目覚めると、先ず確認することがある。 左腕と左跫頸部。腕には薄らと傷跡が残り、跫には鬱血したような痣が消えない。 それはずっとずっと幼い頃に負った傷跡である。 落ちた場所が然程高かったわけでもないが、それでも崖を落ちたのだ。怪我は酷かったらしい。 『らしい』と伝聞調になるのは、榎木津が殆どその時の怪我や状態を憶えていないからに過ぎない。 今は薄らいだその痣等を見ると安堵する。 時々、不安になるのだ。 あの時のことが凡て夢だったらと思えてしまう時がある。 だから、目覚めると(仮令それが午睡明けであろうと)寝着の裾を捲り痣の所在を確かめ、肩を脱いで腕を認める作業を怠らない。 そうして漸く『あれ』が現実だったことに安堵する。 玄関口で制服の上から薄手の防水外套を羽織っていると、「戻るのか?」と声が掛けられた。振り返れば、嫌になるほど上品な笑みが其処にある。 「毎度あれだけ散らかし捲って。君、片付けに来る気はあるかい?」 「無いよ」 憮然と応える。 「和寅がそういうの得意だから任せれば好い」 「全く、君ときたら和寅子分扱いだな。彼は片付けが得意と言うよりは仕方なく片付けが旨くなっているように見えるけれど。君はどう思うかな?」 「さあ?」 慇懃だけれど酷く皮肉に満ちた問いに、榎木津は肩を竦めただけだった。 「お目当てのものは見付かったらしいね」 「一応」 「探しものは苦手の癖に頑張ったな」 「苦手じゃないよ、」 面倒なだけだ。 探し物なんて自分の仕事だとは思えないのだ。けれど、此れに限って話しは別だ。制服の胸に入れた一枚の布と紙とを外套の上から手を当てる。 「ところであんたはいつまで此処に居るんだよ」 煩くて叶わない。 「家長殿が帰還されるまでかな。これでも留守居を仰せ付けられている身なのでね、勝手に出て行けないんだよ」 「自分のアパートメントは?」 「引き払ってある」 玄関の大きな置時計が金管の音を上げた。もう戻らなくてはては成らない時分だ。 「戻るよ、」 「気を付けて」 男は弟に向けて優雅な様子で手を振った。 人の世界は生き難い。人との関係もそうなら、身の回りを漂う空気も、である。此の暑さ。 茹だる暑さに気が狂いそうになる。学校の中庭の木陰で関口は呼吸を整える。けれど、暑溽に己の呼吸もわからぬほどだった。否、もう融け始めているのかもしれない。 榎木津からも、彼を慕う人々からも逃げ回って三ヶ月になる。先週梅雨は過ぎ去って、灼熱の日々が到来を告げようとしている。 樹の枝葉が揺れ何かが落ちてきた。暑さと衝撃に足元が蹌踉けて、地面に倒れこんだ。 汗に土が纏わりつく。 日輪の中に人影があった。 樹から振ってきた人だ。待ち伏せされたのだ、と思い至った。榎木津のシンパだろう。殴られるのだろうか蹴られるのだろうか。酷い罵倒と共に────。 暑さの中走り回ることに限界を感じて、関口は諦めて眼を閉じた。 殴ればいい────。どうせ、望みは無いのだから。此の儘氷の如く融けるか、弟の胤を孕むか、だ。 殴られると思ったのだが、意に反して鼻を強く抓まれた。 思っても居ない痛みに思わず眼を開けると、『人』が傍らに膝を着いていた。 「疲れているな!そんな汗塗れで。なんだそれは!溝水か!それろも君の上にだけスコールが注いだのか。全く…僕から逃げ回るからだ。この大莫迦者めが!」 大きな声だ。中禅寺とは違う、けれど朗と通る声だった。 ずっとずっと何ヶ月も一番聞きたかった声だ。 そして────同時に聞きたく無かった声だった。 熱い。酷く熱い。だのに、背筋が冷たく凍えた。良かった、融けた訳では無かったようだ。 日輪の中にある人影はただただ真黒で、表情は窺えない。関口は躰を丸めて目を瞑った。 彼の顔など、見たくない。汚らわしいものでも見るような、そんな目線を向けて欲しくなかった。 「眼を開けろっ」 語尾を巻き舌で発音する榎木津の声は如何にも楽しげで、さては彼のシンパらと同じことをするのかもしれないと、尚きつく眼を瞑った。 「眼を開けないと接吻するぞ!」 耳が怪訝しくなったのかもしれない。熱さと此の数ヶ月の疲労の所為だろう。 この人影も幻影かもしれない。 