「大好きだ。ぼくのカストール。」 ──────────Jean Paul SARTRE (1905~80) dawnpurple 紫明。夜を払拭するのか。暗と明の媾合であるのか。紫色の向こうに見える眩いばかりの光明を身に浴びてる。 朝を告げる日に触れて、新たに産れることを知った。 東洋的な肢体を好んだ。 彼によって、肉の扉を開かれ、そして讃辞された。 月の白い明りに曝された皮膚は夜光貝のようにも思える、と。身の生理に涙が浮かび睫毛に溜まったそれを舐め拭われて囁かれた。水晶を月に曝すと水が浮かぶと何れの故事であるのか将又彼の感慨であるのかは知れないが。 耳を小貝の様と言い、同じ口で眸は水晶だ、とも。 水精の眸子は慶派の仏だけれども、君の四肢は寧樂古寺のasuraだと撫ぜた。少年の姿をした佛のような四肢だと口付けた。腿の間の愛撫する時にはavalokite'svaraと呟き、出来ることならば改宗したいと猥らで下世話で不謹慎なことを。 身の狭隘を丁寧に潤されて深く深く穿たれる。 mooi、mooiと──────。 最初こそ恐怖と痛痒に歓びを感じることさえなかったが、遂には強請るまでに到った。 腹側の其処を必死に肉の棒に擦り上げ、乱れた淫れた。そして身を喜び感じる様を麗しく成長した、と讃辞し讃美し、愛しまれた。 華奢な高窓を開いて露台に長椅子を置いての情事に只管指を噛み締めて声を押し留めた。彼の精を受け止めて、また彼の掌中に吐き出して尚且つ舐めさせられ互いの口中で精を混ぜ合わせ身に取り込んだ。長椅子と彼の乳色の肉月の良い躰から身を離すと、眼を細められる。 「乙女だ、」 女では無いことは明白であろうに。少しだけ笑うと彼の目の前に今も曝す陰茎をその大きな手で撫でられた。 「どこにもいかないでほしい、」 「いきません、」 これだけの躰にされ、最早何処にも行き先はないだろう。 「イマならへんじょうほっしのきもちもわかる」 片言の発音は誠実さに顕れだろうか。腰を抱かれ陰茎の括れを指の腹で回すように触られる。 どうやら彼は僧正遍照の和歌を話題にしているようだった。 「乙女では無いから」 何処にも行く先は無い、と云えば「そうだろうか、」と返答があった。 「へんじょうほっしはごしゃもんだ。そうりょにとって、いやぶっぽうにはおんなはいない。しんだあとおんなはおとこになる。へんせいなんし。だから、乙女にみえるひてんでさえおんなではありえない」 皆、これを持つ男だよ。弄られれば、僅かに反応する。しかしもう今日は無理だ。と云えば、「ではこちらだけを」と尻朶を開かれた。 冬の食堂では手にした碗の湯気が濃い。白い小さな煙幕の向こうでは後輩が同じように食後の一服を 口にしていた。常ならば共に食事を摂る同輩が現れない。辺りを見回しても姿は無い。酷く目立つ男だから見落とすことは有り得ないのだ。ならばこの場にはいないのだろう。眼鏡を曇らせる湯気も一度卓子に置いてしまえば其処までの威力はなく、藤野牧朗は肺病患者の如き容姿の後輩に口を開いた。 「彼はどうしたんだい?」 後輩は目線を此方に向けたのだが、眼の下の陰がより彼を患者然とさせていて俄かに怯みそうになる。 「藤野先輩が知らないのに、僕が解かる訳もないでしょう」 「君は割合と情報通だからね。否、通は通でも天眼通だな。きっと」 後輩が笑うと碗の湯気が大きくなった。 「特別行き先を聞いていませんが、心当たりはありますよ」 「ほうらやっぱり」 「藤野先輩だって心当たりは有るでしょう?」 見透かすように云われ、藤野は両眉を押し上げて次に苦笑した。 「今の彼の熱情が勉学に無いことはね」 隠語だ。山梨から高等学校へ入学するために上京した藤野の価値観には無いことだった。 「昨日の午後から授業に出ていないんだよ。まさか夜通し入り浸っているわけじゃないんだろう?」 「夜には戻って来ていましよ。僕に実家から持ってきた骨牌の枚数確認をさせていましたから」 「骨牌?」 「中々由緒のある状態の良いもので、光琳様だと函書きにありましたね」 それなりに古いもので、年代なら将に画工の生きた元号があった。彼の家格からすれば画工その人に作らせたと云うことも強ち無いことではない。 「公家の女性の嫁入りには骨牌を持つことが習いだったようで、彼の家では幾つも所有しているらしいのですが、聞くところによると生憎男兄弟だそうで。久しく開いていないそうで枚数があるのか確認してほしいと云われましたよ」 「自分でやらないのか?」 「家探しで疲れたそうです」 「なる程」 白湯めいた茶を飲むと既に温んでいた。これだけ学生がいようと流石に寒い。ラジエータの数も少なく、大半は故障していた。 「それを持ってご出張なんだな」 「恐らくは」 一旦興味を持ったら失せるまでは執拗なほどだ、と周囲の人間に認識させたのは今回の事例の所為だ。 遊里に居続けをしたこともざらではあるのだが、美男故であるのか大概は程なく彼処からも好意を寄せられ寧ろ逆上せられ、程なく彼が熱心さを失うのが常習であったのだが今回はそれとも違うらしい。 「靡かない相手に熱心になるとは」 ぽつりと藤野が漏らすと中禅寺は口端を少しだけ上げた。 