茶碗の中 壱


 茶碗の中に男がいた。
自分では無い他の男だ。青年に差し掛かった若い男である。振り返ったが其処には誰もいない。けれど再び茶碗の中を見れば、いる。不思議に思ったが、なんら嫌だとも思えなかったので、微笑んで見せた。どうしたことか茶碗の中の男は戸惑ったようだったがそれでも少しだけ笑った。その笑みが酷く嬉しくて、呑んでしまいたくなった。思わず茶碗を傾けたが、液体が口に触れるころには若い男の姿は消えていた。



 夏の暑さを避ける為に訪れていた高原だった。
未だ下界とうきょうでは夏の真最中だろうに、此処では夕暮れには蜩が鳴いて既に芒が頭を垂れている。閃光にも近い夏の夕日が芒の穂を照らすと黄金色に眩く輝いている。
高原の家は瀟洒な二階建ての西洋館でサンルーム付きと上階の無い和館が三棟続いていた。贅を凝らすとは言えたものだが、尤も家長である父の趣味ではなく、彼は友人を助ける為に買い取ったものだった。敷地内だけはまるで異世界の上品さだったが、その周囲はまるで一世紀も変わらない朴訥とした日本の農村風景だった。友人の資産の中から此処を買い取った理由は寧ろそうした立地の所為なのかもしれない。
敷地の脇には川が流れていた。緩やかで小石許りの川は河川の上流域の様子ではない。恐らく、ずっと昔に農業の為に引かれた灌漑用水を兼ねているのだろう。
既に蜻蛉がその半透明な羽を拡げて飛んでいた。
芒の穂先に蜻蛉が止まるのを礼二郎は興味深く見上げていた。
犬にするように舌を鳴らして招く真似をしてみても到底蜻蛉が誘われる訳も無く、右腕を伸ばしてその先に留まるのを凝乎っと待った。己にしては考えられないような辛抱強さだった。
それもその筈で、他に仕様が無いのだ。
水嵩はとても少ないとはいえ、耳許でせせらぎは引きも切らず、夏の暑さだと云うのに躰が冷えて行く。
誰か通りかからないものかと、仰向けた儘辺りを窺っているのだが、人の気配は見えない。
先まで唄っていたのだが、好い加減疲れた。
もしかして暢気な歌を唄っていたので反対に誰も気に留めなかったのかもしれない。だが、過ぎたことなので其処は考えないようにした。
 指の先に深山茜が留まった。肘を曲げてゆっくりと鼻先まで持ってくる。
不意に頭の向こうに人が逆さに立つのが見えた。逆光にその姿は瞭然とは見えないのだが齢一桁の礼二郎からみればずっと年嵩の、けれど若い男だった。躰を斜めにすると指の先から蜻蛉は逃げて行った。
「…ぃったい!」
躰を動かしたことで痛みが走った。
男は腰を屈めると膝を着き礼二郎の脇へ手を差し入れ抱き起こした。その躰は冷やりと、まるで水の様だった。長い睫毛が陰を作っている。男の肩に手を置き均衡を保とうとしながら、礼二郎は男の眸が瀑かれるのを待った。
「打ち身かな?」
小さな声が呟いた。そして持ち上げられる鬱蒼りとした重そうな睫毛。現れたのは光を沁み込ませた黎黒の眸だった。
あの時の、男だ───。
茶碗の中に居て、礼二郎が飲み干したあの男だった。
礼二郎は痛みを耐えて、男の頬へ手を添えた。
「え、」
声を発して薄く開いた口へ、眼を閉じて顔を寄せた。
「あ…駄目…」
それは酷くか細く脣と脣が触れ合う寸前で吐き出された拒む言葉だった。
「ん?」
礼二郎が瞼を開けると、男は──そう未だ青年にも満たない───顔を横へ向けて真赤にしていた。
それが甚くいじらしく見えて、礼二郎はもう一度その小さな手を彼の頬に当てて、此方を向かせようとした。だけれど男は礼二郎を遥かに上回る力で一向に顔を動かそうとはしない。
「何で駄目?」
あの時飲み干したのに。
「未だ…僕が……」
口籠もる。
再度彼の頬をそっと押せば、此方を向いた。屈んでいる男の目線は礼二郎より低くて、上目遣いにそっと礼二郎を臨み、礼二郎もまた男の顔を覗きこんだ。
酷く青白い瞼に、それこそ透けてしまうのではないかと思わせるほどの、眸が覆い隠された。
