如喪人



其行来渡海詣中國 恒使一人不梳頭 不去虫幾蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若疾病 遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹
魏書第三十巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条


 戦艦の船倉甲板を一人で歩く。持ち場から遠く兵員室より更に下層にある此処に来るのはそう多く無い。圧迫感と湿度を感じるのは此処が船底で同時に水底でもあり重油槽や数多の缶室が並んでいるからだ。
 大学の最終学年の中途で出征となった。勉学に然程の情熱があったわけではないが、それでも意思とは違う処に路があると言うのが口惜しい。

物音がした――

缶室の起動音が聴覚の殆どを埋めている中、密やかな音だった。声だったのかもしれない。榎木津はその小音を巧みに拾いながら或る一室に辿り着いた。艦首方面の倉庫だろう。中排水区画の近くだった。船倉は窓もない鉄の扉が鉄の壁に等間隔で並んでいる。足場は床板も張られず錆止めこそされているが剥き出しの鉄製だ。一つの扉の棒状の把手を降ろして引いてみた。開かない。物音はしなくなっていた。その代わり遠く缶室の方向から人の声がする。慎重に進み、榎木津は少し行った先の扉の把手を捻った。開いた内部は暗かった。ただ暗く、ドラム缶や鉄箱、木箱があり倉庫だと思った。
だけれど、臭いが鼻をつく。
饐えた有機系の臭いで、船の特有のそれともまた違っていた。入り込んでしまった鼠や小動物の腐敗臭とも違う。榎木津は木箱やドラム缶を動かしてその先にある空間を見つけた。

人が居た。

思わず粟立つような酷い臭いがしていた。
「だれ、」
誰何する小さな声に「君は――」問い返そうと知て絶句した。
扉には白手袋を挟んできた。内部は文目も分かぬ闇のようであり、僅かにも灯りが必要だったのだ。細い細い糸のような光の条に中の誰かが照らし出された。長く伸びた艶の無い髪、顔の下部を覆う髭。膚は垢で汚れていた。
「あ……早く……出て行ってください」小さな密やかな声だった。
「君は、誰だ」
凝々と見上げられた。汚臭を放つ男は見蕩れていたのだ。光の無い昏い眼だった。
「君は猿に似ているね――」
今此処で言うことなのかそれはと言う男の感慨は終には口に出来なかった。
「早く、出て行ってください。――僕は、持衰なのです」
「なんだいそれ。どんな字を書く?」
男は頸を振った。僕の存在は伏せられている筈です。僕は此の船を守護するために穢れを帯びている。もし不犯を守らず船が暴害に遭えば僕は殺されるでしょう。
「僕は生きていたいのです。――学業の途中で召集令状が来た。陸軍に往くはずだったんだ。でもドウジマと言う男が」と其処まで言って口を噤んだ。
その間も男は何か指先を鳴らしていた。
「あんたが入ってきてからの数が解らない」時を計るために男は数えているようだった。
「三百七十九」
榎木津が答えると男は眼を瞬いた。
「じゃ……じゃあそろそろ人が巡回に来る。あんたは早く出て行って」
陸軍ならまだしも海軍に旧弊な因習が未だ残っていることに露骨に榎木津は顔を顰めた。
「この船が沈むことがあればそれは僕の所為なんだ」
「沈むようなことがあれば君を助けに来るよ」
如何にも軽く榎木津は答えた。
「え、」
酷い汚臭だ。付き放題の垢と集り放題の蟲。近くに缶室があるだけに此処は少し気温も湿度も高い。部屋の片隅に辛うじて便器のようなものを見つけた。船の守護なのでは無い。彼は人身御供なのだ。捧げられた羊の死体のようなものだ。
榎木津は男の眼を覗く。昏く、那智黒石のような眸子を更に凝視すればその奥底に光があった。そしてそれを見ると榎木津は小さく笑い、髭に覆われた脣に、脣を重ねた。歯を磨くこともない口は異臭を放っていただろうに気にしていないようだった。
「君を――殺させない」
男の顔に朱がさしたような気がした。
 船底甲板を歩み榎木津は小さく小さく呟いた。
――生贄を捧げねばならない戦艦(くに)など沈んでしまえば良いのに
「さてアメさんを驚かせに行くかな」

 船は沈むことなく、国は敗戦を負い榎木津は眼を負傷こそすれ復員した。能弁家の嘗ての後輩に早々に会いに行ったのはあの男の『持衰』なるものを訊くためだった。兎角なんでも覚えている男は戦前とまるで変わらない様子だった。ずっと此の座敷に座り続けているようにも思えた。
「持衰とはその船が凡ての行程を無事に終えれば生口や財宝が与えられたらしいですよ。けれど国自体がこの状態ですからね、」今はどうなっているか解らない。と言うことだった。いつか邂逅うことがあるだろう。榎木津は天井を仰いだ。船の中で隠されていた存在である彼に逢ったのだから。
滅んでしまえば良いと思った国はもうないのだ。榎木津は彼の眸子の奥底に隠されるようにあった小さな小さな光を思い出し自分の脣を触った。




(2018/10/08)