midnight dejavu
じっとりと暑い。 物憂いジャズのテノールサックス奏者を凝乎っと熟視めていた。薄暗い店内の猥雑な賑やかに身を埋めていた。橙色をした空間は如何にも気怠い。鏡の円球に光が反射して渦を作る。 手の中の硝子碗のウィスキーは半分も減っていない。そもそも酒類は苦手で、今にも頭痛がしてきそうだった。 女性の甘い歌声が耳朶に触り、関口は今の此の状況を持余し気味なことを再確認した。 左脇に座る、関口を此処へ誘った男はその向うにいる女性と密接に沿ってへらへらしている。酒も進むようで、関口の右脇にいる女性がせっせと酒を作っていた。 場違いなことは否めない。 夕方に研究所にやってきたルンペンさながらの男は調達してきた米軍車に関口を乗せて此処へやってきたのだ。 「だいじょうぶですか?」 見かねたのか隣に座る女性が声を掛けてきた。 先刻から顔を見ることが出来ない。精精彼女のスカートに包まれた膝頭や肘くらいだった。 「え、あ…。ええ。鳥渡、酔ってしまって…」 「おしぼり持って来ましょうか?」 「え、」 関口の返事を聞くまでもなく女性は立ち上がった。 硝子碗を揺らすと、音は無く、見れば氷は既に解けて消えていた。 舐めるべく硝子碗を口に持ってゆくと、氷は解けたのに、アルコールの臭気は相変わらずで鼻腔を突いて、それだけでもう口を着ける気力は無くしてしまった。 「暑…」 額に手を当てると、すっと折畳まれた白い手拭いが眼前に差し出された。 「どうぞ」 思わず顔を振り仰ぎ、初めて女性の顔を直視した。 長い髪を束ねて、人の目を真直ぐに見ていた。白いブラウスに青いスカートを履いて─────美しい女性だった。恐恐手を出しお絞りを受け取った。 「ユキちゃん、どうかしたの?」 「こちらのお客さんが、辛そうだったから」 言い繕うかのようにユキは言って、関口の横に座りなおした。手には氷水があってそれを手垢だらけになった硝子碗と取り替えた。 「関、」 男の低い声がして手が関口の頭を掴み、関口の首を回した。 「大丈夫か?」 「……」 言葉を─────喪う。 思わず瞼を伏せ、薄らと水滴を白く浮かべたか硝子碗を掴み、氷水を口にした。 「榎木津さん、その人ユキちゃんに参っちゃっているんじゃない?」 はしゃぐ声が耳に障った。体が熱い。到底思考などは無理な話だった。 「綺麗でしょう?ユキちゃん」 女の声に窺うようにして、ユキを見た。 口元に戸惑うような笑みがあった。 「ユキちゃんて…ふふ、あげまんって有名なのよっ」 あげまんと言う言葉を囁くように言った。下卑た言葉に、迷惑そうにユキは顔を顰めた。 「止して下さい」 そう言うユキの顔は酷く清廉なもので、到底酒場の女の相貌には見えなかった。 「ふふ、そっちの人、なんだか如何にも幸薄そうだから、ユキちゃんに相手して貰うと好いんだわぁ」 空気中の湿度が一割ほど上がったようだった。思わず手拭いを額に当てた。 関口の頭に置かれていた榎木津の大きな手が退いたのかと思うと開襟の袷が咽喉を圧迫した。 襯衣の襟を掴まれたのだ。 「関、出るぞ。君、勘定」 榎木津の隣に座った女性が席を立つ。 関口は氷水を口にした。 テノールサックスの奏者が目に入った。その脇には赤いナイトドレスを着た女性が身をゆっくりと揺らしながら唄っている。ドラムとベースのビートは心地よかった。ピアノ奏者の男性の指が白い鍵盤に踊っている。到底あんな風には演奏なぞできない。関口は些かの尊敬の眼差しで彼らをみつめていた。 「行くぞ」 肘の下を掴まれ、関口は席から引きつられるように発った。 榎木津の強引さはいつものことだった。 「せきさん」 涼やかな声が関口を呼び止めた。 「は…い…」 榎木津の歩みが止まる。関口は声の主を振り返った。 酒場に有りながら酩酊も耽溺もしていない、多蕩でもない、涼やかな女性だった。 「また、来てください。次は…もっと楽しい席にしますから」 そういって頭を下げた。 