引出物は虎屋の薯蕷饅頭
雪絵さん御免よ…。
昨夜降った雨に芝生が数多の露を浮かべていた。未だ天空も灰色である。それでも灰色をした雲の向こうに白く明るい光が見えて 今日一日の幸福を思わせた。 背後からするすると伸びるものに気がつきもしないで、背の高い窓の硝子へ鼻を寄せていると、腕を取られて躰が傾き気がつくと白い柔らかい波の中へ溺れることとなった。 「君にしては早起きじゃないか」 笑の滲んだ声が聞こえる。 耳朶を優しく触るその声に関口は少しだけ肩を竦めて、声の主を見た。 「榎さんだって」 互いに寝起きが悪かった。否睡りと言う欲望に貪欲なのだ。二人で寝台の上に居るときが一番好きだった。 「隈が出来ているぞ。こんな日に」 眼の下を榎木津の親指がなぞって行く。 「…そうかな」 「睡れなかったのかい?」 「鳥渡は睡ったと思うよ。でも…雨の音が障って」 昨夕の辺りから空が崩れだした。冷たい風が吹いて木の枝を揺らしていると思ったら、やがて雨飛礫が低く垂れ込めた陰鬱色の空から滴り落ちたのだ。 温度がぐんと下がって、酷く寒かった。 世界を打ち付ける雨音が響き渡ってそれが酷く不安にさせた。 さながら断崖の切っ先にいるような心持ちだった。 「ふふ、関くん、それは…」 「なんです?」 「まあいいよ。大丈夫、胸が高鳴っているのは僕も一緒だ」 「まさか。榎さんが?」 如何にも驚いたという顔を作ると、榎木津が顔を顰める。そして眼を薄くした。 「嘘だと云うのなら」 榎木津が腕を広げた。 白い胸部が曝されている。石膏の作り物めいた肢体だ。しかしそれがちゃんと温かいことを関口は知っていた。 「僕の心音を聞けば良い。ほら、耳を傾けて」 関口は両手を榎木津の脇へおいて耳だけをそっと榎木津の左胸へ当てた。 血液の循環音。 弛まなく続く。 それがこんなに嬉しいものだとは思わなかった。 「いやらしい笑みだな」 「え、僕?」 「そう。鏡で見てみると好い。救いようの無いいやらしさだ」 そう云って榎木津は関口の両耳を抓んで、朝の口付けをした。 「今日は丁寧に顔を洗って髭を綺麗に剃って上げよう」 と言って関口を肩に担ぎ上げる。 「榎さん、自分で行くよ。今日くらい」 「駄目。今日は一日君を人目に曝さなくちゃいけないんだからな。独り占めは今だけだ」 そう行って榎木津関口を担ぎ上げたままは浴室へ入っていった。 クローゼットの中にはお揃いの仕立ての良い背広。胸に差す色違いのスカーフ。白い絹の手袋に用意されたサイズ違いの指輪。 「僕の横の並ぶのは白いレースのドレスを着た人間だと思っていたけれど」 榎木津は嘗てそう云った。 「僕だってそうですよ」 関口も負けない。 「君、着てみないか?」 「レースのドレスを?」 「そう、レースの長いベールを頭に冠して」 「辞めてくださいよ。僕が似合うわけ無いでしょう?」 呆れて関口が云うと榎木津は抱き締めた。 「慥かに君を曝したくはないな。あんな薄い生地に包んでは」 庭にはテーブルを出して白いクロスを掛け、咲く花を生けて沢山のグラスと菓子と果物を並べて知り合いの音楽奏者が弾く軽やかな調べで互いに愛を寿ぐ────── 滲みに出る脂汗を手の甲で拭い、雪絵は横で丸くなって睡る関口巽の姿を見て、漸うと安堵の息を洩らした。 指先が震えている。 「悪夢だわ…」 よりによって榎木津と関口の婚礼なぞ──────。 肩が戦慄いた。 辺りを見渡せば何処にも朝の光など存在しない。時刻は未だ丑三つ刻を示している。 榎木津は美男だ。 それは雪絵も認める。 そして自覚は無いようだが美しいものに滅法眼の無い関口はきっと榎木津の許へ行ってしまえば、もう自分には戻ってこないだろう。それほど、あの男は美しいのだ。 腸が煮えくり返るほど、忌々しい。 なんで自分がこんな夢を視なくては成らないのか。 脣を噛み締め、じっとその大きな昂りが行過ぎるのを待った。 睡れるかどうかは解らないが、再び眼を閉じる。 榎木津を蜂の巣にする夢でありますようにと願いを込めて。 |