「思いも寄らず普通な男だと」 「其処までは云って無いさ。ただ珍しいことがあるものだは思っているけど。第一簡単に靡かれても困るだろう?ほら本人はどうであれ…なあ?」 「そうですね」 「だろう?仮にも…華族の令息が夫を亡くした女性の許に入り浸るなんて、しかも…その」 夫を亡くしたばかりの人の許に、富裕華族の次男坊が通うのだ。今は未だ然程のことではないが、世に知れては白地な醜聞である。 「洋妾」 事も無く云い退けた中禅寺は既に食事を終了し、脇に置いた本を繰り始めようとしていた。藤野はその物言いに大きく眼を瞠き、やがて眉を顰めた。 羅紗綿。 羅紗とは羊のことである。そして羊から紡がれる綿を云う。日本が未だ開国浅かりし頃、嘗て欧州の水夫は船内に羊を飼い、長き航海の慰みにその尻を犯したと伝え聞いた邦人が、西洋人に囲われる女をそう呼んだ。 卑しめを多分に内包した言葉である。 実際彼の人物を評したのは中禅寺や藤野であるべくもなく、新聞であった。兎角、相手が大人物であるが故に誇大表現になってしまったのだろう。 そう、彼は既に彼の人物詣出に二箇月近くを有していたのだ。藤野が聞いたのはつい一週間余前のことであるのだが。 二箇月前に、欧州の公使が都下で亡くなった記事が新聞に躍った。欧州から遠く離れた極東の、しかも日本に於ける在任期間は長くない。けれども公使は在邦八年と云う長きに渡る在邦に於ける故国の政治を掌った。しかも親日で知られ母国に日本のことを研究し記した本を何冊も上梓しているのだ。 彼が在邦の公邸に倒れたことは鳥渡した事件であり、新聞に報じられた。けれど、ほんの少し世間を賑わせたのは公使の死そのものではない。彼の日本妻の所為だろう。 そもそも公使には十五年前に細君を失ってから正式な連れ合いはいない。だからこそ、もっと表立って も良い筈でもあろうが、その人の存在は微々とも伝わらないのだ。 やがて人々の記憶も薄れたが、再び藤野が思い出す切っ掛けとなったのはその日本妻へ足繁く通うらしい彼の為だった。 「どんな人なんだろうな、」 「気になりますか?」 「まぁ、少しはね。うん気になるよ」 あの男が二箇月も通い、況して、公使死去を報じた後に下世話な噂が立ったのだ。気にならない訳は無い。公使は然程に老齢でも無く死に、妻の話題が少しも出てこないのはきっとその腹の上だったからに違い無い、と。 「僕の知っているのは、藤野先輩の意に沿うような間柄にはなれていないようですが」 「ち…中禅寺くん!きみっ」 藤野は顔を真朱に染めて卓子を両手で叩いた。 「そんなこと考えては、ないよ…!」 「すみません。僕も詳しいことは聞いてないし、あの先輩もそうしたことを話す人では無いでしょう?」 人の艶事を聞く趣味も話す趣味も無いと公言していた。 「ただ顔も見ていないと云うので、」 「見てない?」 「らしいです」 「なんだいそりゃ。簾中にいると云うのかい?」 まるで桐壺帝の御世の如く。 「違いますよ、面紗をしているそうで」 「諾。そうか…そうだったな」 相手は仮にも欧州公使の妾なのだ。遊里の顔見世とは違うのだ。耶蘇の女性は面紗で顔を覆うことこそ喪の正装であると聞いた筈だった。 「じゃあアイツは顔も見たことのない人に会いに行っているのか、」 「どうも、声さえ然程に聞いたことが無いようで」 「そう…なのかい?」 中禅寺は肯いた。 では、彼は…榎木津礼二郎は、何をしに行っているのか。 残された人を冷やかしに云っているとでも云うのだろうか。誠実さなど微塵もなく、面白がるように。 否。藤野は打ち消す。そんな男でないことは知っている。 恐らく、興味が沸いたのだろう。瀟洒な公館の奥深くで喪服を纏ったその婦人に、桐壺帝の御世の人々の如く。 「まるで百夜通いの深草少将だな」 きっと榎木津には似合うだろう。 藤野牧朗はその婦人に哀悼を奉じ、すっかり冷めきった茶を飲み干した。 何でも東南諸国の義理があるのだと云った。詳しいことは聞けなかった。語った人物も能く知らなかったからだ。 「新聞でも報じられただろう?」 昨日の話だと云われ、そんなものは読んでいないと云えば、新聞を差し出された。 「弔問は遠慮願うって書いてあるぞ」 「あちらの流儀では死とは酷く個人的なものであるらしいからね。ただ、我らが御尊父はせめてものお悔やみを所望されていてね。ほら、彼の国は東南諸国に勢力があるだろう?助けて貰ったことがあると云っていてね、」 「…でその人は何処だい?」 「日本にいない。今は船中。昨日出航する時に手紙が来た。そして僕もこれから出掛けなくてはならない」 「………」 莞爾とした笑みが凝乎っと弟に向けられる。諾の返答以外を受け付けない、強かな表情だった。尊父からの手紙をが眼前の卓子に置かれる。 「…いつ行けばいいんだ、」 「こちらでは葬儀は行わないと云うし、これから向かって欲しいと云いたい処だが君も準備があるだろう?明日頼もう」 少し急いている様子なのは次の言葉で氷塊した。 「副使に会って子爵の手紙を渡してほしい。あとは公使の様子が知りたいそうだから遺体に面談を。喪服は夕方にでも君の処に届くように手配するよ。あとはお悔やみの言葉を練習しておいて欲しい。