茶碗の中 肆 五月雨。
梅雨前線は日本列島に停滞してまるで動く気配を見せない。全くくさくさする、と中禅寺は思う。本の頁も何処かしんなりとして不快だ。
そんな中で、同室の関口巽は少しだけ常よりも快適そうだった。
雨の日になると殊更元気に見えるのは、矢張り彼の本性の所為なのだろうか。
「榎木津を待っているのか、」
中禅寺が扉を開けると、関口が窓框に腰掛けていた。
「まさか」
関口は少しはにかんで首を振った。
「雨に濡れるぞ」
「気持ちいいじゃないか」
中禅寺の目線を見て、関口は息を吐いて窓を閉めた。
「榎さんは?」
「さてね。あれだけ逃げ惑っていて気になるのか」
椅子に腰掛けると徐に中禅寺はその和綴じ本を開いた。和紙がくたりと脚の円みを覆う。関口は窓を退いてから鈍々と自分の寝台に往き、腰掛けた。
榎木津は異性愛者だ。
それは解っていた。『向こう』にも異性愛者は沢山いる。雌しか相手にしない雄や、雄しか相手にしない雌。
けれどそれと生殖はまた別と考えられている。
なのだから、今の此の状況は偏に、
此方への認識の甘さだ─────

「そりゃ、逃げるよ」
「そりゃ?」
中禅寺は僅かに顔を上げて関口を見る。一瞬彼の影を見失いそうだった。時折酷く彼の影が薄くなる。湖水の静けさと言うのだろうか。
莫迦莫迦しい。彼は此処にいるのに。
「あの驚愕の顔を見たかい?」
短い付き合いながら、榎木津と言う御仁は感情が豊かでくるくると表情を変えてみせる。嘗て、躁病の気があると中禅寺は榎木津を評したが、それも頷けるほど彼は陽の顔しか見せなかった。
だのに、あの時のあの表情は─────
驚いていた。
箸に芋を突き刺した儘、丹花が薄く開いて、鳶色の目は真丸に。
彼の美しい青味掛った白目が鳶色の四方を埋めている─────それは、眦を裂いて、瞠目していたのだ。
驚愕を物語って、その儘俄かに硬直していたのでは無いだろうか。
最初の衝撃に、追撃が来る前に─────榎木津の表情が変わる前に、周りが動いた。
轟き渉る怒号。喧々囂々とした怨嗟の声。

