茶碗の中 弐


ああなんて愚かなのだろう、


人生に於ける幾度目かの反芻をもう数える心積もりにもならない。惘れるにも程があるし既に人生に於ける惘れる回数の許容量を越えてしまったような気がする。
関口は深い吐息をした。
そもそも此方に来るその瞬間からいけなかったのだ。
漸うと狭い隧道を通って抜け出してみると家鴨のような表情をした兇悪な顔の男が待ち受けていたのだ。関口は彼の湯呑茶碗の縁に手を掛けているところだった。
 先から人生人生連呼しているが、少なくとも関口には人生などない。
人と良く似た姿形はしていれども、向うに住まうものなのである。人ではないのだ。関口自身にも良く解らないのだが水に棲んでいるのだ、と関口に言ったのは此方に来て出来た友人、否彼は関口を友人など呼びもしないのだが、中禅寺秋彦である。
彼こそが関口が向うから此方に出るのに使った茶碗の主でもあった。
「ああ良かった。呑み干さないでくれて」
と言うと、まるで親類縁者死に絶えた天涯孤独の身の上をそれこそ天に恨むような顔付きで怪訝に関口を見ていた。
今思えば絶句していたのかもしれない。
あの多弁な男が。
「飲み干すとどうなったのだい?」
と彼が訊いたのは、関口が髪から雫を払って襯衣と下衣を絞り乾かして再び纏った時であった。
「鳥渡困ったことになるんだ、」
何処から如何説明したら良いのか解らず、曖昧に少し笑って誤魔化すと、男は少し瞠目して、手にしていた書物に再び目を移した。
それが先ず此方に来てやってしまった愚かなことだ。
きっと向うに残してきた弟に聞かせれば罵倒されるに違いない。



 「おい、いるかい?開けてくれよ、僕だ」
戸を叩く音がする。相変わらず良く通る声で、他の人間に聞こえやしないかと関口は部屋の片隅で少し周囲を窺った。
「大丈夫だ。周りに人は居ないから、開けてくれよ」
その口調から察するにきっと中禅寺にも話は伝わっているのだろう。
自分の顔が青くなっていることを自覚する。こんな処にに異文化の差異があるなど、関口は全然知らなかったのだ。思っても見なかった。
床を膝と手を着いて歩み、廊下とを隔てる戸に耳を付けた。
中禅寺以外の気配は取り敢えずしない。
机を退かすと、扉を開けた。
制服姿の中禅寺が立っていた。
「やあ、『求婚者殿』」
意地悪そうに笑うその顔に関口は崩れ落ちた。
先まで関口は数多の人間に追い回され、殴られること数回、蹴られること数十回、それをぎりぎりに交わしてどうにかこうにか自室まで命辛々逃げてきたのだ。

 此方の世界では『雄は子供を産まない』とは知らなかったのだ。



09/Jan/09