貧しき者の夢想





雨の中で車道に伏した儘の猫がいた。動きかない躰を、じっと見下した。
遠くに車の灯が見えて、触れば、未だ柔らかく、温かい。
毛並みが美しかった。
誰かを想像させた。
胸に抱え込んで、人の居ない伽藍洞とした屋内へ入って行く。襯衣が朱に染まった。
猫の躰を手拭タオルで丁寧に綺麗に拭う。
もう骨は砕けているようだ。
内臓を始末する。
腹部の毛の一部を剃って行く。
そして皮膚を裂いた。
肉が僅かに盛り上がり、血が沸く。
凝固は未だ始まらない。
汗が滴った。
額を拭った。





「じゃあ、鍵お願いしますね」
「ああ、うん…」
窓罹ブラインドの前には三台の電算機が今は形を潜め、家庭用冷蔵庫の機動音が微かに耳に障る。
水道と三列に天井まで届く書架。その壁際には机があり、其処が関口の定位置だった。暗がりの中に机燈デスクライトだけが手元を照らしている。
扉が閉まり、「あの人は誰?」と云う声が聞こえた。
「院生だよ。ああして、日永一日籠ってる。此処が鳥渡…、」声が潜められ、次いで漣のような嗤い声が上がった。
右手の人差し指を顳需頁こめかみの辺りでくるりと回しでもしたのだろう。

 部屋から人が居なくなると、関口は自分の鞄から、図書館から借りてきた書籍と電網ネットから印刷プリントアウトしてきた紙の束を机の上に並べた。
幾重もの書き込みをした用紙。英語は余り得意ではない。
embalmingの文字が躍っていた。
「せーきー、関、居るかー?」
扉が開き、聞き馴染んだ声がした。
勝手知ったる部屋だといわんばかりに、声の主は真直ぐ関口の許へやってきた。
慌てて、実験結果資料の用紙を覆い被せた。
「おお、いたいた。関」
関口の両端に腕が伸びた。大きな手が机の端を掴んだ。
背に人の気配を感じて、恐る恐ると振り返ると、至近距離で美しい人が破顔する。
思わず、関口はそれは寒気にも似て─────。
だのに、蕩然とする─────。
「相変わらず呆けてるな」
「否…少し…驚いただけ…だよ」
眼鏡を外した。視界が急に暈けて少しだけ安堵した。眼鏡を、袖で拭う。
榎木津は西洋磁器人形のような美しい男だった。だのに背も高く精悍で、また比類無い頭脳を持っていた。
「ふん、君の場合は眼鏡云々の問題ではないだろうに。まあいい。僕は腹が減ったぞ」
背後で声が遠退く。
其処にある壊れかけた椅子に長い脚を大股に開き投げ出して、腰掛けた。
「学食、行きますか?」
埃だらけで曇った窓の外に見える濃緑。その先に薄茶色い建物が見え、それが学内食堂だった。
上手いものは好きだが拙いものも不平無く喰える榎木津は関口に付き合って学校を出た後も度々其処で腹を満たしていた。
「んー、」
その大きな赤茶色の硝子珠のような───陽の加減では琥珀にも見える───眸子を細めた。
「外で喰おう」
徐に榎木津は立ち上がる。
「僕っ!お金ありませんよ」
軆を向き直ると慌てて言った。無精をして長く成ってしまった前髪が目に罹る。
榎木津の顔が下品に歪められた。
「昨晩大勝したんだよ関くん。僕が奢って上げようじゃないか。如何だ、親切だろう?」
差し出されたのは長い指だ。その先に着いた爪は真珠のようだった。指が関口の視界を悪くしていた前髪を弾いた。
そして中華がいいなあと嘯く。 「また、木場修の処ですか。いいん─────ですか?警察官と、」
これは抗言にもならないだろう。 「賭け無い麻雀なんか麻雀じゃない!」
断定した。 「捕まっても知りませんよ」
「ふ、自分は弱いものだから」
榎木津は横目に関口を嘲るようにした。
怜悧に見下げる顔はとても美しい。
躰が─────震えた。
「いくぞ、関」
関口の右手頸を掴む。栄養の行き渡らないような、歪な細い腕である。
その手を凝凝まじまじと榎木津は凝視した。
「解りましたよ、先に出て下さい。僕は…ちょっと…」
「早くしろよ、」
そうして部屋を出て往く。
榎木津礼二郎は一歳年長の先輩であった。昨年司法試験に受かり、今は司法修習生として研修所に籍を置いている。
将来は検事だと言う話である。世も末だと友人と吐息した日もあった。
未だ最近の話の筈だ。けれども遠い昔のことのようだった。
彼は時折思い出したように研究室に籠りっ放しの関口の許へ遊びに来る。
厭世的なことを気取る訳ではなく、対人恐怖症と赤面症と失語症が併発する関口は人との付き合いが苦手である。
だからこそ世間との距離を取っているのだが、榎木津はその距離を物ともせず気の向いた時約束も無く、勝手気儘に遣って来る。
優秀な彼には酷く忙しいと聞く研修所なぞ余程閑なのだ。
諦めるように吐息して、机の上に広げた資料を鞄に仕舞う。
此れは見られてはならない。