慌てて関口も頭を下げ、上げると同時に榎木津は歩みだした。 帰りの榎木津の運転は酷いものだった。 神保町の彼の住処に着いた時には便所へ駆け込み吐瀉してしまった。殆ど食べ物も入っていないので水と胃液ばかりが搾り出された。 「酷いよ、榎さん」 そう小さく非難して、関口は革張りの長椅子へ身を横たえた。一瞬冷りとするその感触が好きだった。 肘置きに項を押し当て、頭を逆様に下げた。 両の鎖骨の境の窪みを榎木津が舐めた。 「ひっ」 息を吸う。 「塩っぱい」 「榎さんっ」 「風呂でも入って来るんだね。今和寅に沸かさせているから」 慥かにボイラーの音が聞こえる。 「あの、僕気分が…」 「そんなに呑んでいなかったし、僕の運転で酔っただけだろう?先刻吐き出したみたいだから、風呂に入いればすっきりするよ」 どうやら能く見ていたらしい。 「榎さんの運転は乱暴だよ…」 「今日は特に乱暴だっただろうね」 「え、」 首を持ち上げて関口は榎木津の顔を正面に見た。 その秀麗な容貌は見慣れたとは言え、『不意』には見蕩れてしまう。 否、固まってしまい、それを繕う為についつい俯いてしまう。先刻の店でもそうだった。 「焼餅だよ、関くん」 「は?」 榎木津の口から聞き慣れない単語を聞いた。恐恐と顔を上げればいつもの人を揶揄う時の顔をした榎木津がいた。 「君があそこの女の子と仲良さそうにしていたから、腹が立ったんだ」 そういって唇を合わせた。 「……吐瀉物の味がする、」 榎木津との逢瀬は度々のことだ。 嘗て榎木津に縋ってから─────。 安寧の均衡を欠いた時期があった。 あの時の関口には、強く激しく乱雑に受け止め、思考の一つもさせないようなそんな存在が必要だったのだ。傍には打って付けの男がいた。榎木津は関口が希めば、朝に無く昼に無く夕に無く関口を抱いた。 そして中禅寺秋彦が妻を娶ったことへ、あらゆる思考を奪ってくれたのだ。あの頃の関口は自分の殆どを中禅寺と言う男に預けてしまっていたから。 二人の関係が変化したことは、誰にも報せなかった。寧ろ知られることは恐ろしく、内密にしていた。……木場などは未だに知ることは無いだろう。然し、それでも中禅寺は矢張り中禅寺で、敏感にそれと知ったようだった。中禅寺の苦い顔をした、冷ややかに関口を見たあの瞬間が─────忘れられない。 二人の関係は、常に主導権榎木津にあるように見える。時に関口もそう錯覚することが度々だ。けれど実際には関口が縋ってそれを如何にも鷹揚に榎木津が受け止めたのだ。 ─────負い目がある。 榎木津と言う男は慥かに破天荒な男だが、決して無知でも無神経でもない。 あの榎木津礼二郎と言う男が関口に想いを掛ける筈も無い。だからこそ、関口を抱いたというそれは彼の良心以外の何物でもないのだ。 彼の良心が関口を自我の崩壊から救ったのだ。 白昼の人目の無い路地裏で。共に入った飲食店の汚らしい便所で。主人のいない家屋で。人から借りた車の中で。 不意に起こり来る猛々しい劣情に、榎木津は応えてくれた。 榎木津は優しい。それは眩暈がする程。……だのに、己れは───── 水音をさせて関口は顔面を水に浸した。 「人の家で自殺するな」 「…え…」 些か慌てて水面から顔を上げ背後を振り返ると、出入り口の扉を開けて榎木津が壁に肩をもたせてあの大きな眸を半眼にして此方を熟視していた。 少しだけ機嫌が悪いように見える。 榎木津は浴槽の横まで椅子を持ってきた。 浴槽に椅子の背凭れを向けた。榎木津はその椅子に跨り背凭れに肘を乗せた。 「な、何ですか?」 「躰でも流してあげようかと思ってね」 シャワーカーテンを引いていけば良かったと関口は浴槽横の白い帳を睨んだ。 天井の高い風呂場だった。白いタイルは関口の身長程まで張られ、それかた天井まではベージュ色のコンクリートの壁である。 角を挟んで東と南には上下に開く窓が二つあった。