平安為るイーサーのたまわ
現し世は壹本の橋の如きもの為れは
渉り往く他無し
而して其処に建物を立つる事莫れ
現し世はなれが禮拝して過す束の間に過きされは

───── AKBAR V; EMPEROR of MOGUL








夜ごとの白コウモリ








永らく雨がらない─────


耳元で水の揺れる音がした。それはセキグチにとって窮めて親しいものだった。
酷く身近でとても慕わしい。
再度水の揺れる音がして、ゆっくりに瞼を持ち上げると、八角形に切り取られた蒼穹があった。
紺碧の空である。
「君は何処ででも寝るな。溺れないのかい」
洞内に声が響いた。
声の方向へ目線を向けると水辺の丸縁を囲う四角い数段の階に長い人影があった。天上の八角形から注ぐ陽光にその顔は俄には判別ができなかった。
日は眩くてその頭部を飾る毛髪は金色こんじきに見えた。
「金の冠だ、」
声を上げると「寝惚けているな、サル」と揶揄う声が聞こえた。水音を上げて躰を反転る。跫を交互に泳がせ、円いその縁へ手を掛けると跫があった。
此の都の宛らの紅玉による華麗な装飾が施された草履サンダルをはいた白磁の跫が水辺の縁に生えていた。
顔を上げると、その顔が瞭然とした。
思わず一瞬見蕩れる。
「相変わらず間抜けた顔だっ」
実に愉快だと云わんとする声が耳を触り、両の上腕を掴まれて、水の中から躰を持ち上げられた。
「うわっ何するんです、エノさんっ」
小柄なセキグチは持ち上げられ、足が浮遊していた。
セキグチは此の美麗な男─────エノキヅを「エノ」と呼び習わしていた。 エノキヅが揶揄うような笑みを閃かせたので、一瞬セキグチは危惧したが、エノキヅは石床に着地させ手を離した。
そして四角い石柱の横に置かれた腰布を差し出した。
セキグチは一糸纏わぬ姿だったのだ。髪から水を滴らせたまま慌ててセキグチはその長方の形の薄黄色い布を腰に巻いた。
「セキグチ─────何を遊んでいるんだ」
上空から声が降り注いだ。のりを説くような響く声だった。
思わず二人は天井を仰いだ。五階構造の四階目に名を読んだ人物はいた。此処からだとその男は人差し指の爪程にしか見えない。
「チュウゼンジ」
「セキグチ、何をしているんだ。大神官の下問があることを忘れたのか?」
病み疲れたような兇悪な容貌の男が白い神官服を纏って階下を見下ろしていた。
「そうだったね。うん、すぐに往くよ」
セキグチが階段を上昇しようと階に跫を掛けるとエノキヅが腰布の端を掴んだ。
「おい、僕がセキと遊ぶ番なんだぞ。チュウゼンジ」
「僕に言わないで下さい。第一、あんたが何故此処にいるんだ。あんたが此処に入るのは祭祀の時ばかりの筈だ。それに仕事は如何したんです?仕事は」
「ふん、僕が何処に行こうと僕の自由だ。僕はお腹が空いたらご飯を食べるし、歌を唄いたければ唄うんだ。」
「仏陀でも気取る心算か、あんたは」
頭の上には天があり、跫の下には地がある。その狭間にあるのは己一人である。 「自分が『その立場』だからと僕を巻き込むのは止めるんだな」
チュウゼンジは実に厭そうな顔を見せ身を翻らせた。
「セキグチ、忠告はしたぞ」
「あ、諾、ありがとう!」
歩みだそうと跫を動かすと、セキグチの進行はをエノキヅは邪魔した。
「エノさん、僕行かないと」
「あの陰険男と僕のどちらが大事だ」
「チュウゼンジは……友達だし」
友達と言う言葉を小さく発音し、セキグチは俯いた。顔が真朱だ。
「アイツは君を知人だと云って憚らないぞ」
「僕を馬鹿にしているんだろう。寧ろ…それは彼らしいって云うか」
眉根を寄せて関口は困った顔をした。目線がエノキヅと階上を行き来している。
「諾、もう、いい。全く君は誰が飼い主だと思っているんだ!セキの一人も自由に出来ない王様なんてなるもんじゃない」
水に濡れたセキグチの頭を小突きエノキヅは地上へ昇る階段を歩み出した。
セキグチは彼の姿を見送ると慌てて神殿を昇って行った。
エノキヅはセキグチにとって雲上の人物だった。皇帝の次嫡で、現在此の藩領を治めている。
本来ならば、一介の巫であるセキグチと雲上のエノキヅは口を利くことすら無かっただろう。
二人の日々が交差したのはチュウゼンジと云う神官に寄る。
殊にその性質故に巫覡となったセキグチは神官のチュウゼンジに馴染み、チュウゼンジからエノキヅへ引き合わされたのだ。