兀、兀、兀、と時計の秒針が聞こえる。否電算機の起動音かもしれない。起動音を言うには高く細い音。神経系の音だろうか。
神経系の高い音と低い音が互い違いにまた反復し合い混ざり合い渦を巻き、増幅して急速な落下へ──────
猫の声に似ている。
吐き気がした。
「ホルム…アルデヒドを水に溶く。」硝子を打ち鳴らす音。「血管を広げる。按摩マッサージ。クエン酸塩。シュウ酸塩。フッ化物。か…カリシュウム隔離剤。腹の水を…出す。」死臭が始まる。「メス。メスは…彼…里村くんか…な、矢っ張り」学内で彼以上に縫合の上手い奴はいない。「肺の水を…上顎と下顎を。歯にはワセリン。動脈を取り出す…」
心臓から送り出されたばかりの鮮やかな紅い液体が通るはずの管。
闇い中でと関口は呟く。額には汗が浮かんでいた。
耳の中で何がが唸りを上げる。
込み上げる吐き気に、慌てて立ち上がり、水道の蛇口を捻った。
勢いのよい放水に顔を突き出した。
鼻先から水が顔を濡らす。
口を開けると、下顎の歯列を水が埋めて、ゆっくりとそれを嚥下した。先に便所で昼に食べた物は凡て吐き出してきた。
もう腹の中には胃液しかないはずだ。
噎せた。
榎木津を前にしての食事。
もう幾度も繰り返しているはずなのに、否、回数を重ねれば重ねるほど………。
榎木津の秀麗な容貌。大きな鳶色をした瞳。筋の通った鼻梁。
大きくて物を咀嚼する様子がこれほどいやらしいものなのか知らしめた丹花の唇。
当然、関口の食は進まない。
それは拷問でしかない。
青竹のように真直ぐで美しいものの前で、何ゆえ矮小で最も醜いものが劣等感を感じずにいるだろう。
浴びるように水を飲むと、蛇口の放水を止める。
髪の先から流しに水滴を落とす。また、噎せた。ずるずると床に崩れた。

