黒色叢中、緋一點 榎木津は堂上家の中でもヒソクを好むと囁かれ続けてきた。 暗に、密やかに。 ヒソクとは鮮やかな紅であり、即ち生まれたての血をさし、また秘事のことでもあった。榎木津はヒソクに惹かれる。 だからこそ生半の相手は無く、大半は淫売婦に等しく、その凡そを晩婚でありまた側を持つことが恒例であった。誰もが「榎木津の業病だ」と陰に言った。 榎木津に長く仕える家令や奥の者たちは囁く。 「前の奥さんの身ぃはもたんかった」 「男衆ならどないだっしゃろ」 「あれは愛しさからの行為やない。躰がそうせんとあかんのや」 「御子なんぞ女がいればすぐに出来る」 「問題はあの宿痾や」 密密密密密密密密密、密、密、密、密、密.密.密.密..密..密...密...密........ 強かに酔った。酩酊は決して嫌いではない。そう、悪い酒ではなかったのだ。一人榎木津に連れられて彼の住処へ何故戻ったのか。 恐らく、足許も覚束かず自宅に帰るのも億劫で、一番近かったのが其処だっただけの話だ。 榎木津の処で水でも飲んで、少し眠れば、自宅へ戻る心算だったのだ。妻も心配しているだろう。 長椅子を借りて身を横たわらせていると、人の香りがした。 夢も現に、冷たい石のようだと思った。 不意にそれが眇められ、髪の感触が頬に落ちて、髪の香が馨った。 薄く開けていた口に覆い被さり、吸い上げ甘咬みし、口内へ押し入り舌を絡め、存分に蹂躙した。 やがて、離れて往く。 そして視界から消えた。甘い痺れを残して。 「お早うございます」 声が聞こえ、眼を開けると、男の顔が見えた。 「和寅…」 「此処で寝てたんですか?関口さん」 「あ…諾…」 上肢を起こす。身に纏った開襟襯衣は寄れているが、何処にも乱れは無かった。唇を弄ばれた感触。酷く恥ずかしくなった。 あれは、夢か。 「梅干とお茶、持ってきましょうか?」 和寅を凝視めた。彼の屈託の無い眸にはあの冷たさはない。 「な、なんですか?」 「否…、早いね、」 「そんな早か無いですけどね、今御屋敷から戻った処ですし。朝の掃除ですよ。卓子拭こうと思って」 手にした掃除用具を見せた。 「髪、ぐしゃぐしゃですよ」 関口は自分の前髪を掻き上げた。凝っている。昨夜頭を悩ますよなことがあっただろうか。髪を掻き雑ぜるようなことが。酔いが邪魔をして記憶を辿れない。髪を掻き雑ぜることが好きなのは、自分ではない。 「…小説家の先生…」 顔を和寅に向けると、その眼が冷やかすように関口へ向っていた。 「なんだい?」 そんな批難めいた目線を向けられる謂れはない。 「かえって風呂でも浴びてきたほうが良いですよ。と言いますか、そういう処に行ったんなら、真直ぐ帰って下さいよ」 「はあ?」 意味が解らなかった。冷やかすような目線だが、夜のあの『冷たい眸』ではない。 「歯型、」 「はがたあ?」 「口のとこ、歯型がついてますよ。綺麗な歯並びの、」 思わずぞ―――――と、した。あれは現か。 「僕、帰るよ。……榎さんには…泊めてくれて有難う…て…」 「はいはい。でも先生は居りませんよ。」 「え」 「僕と入れ違いに御屋敷です」 何かに追い立てられるように薔薇十字探偵社を辞去した。 あれは、あの眸は、あの人なのだろうか。 「まさか……」 階段を下り通りに出ると、困惑げに探偵社のあるビルヂングの上側を見上げて関口巽は立ち尽くした。 取り巻きはいらない。実際には親しい友人は然程多くない。煩わしかったからだ。学生時代なぞ、殊に。 然し、魅せられた。 紅く見えたのだ。 一瞬にして凡てが変わるほどに、彼だけが赤く、緋く。真紅に。 一瞬だ。 あらゆる死人のような黒い群像の中でそれだけが鮮やかだった。 緋く。 黒色叢中、緋一点。 破廉恥な色合いだと思う。 よくもそれを曝していられると、心理を疑う。 だのに―――――何故――――― 気が付くと、あらゆることを夢想している。如何程の赤いのか。また、自身の血溜まりの中に臥した時のあの光景は脳裏に焼き付いては成れない。 思い出す度に、猛りを知る。 宿痾だ。 緋に魅せられる。 誰そ彼時に、榎木津の家令に呼び出される理由は何も見当たらなかった。況して榎木津本人ではなく。然し呼び出されればそれに随う他は無いだろう。相手は貴族の一席を担う家格の人物であり、また先輩の累なのだ。 巨大な屋敷は静まり返っていた。 何処も彼処の謐々と清らかで、塵一つなく、そして人の姿は出迎えた初老の家令以外み見当たらなかった。 「関口さま、でございますね」 「そう…ですけど…」 何の用があるのか知れないが、早く此処から脱したい心持にしかならなかった。此の家に興味の一滴も持ち得ない。 