だから、榎木津の嫌悪と侮蔑に満ちて向けられる眸子を─────見てはいない。

息を吐く。
見なくて良かった。見ることが無くてよかった。見れば、もう、二度と立ち直れない。
だから逃げ捲くっていた。
榎木津と遭遇しそうなところは全て避けた。仮令榎木津を避ける結果、彼のシンパに取り囲まれ、陰惨な眼に合わされようと、榎木津の顔を見るくらいなら殴られているほうがずっとマシだ。
「猶予は二年なのに」
関口は云った。
「なんの期限だい?」
「弟との」
「弟がいるとは初耳だな」
関口は寝台の上に脚を持ち上げて膝を抱えて顔を埋めた。
「ずっと前に、一度だけ此方に来たことがあるんだ。本当は僕らは、『成人』するまで此方には来てはならないし、人に触れてもいけないんだ」
「成人?」
どうみても関口は同年輩だ。
「『現し身』が『固まる』までって云うこと」
中禅寺は彼らの本性は『水』なのだ、と聞いていた。
「つまり君は────」
「うん…そう。禁を破って、此方に来てしまったからさ、…融け掛けたんだ」
母は此方に来たことを酷く叱責し、看ることを拒否した。その間ずっと傍に居てくれたのは弟だった。
「その所為で僕の成長が鳥渡だけ遅れて、反対に弟は成長が早くてね。彼は発育がいいんだろうな」
兄弟、殆ど同じ時期に『固まった』。
「融解が治まった時、此方流に言うなら床上げだね。……僕が治った時、弟に子供を生んで欲しいと云われた」
兄弟で繁殖する事例はとても多い。ずっと傍にいるからだ。一度目の繁殖を終えて、相手を換えることもあるし、同じ相手とずっと過すこともある。
ただ一番最初の繁殖はとても大事で、その繁殖期を見送れば余程の奇跡を待たない限り、孕むことはないのだ。そして緩やかに、けれど着実に生は閉じ始める。つまり、弟の申し出はとても無難なものであった。
でも、既に関口の胸には別の人がいた。それも『向う』の『人』である。
弟は関口が『人』に会いに行き命まで危機に曝して怖い思いをしてだのに、未だ会いたいのか、と烈火の如く怒った。
そこまでして会いたいのか───と?
決まっている。会いたい。会って、彼の仔を孕みたい。
その後の繁殖に付き合って貰えなくてもいい。最初の、新の繁殖は彼の胤で為したいのだ。
そうでなければ何の為に彼を救ったと云うのか。
「弟は、僕が此方に来ることを反対していた。酷く、ね。だから二年の猶予で決着したんだ。二年の間に如何にも為らなかったら戻るって」
戻って最初の繁殖を、弟との間で為すのだ。
「ほう、」
中禅寺の返事は気の無いものだったが、関口は気に掛けた様子も無かった。
思考が渦を巻いている。暗澹と。
きっと、きっと、もう───榎木津の子供を孕むという事態は起こらないのだろう。次に会った時に向けられるものが怖くて、対面することも出来ないで居る。
あの親しかった頃──否、親しかったなどとは関口の思い込みかもしれないが──のあの陽光のような燦やかな顔を向けられることはないだろう。
弟との約束まであと十ヶ月。遠巻きに見ているだけで構わない。此処にいたい。
本当はずっと、此処にいたい。
此処にいて、あんな不安定な水越しではなく、榎木津を見ていたい。
「……君の子でもいいな、」
溜息と共に言葉が漏れた。
ふさり、と物音がして目線だけを中禅寺に向けると、硬直しているまるでロダンの彫像が其処にいた。彼の大事な和綴本が掌から床に落下していた。
「中禅寺?」
関口の声に我に返ったのか、頭を幾度か振って、本を取り上げると咳払いをした。少しだけ取り乱しているように見える。関口は怪訝に思い、もう一度友の名を呼んだ。
「そ、そんなに産みたいのか?」
「成人してから千日以内に産まないと、…やっぱり…融けちゃうんだ。寿命が縮まるというか、」
淋しそうに関口が少しだけ笑った。
だから事実を言うならば、弟は関口を孕ませ、また自らも孕む心算なのだ。そしてまた、それこそが『期限』であり関口の焦っている最たる要因だった。
「ややこしいな、」 「…そう、かな…?」 千日、凡そ三年弱。二年の間に関口が想い人と如何にも為らなければ、残りの270日を弟は兄と蜜月を過す予定でいた。勿論関口は弟の思惑までは知らない。
不意に中禅寺は気がついた。動物に譬えるのならば、産まなくてはならない時期とはつまりは発情期と言うのではないだろうか。
「なるほど」
中禅寺は一人合点する。
道理で、榎木津のシンパがあれほど、それこそ甚振るような方法で関口を追い回す訳だ。
あれは榎木津へのそれだけではなく、関口が彼らの加虐心を誘発しているのだ。煽っていると言うのだろうか。下肢が熱くなるような加虐と言う性を。
では己が感じるものも、決して本意ではない筈だ。
中禅寺は安堵の息を吐いた。自分が関口に想いを掛けているわけではないと知って。
けれど、同時に疑問も涌く。ならばその騒ぎの渦中でまるで駘蕩としている榎木津はどういうことなのだろうか。彼も確実に煽られて居る筈なのだ。誰よりも真向切って、関口の誘惑を浴びているのだから。
それは、つまり────

雨滴の音が一層激しさを増し、中禅寺は思考の深淵に潜り込んで行った。