鬼雨 空草に灑ぐ




昼間に酷く嫌な思いをした。
こういう職に在る以上、人の選好みも出来ぬし、してはならないだろう。然し矢張り胸糞悪い相手はいるのだ。……こんな時、神保町の野郎が少しだけ羨ましくなる。



店を出ると、雨が降っていた。



土砂降りではない。もっと囁くような、静かな、幽かな雨だ。
既に夜半を割っていた。電車は既に無い。下宿に戻るににしても長い距離を歩くだろうし、署で一夜を明かすにしても濡れて帰るのは流石に御免だった。店に戻り主人の老爺に傘を借りた。こんな雨でも、侮れば意外に濡れるのだ。



木場修太郎は朦りと歩を進めた。辺りは細い路地ばかりで、迷い込むには適当だが、どうにも見知った道過ぎた。進むべき先は、自ずから知れて、勝手に跫が動く。
不意に風が雨礫を揺らした。礫は頬を掠め、傘を少し上げ視界を広げると青い櫟の木立が見えた。
鬱蒼とも言えない数だが、その根元には黒い石が乱立している様が見えた。
烟る雨に余り瞭然はっきりとしない視界。
だがそれが墓石であることなどすぐに知れた。
土砂降りの雨でなくて、良かった―――――
木場は暫しその場に立ち尽くした。



南方で雨と言えばスコールの様な土砂降りばかりだった。ぬかるんだ跫許は進行を容易では無くしたし、思えば隊長の関口は能く転んだ。
それを援けたのは他ならぬ木場で、関口の信頼はあの頃から変わらないだろう。
榎木津とも中禅寺とも違う感慨が関口との間にはあった。
それは眼に見えないけれど慥かに存在して、堅固なものであり、同時に他人には迂闊に出来ないものでもあった。
木場は一度だけ関口を抱いたことがあった。
何故あの時そんな気分になったのか解らない。
ただ、やらねばならない、と思った筈だ。




 以前友人の古書肆と出産率の話になったことがあった。
何故そんな話になったのかは憶えていない。興に乗ればあの男は何処までも喋り倒し、議題はどんどん変わって行くのだから。
統計によると戦後になって、出産率は爆発的に増えているらしい。
それは勿論、女の傍らに男がいることを表し、女は産めよ増やせよ地に満ちよと逞しく子を孕んでいるのだ。それはつまり女が戦争ではない安定した状況下でしか子育てをしない母性のような本能のようなものではないかと締め括った。
木場はその話を聞きながら、胸が疼いた。
あの時、あの土砂降りの密林の中で関口を抱いたのは、もっとも切羽詰っていたからだ。
汗の匂いとか、垢とかの薄汚さだとか、こびり付いた泥だとか、そうした不潔さなどそんなものに構ってはいられなかったのだ。
岩肌の窪みで雨を凌ぎながら、完全には凌ぎきれて居なかったけれど、なんとも性急に執拗に濃密に交媾まぐわった。
今でこそあんな状況下で欲情したと思うのだが、あの時は他に何も無かった。
そしてそれは関口も同じだった筈だ。
思えばあの頃既に関口はその妻女雪絵と巡りあっており、彼の中には彼女が居た筈だ。だのに、あの時の関口はいつもの弱腰っぷりは何処へ行ったのか、酷く積極的で動物的だった。



時々、関口のあの感触を思い出すことが在る。―――――堪らなくなる。



密林の中の二人の逃避行。土砂降りの雨。二人の温度。
どうしても―――――忘れられない。
関口が結婚さえしなければ、奴の部屋まで押しかけて、犯しただろう。そんな時が、時々訪れる。
酒を強かに呑む。
それでも酔いは訪れない。
女を抱きに行く。それでも酔えない。



関口は、どうなのだろう―――――



木場は再び歩み始めた。土砂降りの雨で無くて好かった。
幽めく世界で墓に降る雨。あの時一体廻りにどれだけの屍躰があったのか。日本兵の敵兵の現地民の屍躰。
二人を除く部隊全員が絶滅し、それの果てに交媾まぐわった。
人の帰する処を鬼と云うらしい。
では、今、眼前で墓に降る雨も、あの日降った雨も、


「鬼の雨だ―――――」


亡者の雨が街を濡らす。
墓場から燐光が幾つか飛び立った。





09/08/05





またまた需要の無さそうな木場関。
と云うより
木場独白ですね。これ。
李賀の「感諷」と云う詩を下敷きにしました。
墓場に降り注ぐ雨に惹かれたからです。
いつかオリジナルで書く心算ですので、ご容赦。