「猿が口を利くなんて…吃驚だ」
と礼二郎が思ったことを告げれば男は俯けた顔を上げた。陽に向けて。頬が紅い。
「猿と云われたのは初めてだ…」
「僕の愚父が南洋で一緒に写真を撮った指猿と言うのがいるんだ。可愛い奴だよ、」
強張った顔が少しだけ緩んだ。綻ぶように。
「え、」
「君と似ている、写真を見せてあげるよ」
目が閉じられて、また開けられる。瞬きをしただけなのに睫毛はわさりと揺れて榎木津は彼の額に触れていた。何もかも得心したような心持ちになる。
「いつだったいいの?」
「未だ……時期が来ないんだ」
「それはいつの話?」
「未だずっと先。ずっと」
「それじゃ、僕は帰っちゃうよ!帰った後なの?僕じゃ駄目なの?」
また顔を俯けて、髪を踊りに被るささらの様に跳ねさせて男は頸を振った。
「君じゃないと、嫌」
だから此処に来たんだと小声で囁かれた。
「でも…未だ、駄目なんだ」
「時期じゃないから?僕は飲み干した・・・・・のに」
頷く。頸を俯けると白い項が其処にあった。
礼二郎は堪らず、彼の頸を腹の下に押さえ込み爪先を立たせ上肢をぐっと前傾させてその項へ唇を寄せた。怪我をした身には酷く辛い体勢だった。けれども堪えなれないものではない。此の身に触れるのならば。
数多の水がその膚の内に溜められているのでは無いのかと思わせる冷りとした、人肌で無いようにも思える感触だった。
「ア、」
舌で頚椎から盆の窪までを舐め上げると腹の下に据えた頭部からくぐもった声が届いた。ぞわりとする。戯れに股間を握りこんだり擦ったりした俄に硬く成る時の、あの感覚に似ている。
彼の項の上で吐息すると、震えた。そして堪らず歯を立てて見る。
「…ア、ィタ…」
「痛いのは此方だ」
耳の後ろから彼の顎を取り顔を持ち上げると、面白い程に耳朶も顔も真朱に染まっていた。
「傷に触ったらどうするつもりなんだい!」
「口付けさせてくれないほうが悪い」
「くちづ…!」
まさかこんな幼い子供から出てくる言葉には思えなかった。
「僕と一緒に来て、」
礼二郎は痛みに汗の滲んだ両手を彼の手に絡めた。その熱を冷まそうかと云うように男の躰は冷たかった。満々と水を湛えた奥山の湖のように。
「御免」
「僕と一緒に来るのは嫌?君一人を家に入れることは訳もないことだよ」
到底子供の言う言葉には思えず、男は凝々と礼二郎を正面に見た。にや、と笑ったように見えた。
「どうなのさ?」
「…一緒には行けないんだ…」
礼二郎は恨みがましく男を見た。唇を少し噛んでいたかもしれない。
男がそっと繋いだ手を解くと互いの間合いを縮めた。礼二郎の柔らかい円い頬へ自分の冷たい頬を寄せて、両肢でその小さな躰を包み込んだ。
「御免。でも会いに行くよ」
男の手が礼二郎の怪我をした箇所へ当てられた。一瞬酷く熱いように感じたがすぐに馴染み、ゆっくりと彼の躰の中に湛えられた水を注ぎ込まれているようだった。
「きっと…?」
冷たい感覚に陶然としながら訊くと「きっと」と約束が返って来た。
「本当に?」
「…君が、君が迷惑じゃなければ」
「そんなこと有るわけ無いだろう!」
礼二郎は彼の肩を押して頬を両手で取った。
何故こうも眼を合わせようとすると、此の男は眼を伏せようとするのか解らなかった。だから此方を向かせたかったのだ。
脣を彼に近づける。先刻拒まれた脣ではない。
その上の鼻へ。
伏せられた筈の瞼が全開となる。大きな黒曜石が漸うと此方へ向けられ鼻へ立てた歯を開いた。
「ちょっ、」
「痛い?」
歯型が着くほどに噛んだのだ。それは痛いだろう。
「痛いよ」
その言い方がまるで年嵩の男の物言いではなく、礼二郎は笑い転げた。なんて可愛いのだろう、と。そして彼の頸に両腕を巻きつけて囁く。
「好きだよ」
早く───会いに来て。
君が堪らず茶碗の中から出てきたように、すぐに、一刻も早く。



元ネタは小泉八雲の茶碗の中です。
何故口付けをしてはいけないのかとかは股次回!
12/07/08