白い窓罹がその両方に懸かり、此の夏の夜の気紛れな風に少しだけ揺れた。此の家主にふさわしい大きな猫足の浴槽が東側の窓近くに置かれ、真鍮のシャワーが壁を張って、その蛇口を浴槽の上に向けていた。 そして此の風呂場には暖熱器具と北側の壁に向けたれた机と椅子があったのだ。 「どうして此の風呂場には椅子があるんですか…」 「着替えを置くためだよ」 あっさりと榎木津は答えた。 浴槽の湯を掬って、関口の薄い肩へ水滴を零した。 「退屈して寝てしまうから、早く出てくるんだね」 そう云って榎木津は椅子から立ち上がり浴槽に背を向け、机の上に藍色の浴衣を置いた。 扉の向うに家主の背が消えるのをみつめていた。 あの頃、榎木津が示した慈悲の御蔭で関口は自分の両足で此の地上に立てている。 今は、もう─────。 不思議でならないのは、何故今も関係が続いているのか、だった。 浴槽の漏斗を抜き、真鍮の蛇口を捻った。放水と共にシャワーカーテンを引く。 窓に掛かる帳が揺れた。 驟雨が自分を打ちつける。 榎木津への思慕など、きっと彼は許さない。彼は惰性で此の関係を続けているだけで、関口のことなぞ歯牙にも掛けていない。否、こんな貧相な、況して男なぞ態々榎木津が相手にしなくても良いのだから。 水に濡れる髪を掻き、顔を上げた。 それまで音楽などとは関わり合いの無い人生を送ってきた。 自分が音階が絶無であることは知っていた。だからこそ関わりあうことは無かった。 だけれど、三年ほど前に何処かの飲み屋でラヂヲから流れていたパティペイジを「好いな」と口にしたならば、翌週には榎木津にベースを持たされていたのだ。 いつまで経っても上手くならない関口に腹を立てたのと、ジャズバンドに飽きたので榎木津は既に演奏側からは外れていた。 「関さん、」 カウンターで大麦蒸留酒を舐めていると、横に女性が座った。 見ればそれはあの時の女性で、名前を何と云ったかすっかり失念していた。 「お越し下さったんですね」 ゆっくりと女性は笑みの表情を形成した。 「あ、否…」 此の店に彼女が居ることすら忘れていた。 ただ、あのアルトサックスがもう一度聞きたいな、と朧げな記憶を頼りに此処に辿り着いたのだった。 「忘れていたんでしょう?」 「え、」 「私のことなんか」 「……あ…」 虚言でもそんなことは無いと云えれば良かったのだが、口が悖った。俯く。 「いいんです。此の間も関さんは私の顔なんかはっきりと見ていなかった、」 俯いた侭目だけを女性の目へ向けた。 笑んだその顔は何処か寂しそうだった。女性は関口をじっとみつめ、関口は目を反らせた。 「あ…あの…」 「はい?」 「僕は…関じゃなくて、関口と…云うんです…関と言うのは…榎木津が…。あ、榎木津と言うのは…」 それは榎木津の己れへ向けての呼び名だった。 「あら、そうなんですか。それじゃあ、関口さん」 「は…はい…」 「躍りませんか、」 「否僕はそういうの、苦手で…」 口の中が乾き、声が上ずった。 「やっぱり」 「え、」 「関口さんはそういうのしない人だと思ってましたから。だから想定の範囲内です。気にしないで下さい」 莞爾と笑う女性の顔を窺い見るように恐恐と目線を向けた。 その女性は煩瑣でない程度のお喋りで尚且つ能く笑った。勘定を済ませて帰ることには少しだけ打ち解けた気にさえなった。 「また、いらして下さいね」 店のネオン前で、殆ど同じ目線の女性は矢張り寂しげに笑った。 「それと、私は雪絵と云います。今度来たら、指名して下さい」 「雪絵、さん?」 「源氏名じゃないですよ、本名です」 そう云って雪絵は頭を下げた。 人の名前を知って、関口は自分の顔が朱の染まることを自覚した。 じっとりと暑かった。熱気に汗腺が押し開かれて、じわりと躰液が涌く。 関口は身を捩った。 薄く目を開ければ長椅子の横に榎木津が座っていた。どうして自分が此処へいるのか解らなかった。 「わぁ!