昨夜見た夢は、榎木津の股間に顔を埋めていた。褒める榎木津の声に歓喜する。
下腹から少しずつ濃くなる下毛も明るい色をして柔らかい。
耳朶を打つ彼の陶酔したような美しい声。鼻腔いっぱいに吸い込まれる彼の匂い。
滾る自分を可愛いと囁いてくれた。そんなことは有り得ないのに。
日々大学で粘菌を相手にしていると、何もかもが解らなくなる。細胞性粘菌は環境条件によっては無性的、有性的に移行する。
そして有性的なもののなかにはヘテロタリックにもホモタリックにも交配様式を持つ。
これほど微小な粘菌と云う存在に羨望を抱くなど、榎木津に逢うまでは思いも寄らなかった。
関口は自分の欲望が次第次第に変質していることを自覚していた。
あの榎木津の姿を、エンバーミングしたい、と思い始めたのは、彼の些細な傷を負い血が流れ出すのを見てからだ。
それまで榎木津に血が通っていることなど思いも寄らなかった。
度々彼は自身を神と述給う。勿論冗談だろう。
けれどそれに惑わされたのか、関口は何故か榎木津は死なないと思っていることに気がついた。
榎木津の卒業の歳である。学内の法科学校を修了した歳だ。
関口はいつものように朦朧と歩いていると、階段を飛んだのだ。
─────関口が無瑕で済んだのは、偶々遊びに来ていた榎木津が受け止めてくれたお陰だ。
その時まで榎木津と言う尊大な男には良くも悪くも血など通っていないと思っていた。
あの顔は崩れることはない。
あの頭脳が破綻することはない。
あの姿が老いることは有り得ない。
あの人は死なない。
と─────。
関口を受け止め、踊り場の窓枠に腕が掠め、あの夥しい血を見るまでは。
あれから、彼の完全保存を夢想し始めた。
彼の美しさを其儘に。
朽ちることのないように。
「榎さん…」
呟き、関口は研究室で自分の下肢に触れた。錠を下ろした暗い部屋の中。電算機は塩基配列の分析を黙々と進めている。
口内は饐え、耳は使いものにならない。総じて酷く不安定で気持ちが悪い。けれど、自分の下肢に榎木津の像を搦めると酷く高ぶった。


「関口くん、」
広大な図書館の書架の間で呼び止められた。中禅寺秋彦だった。一般教養の頃に知り合った博覧強記である。
当時彼は文学部の哲学科専攻だった。
「あ、」思わず失語した。人と話したのは久しぶりだった。しかしそれも本の束の間である。
相手が中禅寺と言うこともあるだろう。中禅寺とは極々少ない気の置けない間柄だった。
「あ…やあ…久し振りだな、」
関口は自らの顔が溶けるように崩れたことが解った。
「少し、話せるかい?」
携帯を出して時間を確認すると、同時に日付が目に入り、最後に榎木津と話してから一週間以上が経過していたことを確認した。
「諾。勿論だよ」
図書館を出て、学生食堂の自販機でそれぞれ飲物を買い、人の疎らになった夕刻近くの整然と並ぶ卓子の一席に腰掛けた。
「なんだよ、辛気臭い顔だな」
軽い口調で関口は言った。中禅寺と言う男はいつも不機嫌な顔をしているのだ。
「君に言われるとは心外だな。…否、そう、然し強ち外れでもない。少し─────気に成ることがあってね」
含むような言葉だった。
「え?」
朦りと窓の外を見やっていた目線をゆっくりと中禅寺に向ける。
「君の最近の嗜好について、かな」
肺病患者のような不健康な容貌を全うに向けられる。
「嗜好?」
言葉を範唱した。
「図書主任に頼まれてね、整理の手伝いをしていたんだ」
中禅寺は学部長となった明石教授の元で今や助手職である。友人の間でも、榎木津と並んでの出世頭だった。
「君が屍躰愛好者ネクロフィリアだとは知らなかったな、」
借りた書籍は凡そ関口の研究からは離れている。 「…ち…中禅寺、」
沢山の屍躰。 夥しい数の、綺麗な───── 生きているものと寸分違わない、けれど生きている皮膚の色ではないあの独特な青さと黄色味。 もしこの世に人の記憶が覗けるような、そんな─────不可思議な人間が居たとしたら、その人物は関口の記憶に数多の屍躰
を見るだろう。 古今東西の、美しい屍躰の数数を。 偶然屍蝋と化したそれ。人為的に木乃伊術を施したそれ。内臓を取り出した剥製のそれ。 猫。 「どうしたんだい?そんなに…あれが欲しいか?…あの大榎木津が」
大榎木津とは未だ此の構内に居た頃の榎木津の「凄さ」を物語っている。
誰も彼には匹敵しない。
比肩し得ない。
人が彼を望むことは、間違えだと言われる程─────彼は絶大だった。
「中禅寺っっ!」
缶を落とした。
「人は本当のことを言われると激昂するものだぜ」
中禅寺秋彦は人を簡単に見通す。
足許では液体が諾諾と広がりを見せていた。
「……君は……」
関口は頭を抱えた。
「関口、君は榎木津をなんだと思っている?」
「え、」
顔を上げる。
「絶世の美男子か?手に入らない宝玉か?価値の高い稀少な保護すべきものか?」
「煩瑣い…」
「違うだろう?あれはただの─────」
諭す様な口調に関口は堅く目を瞑る。
その常に無い、厳しくも優しい口調が、忌々しい。
「君に、君に、何が─────」
搾り出すような声に、中禅寺の溜息を吐いた。
「─────最近うちの柘榴が帰ってこない。君─────」
その一言に一瞬にして関口の顔色が変わることを、中禅寺は見逃さなかっただろう。
溜息を吐いた。
「見かけたら─────帰るように諭してくれないか、」
関口の顔が歪む。青いのか紅いのか、複雑な顔色を見せ、唇を噛み─────今にも泣き出しそうだった。
顔を伏せた。
「関口くん、僕は君を看過出来ない」
関口が顔を背けた儘立ち上がった。その靴先に転がった缶が当った。勢い能く缶は跳ね飛ばされ、10m先の壁に当った。
走り出した関口を追おうと思えば簡単だった。
関口の跫は遅いのだ。
だが、中禅寺は髪を掻き上げると忌々しそうに舌打ちを一つした。