勿論仏蘭西語で」 出されていた少し温んだ珈琲を呷ると、眉を顰めた。勿論不味かった訳ではない。 「あちらの社交界の公用語だ。子爵の使いなら当然だろう?」 榎木津総一郎は左腕の時計に目を落とすと、立ち上がった。 「時間切れだ。あとのことは安和に任せてあるから何かあったら彼に。和寅もいるから遊んで行くといい」 子供をあしらうように云うと弟に背を向けて数歩進んで「ああ」と声を上げた。 「出来るだけ優雅に」 雄雛顔が己の肩越しに嫣然と笑み、扉を開いて出て行った。慇懃とした押しの強さは相変わらずで酷く辟易する。けれど兄弟には違い無いし、それなりの尊敬もしているので、どうにも逆らえない。 鼻を一息鳴らすと「和寅ーおかわりぃ」と人を呼んだ。 窓の外では雨が降っていた。 夕方に寮へ着くと前後して兄から喪服が届けられた。喪服と云えば紋付を思い出して居たのだが届けられたものは寧ろ礼装に近く、どんな処に行かせられるのか眉を顰めた。封書が入っていて開けてみれば、兄の筆致があった。「家の車を呼ぶこと」と書いてあった。そして昨日置いてきた父からの手紙も同封されていた。開けてみれば骨牌の札が一枚あった。 「『おくやまに』…?」 益々面倒臭さが増して、反古にしてしまいたかった。けれど律儀な処もある榎木津は結局丙類の同輩を見付けて異国語による哀悼の言葉を暗記した。 愁霖。三日続けての雨だった。喪服の礼装にフロックコートまで用意されていた。 副使に手紙を届け遺体の面談を申し出ると、少し曇った顔をした。焼かれてしまったのかと思えば、公邸に関与していないと副使は云った。公使館の中でも特に私的色合いの強い個所で、職員であろうとも乱暴には跫を踏み入れられない処なのだ、と。 甃石を進めば公邸へ辿り着くと云われ、榎木津は傘を差しつつ進んだ。 青い椚木立の中に白い陰鬱な建物が見えた。 否、陰鬱に見えたのは天候の所為だろう。染みもなく罅も見えない白い外壁、中央に硝子の庇のような平な硝子製の破風がのった車寄せ。二階部分の屋根には三角の屋根があり、その真下には故国の紋章があった。紺地に両対の獅子。一階部分には上下窓が、二階部分には左右開きの窓が備えられそれぞれ青緑色の雨戸が両脇を飾っていた。 近付くと、公邸の扉が恭しくもゆっくりと開かれた。 外国人の老爺が立っていた。 此の家の家令だろう。 ならば哀悼を捧げるのは此の人物ではない。公使館から連絡をうけていたのか、老爺は榎木津の外套を受け取り掛けると、屋敷の中へ招き入れると背を向けて導いた。 彼の後ろを着いて行く。 酷く静かな屋敷内だった。寄木細工のような床に靴音が酷く響いた。他には何も音が無いようだった。 階段を上る。踊り場を経て階段が半回転し上昇する。上り切って右へと促され、その先に白い飾り屋根を頂いた飴色の両開きの木製扉があった。 その手前で老爺は榎木津に向かって頭を下げた。 きっと此処には誰も弔問には来ないのだろう。日本人の弔問は遠慮しろと昨夜兄の許で読んだ新聞にあった。そして、先ほど副使は今日来て頂いて良かったと云っていた。明日には遺体は火葬にふされると云う。遺体を其儘に運ぶにはこの極東の島から母国は余りにも遠過ぎる。 燈も落とし、森閑とした館の緘黙。 館全体で主人の喪失を悼んでいる。何もかもが乏しく、欠けている。 真鍮の把手を握り扉を開くと暗かった。尚も暗く、重苦しいほどに昏い。 そして仄かに薔薇の香りを知覚すると、榎木津の背後で扉の閉じる音がした。 明りが無い。 案内されたのならば、此処に公使の遺体があるのだろう。 明日には荼毘にふされる、異教徒の哀しい遺体が。 面談するために、榎木津は此処へ来たのだ。窓罹だろうか均等に光の細い筋が薄らと見えた。照明の在り処は解からない。 ならば外界との結界を解くばかりだ。 榎木津は細い光の筋に歩み寄った。そしてその幕を掴もうとした時に、 「Mijinheer、」 人の声が聞こえた。 低くも高くも無く、音の籠った静かな声だった。 「Mijinheer Nÿntje、alstublieft wachten…」 ささめくような、知らぬ何かが聞こえた。もしかしたら雨音なのかもしれない。 榎木津は幕を掴んだ。柔らかい天鵝絨の重い感触。そしてそれを徐に引いた。 闇の中へ、薄曇りの柔らかい外光が侵入した。 足元には毛並みの良い絨緞があった。壁は廊下のそれと同じく深い飴色の木彫の壁は滑らかな光沢を掲げていた。 壁に頭を着けるように大きな寝台があった。 人形がいる。 仰向けに横たわる、深く眼を閉じた人の形をした蝋細工とさえ思えた。 血の気のない皮膚をした外国人の男性が寝ていた。灰栗色の毛髪を持った頭は白い大きな枕に沈み込み、白い豊かな上掛けに身を包まれていた。頸許が辛うじて見え、尖った喉仏が覗いている。 駐邦公使ポール・キセン・クローデル。 苦悩も無念そうな表情でもなかった。ただ静かに、透徹に其処に有った。薔薇の香りがする。酷く濃い。これは死体の臭い隠しなのだろうか。 二歩近付けは、漸と其処に佇む存在が見えた。 黒い影だった。 榎木津は二歩分に腕を伸ばして、もう一つの窓罹を開けた。 光在れ────── 影では無い。