豊穣の月 彼は――――豊穣を約束すると云われる。 ***** 榎木津礼二郎は山の深くへ迷い込んでいた。榎木津と言う男、都会の道の只中も山の緑に多い尽くされた視野も聞かぬ中も同じように居られる。 貴なる身に生まれながらも。 ただ宵も更けた今、無闇に山の中を歩き回る訳には行かない。此の辺で脚を止めた方が良いだろう。 巨なる磐があった。 所々苔むしている。 その下に一夜を過すことにした。此れ程に大きな磐だ。転がりだすことも無いだろう。 白く、月が冴えていた。眩く。 ***** 磐に降り立つ人の影があった。月の眩さに人の顔は見えない。 寝たふりをしていると、その誰かが榎木津に顔を寄せてきた。 呼吸を呑む気配。 そして口付けをされる。冷えた躰に誰かの温かで湿り気のある其処が押し当てられると、ジンと熱が躰を廻った。芽吹く緑。双葉を別けて、茎が伸び、地面を這う緑が眺望一面を染め上げる。 そんな像が脳裏を席巻する。 嘆息を鼻で静かに吐き出すと、慌てて脣を離された。 「え、村の人じゃ…ない…?」 呟く、弱弱しい声。瞼を開けると身を翻し走り去ろうとしている。 その腕を榎木津は掴み取った。 「待て、」 白い皓月は地球との距離を酷く縮めている。 彼――――そう、口付けをしたのは『彼』だ。男に接吻されたのに、何故嫌悪や腹立ちを抱かないのか。それ処か、去って欲しくないのだ。 彼は此方を振り返った。彼のすぐ背後には白い月が抱くように寄り添っていた。 「なんで…?」 「迷ったんだ。だから、此処で一夜を」 過そうと。 眩い月の前に彼は黒い影にしか見えない。榎木津は腕を曳いた。 「君は何処から?」 細い肢躰。袴に能楽に見るような長絹を纏っていた。腕を取って、彼の背を抱え込んだ。 面を俯かせているので、顔が判らない。短かな襟足と酷く白い項が曝されて、頚骨の尖りが陰翳に鋭い。 顎を取る。 そして、そっと持ち上げた。 鬱蒼りとした睫毛が持ち上がった。重そうに。麗としたの黒目勝ちな眼。黒曜石のような煌きではなく、那智黒石の慎ましやかな――――。 「…君は猿に似ているね、」 唐突な言葉だったのだろう。 彼は「は?」と薄く脣を開いた。 狙った訳ではない。その脣に、招かれたのだ。 上脣と下脣を啄んだ。彼の眼が益々瞠れる。啄む毎に榎木津は自分の瞼を閉ざし、また開いた。それが五度も続くと舌を彼の口内に忍び込ませる。彼の瞼が降ろされた。ばさり、と音を上げて。鬱蒼と重い睫毛。口内を執拗に蹂躙した。唾液を絡めせ会う水音が上がり、溢れそうになるそれを彼が嚥下する音を聞いた。首筋に当てていた掌に咽喉が動くのを感じた。 二人が離れた時、彼の眸は薄らと滲んでいた。 貴石を月の光に当てると水が凝ると云う挿話を思い出して、熱を持ったように熱い眦に脣を押し当てた。 睫毛を下の口唇で扱く。 吐息が彼の脣から漏れる。 蟀谷に頬を滑らし、耳の縁を咥えようとすると、そっと肩を押された。 「なんで?」 彼は俯いて頸を振った。 前髪を押し上げて、額に口付ける。 熱を持つのか、額には水滴が浮いていた。 「あなたに此の身を与えては、村が干上がる。…それ処か、こんな処を見付かれば、あなたは確実に殺されます」 彼は榎木津の両掌を自分の頭部から外して両手で握った。 **** 旅に出たのは晩冬と言うのか、春先と言うのか。 日々にくさくさしていたのだ。 そんな時、一学年後輩の能く喋る男から奇祭の話しを聞いた。村の択ばれた男が一人山に入るのだ。そして、山中でなにものかと逢い、瀬を得られれば、その歳は豊作が約束される。 能くある話だと云う。 ただ、その場合山中で必ず迷うのだと云うのだ。 迷って誰かと出会う――――。 その偶然こそが、豊穣には必要なのだと。迷った儘、いなくなった男もいる。 面白いと思った。 迷う。 誰かと逢う。 山中に迷い二度と出てこられないかもしれない。時期も時期だ。死ぬこともあれば、村を出て行く口実にするものもいるだろう。 詳しい話を聞いたわけではなかったが、『大体』の辺りを着け旅に出た。 面白い。 山で何と出会うのか。 生きるのか、死ぬのか。 生きるのならば豊穣を。 死ぬのならば―――― そう、それは最悪の脚本だ。 王か、死か――――。 **** 「今、僕と同じように山に迷っている奴がいるっていうことかい?」 