時折、車道に猫がいた。目の前で轢かれるのを助けることが出来なかった猫や、既に其処で冷たくなっていた猫である。
何故そうした行動に出たのかは、解らない。
胸に抱え込んで連れて帰った。
殆ど衝動だった。
愛おしい─────
だのに─────
顔の中の四分の一を占めるかのような大きな眼球は宝珠のようだった。
鳴く声が耳に着いて離れない。
否、鳴き声などしていただろうか。
判然としない─────
ただ自分が人の分け入らない道を漕ぎ始めたことを知るばかりだった。





自分と榎木津を結ぶものなど、端から何も無いことを関口は知っている。身の程を痛いほどに知っている。榎木津が積極的に関わ
るため、幾多の憎悪の対象にされたのだから。
関口は選ぶ側には廻れない。だから、榎木津が関口に飽いて逢いにくることがなくなってしまえばそれまでの関係性だった。
榎木津の容貌が好きだった。
会えばいつも見蕩れた。
彼の傍に居るときの僅かに馨る匂いが好きだった。
彼の突拍子もない言動は、憧憬の的だった。
榎木津は、関口の想いなど考えたことも無いだろう。
知りもしない。
─────当然である。
関口には彼の眼中に入るだけの価値がない。 閑を潰す片手間の玩具でしかないのだ。 そして彼は何処までも外す男だが、女性を侍らせてへらへらしていることが好きだというその一点だけが、普通の男なのだから。