…え、榎さん…」 「何をそんなに驚いているんだ、君は」 語気も荒くそう叱られ、榎木津が関口の襟元を掴み、鼻先を関口の首筋に寄せた。 「酒、と女の香水の匂いがする、」 「え、」 「アソコへ云ったのかい?」 「榎さん、」 「また、女にでも喰われたか」 「な…何を云うんだよっ」 両手で榎木津の胸を押した。いつも朗らかで人を揶揄う様子の榎木津が、今は違った。 もっと…もっと醜悪で…美しかった───── 何故か瞬間的に榎木津が何処か遠くへ行ってしまったような感覚に陥った。 榎木津は両手を上に向けて開いていたが、ゆっくりとそれを結んだ。 「あの、あげまんだとか云う女の股の間に、」 乾いた音がした。 そして自分の手がひりひりと痛かった。 榎木津の頬が薄らと赤味を増した。 自分が榎木津の顔を殴ったことに気がついた。 「何だ、満更でも─────無いのか」 「………」 何故か何も云えなかった。 「─────今日は帰れ、」 「え、」 「帰れ、関」 静かな声だった。関口は榎木津を見上げた。 「帰れっっ」 怒鳴り上げられた。 下宿の鍵を榎木津の処に置き忘れて、関口は仕方なく大学の研究室へ真夜中に忍び込んだ。夜に光を発する粘菌の検体がか細い光で関口を迎え入れた。 以前から榎木津と言う男は解らない人間だったが、此処数年は益々理解し難くなっていた。 彼の行動には一々「何故」と言う言葉が付き纏う。 何故あんな風に榎木津は自分を怒鳴ったのか。 関口はシャーレの中に水を一滴垂らすと、研究室内の薄汚い長椅子に靴を脱ぎ身を沈めた。 音痴だが音楽は好きで、実際幾つかのレコードを所有している。僅かな道楽に入るだろう。酒も弱いが好きな範疇に入る。最も一人で呑みに行くなど今までは考えられなかった。 何故か足が向いた。 あの店に。 ─────幾度も。 京極堂の電話の呼び鈴が鳴ったのは、午后の十一時を廻っていた。 「もしもし」 女性の声だった。 「古書肆京極堂ですが、そちらは?」 「あの…関口さんが…酷く酔ってしまって…」 「関口…くん?」 「ええ。関口さんの腕にそちらの電話番号があったものですから、」 家主の男は些かの溜息を吐いて、電話向うの女性に訊いた。 「住所を教えてください、引き取りに行きます」 店の端で幾つも椅子を並べて寝かせられている人物がいた。 額には濡れた手拭いが宛がわれている。そしてその傍らには─────女性がいた。 「中禅寺、さん」 その女性は少し寂しそうに笑って、京極堂の姓を呼んだ。 片眉を挙げ和服の男は一瞬顔を顰め、やがて驚いたようだった。 「ああ、ええと…雪絵、さんだったかな?」 「憶えていて下すったんですね」 「僕は兎角物覚えが好いので、」 「此の人も、榎木津さんも私のことなんか、全然憶えていないんですから」 「関口くんは物覚えが悪いし、榎木津は人の名前なんか憶えようとはしないんですよ」 「此の人を懐かしいと思ったのは私だけなんですね」 「まさか酒場で甘味処の看板娘が居るとは思わないでしょう」 「そうでしょうか?此の時勢に一人で生きなくちゃならない女は、こんなところででも働かなくちゃ」 「ご両親は、」 「私を残して皆三月の空襲で」 天涯孤独と成りましたと、雪絵は寂しそうに笑った。 「そうですか─────何かあったら、僕も力になりますよ」 そう云って中禅寺は関口を担ぎ上げた。 店の出入り口のすぐ傍に横たえられていたので、車まではほんの数歩だった。 生バンドの気怠いジャズの音色へ中禅寺は目を向けた。如何にも関口が好きそうな曲だった。 「中禅寺さん、私、先刻関口さんに求婚したんです」 車に乗り込もうとしていた和服の背に雪絵は告げた。 軽快なピアノと拍子を刻むドラムが聞こえていた。 ゆっくりと中禅寺は振り返った。 「関口さん、頷いてくれました」 「珍しいですね、貴方がいらっしゃるなんて。私のこと、好きじゃないと思っていんですけど」 あの時に軽蔑するような冷たい目線が忘れられない。 