兎も角、関口は一層躰を丸めた。 きっと、疲れているのだ。一度眠ろう。幸い、此処は木陰である。 何を云われたのか処理できず、関口が眼を瞑り続けると、上肢が浮遊した。襟首を持たれ、上肢を引き上げられたのだ。 そして柔らかいしっとりとしたものが脣に宛がわれた。 「ほら、」 囁かれ、何かを手に握らされた。 「探すのに手間取ってしまったんだよ、」 布地のようだ。 関口は指の腹を動かしてそれを触る。小さな凹凸があることが解る。不意に馴染んだものだと思い、目を開けた。 燦然とした笑顔。 秀麗な、西洋の人形粧いた───── 「君も最初から云ってくれれば良かったんだ」 「え、」 「どれだけ待ったと思う!」 最初は似ていると思った。能く似ている、と。けれど彼は疾うに三十の域を越えていなければならないのだ。 「待ち草臥れて、似ている奴でも良いかとか思ってしまったじゃないか」 おかげで二度も同じ人物に一目惚れをしたのだ。 何を云われているのか、解らない。 関口は手の中を見る。 織物だ。 五つの四角と四つの四角。 相手を拘らない種であるが、それでも交わされる「いついつまでも共に」と言う願いを籠めた織物だ。小さく小さく織って、最初の仔を孕む相手に渡すことが『向う』の慣わしだった。 在りし日に、関口も織ったことがあった。 それは、河原で怪我をした西洋磁器人形のような少年に会うまでは実弟に挙げる筈のものだった。 「あれからずっとずっと君が映らないものかと何度も何度も茶碗を覗いていたのに」 一向にそんな気配はなかった。 やがて茶碗の水面を注視することを諦めてしまった。 あの日助けてくれた青年は幻だったのだろうかとも思ったが、家人らは怪我をした榎木津を抱きかかえてきた青年のことを覚えていた。(生憎、榎木津は家に連れて帰ってもらった記憶はない。) 「榎さん」 凝乎っとその織物を見ていたが、もう一度榎木津を臨む。 其処に、向けられることを恐れていた、侮蔑の色は無かった。 彼の眸子にあったものは、侮蔑とはまるで違う、ものだ。 「だって、榎さん、食堂で…だって、あの時…」 酷く驚いていたではないか。あんな風に瞠かれた榎木津の驚愕の眼差しなど、見たことがなかった────。 「僕は何も入っていないぞ。君が早合点して勝手に逃げたんだろう?」 だから頭にきて、周囲の人間が関口を苛めるのを黙認してしまったのだ。 「そうすれば君が泣きついてくるかと思ったのに、来る気配も無い!おまけに中禅寺の仔でもいいとか良いとか抜かしたそうじゃないか!」 「それ…」 何故知っているのだろうか。 見越したように、榎木津は鼻を鳴らした。そんな仕草すら榎木津は優美だ。 「好い加減にしてくれと、中禅寺に泣きつかれたんだ!」 嗚呼、気色悪い。 榎木津は歯噛みした。 気色悪い────と言う言葉に関口が反応すると、君のことじゃないと榎木津は咎めた。 「関くん。あの時、君を飲み干したのは僕だろう?」 君の求愛を受け入れたのは他でも無い、僕だよ。 榎木津は少しだけ笑んで、関口の頭を撫ぜた。 外界を覗いてはいけない、と誡められていた。それでも興味には勝てず、 『向う』を除いていた。最初覗いた時から、或る『人』に目が奪われていた。 子供だった。無邪気そうで柔らかい頬の色素の薄い髪と眸子。愛くるしい、と言っても好いかもしれない。彼の碗に姿を顕してしまったのは、ほんの失敗だった。 大概は、気味が悪いと茶碗を放棄するのに、子供は茶碗の中に現れた男を見て不思議そうにしてはいたが、莞爾と笑って、飲み干した。 それはつまり、その存在を受け入れられたことを意味した。 「もう時期にはなった?接吻して良いのかい?大丈夫?」 矢継ぎ早に榎木津は問うた。先刻した時にはそんなことを訊きもしなかったくせに。 榎木津は、あの幼い頃を覚えているのだ。本当に。 関口は躰が震えることを知った。どうしたのだろうか、目の奥が熱い。そして目を伏せて、ゆっくりと頷いた。 脣に、榎木津のそれがそっと触れる。 それだけなのに、 酷く、 熱い。 「あの日の傷が残っているんだ、見せてあげるよ」 榎木津は囁いた。 好きだよ。会いたかった────と。 |