実体だった。 黒色の優美な襞が足元の絨緞に流れている。それがスカートの裳裾であることに目線で辿ることで榎木津は認識した。細い腰。平かな胸許。頸をすっぽりと包む立ち衿に、撫で肩を補うような肩袖の膨らみ。結い上げられた髪には小さな飾りが付き顔を面紗が覆っていた。 喪服だ。 ならば、哀悼は此の人物にこそ捧げるものなのだろう。 「La douloureuse epreuve qui vous frappe m’emeut tres profondement et je veux vous dire la part sincere que je prends a votre chagrin, en vous adressant l’expression de mes condoleances emues et respectueuses」 (貴方がたの痛ましい試煉に深く心を動かされます。悲しみを分かち合うと共に、心より哀悼を、) 諳んじる。黒い面紗によって視線の在り処は解からないが、その人物は榎木津がお悔やみを諳んじ終わっても凝乎っと注視していた。けれど、やがて俯き、寝台の人に向き直った。 俯くと、その人物の何もかもが黒い中で項と僅かに覗いた頤、それに小貝のような耳殻だけが皮膚を覗かせていた。 東洋人特有の象牙色の皮膚だった。 「ja,danku wel.」 短い返答だった。否、それすら能く聞きとれずに愁霖の音なのかとさえ思えた。目線は最早此方に向けられなかった。只管に寝台に眠る死体にあった。 近付くと影は俄かに後退した。拒むように。腕を伸ばし、影の腕を掴み、引き寄せた。 薔薇の匂いが濃く香った。どれほど此処に死体と一緒にいたのか。身の震えが伝わってきた。手を握られることが苦手なのか、振り解こうとする。が、一層引きよせた。 「名前は、」 耳殻に朱が混じっている。それを見詰めながら囁いた。 「biche、」 雨音でなく明確に聞こえた発声に、榎木津は抱き込んだ。その人の夫の前で。 薔薇の香りがした。 榎木津は何も言わない。時々授業を抜け出したり、遅くまで寮に戻らなかったりが続いている。それでも彼の人の許で夜を明かさないのは、行く先が欧州公使館であるが故なのだろうか。 「何も聞いてないのかい?」 「申し訳ありませんが、僕にあれこれ漏らすような人じゃないですよ」 「天眼通だのに、」 「違います」 「気になるだろう?公使とその妾は何処で知り合ったのかと、か」 「先輩も物見高いですね。幾つかの憶測は立ちますが。…例えば、新聞には日本妻とありましたが、果たして日本人なのだろうか、とか」 藤野は中禅寺にそう云われ、初めてその可能性に思い到った。外交使節団に於いて公使は席次的には上から二番目なのだ。彼国の特命全権大使は大陸にいると聞いていた。ならば、大陸に行った折に連れてきた妾であっても怪訝ではないだろう。 「しかしその妾君に会った人物自体がそもそも少ないんじゃないのかい?新聞は何を根拠に日本妻と書いたのかな。もし君が仮に言ったように大陸の人だと云う可能性を持ちだすなら、それこそ選択肢は無限に広がる。榎木津子爵が義理を受けたように南東諸国の人なのかもしれないじゃないか」 「東洋人の皮膚だそうで」 「は、」 藤野は瞠目した。滑らかな象の牙にも似た皮膚。褐色でもなく、乳色でもない。黄色と弾劾するには曖昧に過ぎる。 「じゃあ…その…榎木津は…」 しどろもどろに口を動かしていると、「先輩の想像のそれではなく、隠しきない、僅かに覗く耳や項があるでしょう」 根付のような耳をしていたらしい。 そう伝えると藤野は更に赤面して余処を向いた。淫微な響きがあったのだろう。否、言葉尻ではなく、榎木津の彼の人物を捉える目線に。 「何処の誰で有るかは榎木津先輩も注意を払っているみたいですし」 「ん?諾、まぁそれは気になるだろう」 何処で拾ってきたのかはきっとあの新聞記事を読んだ人々に遍く存在したであろう疑問だ。時代は最早シーボルトやハリスではないのだ。立憲を掲げる法によって治められる国家であるのだ。 国家が他国の公使に対し女を宛がう訳もない。 「先輩が云うのには遊びに行っているそうですよ」 「遊びに?」 「そう。骨牌の坊主捲りや、持ち込んだ料紙に落書きをしたり」 「骨牌!前にも云っていたな。骨牌がそんなに好きなのか、その人は」 「何でも公使は骨牌の名負う手の蒐集家であったらしいですね」 「ふぅん、骨牌か…」 先に榎木津は実家の歴代の名品であるらしい骨牌を持ち込んでいた筈だ。 「何でもいいのかい?骨牌なら。伊呂波骨牌とか花札、」 「否、矢張り小倉の骨牌らしく」 「諾、なる程」 少しだけ鼻白んだ。公使で日本研究家と聞いた。ならばもっと広範な骨牌の蒐集こそをすれ、如何にも一般的な小倉百人一首と云った骨牌だとは、まるで普通の男ではないか。 此の極東の地で妾を求めたことも尤もな欲求だったからなのだろうか。 藤野が勝手に自分が何処かで落胆していることに気が付く。 そして榎木津がまたその公使の妾を求めることも普通の欲求に所以するのかもしれないと思って。 公使が常より大きな白磁の壺に収められて嘗てと同じように公邸の主寝室に眠っている。