花に背いて
榎木津が消えた世界。 だのに、関口は以前にも況して安定しているように見える。何もかも充足して満ちたり、円やかな相貌だ。あれほど、榎木津礼二郎に執着していたというのに。 鳥口と赤井書房の事務所で打ち合わせをしていると、関口は外界の桜を凝乎っと見ていた。 彼の最近身に付け出した穏やかさを湛えた眸子が、今は熱を持っているようにさえ見えた。 「どうしましたか、」 問うと熱を持って潤んでさえ見える瞳が鳥口に向けられる。不安定だ、と反射的に鳥口は思った。穏やかさなど何処にも無い。 其処にいるのは以前の儘の関口だ。 ただ、蕩けている。そう、それは猥らだった。 そして関口は、なんでもないというように首を振った。 不意に鳥口は思い至る。 「榎木津さん、」 関口は榎木津の名前を出しても顔を上げることもなかった。 「いなくなったの、去年の今頃でしたね」 けれど、矢張り関口は殊更な反応を見せなかった。あれほど、榎木津に執着していたのが虚偽のように。 墨流しの夜の闇。川を渉れば街燈も殆ど無い。闇が大口を開けている。その食道を通り内腑に収められ躰液の中で身を捩るようにして、夜の道を進んでいた。 桜の樹があった。 日露の戦役の後に祝儀に植えられたというのだから然程に古いものではない。染井吉野は闇の中に白い花を咲かせていた。 関口は樹の根元に腰を下ろすと、樹の根元の土を撫でた。掌で。そして、指を少し曲げると、土を掻き始めた。 獣のような呼吸が聞こえる。すぐ近くで。耳に障って、実に鬱陶しい。 気が急き、懸命に穴を掘る。 指の先、爪の中にはたっぷりと土がめり込んでいた。 やがて、なにかが指の間に絡まった。 漸うと穴から手を持ち上げる。 ず、と指の間に挟まったものが穴の中から取り出される。鳶色の細い糸状の───── 喜色に満ちる。 獣のような呼吸が聞こえる。煩瑣い。煩瑣い。寄ってくるな、 「畜生が、」 土が湿っている。柔らかい。 そして見えた─────白い、白い、何かがこびりついている、白い───── 沢山の鳶色の糸状があって、樹の根と夥しい根毛が絡み付いている白いそれは。 「ああ、」 そう嘆息を漏らした心算だったが聞こえたのは獣の唸りだった。咽喉が熱い。下肢が熱い。 「榎さん、」 関口は一年前に失踪した恋しい人の名を呼んで地表に腕を掛け、穴の中へ顔を突き込んだ。 その白いものへ口付けするために。 30/June/09 |