茶碗の中 参


 焦りが人前であんなことを言わせたと云っても過言ではない。
約束の期限はあと半年なのだ。
もう少し下調べが必要だったと後悔しても遅い。覆水盆に還らずだ。
「関口くん、」
中禅寺から名を呼ばれて関口は振り返ろうとしたが、その時正門から校舎へ近付く姿を見かけて窓から顔を出した。
多分気がつかないだろうけれど、見ている分には好いだろう。
凝乎っとその姿を追っていると、不意に彼が顔を上げた。此方を見たのだ。関口は慌ててしゃがみ込んだ。 「そんな窓辺にいると皆にバレるぜ?」
関口を覗き込む肺病患者のような顔が其処にあった。
「あ、うん」
「どうした?」
「否…鳥渡、」
言葉を濁す。
「ふぅん」
虎のような目が関口を窺っていた。先まで読んでいた本は閉じられている。
この中禅寺と言う男のほうが自分より余程妖怪的だ。関口は溜息を吐いた。
窓の外へ目線をやり「榎木津か、」と呟いた。
「昨日寮に外泊届けが出ていたから、今頃何だな」
「あ、中禅寺」
関口は自分の横に立つ友人に顔を上げ呼び掛けた。
「なんだよ」
「榎さん、何処行ってたか知ってる?」
「幾ら僕でも榎木津の管理はしていない。君で手一杯だ」
「なんだよ、それ。僕が迷惑掛けているみたいじゃないか」
「掛けていないと思うのかい?君と同室だと云うだけで色んな奴らからは睨みつけられ、君に毒を盛れとか 誘い出せとか。それを凡てはぐれかして、君を探し出そうとしている奴らを別の処に誘導したり。これでも君は迷惑を掛けてないとでも云うのかな?」
口端が持ち上がる。
「ついでに、独逸語の小論は今日の放課までだぜ」
「嘘!僕…まだ一行も…」
関口は呻いて膝に額を載せて頭を抱え込んだ。榎木津なんかに感けているからだという中禅寺の小さな声は当然聞こえなかった。
 中禅寺は唯一関口の本性を知る人物だった。元々『お化け』好きだったのか、関口と出遭ったことで興味が涌いたのかはしれないが大概お化けの本を携帯していて、関口などよりは余程詳しい。
そして同時にとても聡いので、予てより関口はサトリのおばけに違いないと思っていた。関口がサトリと知り合いなわけではなく、中禅寺の持っていた鳥山石燕の和書に描かれていたのだ。
そんな中禅寺だったが本来の居場所から出て態々人の間で暮らす関口の本当の目的までは知らかった。昨日の昼までは。



昨昼の榎木津を思い出す。忘れたいのに、瞼に焼き付いて離れない。驚いていた。驚いて、あんな怪訝な…顔を、目を瞠いてたあんな顔を見たのは初めてだった。

「榎さんの子供が産みたいんだ」

食堂で告げた。モーセの十戒も斯くあらんかといわんばかりの人声の引き様だった。
「関…?」
怪訝に掛けられた声が、耳の中でこだましている。その後、中禅寺にそっと耳打ちされたのだ。
「こっちじゃ男は産めないんだよ」
と。良くぞ中禅寺こそ冷静に言えたものだ。思い出すだに関口は暴れざるを得ない。
知らなかったのだから仕方ない。
そして構内にいる榎木津のシンパと言うシンパは『関口滅すべし』を合言葉に追い掛け回す状態になりおおしたのだ。
榎木津はいつの間にか校内からも寮からも姿を消していた。
少なくとも榎木津と関口は学年は違えど、親しいと云って良い間柄だった。榎木津は関口と二人だけで出かけることを厭わなかったし、按摩やら肩もみやらをさせる。触れることを許される間柄だった。
だのに。



 榎木津のシンパがいないのを慎重に見計らいながら廊下を進み、図書館へ行った。勿論独逸語と格闘するためだ。放課まであと四時間である。
昼食などの休み時間には中禅寺が顔を出したが、それ以外は知の宝庫たる図書館の中に一人埋もれていた。なんで目的も達することも出来ず、難解な独逸語に苦しめられなければ成らないのだろう。関口は悲しくなる。
早くしないと時期が来てしまう。筆を止めると関口は堪らず息を吐いた。
 昨夜榎木津は何処に居たのだろう。
時々榎木津は外泊をする。彼は女性にも男性にもとても好かれる。俗に言うならもてるのだ。何処に行っても衆目を集めるし、人を惹きつける。そんな彼だからお誘いも多い。殊に女性からの誘いを無碍にしているようには見えない。誰かと長く続いていないのが、関口を安堵させる唯一だった。
顔を両手で覆って一頻り落ち込むと関口は再び筆を走らせた。
きっと、関口のことが気持ち悪かったに違いない。
榎木津は異性愛者なのだ。
それは今更云うべきことでもない。ただ、日頃親しく出来ていたのだから、許されると思っていたのだ。余りにも読みが甘い。そもそも此方の男が産めないなんて。




09/Jan/09