母国からの船は最速でも三カ月は待たなくてはならない。此の国に渡ることを拒んだ大陸の大使は、副使に権限を仮託し日本における彼国の政治を続けさせていた。 母国から新たに赴任する特命全権公使は未だ航海中であり、公使公邸は誰の手にも帰属しない浮遊した不可触な存在となっていた。 本来公邸は公使家族が生活居住するとともに、要人の会合会食と云った公的な儀典に使用される公的な空間である。国有財産の一つでありまた維持費管理費は故国の税金に寄る。けれど今は亡き公使はその費用の一切を自費によって賄い、公邸は公とならず私邸としての扱いを受けた。 けれどもそれも公使の亡くなった今宙に浮いた状態であった。 それ故なのか、将又榎木津の背景故なのか、公使館の許諾を受けずに道沿いの門扉から衛兵によって自由に公邸へ入ることを榎木津は黙認されていた。 家令は榎木津を慇懃に向かい入れ、二階の主寝室の隣にある部屋へ行くことを阻止しなかった。 露台に面した高い窓のある明るい部屋だった。 室内に点点と幾つも椅子が並び、小さな卓子が稀にある。その中にある長椅子にいつも喪服が座っていた。 横長の額の中には、右側に紫衣の法体の坊主の姿があった。 腕の細さを包み明かす袖を掴み長椅子から引き摺り下ろして双人毛並みの良い絨緞の上に座った。 座り込むその裳裾は絨緞の上に長く広がる。榎木津は膝を立てて絨緞に座りビシュに身を寄せる。愁霖の薄曇りの陽光が室内を照らす。露台はしっとりと濡れている。 榎木津は黒漆地に松鶴と州浜の蒔絵が施された被蓋の平べたい箱を包んできた小紋の大きな袱紗から引き剥がすように持ち上げた。袱紗は丸めて背後に避けた。 箱の中から現れたのは、文房の三宝だった。 後ろに低い跫があり、前頭部には流麗な曲線で角を落とし爪先に孤を飾る優美な姿態をした十世紀の端渓の硯。彩光鋒の堆朱の花鳥の彫刻を施された柄の長い筆管。蓋があるので長さは中鋒。墨は油煙墨。 夫が骨牌と共に文房四宝もその興味の対象化にあった為なのか、榎木津が毎度持ち込むそれらに感情の色が喪服の色に滲む。 水滴から硯面に落として、濃く磨り上げた墨を料紙に落とす。 『いまはただ、』 筆を走らせる。榎木津が初めに訪れて骨牌を持参してからどの歌を書くかは榎木津に任されている。 今日は六十一枚目だった。 ビシュは絨緞に両手を着き墨滴の落とされた料紙に身を乗り出した。 榎木津の日頃書く文字と墨を用いて書く文字は違う。家が連綿と継ぐ流れの文字を書く。 ビシュは骨牌の札を捲り、榎木津の文字と見比べる。 残る三十九枚の中から草書で榎木津が記した歌を探すのだ。未だ見付からないビシュに、榎木津は料紙の上の墨滴を尚も広げる。 新聞にある漫画のような人の顔。冠が乗って巻纓が顳顬に添えられる。黒い衣袍は闕腋。脚には裾の膨らんだ指貫姿。背負う矢筈。武官の姿である。 近衛の青年公卿の姿であろうか。 平安公卿の姿を事も無げに描き上げる榎木津の筆にビシュの顔が綻ぶのが面紗越しにも手に取るようだった。そして描き上がったその画に、黒い紗に覆われた小さな手が三十八枚中から男性の衣冠姿を弾き出す。 それを見て『いまはただ』の下へ『おもひたえなむ』と榎木津は続けた。 傍に有るのに触れることもない。 ただ其処に有って、まるで幼な児の言語学習のような遊びを続ける。此の二箇月余の間。ビシュは微笑を感じさせることがあっても声を上げず、榎木津はその面紗を剥ぐことさえない。 幾度も札を幾度も見比べて、三十八枚の内から正解の候補が絞られた頃、家令の老爺が盆を持って現れた。 珈琲の入れられた背の高い急須と生乳の二脚の碗。公邸に於いて珈琲と云えば、此の生乳の多めな珈琲が持て成される。ビシュは榎木津の前では物を口にしない。榎木津の碗と、もう一方の碗を受け取ると、それを持ってビシュは隣室へ行く。 隣室は主寝室だった。其処にいるのは白磁の壺に入ったと聞いた公使だ。 影膳なのだ。 黒い姿は一部も変わらない。二箇月を経ようと何も変わらない。面紗と頸の詰まった裳裾の長い喪服、黒い紗の手袋。 後輩に聞いたならば、耶蘇の連れ合いを亡くしたツマは十八カ月の喪に服すらしい。初めの六カ月は全喪の期間と云い黒の装いを解くことは許されず、また外出も禁止されるのだ。 ならば、ビシュはどうなるのか。少なくとも母国からの船はあと一か月足らずで極東の島国に辿り着く。これまでの長きに渡り不可触であったこの屋敷も其儘では有り得ない。 いまはただ おもひたえなむ とばかりを ひとづてならで いふよしもがな 「深草少将のようだね」 兄は襯衣姿にどうやら仕事をしていたらしく両の上腕に帯を巻いている。爪先が細く硬そうな革靴は完璧に磨かれていた。そしてゆっくりと眼前の卓子を挟んだ椅子に腰かけた。美しい黒檀の華奢な椅子に緞子織が綿を入れられ表装されている。 同じことを学校の同輩にも云われたことを思い出した。 それほど愚かな男に見えているのだろうか。 一瞥を呉れると莞爾と兄は微笑んだ。 「だってしているんだろう?百夜の通いを、宇治山荘へ」 何を云うのだろうか。少なくとも榎木津の行き先は京都ではなかった筈だ。