「女の子を嫌うことは滅多には無いよ」 「じゃあ、私は例外ですか?」 「雪ちゃん、」 「はい」 莞爾と雪絵は笑った。 囁くような生バンドの女性歌手の唄声が揺蕩う。 「出られる、かな?」 長い指が向けられる。人差し指と中指の間に高額に紙幣を挟まれていた。 「……ママに、聞いてきます」 夜の川は真っ黒で、辺りのネオンの色合いと舟に掛かる提燈の橙色がその多面体の水面に反射していた。 障子を開け、舟の上から二人は夜の街を眺めやった。 「水の上は未だマシですね」 「何か呑む?」 「要りません」 雪絵は手巾で額を抑えた。 「─────中禅寺さんから訊いたんですね」 「諾」 「怒ってますか?」 「自分をね」 「まあ、」 「君に付け込まれるとは思わなかったから」 「でも…貴方も…そうやって中禅寺さんから関口さんを盗ったんでしょう?」 「人聞きの悪い」 「あの頃の関口さんは傍から見ていても中禅寺さんにべったりだった」 その大きな目を半眼にして雪絵を見据えた。 「関の何処がいいんだ。雪ちゃんなら他にもっと居るだろう」 「それはそっくり其の儘貴方に返します。でも、強いて言うなら、彼の眼、」 男は雪絵を熟視めた。 「気弱な、おどおどとした、人を窺うような、あの眼。あんな眼で熟視められたら、」 嵌るか殴りつけるかのどちらか、だ─────。 「もうあの人は貴方のものじゃない」 雪絵はそっと微笑んだ。 「榎木津さん─────」 金は無かったがせめて式は挙げたほうが良いという友人の意見を入れ、料理旅館でささやかな神前式と披露宴を行った。すると友人の細君は花嫁の婚礼の支度を引き受けてくれ、酷く美しい花嫁と袴姿の獣の婚礼と相成った。 仲間内だけでの本当にささやかなものだった。 手水に立ったところで、酷く久方ぶりに関口は一対一で榎木津と対面した。 細身の濃灰色に淡灰色の縦じまが入った背広で棟には朱のスカーフが彩っていた。 「関くん、」 「………」 関口は俯いた。 「オメデトウ」 大きな掌が関口の頤を包み、そっと持ち上げた。 「研究所を辞めるそうだね」 「………はい…」 「めでたいのに、何を泣きそうな顔をしているんだ、此の猿が」 そして榎木津は関口の耳許に唇を寄せた。 「好きだよ」 囁いた。 そっと。 それこそ彼の吐息にしか聞こえないほど、静かに。 「え、」 思わず眦を裂いて、自分のすぐ眼前にあるその秀麗な容貌を凝視した。 「君を、愛している」 「え…榎…さん……」 長い人差し指が関口の唇にそっと宛がわれた。 「今夜僕のところに来るんだ」 血が、引く。 「抱いて上げるよ」 それはあの日、榎木津に追い返されてから、夢にまで見るほどの、関口の願望だった。 けれども、今夜は特別なのだ───── 「え…の…さん……─────」 うわ言のように、名を呼んだ。 「君の、誠意が欲しい。そうすれば、僕はずっと、君のものだ」 榎木津は関口の眉の上へ唇を落とした。 床を踏んでいないような、感覚だった。 関口が座敷に戻ると、榎木津はその美声で高砂を寿いだ。 そしていつになく関口は酒を嗜んだ。雪絵も人に勧められる儘に杯を傾けた。 須臾に日は暮れ、宴はお開きとなった。 最後の最後に榎木津が目線をくれた。 あれに抗える人間などいるのだろうか。 関口は事を終えて、雪絵が寝付くのを待って家を出た。中野に一軒家を買ったのはつい先日のことだった。季節は巡っていた。もう夜を歩くのは、外套なしでは寒いほどだ。 関口は雪絵の匂いも染み付いた寝着に外套を羽織、榎木津の待つところへ駆け出した。 「タツさん─────」 玄関の戸が閉まる音を遠くに聞き、雪絵はゆっくりと瞼を押し開け、空になった傍らを確認する。 そして、唇を噛んだ。 了 20/07/06 何処かで読んだことの有る人がいたら、 正解! 幾つこういう話を書けば気が済むのか。 タイトルはEGO-WRAPPIN'から。 |