皮膚と心





ぶつッと、一つ小豆粒に似た吹出物が左の胸部の下にみつかった。



気怠い仄闇の中でそれをみつけたのは青木だった。
「痒いですか?」と訊かれて頸を振った。
青木は脱ぎ散らかした儘の背広を引き寄せ、其処から燐寸を取り出すと、一擦りして点した小さな焔でその吹出物のを照らした。
「他にも在るかもしれませんね、」 少しだけ神妙な声色で云って、何本も燐寸を惜しげも無く使い丹念に薄明の中で関口の躰を検分した。先まで夢中になっていたのに、今更またこれほど丁寧に眺め遣られることは、甚く恥ずかしい。
「も…もう」
声が震えた。
「もう、いいから」
と鼻先が胸に着くほどにあった青木の額を押し遣った。
「どうしたんです?」
「………帰るよ、」
関口は湯を使うこともなく、帰路へ着いた。



 痒みも痛みもない。ただ其処に紅い石榴のように弾けた小さな吹出物があるばかりだった。
「到頭―――――」
夜半に妻の眠る横で、関口は起き上がって小さく嘆息した。
最近はじめた仕事に疲れているのか、妻は夜中にそっとのことでは起きることはない。それは少しだけ有り難かった。
 関口は無償で他者が自分を必要とすることなぞ有り得ないことを知っていた。それは、本能的に経験則的に。
誰もが一目で関口が尋常と違うことを看破し、そして蔑むのだ。疾うの昔にそんなことには馴れていた。自分は卑怯で欺瞞に満ち、卑しい、厭らしい男なのだから。畜生のように醜いのだから。 そんなことは当たり前だった。
自分しか知りえない腐った性根など隠し通さねばならないのだ。
だのに、それが吹出物と云う形で、出てきてしまった。
「到頭、出て来てしまった、」
関口は小さく呟いた。吹出物のなんと醜いことだろう。それは関口の浅ましさの証左のようだった。



久方ぶりの赤木書房の雑誌発行に、それこそ久し振りに楚木逸巳の署名をした。
「センセイ!とりぐっちです」
スタッカートでも付されるような口調で家屋に入り込んできたのは、赤木書房の二人だけの社員の内鳥口守彦だった。
「やあ久し振りだね」
「おや、いつもに増して覇気が無いですね。先生」
文机に向う関口の背後に鳥口は腰をおろし、部屋の端に纏められていた座布団を獲った。其の辺りは勝手知ったる様子である。
関口は少しだけ鳥口に向き直る。
「覇気が無いのはいつものことだよ」
「じゃあ訂正します。生気」
口が減らない。
睨め付けようと漸く関口は鳥口の顔を正面に見据えた。
「あ…」
世界の始まりを表す言葉を声として発し、そして凝固したかのように、鳥口の顔面みつめた。
「先生?」
眼が少し寄っているくらいが難点で此の青年は中々の二枚目である。
だからとそれに見蕩れたわけではなく―――――。
「ああ、これですか?」
鳥口は自分の右頬、眦下の頬骨の辺りを触った。
「出来ちゃったんですよね」
苦笑を閃かせたが、関口はそれに合わせることさえ出来なかった。
「面皰、」
呟いた。
「ちょっと不摂生にしてるとすぐ出来ちゃうんですよ」
徹夜が続いて、と宣った。
脂腺が詰まることにより出来るのが面皰である。故に多くは成長過程の思春期青年期に出来る。
「未だ思春期なんですかねえ、僕あ」
「馬鹿なことを…」
笑い飛ばそうとして―――――できなかった。
「先生、どうしました?」
「別に。…君、忙しいんだろう?これ、確認してくれよ」
原稿を鳥口に差し出す。
「はい、では鳥渡拝見をば、」
鳥口の目線が紙面に落ちる。
頭の天辺が関口に向けられた。旋毛が見える。
此の青年の頬の吹出物が面皰であるならば、関口の胸のそれは面皰ではありえない。もっと厭わしい、浅ましい、毒性の強いものの発露だ。
関口の内部に深く沈殿する。
そう、確信した。



 ねっとりとした空気の其処は或る意味非道く機能的だ。
此処では余計な脳髄を必要としない。
剥き出しの欲望とでも言うのか、そんな空気だ。
部屋に入ると徐に関口を引き寄せ、口を吸った。
関口は慌てた。
青木の肩を掴んで、引き剥がす。
「厭…だ…」
「関口さん?」
「御免、今日は…する心算はないんだ…」
壁に背を凭れ、するすると伝い降りて畳に臀を着いた。些か幼顔を困惑させた青木も屈み、関口を覗き込んだ。
「―――――先日から、どうしたんです?」
「君と連絡がつかなかったから此処に来てしまったけど…木場に伝言を頼む訳にも行かないし」
青木と逢っていることなど誰にも知られてはならない。
知られれば凡てが終る。
もう―――――青木には逢えなくなるのだ。
これ、と関口は開襟の釦を外して自分の胸部を曝した。左の胸には小豆から苺台に大きくなった吹出物があった。
青木はネクタイを外すことも背広も脱がず時計も外さず、唇を寄せて、舌で舐めた。
「や、青木くん!」
「沁みますか?」
沁みはしない。青木のざらついた舌の感覚がしただけだった。
「………うつるかもしれないよ、」
「それがなんです?」


青木は少し目を瞠った。


―――――しゃくり上げてた。
「怖いんだ。きっと君は僕から離れて往く…。それが、怖いんだ」
眼を被っると堪ったなみだが零れ落ちた。
「僕は、醜いから。この吹出物みたいに、」
鳥口の頬に有った面皰とは明らかに違う、胸の吹出物。
「醜い?誰が?」
「……皆それを知ってる。僕が本当は酷く厭らしい男だってことを。勿論、京極堂や榎木津もだ…」
知っていて、皆蔑むか罵倒するか慈悲を掛けるか、判断するのだ。
「あなたは、中禅寺さんや榎木津さんの魔法に掛っちゃってるだけですよ。木場さんのもかな?」
馬鹿だ馬鹿だと云いながら関口を盲愛している彼らの言葉に。
「だ…だって妻が……い、いるのに、だのに未だ………」
泣き声に阻まれて言葉がすんなりと出てこない。
「君が欲しいと思うんだ」
そして、「触るな」と鳴いた。この吹出物は自分の中に蓄積された浅ましさが皮膚を破って出てきてしまったから、と。



部屋の中に泣き声だけが満ちて、青木はただ泣きじゃくる関口を正面から見詰めていた。
一頻泣いた処で、青木は声を掛けた。
「関口さん、医者に行きましたか?」
両手を取って俯く関口の顔を覗きこむように尋ねた。
「…ま…未……だ、」
行ってない。
「行きましょう。僕が付き添いますよ」
そう云って、青木はハンケチを取り出して、関口の鼻に宛がい、洟をかませた。
洟水で泥泥になったハンケチを青木は背広に仕舞った。 「だから、僕を無闇に喜ばせるようなことを云わないで下さい」
子供のような幼顔をして、無邪気そうに笑う青木を見て、関口は少し恥ずかしいことを願った。
永遠にこのままであったら―――――と。





02/09/05





メモ程度のですね。(溜息)
太宰の「皮膚の心」のパロディです。
物語の運びが色色性急で眼も当てられないけど、
甘い感じに書けているといい。




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