此処数日、人を合うことが厭だった。
辛い。
教授から電話が掛かってくると、最初の二三回は居留守を使ったが、結局電話に出て、病気である旨を伝えた。
猫たちは縫合を終えれば全て河原に埋めた。
夜中に一人で。
いけないことをしているのは十分に理解していた。
けれども、関口は轢かれた猫を拾ってはそれを丁寧に処理して、土に埋めた。
五回繰り返した。
その度に関口は吐いていた。吐きたくて仕方なくて、無理矢理咽喉の奥へ手を押し込み、吐いた。
中禅寺は知っていた。
何処かで見ていたのだろうか。
解らない。
あの男は悟りのお化けだ。
けれど─────。
躰が震える。
いつか練習通りのことを、彼に為してしまうだろう。
─────それは予感ではなく、確信だった。
 夜の研究室は当然ながら灯も消えていた。研究室生は皆複製鍵を持っている。関口のそれも十分に使い込まれたものだった。然
し鍵を差し込むと、扉は開かない。誰か、鍵をかけ忘れていた様で錠が上がっていたのだ。
「無用心だな、」
独語した。
机の上に、大量の複製紙を置いた。
幾度も見た、様々な人体図。
榎木津のエンバーミングを作ると言うことは、彼を殺すことだ。大きな傷を着けることなく、綺麗な屍躰を造るらなくてはならな
い。
そして腐敗に向って往く屍躰の消毒と保存を滞り無く。
幾度目かの模擬実験を頭の中で行う。
榎木津の驚愕の表情。
苦しみの。
悶えの。
そして、細くなって往く呼吸。
否、激昂するかもしれない。
せめて憎悪の目を向けてくれれば好い。
毒殺だろうか。然し、変な副作用が出ては意味が無い。絞殺に顔が歪むのは頂けない。
もっと安楽な。
血管と腹部と胸部にホルムアルデヒドを。血液と入れ替え。色が悪かったり、血管中の溶液が往き渡らなければ失敗である。腐敗と発酵が進んでしまう。頚部の右付根を開いて、頚動脈を掴み出す。次に静脈を。動脈の血管を縦に裂き、管を入れて、動脈液の注入。屍躰の按摩を。
内臓の処理。トロカーを臍の右上から差込、臓器の水分を吸い出す。膀胱、盲腸、肝臓、右肋膜、左肋膜。胃。結腸。内臓は腐敗しやすいから…
不意に、誰かの吐息がした。否、呼吸であろうか。
無人だと思っていたこの部屋で。
関口はそれでも頭の中で模擬実験を続けている。鍵を開けた儘留守にしたときに誰かが入ったのだ。暴漢であった場合は自分で身
を守るしかない。
朦りとそう認識しつつ、鞄の中に手を入れ、それを掴み出すと、ゆっくりと人の気配のするほうへ近付いた。
実験が可能かもしれない。
頭の中でない模擬実験が。
それには少しだけ胸が騒いだ。
書架の間には、夜其儘泊まれるように、長椅子が用意されている。何代前の先輩が持ち込んだのかはしれない。
跫が模擬実験から食み出ていた。
背の高い人物だ。
丁度良い。あの人はそれ位の大きさだ。
長椅子の背に隠れて見えない姿の、心臓の位置を把握する。
関口はメスを振り上げた。
そして其処にいる人物と目が合った。
「ご主人様の寝込みを襲うとは、ふてえ猿だ」
生まれも育ちも山の手の男が、江戸っ子のような口振りだった。
そして、見透かすように笑う。
「関、見ろ」
関口の振り上げた儘の腕を摘み上げる。そしてそれを静かに頬に当て、ゆっくりと横に引いた。
裂いて、その狭間が少し盛り上がり、朱い液体の表面張力が極短期間に破綻して、朱い筋が落下して往く。
「ほら、」
吼えるような悲鳴を上げた。そしてそれを笑んで見つめる榎木津。
「何を…何をするんだ!榎さん!あんたっっ瑕なんて…」
瑕を着けては成らないのだ。
彼の躰液を外に漏らすことなど持っての外だ。
彼は美しく、完璧でなくては成らない。
無比でなくては成らない。
彼は絶対で――――――
瑕など――――――
関口は震え、崩れ座り込んだ。
こんなこと、在っては成らないのに――――――。
榎木津は長い脚でソファを乗り越えて、崩れこんだ関口に屈み込み、顔を寄せた。
鮮やかな朱が緩やかに彼の頬の曲線を蛇行しつつ滑り落ちる。
「…ええええ榎さ……」
「どうした?血が怖いのかい?関くん…」
「な…」
なんてことを、と言おうとして口が悖った。
歯が成って声が出なかったのだ。
「脅え方はやっぱり君が天下一品だね」
丹花の唇が人を虚仮にする言葉を紡ぐ。
耳障りの良い声。
彼の前に筆舌は色褪せる。
「ほら、そんな物騒なものは放す」
震える関口の手を榎木津が握った。
手が強張って、開かなかった。それを見ると口端が笑い、一本一本丁寧に指を解いた。
血が滴っている。
「此れ、が、そんなに怖い?関くんは、」
関口からメスを受け取った榎木津は自分の頬にまた刃を向けた。
ひぃと言う短い叫び声が関口から聞こえた。
「そんなに僕が疵付くのが怖いか?関」
いつも余裕のある、人を笑う鳶色にも似た眸が、精悍な色を帯びる。
冷たいその色に、また関口は―――――
「そんな目で僕の目を見るのか?関口」
「榎……?」
蔑む眸子。
それにさえ関口は見蕩れる。
余りにも愚かなこととは自覚しているのだ。
それほど、関口は此の榎木津の外観が好きだった。
「なら――――こんな、目潰してしまおうか」
メスを自分の眸に向けるような仕草をして、関口は悲鳴のように榎木津を呼んだ。
震える。
上顎と下顎がぶつかり歯列が音を上げる。
関口は本当に怖がっていた。


