実に初めてだった。
「まあ、私にはどうでもいいことだね」
嘯いて、Sは関口の膝裏を救い上げ、抱き上げた。長袍の裾が空気抵抗を受けてふんわりと持ち上がった。る。そんなふりはワルツには無い。
「何するんだ!」
関口は自分の腰辺りにあるSの肩を掴む。
「関口くん、どうせ人の耳目を集めるのなら、此処でキスをしようか」
そういったSに酷く胸が高鳴った。そしてもう一つ、囁かれた。
「Shall I love you?」


それに諾と答える以外に何があるだろう。


関口は車から降りて家内に入り、寝台に腰掛けるまで一歩も土を踏まなかった。
軍服を脱ぎ、関口の長袍の花釦を外した。
「待って。待って、Sさん」
「何?」
「……僕の躰には…傷があるんだ…。人に…着けられた…故意に」
関口は唇を噛んで俯いた。
「知っているよ」
「え、」
「此処に連れて来た時に君を湯浴みしたのは私だからね。青黒く変色した痣や残ってしまった傷痕も見た。薄らと残る花弁のような痕もね」
「僕は…逃げてきたんだ…。学校の同級や、弟から。Sさんと会ったあの日、あの侭死んでしまっても好いと思った…」
Sは瞼に外国人の親子がするように音を発ててキスをした。
「良かった。君を死なせなくて」
Sは唇と舌と手で関口を蕩かして行く。自然と唇から漏れる声をいつものように押し殺そうとすると、それをSは咎めた。
自分の腰に熱が集まる。Sは自分のそれを関口に触らせて、寝台に腰掛けた侭の、関口の股間に顔を埋めた。
口で愛撫された。
幾度も弟に弄られていた。彼は関口に執着した。
だからこんな風に好きになった人に抱かれることなど思いも寄らなかった。
弟との間と、同じことをしているのに、逃げだそうと言う気持ちは何処にもなかった。Sはゆっくりと時間をかけた。関口の反応を見て楽しんでいる風でもあったが、少しも厭ではなかった。彼の掌で遊ばれることが心地よかった。


未明から振り出した雪に、身を寄せ合って眠っていた。
寒くて手も足も絡め合っていたのだが、関口が起きてみると寝台に横たわっているのは自分ばかりだった。
時計を見る。
未だ出省する時間ではない。
雪の静けさと室内の寒さに、厭な予感がして、裸の侭扉を開けた。
軍服の男が階段を上りきった処だった。
「なんて恰好だ」
くつくつと笑ったSの肩には雪が乗っていた。
「何か、あったんですか?」
「大丈夫、此処には何も来ない」
「え、」
「歩兵第1連隊、近衛歩兵第1連隊、歩兵第3連隊が決起したらしい。外では戒厳令が布かれている」
「Sさん…!」
「次善の策は講じたよ。近日中に事態は収束するだろう」
手袋を外して、Sは関口の頬に手を当てて、その侭抱き締めた。
関口はSの手を取って「will you let me kiss your hand?」と訊いた。
「you must kiss me on the lips, for I love you」
寝物語に幾度と無く読んでくれたTHE HAPPY PRINCEは暗誦できるまでに憶えていたのだ。
関口はSの唇にそっと唇を寄せた。
「関口くん、この事態が収束したら、家に戻りなさい」
「……それは…出て行け…と云うこと…ですか?」
「君が望んでくれる限り此処に居れば好いと思っていたよ。君を此処へ連れて来た時からね。私には君一人を庇護するだけの甲斐性はある心算だ。でもね、それでは君が可哀想だ」
「可哀想?」
「ラプラスの魔物などいないんだよ、関口くん」
「なんですか、それ?」
「それさえ知らない君にはもっと別の道もあるっていうことだ。もし再び君が私に会いたいと思うなら、高等学校生として此処へくればいい」
Sは関口をきつく抱き締めた。
雪は何処までも静かで外界で起こる異変さえ、吸い取ってしまっているようだった。その日は記録的な大雪と共に、皇道派青年将校による史上稀に見るクーデター未遂として歴史に残ることとなった。


黒塗りの車が橋の袂で停車した。 寒風が吹き荒ぶ。あの日メリヤス一枚であったのに、今は紺色の外套を着て襟巻きを巻いていた。関口はSに拾われた橋の袂で下ろして貰った。 車を運転しているのは勿論S自身である。
「Sさん、あのぅ」
「何だい?」
「名前を教えて頂けませんか?」
関口はついに此のとても控えめに云って、風変わりな青年の名前を知る機会を与えられなかった。くつくつとSは苦笑して、「いいよ、」と言ったが、僅かな間を置いて口を噤んだ。
「Sさん?」
「否、止そう」
「そんな、」
「今度はちゃんと出会って、先ずは名前の交換から始めよう。実に常識的な、人の交わりを」
不平は残ったが、関口は従順に頷いた。
「君がそれまでの間誰を好きになろうと構わないが、次に出会った時には私も容赦しないよ」
「容赦していたんですか…?」
「弟と似た年齢の子供を相手に本気にはなれない」
あんなことまでしておいて、と関口は心の内で呟いた。
「弟さんがいるんですか?」
「いるよ、屋敷にね」
少しだけ沈黙した。実際関口はSの何も知らないのだ。
「……次は教えてくださいね、名前」
約束だ、と言ってSは関口の頬を大きな手で撫でた。
それが関口巽の家出の終わりだった。



「君は猿に似ているね、」とのたまう男に出会うのは、それから三年余後の出来事である。
顔は何処も似ていない。
色素の薄い瞳も毛髪も、彼のものとはまるで違った。
背が高く、快活で、趣は違うけれど美しい面をしていることは一緒だった。
それでも容姿端麗で傍若無人な彼を見たとき、「血は争えない」と関口は思った。






03/06/06





総一郎(捏造)×関口。
時間が無くてまた駆け足で適当です。
昔メルフォだったか、拍手だったかで、マイフェアレディなネタを振ってくれたことがあって、
風呂場で考えてました。
ではでは

タイトルはオペラアリスさまからお借りしました。