ただ都下でも閑かな椚林に包まれた雨の降る邸宅だった。 「そう。宇治山荘」 総一郎は頷き、弟に珈琲を勧めた。芳ばしい香りを上げる黒褐色の熱い液体。最近頓に生乳の多い珈琲ばかりを飲んでいた所為か、酷く苦くまた熱く感じた。 「格別情報を持っている訳ではないけど、生前公使閣下はご自分とその住まいを『宇治山荘』と称していたそうだよ。ほら、自分の名前がキセンだろう」 榎木津が頸を傾げると、総一郎はポール・キセン・クローデルと故人の名を呼んだ。 「ほら、君が最近熱心にしている骨牌にもあっただろう」 我が庵は都の巽鹿ぞ棲む世を宇治山と人は云うなり 慥かにあった筈だ。その番号さえ憶えている。小倉の骨牌に於いて第八番目の札である。 ただ、未だそれを繰ってはいない。 否、あの家に存在する数多の骨牌からは永久に出てないであろうことは明白だった。何故それに気付かなかったのか。あの部屋や、屋敷の廊下や踊り場、階段の壁に飾られた額の中には常に双つの札があったのに。 「彼はそれを知った時、とても驚喜したらしい。そしてあの公邸を宇治山荘と名付けて折々に触れ、まるで号のように宇治山と著していた」 秋の長雨が続いている。 夏のような激しさは無い。静かに雨滴を響かせて、窓外を間断なく埋めている。あの人の許へに訪った日も雨だった。 「ところで」 「何?」 「なんだはないだろう?普段私の処になぞ寄りつかないのに」 どうしたのか。と問う総一郎の顔は少し笑っていた。 用件があることは明白だった。普段の榎木津は兄の呼びだしに応えるさえそれこそ少ない。 「ビシュを、」 「ん?」 「あんた、あの子を知っているだろ?」 長椅子の端に肘を付いて榎木津は斜に構えたまま兄に問うた。諾、と兄はあっさりと頷いた。実際在邦外国人が集まれば噂の端に上がる能く知られた話だった。 「ラシャメン、」 一つの単語を落とすと榎木津は舌打ちした。 「舌打ちなぞ、下品だな」 「下品はどっちだ」 碗から立ち上る湯気が先より小さくなっていて、飲み頃を知らせていた。しかし今の発言に兄から差し出されたものを摂りたいとは思えなくて、肘を着くだけでなく長椅子に凭れた儘脚を組んだ。 「私がそう思っている訳じゃない」 「だったら口にするな」 凝凝と総一郎は弟を見つめた。 「随分と感情的だ、」 榎木津は兄から目を反らしたまま口を利かなかった。 「君が宇治山荘に足繁くしているのは聞いているよ」誰にだ、と訊きたかったが榎木津は未だ口を噤んでいた。 「……君までも執着するとは、」 それ程に手嫋かなのか、脂粉が香るのか。膚は滑らかで如何程に美しいのか。総一郎は揶揄う様相で実にありきたりなことを云った。榎木津の興味が其処に無いことを知っているからだ。 「さあ?顔も見たことも無いよ」 脂粉も無く、手嫋かでもないだろう。行動にぎこちなさがあって、恐らく酷く不器用だ。声すらあの家で聞いた雨音と混じり合って殆ど記憶にない。口が利けないのでは、と疑った時もあった。筆談が出来なければ実際何も引き出せなかっただろう。『瀬をはやみ』の歌の横に「名前は、」と書いたならば散々の逡巡の末に染付の筆管を取りbicheと綴ったのだった。 ただ倹しい光の中で見た象牙色の耳朶や、黒色に包まれた頸や腕、腰の細さだけが遺体の横で酷く淫蕩だった。棒っ切れのように貧弱で乏しい四肢だのに。 気が付くと遺体となった夫の横で腕に引き寄せていた。死臭を隠す薔薇の香りを憶えている。 家令の老爺に感情は無い。彼はただこの屋敷と死した家の主人に仕えているのだ。けれどただ一つ、耶蘇には火葬の習慣はなく、遠く離れたこの国から主人を戻すには火にくべるしかないことを、悔むようにしていた。 「親父は南東で義理を受けたんだな?しかも酷く大きなものを、」 「私も詳しくは知らない」 「弔問を遠慮させていたのに、『榎木津』が許されたのはそういうわけだろう?」 副使に子爵の親書を持たせての訪問だった。術中に嵌るのは面白くないが、後退するには榎木津は深く入り過ぎていた。情も既に濃い。 不可触であった館はもうすぐその主宰を変える。 潮時なのだ。 冬風に窓硝子が鳴っている。藤野は自習室から戻りながら寮の長い廊下を睡眠の足りない足取りで進んでいた。そして窓から外界へ身を乗り出す榎木津を見付けた。 自習室で転寝をしてしまっていたので時刻は既に午前を迎えている。 「榎木津、どうしたんだ。危ないぞ」 呼ばれた男は片眉を上げて、同輩との旧闊を除した。 「雨樋を伝うから大丈夫だよ」 窓枠に腰を掛けて上肢は外界にある。裾の長いフロックコートの頸許の併せから襯衣の立ち衿が見えた。艶やかなタイも絞めている。 此の真夜中に。 「藤牧、君は好い加減眠ったほうがいいな。目の影が深いぞ、」 「鳥渡、変に寝てしまったんだ。否、僕のことはいい。君は何処に行くんだ、こんな時間に」 「巽の方角かな」 南東を榎木津は指差した。酷く抽象的な返答に困惑する。 「わがいおはみやこのたつみしかそすむ よをうしやまとひとはいうなり。自分を宇治山と云っていたらしい」 「誰がだい?」 「キセン・クローデル」 「特命全権公使…閣下の名前だね」 ご執心の、とは云わなかった。 