君となら行き先なんかいらなかった





何故こんなところで二人立ち喰い蕎麦屋に入っているのか。関口は思案を巡らせた。灰鼠色の外套を着込んだ隣に居る人物は食べ慣れている様子で食を進めている。
関口も小さく音を立てて液を吸い込んだ。
横目でその人物を見ると、目線に気がついたのか此方を見遣った。
そして少しだけ笑う。
どうにも照れくさくて、関口は戸惑い目を伏せた。その様子は………余りにも不自然だったが、兎角喰うことに専念し、忙しない立ち喰い屋ではそれを気にする者は無い。
ゆっくりと咀嚼する関口の白い湯気の煙幕が張られた視界に茶色い角の無い物体が降ってきた。粗い粒子が物体の表面を埋めている。
そしてそれは関口の持つ白磁の碗を埋める薄黒い液体の中へ、身を沈めた。
コロッケだった。
思わず横を見上げると、その人物はにっこりと微笑んでいた。
文句の着けようの無い円やかな、完璧な笑顔だった。
「青木くん?」
「喰い差しで申し訳無いですけど、」
見れば慥かにそれは半円であった。そして歯型が尽いているのが見え、中身が覗いていた。
「否…」
頸を振り、少しだけ面映くて口w歪ませると、青木は笑みを一層深くした。
優しい笑顔だ、といつも関口は思う。優しい、子供のような笑顔だ、と。尤も、それは外見上の話でしかないことを、関口は十分身を以って知っていた。
瞥見sして人当たりが優しく容貌が童顔であるから内面も同様だろうと思ってしまうが、彼は人に嘘を尽くことにを方便と捕らえることのできる人間だ。
そうした男である。
関口は能くそれを知っている。
濃密に、深淵に。
彼は妻有る男と閨をしているのだから。
そう術懐すると関口は顔を顰めた。
何か自分が不遜な感じがしたのだ。彼の責任ではない。溺れているのはお互い様だ。
「嫌いですか?コロッケ」
「否、頂くよ」
関口が莞爾とすると、それまでも笑みを刻んでいた青木は一層鮮やか笑みを見せた。子供っぽい外見にその鮮やかさは華麗と云うか眩しいと云うか、兎も角極彩色の様相である。
碗に目を戻して、関口は歯型の尽いたコロッケを食み始めたが凝乎っと見つめられる居心地の悪さがあった。
「あのね青木くん」
「何ですか?」
「そう余り見ないでくれないか」
「ああ、すみません、人に見られているのって食べ辛いですよね」
快活に云って諾いた。
先まで雁字と搦みあっていたのに、何故こんなに食べ物を分かちあったり、見られることが恥ずかしいのか、関口は自分の心理が知れなかった。
「関口さんは人の目見るの余り得意じゃないでしょう?」
「藪から棒に、」
青木は肩をそびやかした。
「ほら、僕なんかこういう職業にいるから兎角人の目を見て話さなきゃならないんですよ。目は口ほどになんとやら、とね。でも関口さんとはどういうわけか、目が合わない」
関口は渋い顔をした。
「嗟、あの時は違いますけどね」
耳元で囁かれるようなそれに、思わず関口は噎せてしまった。
液を口に含んでいなくて良かった。
此処で、しかも関口の横にも青木の横にも人が居て、眼前には立ち食い屋の主人がいる此の狭い空間のこんな公衆の面前で、まさか際どいことをいわれるなど思いも寄らなかった。
彼は常識と言うものと良識を持つ男の筈だのに。
そう噎せながら云い募ると、くっと青木は一瞬だけ笑った。
「良識なんてものも常識なんてものも仕事以外では持ち合わせようと思いませんよ」
嘯く。
噎せた呼吸を整えた関口は、最後の一房を口にした。
「親父さん、ごちそうさま。此れこちらとの分」
台に小銭と碗を差し出して青木は颯々と暖簾を跨いだ。

ガード下の暖簾の外には猥雑で賑やかな喧騒が蠢いている。
関口は少しだけ落ち着いた。
「煙草呑みますか?」
紙巻を差し出された。
躰に疲労が濃い。そんな怠い躰はニコチンを欲していた。
煉瓦で出来た柱に凭れ掛りながら二人、言葉も無く煙草を呑んでいた。刻限は満ちていた。これ以上二人で居ても仕様が無いのだ。不用意に二人で並んでいては誰かに見咎められないとも限らない。
それは─────厭だった。
関口は眉宇を寄せた。
「関口さん、」
横から声がする。青木を振り向くが彼は前を向いたまま一向に此方を見ない。
「離れ難いって…行っていいですか?」
関口には妻がいる。青木にもちゃんと意中の女性がいる。
だのに、こうして二人で抱き合って、物を食い、そして離れ難いと思う。
これは─────どういうことなのだろう。
恋人だったら肩も抱けるのに。
「僕も…だよ、」
囁くように云うと、青木は正面を見据えたまま、その手だけが、指だけが関口の指に触ってきた。一差し指が関口の小指に触って、第一関節が搦んだ。
その時──────

「あっれー関くんじゃないの?」
喧騒の中声が聞こえた。
二三の人影の中浮かび出てきたのは司喜久男の姿だった。流石に此の季節はアロハではない。
「あ…え、司くん?」
指は関口を去っていた。
「やだなあ。そんな驚いた顔をして。此処が僕のシマだってことくらい憶えていてよ」
「諾」
そんなことはすっかり失念していた。
「そちらは?」
軽く司は顎で青木を指し示した。
「えっと…木場の…前の職場と言うか…後輩で」
「青木です」
「ふぅん、刑事さん。じゃあエヅ公とも」
「エヅ公?」
青木は聞き返した。
「榎木津のエヅね」
「成程、ええ、榎木津さんも知ってますよ」
最近は関わり合いに成ることが多いのだ。
「でそんな接点のありそうでなさそうな二人が僕のシマで何やっているの?」
関口と青木は漸うと目を合わせた。
僅かに狼狽が浮かんでいる。
「其処の立ち食い蕎麦で、」
関口は語尾を濁した。
「へえ、ふぅん」
軽く司は頷いた。
「あ、じゃあ僕、もう行きますね。関口さん、また」
外套の裾を翻して青木は足早に去って行く。その背に声を掛けようとした関口の肩を司は引いた。そして不図口元を緩ませて、関口の耳に口を寄せる。
「それが今度の飼い主なわけ、」

関口は瞠目して、至近距離にある司の下卑て笑んだ顔を凝視した。





と言うわけである日の青木と関口と司。
司くんは関口に対して鳥渡意地悪だといいです。全員が全員関口に甘くてもね。
あと勘が物凄く良いと好い。
司くん、あってる…?
タイトルはオペラアリスさまからお借りしました。