薄暗い邸内を家令の持つ燭台の仄とした燈一つに頼み進む。人の姿は見えない。然し、しめやかな気配のようなものが関口を取り巻いているように感じられた。まるで値踏みをされているような。 「あの…何処まで行くんすか?」 余りに邸内深く進むので、少し飽いて、また不安になった。進めば進むほど、杳然とたそがれて来た。 「あちらでございます」 黒塗りの壁が見えた。近付くにそれが、土蔵であることが解った。巨大な土蔵である。黒く塗られ、窓も無く、扉は重そうだった。 「此処すか?」 「はい、」 「あの榎さんは?」 「礼二郎さまは中に、」 次の言葉を出そうとする瞬間に、家令は消えていた。瞬きの間に。 「し、失礼します」 扉を開け、中へ入ると自らの意思であるかのごとく、扉は閉まった。薄暗い土蔵の何処に榎木津がいるのか見当が付かない。彼は気配を消し去っていた。 「榎さん、」にじり進むと、跫の指先に何かが当った。細い長方形をした… 「屏風?」 「そうだ、」 声は左後ろで聞こえた。 冷たい石のような眸だと思った。あの夜に見た。それが今は炯としている。 「開いてみるといい」 声が耳の後ろを撫でた。痺れが耳から背を通って腰へ走った。躰を少し捩る。 開く――――― 後図去った。 抱き留められる。 「どうした?関くん」声は囁いた。背後から廻った手が関口の顔面を撫で、髪の筋へ指を滑らし、頭蓋を撫ぜて頸部を両手に包んだ。 「えのさ…」 声が強張っていた。 「ほら、あそこにある、」 耳の直ぐ後ろで囁かれる。腰の辺りにぞわりと走るものがある。 榎木津の美しい手が長い指が指し示したのは、土蔵の奥深くである。 金銅でできた壺であった。細く長い頸部、その両に翼形に耳環が着き、そこに箭が立てかけられていた。 柄を黒く塗り、その矢羽とその先に着いた小さな鏑は朱塗りだった。 顎を捕まれた。 不図土蔵の薄闇の中に眼を転じれば、そこかしこに屏風が見えた。その何れにも、それはあった。 男女の―――――秘戯図であった。 繊細な毛筆画である。その何れの体位にも、矢が使用されていた。矢が人の秘奥を貫いているのである。 その下肢のデフォルメされた猥雑画が処狭しと屏風にされているのだった。 指が口内へ忍び入った。歯と舌を掠める。 「綺麗な緋色だ」 耳元で聞こえる優しい声音に戦慄する。 腰を捉えられ、顎を掴み口の中へ指を突き入れた儘、頸を捻られた。上肢を捻る。指がするりと退くと舌が擦りあわされた。 身の丈も体重も勿論榎木津に軍配は上がる。酷く榎木津は巧みで何をどう扱えば良いのか心得ていた。 少し跫が悖り、屏風にぶつかり屏風と共に烈しい音を撒き散らして臥すことになった。 肘を着き躰を支えると、榎木津の腕が伸びてきて、衿を引いた。 ぶつりと釦と布地がの裂かれる音が上がった。 曝された上肢。胸筋の上の朱。 膝を尽き、ゆっくりと榎木津は顎を近づけた。 微かな呼吸が皮膚に掛る。 舌がその根元から押し付けられゆっくりと、たっぷりとした唾液と共に、関口の胸の朱を舐め上げた。 ざらり。 指が下衣の上から関口を掴む。軟軟と揉みしだき、根元からそそり上がる。 「あれは、」 榎木津が口を開いた。 「あれは二十四を揃いとして代ごとに、作り足される」 「……あ…ぁ…」 下衣を解いていた。 その茂みに顔を埋めていた。 榎木津の閨にはその玩具が付き物なのだ。 宿阿は榎木津の血の中で転々と受け継がれる。代を隔てることもある。その証拠に父にも兄にも誰かが赤く見えることなどないらしい。此の衝動にも似た淫蕩な劣情と共に。 矢は秘奥へ着きたてられる。ねっとりとした強靭な榎木津のそれと交互に。鏑の先が最初に使った油と榎木津の精に潤された関口の中の一箇所を執拗に追いたて、矢で関口は幾度と達した。 「此の矢は度々折れしまう。だから代替わりの度に作り足さなくてはならない」 髪を絡み掴んで、背の筋を榎木津は舐め上げた。 舌は蛞蝓が這ったような痕を見せる。 矢羽近くを掴む榎木津は歓ぶ其処に烈しく揺らした。 「あぁ…はぁあ、あっ、あぅ…ん……」 掠れる言葉にならない肉体の断続的な声に榎木津は綻ぶ。 そして――――― 矢の柄が撓る音が已む。 「…折れてしまったな…」 折れた箇所を掴み引き上げると矢先の鏑は榎木津が放ったそれでしとどに濡れていた。 「早速、一本欠けたか、」 髪を掴み唇を寄せた。 精を放ち散々に走らされたその顔は疲弊と快楽に潤んで恍惚としていた。 何処に窓があったものか、薄く日差しが関口の顔を照らした。 「もう朝か、」 互いの喘ぐ声が消えれば尚榎木津の屋敷は静謐である。此の屋敷は榎木津そのものである。ならば彼の宿痾は尚深い。 血は何処までも昏い。 矢は未だ二十三本あるのだ。 |