「今はただの骨だよ。全く捻た回りくどい厭な大人たちには困りものだよ」 珍しく榎木津は溜息を漏らした。 「ほしいものは欲しい。して貰いたいことはちゃんと手順を踏んで頼むのが筋だろう」 あんな符号めいた代物では無く。踊らされる身にもなってみろ、と榎木津は憤慨してみせた。 榎木津が漏らした不平に、不図兇悪な顔で後輩の中禅寺が笑って見せたのは二時間程前の話である。 時刻が朝に変ろうとする頃合いだった。 「キセンと云う名前なのなら『宇治山荘』と云う雅号も問題では無いのでしょうね」 「どういうことだ?」 「否、方角が違っていると思ったんですよ。鏡文字のようにあべこべだ」 「方角?」 「ええ、公使館があるのは寧ろ辰巳の方角ではなく坤の方角でしょう?」 「諾。ふーん…そういうことか、」 「なにがですか?」 けれど、榎木津は納得したようだった。中禅寺に齎されている情報は少なく榎木津が何を納得したのかさえ解からないが、榎木津の行動や思考が突飛で解からないことは世の常に等しい。 「ところでその格好は?」 鏡の前で襟に巻くネクタイを榎木津は何度も何度も良い形に結び直している。器用な手先はどれも見事なウィンザーノットを作っているように傍目からは見えるのだが、どれも気にいらないようだった。 「誠実な求婚者、かな」 「未だ通う心算なんですね」 「否、そろそろ潮時だね。遊びの時間は終わったよ、」 まるで妓楼に通うかのように呟いた。 「あと数日経てば骨と一緒に家令のお爺さんもも祖国に帰って、新たな公使がこの国に赴任する」 最早時間制限いっぱいなのだ。 ビシュの許へ通うことは楽しかった。当初閉口した生乳の多い珈琲も舌が好むほどに慣れた。楽しかったのだ。楽しくて出来る事なら今の儘続いて欲しい日々だった。 けれど、最早庇護者はなく、新たな公使があの館を主宰することになる。 そう──────潮時なのだ。 「藤牧、」 略称を呼ばれた。 「生憎僕は辛抱強く百日も通うことも出来ないし、九十九日目に死ぬ心算もない。ただビシュはその心算かもしれない」 嘗て藤野は榎木津の行動を百夜通いの男と評したことがった。 窓の外の雨樋に腕を掛ける。 「窓閉めておいてくれ。寒いだろう?」 跫を外し榎木津は二階部分の窓から壁を伝って下りる。そして学校の門扉を抜けて闇に紛れるのを凛じとした冬の空気に辺りながら見送っていた。 既に嘗ての家の主人のあらゆるものは撤去されていた。片付けは家令によって殆ど終わり、部屋には公邸の備品である家具調度と、膝に乗った額の相嫡を亡くした喜撰法師の骨牌札のみだった。 もう一枚は何処に行ったのだろう。 公使の亡くなる以前のごたごたの最中に注視している暇さえ無く、気が付いたら一枚のみになっていた。彼の愛した札であったのに。 静かな館である。其処にあるものは主人の緘黙による静寂ではなく、空虚だった。無理もない家の主人は物言わぬ骨であるのだ。 新たな主人を迎えるまで此処は彼国の持ち物は無い。キセンの私的財産が投与された私物だった。そのキセンも彼の品々もなければ、廃屋に等しいだろう。 けれど、榎木津は確信していた。 その家屋のずっと奥にいることを。深い飴色の木彫の扉を開ける。 霽れた夜空に白い皓月が硝子戸から侵入していた。 影が立っていた。 否、影のような黒い存在。優美な襞を湛える裳裾は長く広がり、頸は詰まり、結った髪の飾りから面紗が顔を覆っている。 「ビシュ、」 跫音を隠す気も無かったので、響かせて歩いていたのに部屋に入るとビシュはすぐに此方を振り返り、何処か動揺したようだった。 夜引いての門衛は榎木津の姿を見ると、何も云わずに敷地へ促された。またそれは家令にしても同じことだった。整った前栽を抜けると館の扉が見え、その前に立つと家令の老爺は深夜にも関わらず眠そうな様子も見せずに榎木津を招き入れたのだ。 ビシュの向こうには硝子戸と月明かりに照らされた椚の茂みが見えるばかりだった。両手を臍の辺りで組んでいるように見えたが、組んでいるのではなく札を持っていた。それが喜撰法師のものであることは見なくても解かる。 窓の前に置かれた長椅子には分解された額があったので、ビシュが取り出したのだろう。 「僕の家に来るか、」 突然の榎木津の言葉であったのに、驚く様子もなくゆっくりとビシュの頭が振られた。 榎木津はゆっくりとビシュに近付く。 「僕の家に来ると好い。もう君は充分に悼んだ」 その眼前に立つ。最早ビシュから薔薇の匂いはしない。あれは死体の臭気を隠すものだったからだ。 手が肢体に触れるか否かの距離で腰から胸許を辿った。その躰を覆い込むように。 「そうすれば、」 頤に触る。 「もうこんな格好をしなくてもいい」 榎木津は面紗を拇指で持ち上げる。掌で触る滑らかな、柔らかな頬。そして面紗を剥ぎ取った。 大きな目をしていた。 長く鬱蒼りとした露が宿っているような睫毛。 榎木津が顔を寄せる。そして脣を重ねた。 そして榎木津が脣を啄み吸い上げ、脣を開かせる。口内を這いまわり、舌を絡ませて唾液を飲ませると、豊かな襞の裳裾ををたくし上げた。 「ん、んんっ、」 ビシュはそれを避けようと榎木津の腕の中で藻掻いたが、榎木津の線が細い外観とは真逆にびくともしない力強さに裳裾の中、跫の付け根にその手が達した。 