箱根山心中 日本建築の手法を用いて西洋を表すならば此の宿がその典型だろう。 車寄せには唐破風を、玄関の両対には花頭窓を。皐月の垣根が緑色に周囲を巡り、椿だけが紅く花を着けて暗色の中それだけが彩色だった。 築山の四阿に立つと眼下に屋敷の棟の瓦屋根がみえた。 借景と言うにも近過ぎるほど、山は眼前に迫っていた。 男が前をゆっくりと往く。 青年編集者がそれに続くが、怪我をしていて歩みは遅い。然程男は足が早いほうではない。だのにそれにさえ着いて行けない。 前を往く男はそれに気付かないようだった。 自分のことしか見ていないのだろう。それが共に居る人間に対して如何程無礼で、また残酷な仕打ちか知りもしないで。 否、知りもしない。 そのこと自体が残酷なのだ。 それでも――――― だからこそ、なのか。傍に居たいのだ。彼を取り巻く人々は。 声を掛けようか、と思った。 だがもう少し後を追いながら彼の残酷さを感じて居たかった。 山を登る。 整備された歩道のような、人が分け入るうちに形成されたものか知れない道を行った。 常緑の木々も葉を落とした木々も暗色だった。 どうせ泊まれないのだから、と宿を素見かして、その後山へ続く道を歩き始めた。 山中異界。 未だ薄く残る雪さえある山道には誰も居なかった。 人が無い道を一心に歩んだ。 「先生」 呼び掛けた。 男は踏み出した左足の踵を地面に下ろすと同時にゆっくりと振り返った。 暈りとしていたので、寝呆けているようにも見えた。 ややあって、遠く後方に居る青年編集者を驚いたように知覚した。 「もう暗くなりますよー」 上空を見上げた。 山が暮れ始め、白光、黄、群青、暗闇がグラデーションを描いていた。 「ああ――――」 本当だ。 「如何したんです?何かに取憑かれて居るようでしたよう」 「――――うん」 男は再び進行方向に向き直った。 づ出に往く手には闇が大きな口を開いている。 とても進める様子ではなくなったいた。 山の夕暮れは早いのだ。 「あの樹の許まで行こうと―――――」 思っていたのだ。 男は腕を伸ばして闇を指差した。 闇の色感はそれぞれに違い、その中に一際高い、恐らく木だろう、があった。 「あの木ですか――――」 「柏の樹なんだ」 釈迦は何ゆえ西より来るか 庭の前の柏の樹だ 公案が思い浮かんだが、男が何を思っているのかだけが相変わらず知れなかった。 「…しかし遠いですな。もう日は落ちてますし、僕の足はこうですし。山の中に迷い込んだら戻ってこれませんね。死にます」 男は苦笑しつつ青年の元に来た。 「迷うのは君だろうに」 此の青年の呆気に摂られるほどの楽観さは、屈託を一時にせよ忘れさせる。 「いいんですか?僕との――――」 心中ですよ。 不意に、此の青年編集者鳥口の口調が真剣味を帯びた。 山が騒いだ。風が出てきたようだ。 今はもう友人や妻たちも戻って来ているだろうか、と宿のことを心配した。 「君の処の雑誌に掠りもしないだろうね」 はぐらかされた、と鳥口は快活に笑う。 「うちは猟奇一辺倒ですからな」 「無駄死に、だよ」 酷く軽く言った。 男、鳥口よりも年嵩の作家関口は鳥口の足許を見た。 包帯が見える。 「しかし君、出歩いて大丈夫なのかい?」 「宿に居たって東京戻ったって閑ですからね。先生と居る方が余程面白い」 呆れたように困ったようにはにかむように関口は少し笑った。 「君も、変った男だな」 「先生と心中を図るくらいですから」 恍惚けているのか、真剣なのか、いつも此の青年は判らない。 関口は苦笑する。 心中なぞ綺麗なものではないのだ。 ただ二つの屍躰が一遍に出来上がるだけだ。 それだけのことなのである。 一緒に死んだからといって何があるのだろう。 人は何処までも独人で、共に死んだとてそれが変わることは無いのだ。生きても死んでも、結局人は独人だ。 誰かを理解することなぞ幻想だ。 分かっているのだ。 理解っている。 判っている。 だが――――その幻想無しには人は生きて行けないのだろう。 そうでなくては。 寂しいではないか。 関口は鳥口を見上げる。 此の屈託無く笑う青年も――――か。 山の中で独人在るのは、誰であろうと同じか。 嗚呼、だからこそ、死の瞬間なりとも、その幻想を味わいたいのか―――― また柏の樹の方向を見詰た。 闇は濃く立ち混めて、既に柏の樹は見えないけれど。 「いいよ――――」 関口は小さく呟いた。 そしてその儘何も言わなかった。 風が冷たく打ち付けた。 「え、先生――――――」 03/11/22 |