榎木津は表情も無く、ただ関口を凝視した。


―――――長い沈黙だった。
そして漸うと聞こえたのは深い深い溜息。
それが榎木津と言う男から、嘗て大榎木津と呼ばれた男から発せられることがあるなど誰が想像しただろう。
「あのな、関口」
珍しく、榎木津は関口を正確に呼んだ。
「こんな傷はその内治る。でも刺せば血が出るし、打たれれば死ぬだろうな。でも関くん。そして――――関が他のものをみてい
れば腹が立つ。仮令それが、僕の一部であろうともだ、」
榎木津は酷く不機嫌に微笑んだ。それこそ中禅寺の如く器用に、である。
「え…の…さん?」
躰の震えが弱まった。
「もし、君が欲しいと云うのなら、こんなもの、あげるよ。僕が死んだら君のものだ。木乃伊にするも、性人形ダッチワイフにするも君の自由だ、」
それまでこの顔は崩れないし、この躰は朽ちない。
「代わりに――――僕が死ぬまでは、君は僕のものだ。だから恋煩いで吐き胼胝なんか作るな!此の莫迦猿!」
関口は榎木津が何を言っているのか、解らなかった。
「いいな。約束だぞ」
「榎…そ…な…約束…」
していいのだろうか――――。
関口は榎木津を切り刻みたくて仕方ないのに。今だって、謂わばばらばら殺人の未遂である。
「いいか?関、能っっっく聞け!」
関口の耳朶を摘んだ。
息を吸い込んだ。
今測定するならば恐らく水泳選手並の肺活量である。
「僕は無限だ!無限大の宇宙だ!!」
云っていることは馬鹿である。然し言う方も言う方なら、神妙に聞いている方も聞いている方である。
「だから僕は永遠だし、僕は君より先に死なない。つーまーりー君は永遠に僕のものだ!」
「榎さん!痛い!!声大きい!!」
「そう――――約束してやる、」 耳から手を外されると、弛緩した関口の手を取り、自分の小指と関口の小指を搦げた。
それが何を意味するのか。
小さい子供のようだ。
鼓膜がうわんうわんと唸りを上げる中で朦りと見詰めた。
これは在っては成らないことだ。
榎木津は、関口なぞ――――
堅く目を瞑った関口を見ると、榎木津は溜息を落とした。
そして手を握りこんだ。
「第一、何の為にこんな忙しい研修所予定を縫って此処に来ていると思う?僕が僕でなかったら出来ないような神業だぞ。君はそ
れを、然も、当たり前の様に享受して」
罰があたればいい、と拗ねた様な口調が聞こえて驚いて関口は目を開く。
「まあ…いい。君の調子ペェスに逢わせていたら人生呆けた儘終ってしまう。これからは僕の調子だ!そ
んな辛気臭い研究は棄てるんだね。ああ…なんだっけ?エン…」
「……エンバーミング……」
「そう、それ。僕に直に触りたかったら素直にそう言う!いいな?猿」
「でも…榎さん…僕は…猫を…」
溜息が聞こえた。
「…中禅寺から聞いたよ」
矢張り中禅寺は榎木津に話していたのだ。
「いいかい?関くん、君は猫を実験台にしたわけじゃない。殺したわけじゃないだろう?」
頸を振った。
「いいえ、あれは…」
事故にあった猫を私欲の為に使ったのだ。猫は此の人に似ていたから。
「君は自分の感受性を自覚すべきだ。君は猫を可哀想だと思ったんだよ。だから綺麗な姿にしてそして埋葬したんだ。違うかい?」
耳朶が歓ぶ柔らかい言葉だった。
「――――僕は…猫を…榎さんみたいだって…。だから…」
「それって、僕が好きだって言うことだろう?」
吐息して髪を掻き上げた。明るい色合いの柔らかそうな髪だ、と関口は思う。
「まあそれより、今はデェトだデェト!」
榎木津は関口の手を引いて、大股で関口の机の上に有った本や帳面、複写紙を凡て塵箱を投げ入れると、研究室から出て行った。








09/02/06
最悪な感じに書き直してみました。
一貫性が無くて厭ですね。