触れる其処には慥かに、陰茎が存在していた。 握られ、撫で上げられる。此処数カ月喪の禁欲にほんの僅かな刺激でさえ反応してしまい、してしまうことに身を震わせた。 脣が離される。はあ、と互いの交じり合った息が吐き出された。 「やぁ…っ」 榎木津の手が尚もビシュの陰茎の形を確かめるようになぞり上げる。 「やっぱりだ」 榎木津は化石を発見した子供のように嬉しそうに笑っていた。 「………いつから、気付いていたんですか?」 殆ど初めて聞くビシュの声と、初めて聞く日本語だった。 未だ少し高めの少年の声だ。それでも変声期は終わっているだろう。 「最初からだよ」 何故女の恰好をしているのかずっと不思議だった、と榎木津は言って笑った。 「彼は…キセンは、僕を拾ってくれたんです」 若い頃に妻を亡くして以来、女に対する興味は消え失せたと言っていた。 だから此の母国から遠く離れた国で仕事と文学の勉強とをしながら、ビシュを伴侶として扱い教育を与えてくれた。 本当のキセンは特命全権公使と云う政治家ではなく文学者なんです、とビシュは云った。 そしてその薫陶をキセンはビシュに注いだ。和歌の美しさや骨牌の面白さ。紙と筆と云う不思議さ。 「でももう、此処を出なくちゃ」 ずっとそう思っていた。せめて「彼の肉体が無くなるまでには此処に居たい」と思っていたのが、やがて訪うようになった榎木津の存在にそれさえも延期された。 「行く宛てはあるのかい?」 少しだけ口許に笑みを刻んで頸を振った。 「もう何処にも行く気はないんです。キセンは僕の夫でした。せめて彼が僕を愛してくれたように、あんなに地位も名誉もあってだのに、憚ることも無い謗りを真正面から受けて、それでも僕を離さないでくれた彼の喪に服そうと思うんです、」 「だったら猶更だろう。僕の許に来ると好い。君には生憎だが、面倒をみる甲斐性はあるよ。そして公使もそれを望んでいるらしい。『タツミ』くん」 「えっ」 喪服の少年の目が驚愕に瞠らかれた。 「おお!当たったな。その顔は当たったな!」 榎木津は笑って、その小貝のような耳殻に脣を落とした。 「bicheは雌鹿を云うんだろう?」 胸元から一枚の骨牌を取り出す。 紅い衣袍の烏帽子姿の男性が描かれた札だった。小倉骨牌第五番目の札。猿丸太夫。 「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき。公使から僕の父親に送られてきたんだ。自分が死んだことを知らせる為に」 秋の季節に私は死に、鹿で有る処の私のツマが泣いている。ツマを助けて欲しい──────と。 そして跫許に落ちた喜撰法師の札を取り上げる。 「わが庵はみやこの巽鹿ぞ住む世を宇治山と人はいふなり。先刻の奥山の山は、宇治山のことだろう?つまり彼自身であり、また此の住居だ。鹿は共に君を差す。悲しいのは彼が死んだからだ」だからこそ鹿は泣くのだ。 「ただ解からなかったのは、君の雌鹿と『タツミ』だね。人に聞いたならあべこべと云われた。確かにそうだ。此の館は都の巽でもないし、君は女性ではない」 男である以上、ビシュと言う少年はbicheでは有り得ない。牡鹿はcerfと云うのだ。 「君は誰だ?」 「タツミ。…セキグチタツミと云うんです」 その脣から零れたのは、全き日本の男性の氏名であった。 「彼が自身と此の館を宇治山と称したのは、彼がキセンだったからでは無くて、僕を拾ったからなんです」 巽に棲むのは鹿だろうと得意気に云う壮年の男の顔は無邪気だった。 そしてまた「君の居るところこそが私の住処だ」とも云ってくれた。 少年を囲うのは流石に人の目が厳しくなる。だからこそツマとしたのだ。ツマと云う言葉は往古には男女を特定せずに連れ合いの意味として使われることを知っていたキセンは好んでその敬称を使った。 愛された。 キセンはとても情熱的だった。 元々女性よりも男性を好むのだとは閨に聞かされた。 愛されたのだ。 同じだけのものを返したい。共に儚くなりたい程に、自分も彼を愛したのだ。出来るならば十八カ月の長い日々を喪服に包まれて過ごしたい。せめて耶蘇に於いて全喪と云われる最初の六カ月なりとも。 「タツミ、」 呼ばれる。不思議な気がする。久しく呼ばれていない名前だった。キセンさえ呼ばなかった。もしかしたら彼には発音し辛かったのかもしれない。 「僕の許においで。遠慮することは無い。暇を持て余した愚かしい家族ばかりだが退屈はしないだろう。それにキセン・クローデルもそう望んでいる」 榎木津はセキグチタツミの頬に手を添え、顔を寄せた。 脣が触れ合うその前に囁かれる。 ずっとこうしたかった────── 東の空から暁が黄泉還る。日が夜に触れて紫色の空の向こうに眩いばかりの光明がみえた。 朝を告げる日に触れて、生が新たに産れることを知った。 榎木津礼二郎のいる高等学校に、関口巽が編入してくるのはその半年後のことである。 了 28/july/11 改訂 ごちゃごちゃした内容ですみません。 BGV(MならぬビジョンのVで)はぶらぶら美術博物館の主に印象派展で。 |