彼は頷いた。 「迷わせた儘にすればいい」 「そんなこと――――」 「出来ない?」 また頷いた。 榎木津の手に彼の吐息が掛る。 植物の萌しを齎す春の風のような柔らかさだ。 「君が択べば良いことじゃないのか」 「いいえ。凡ては、定められている」 「何に?」 今度は首を振った。 「君は――――先刻此の身を与えると云ったね」 「…はい」 「見ず知らずの男に、」 ゆっくりと那智黒が姿を現す。 「抱かれるのか?」 何かを云おうと彼の脣が歪んだが、終には言葉にならず。脣を閉ざし、眼も閉じた。 榎木津は再び口付けをした。 「僕が僕で有る限り」 彼の言葉が榎木津の脣の上で震えていた。 「そんなことってあるか!山を僕と降りよう」 「できません」 春には山で村の男に豊を与え、秋に還る。 「村を彼らを見棄てることなんて、出来ない」 それが彼の『定め』だった。 永久に続く定めの道。 「もう、逃げて下さい。今だったら、貴方は迷わない」 「そんなことができるのかい?」 「少しくらいなら山も僕の願いを聞いてくれる」 「そうじゃない。君のことだ!僕と離れられるのか」 「え、」 「僕じゃない誰かに抱かれることが出来るのか?」 瞠目し、彼は言葉も継げないようだった。 「もし僕が逃げるのなら君も一緒だ」 眼を閉じると、彼の目からは雫が滴った。雫は皓月に煌き地面に零れると、小さな葉が芽を出し茎が伸びて額の中に薄群青の花弁が咲いた。 「出来な…」 言葉尻を脣で塞ぐ。 「出来るさ、」 「だって」 「じゃあ、こうすればいい」 「え、」 榎木津は自分の手を彼の緩い拘束から解き、両腕を広げた。 「僕も、神だ――――」 能く保や、否や。能く寿げ――――。 遠くで枯葉を踏み拉く音が聞こえた。彼を求めて山中を迷う村の男のものだ。 「豊穣なんか分けてやらないさ。もう誰にもね」 「え、」 目の縁が赤い。情欲を誘うような色彩。 榎木津は額に指の甲を当てて少し思案してみせて、やがて莞爾と笑った。 「判ったよ、君はタツミだね」 業――――。 音がした。皓々とした白い月が、あれほど地球に接近していた月が、急激に退いた。 業、業、業――――と。 断末魔のような音を上げて。 「さあ、僕と行こう、タツミ」 「なんで?」 「云っただろう、僕は神だと」 お見通しなのさ。 「君の存在の為に豊作ばかりなんてズルイじゃないか。そろそろ君の存在を脱却してもいいだろう。君が気に入らない男に抱かれることはない」 山の中であれ程緑に覆われて、何も見えなかったのに突然視界が開けた。 「さて…、此処は何処だ!」 榎木津は眼下を見下ろした。 **** 「奇祭には別の伝承もある」 能弁家の後輩は語った。 「ある山伏が、領主から多大な金を貰いうけ、何かとある契約をさせることにした」 「『何か』たあ、なんだ、」 「知りませんよ。訊いた話では『何か』としか。何かとの契約の為には贄が必要だった。山伏は厩に繋がれた猿がいいと、それを使うことにしたのだが、その猿を可愛がる者がいた。領主の息子で、歳の頃は元服前。山伏の呪いは猿に行く筈が、その息子に」 「どうなったんだ?」 「領主は猿と遊ぶ息子に余り執心が無かったみたいで、山伏が慌てて施した方術で「山中で息子に出会い、名前を呼べば戻る」と言うことになったのだが、自分の荘園が豊作であれば息子を犠牲にすることなんて苦じゃなかったんだな。山中で彼の名前を呼んではいけないという触れを出した」 「皆守っているのか?」 「みたいですよ。今もその奇祭が残っているんだから」 「なんていう名前だ?」 「さて、確か丑寅とかそんな、」 後輩は幾つか方位の名称を挙げた。そんな挙げられても名前を覚えるのは増不得手なのだ。結局一個しか憶えられなかった。 タツミ、という名称しか――――。 豊穣を約束されると云われる存在は関口に与えられた属性なのでこれからは榎木津を満たすでしょう。 榎関と言い張ります。 関口の涙で咲いた花はオオイヌノフグリです。これ外来種なんだけど『イヌの陰嚢』なんて花の名前、捨て置けなかい。 絶対関口だったら咲かせられる筈!と思いまして。なんか茶碗の中もこんな話だな。好きなんだ、すみません。 榎木津がお貴族さま(華族)&金持ちで良かった。 扶養家族が一人増えたくらいなんてことないよね。 |