掌編色々の中にある『幸いの在り処を、(青/関)』の続きです。 






carassius auratus auratus【学名】






伽藍洞に響く雨音の中で、話をした。
齢二十余にしてどれだけの女性遍歴があるのか、こと青木文蔵に限ってはその童顔からは察し得ないが、兎も角初恋は有るだろう、と思っての話題だった。
青木は些か訝しい表情をしたがすぐに微かな笑みを見せた。
「如何しました?」
と反対に訊ねられ、関口巽は旨く返せなかった。
ただ知りたいからだ、と言う純然たる理由を説明することが、心の吐露であり、相手に知られることが只管に面映ゆかった。
 襤褸襤褸な半分朽ちた木製の三つの卓子や椅子が雑多に並べられた倉庫の窓から人影が二つ外界に向けられていた。
倉庫の前に広がる野っ原は長方形をしている。周囲に柵を廻らせ、境界を作り、黄土色の乾いた色をした砂が全体を覆っていた。
今は例年より長い、七月も終盤にして未だ明けきらぬ梅雨の所為でその砂も泥と化していた。日本列島の北と南に高気圧があって、梅雨前線が立ち往生しているらしいのだ。野原では所々で潦を作っては幾つもの斑紋を作り出して、消えている。周囲にお情け程度に残された木々は総勢で二十本を出るか否かで、その濃緑を更に鮮やかに見せていた。此の雨も降りすぎることが無ければ孟夏の前の慈雨に他ならない。
間断無い雨音に耳を澄ませつつ、窓に背を凭れさせた関口は薄汚れてきた襯衣の胸元の釦を弄んだ。
青木はその脇で窓の桟に肘を着き横目に関口を鳥渡伺い、再び視線を校庭に戻した。
「関口さんでも、僕のそういうのに興味あるんですね」
と青木は呟いた。
「僕のことどう思ってるんだい?」
「さあ?」
戯けた様に誤魔化す青木に憤懣よりも可笑しみが優って、思わず笑いを漏らした。
「関口さんは如何なんですか?」
青木が立ち上がり戯けた口調で今度は関口へ水を向けた。
「僕は…どうだったかな…」
憶えていないよ、と答える関口の腰を苦笑しつつ引き寄せた。関口もそれに抗うこともせず従順だった。人目の無い場所では関口の態度は軟い。
「ああ…健忘さんですか?それとも…」
云いたくないのだろう。あの探偵…榎木津、だろうか。榎木津と関口が懇ろであった、否、今もそうなのかは解からない、ことは青木も知っていた。
「君の思う人間じゃないよ」
青木の思惑を推んだわけではないだろうが、そう言って笑んだ関口の顔を間近にして、青木は鳥渡眉を顰め、その向こうの雨の情景を見やった。
その目が不意に細められのを何処か怪訝な心持で見詰た。
「僕の親戚の家の周りは温泉街でしてね、まあ兎角そう云う場所には多いでしょう。置屋が。その親戚の許に行く度に着物姿の女の人とか芸者さんとかを沢山、散々見ていたんです。ある女性に、一目惚れ、でした」
「一目惚れ?」
「撫肩の、長い睫毛が影を落としているような、色の白い、青白い程の女の人です、」
着物が吸い付くように身に纏っていた。
「え」
表現に思わず竦んだ。
「小作りな躰をしてました。足は小さくて、撫肩で、背筋がぴんと張っていて、全身がこう…円みを帯びているんです。身長は多分今の関口さんよりも少しばかり小さかったかもしれないな。多分。顔は十人並みの器量です」
美貌の女ではない。
青木によって語られるその言葉の数々。それは男のモノだった。初恋と言う淡さからは程遠い表現に、関口は思わず竦んだ。
「僕はその女に触れたくて、抱き締めたくて、仕方なかった」
野原を見遣る青木を窺うと、思いもよらぬ真剣な顔をした男が其処にいた。
注視める関口に気が着いたのか目線が向けられる。
「あの女を抱き締めたら、泥泥に融けるんじゃ無いかって思っていました」
「抱き締めたのかい?」
「まさか。その時、僕四歳ですよ。親戚の許に行く時だけ会う…否、全然親しくも無かったし、ただ遠くから見てるだけやったから」
アチラはそんな子供個別認識もしていなかっただろう。彼らしい殊勝さが顔を覗かせていた。
目線は再び関口から逸らされ、外界に向けられた。青木は此処にいて体温も微かな体臭さえも関口は感じているのに、此の男が何処か遠くにいるように感じられた。此方に向けられない目。関口は思わず腕の中から抜け出たくてなった。身じろぎをすれども、青木は堅固にそれを制した。
「一回だけ────触れたことがありました」
呟くことによって躍動する咽喉を見詰めた。
「何が有ったかは憶えて無いのだけれど、泣いている処を見つかったんです。居た堪れなかったな。男青木文蔵としては」青木は微かに顔に笑みを刻んだ。「選りによって、なんでこの女にみつからなくてはならないのか、解らなかった」
運命を呪いましたよ、と青木の目が細められていた。
「でも、何とも言わずと、あの女は手を差し伸べてくれた。………薄くて、柔らかくて、冷たい手でした」
途端、噴出すように青木が笑った。
「今も思い出すなぁ。あの女の驚いた顔」
「………何を────やったんだい?」
先を促すように動いた自分の口を呪った。

「口付けを、」

トタンの屋根に雨の音が間断無く響く。
「したんです。その女の手に。あの女は、とても驚いて、僕は、抱き締めたくて仕方無かった」
小さな青木が着物が吸い付くような躰の女性。そんな脳裏に映像が浮かんで、関口は俯いて唇を噛んだ。
「…いつまで好きだったんだい?」
何故今も好きなのかと訊けないのだろう。
「さあ」
血の気が引くとはこういうことなのか。重力に躰が引かれ、ただ重いだけの骸に意思が宿っているような気がした。膝が戦慄した。
「もう解らないですね、あの女をいつまでそうだったのか、今のそうなのか、これから先もそうなのか。否、一生そうなのかもしれない」
榎木津への思慕は、探し廻るような労も無く、今も其処に在る。多分その思慕は生涯消えることは無い。 だが、青木の告白に躰が熱を増し、咽喉が咆哮を迸りそうになるのを、唇を噛んで懸命に抑えた。不図それが埒も無い、白地な嫉妬だと言うことに気が付いて、関口はただ絶句する外無かった。
温かな手に因って、床へだらりと伸びた手が不意に浮遊した。そしてその手の甲に唇が落とされた。
「けれど、関口さん。今はもうあの手は取りません。此の手さえあれば、僕は────、」
もう片方の手が関口の腰を更に強く引き寄せ、抱いた。
関口は額を青木の肩に埋めた。