 神殿の内部はいつも清浄だった。静謐に満ちている。
静謐は人が意図的に作り出したものであることをセキグチは知っていた。皆、気配を殺しているのだ。だから柱間に掛かる紗の向こうでは数多の神官たちが業務をこなしている。
それは何処か糸の張った弓を連想させた。
そうして擬似的に作り出された静寂の中でセキグチは水を聞く役割を担っていた。
此処は水の神殿なのだ。
地下に水を湛える井戸があった。如何な旱魃にも枯れることはなく、豊穣に水を湛える井戸である。誰が掘ったのかは審らかではない。
井戸は双つあった。
一つはセキグチは侍り奉仕する井戸。そしてその北側の井戸。北側の井戸は水難に合った折に民に解かれる井戸で水道が通じ地上へ運ばれのだ。
セキグチの侍る井戸はより神聖なものだと云われていた。
井戸は巨大な地下建造物で覆われていた。
地下五重、地上一重の神殿である。
井戸を取り巻く無数の柱。
柱や梁は彫刻で飾られていた。緻密で濃密な彫刻。それは過剰なまでに繰り返され、セキグチは熟視めていると酔ってしまうこともあった。
地上から数えて地下の一重部に大神官のいましがある。元来此の藩領の建造物には柱間に壁は存在しない。
壁の代わりに空間を埋めるのは絳い紗や羅の帳であり、また布の張られた衝立だった。
セキグチが姿を表すと絳い紗の前に控えていたチュウゼンジが立ち上がり紗の内側に告げた。
紗の内側には大神官が坐しているのだ。
チュウゼンジは再び自らの絨毯に座り直し鷹のような眼でセキグチを見ると手招きをした。
「セキグチ、」
「は…はい」
丸まっていた背筋を伸ばした。
今此処ではチュウゼンジの口から訊ねられることは凡て大神官からの諮問であるのだ。
卑しい身分に居る関口は大神官と直接口を利くことは許されていない。
「井戸の水は未だ豊穣であるか?」
「…満ちています…」
「何も─────見えないか?」
「え─────『見える』?」
セキグチは頸を捻る。奇妙なことを訊かれたのだ。何が見えるというか。
チュウゼンジは一度縦に頸を振り何事か納得した様子だった。
「何も見えないのなら─────いい」
気にするな、と云ってチュウゼンジは立ち上がり再び紗の前に寄った。
会話があったようだが、神官たちは微音で話す慣わしになっているので当然セキグチには聞こえなかった。
チュウゼンジは紗前で一礼しセキグチに振り返った。
「都の東部の井戸が干上がった報告があった。水路も流れが小川のようだと言う。暫定的に北面の井戸を開放する。それに伴い、
降雨の祈祷を行うこととなった」
「降雨の祈祷」
「そうだ。それを承知していてくれ」
「井戸の開放は…北面だけですか?」
「そうだ。君の・・井戸を放つことはしないし、出来ないから安心しろ。
万が一水位が下がったら申すように」
「何故?」
「─────なんでもだ。今度の祈祷は大規模なものになるだろう」
そう云うとチュウゼンジは手を払った。
退出の許可だった。
大神官の坐から退出すると大きく息を付いた。髪を書き上げると水が滴った。水とは思えないほどに温かい。
もう永らく此の都には雨が零っていなかった。
「零ると─────良いなあ」
セキグチは井戸の吹き抜け部に顔を出して苛烈な陽光へ顔を曝した。
眩しい。
思わず眼を瞑る。
そして薄眼を開け、その紺碧の空を見上げた。


 紺碧の中天に日は坐し、都の赤砂岩の壁を強かに灼き据えていた。
施された白大理石の細やかな象嵌細工に濃い陰翳が浮かび、楼閣の上部を飾る小塔の柱は遥かに遠い地上に細く長い影を落としていた。
亭午ごごの稠密とした空気に、焦れる。
風は凪ぎ、暑溽に皮膚にじっとりと汗が浮かび、息苦しい迄だ。何処までが躰温で何処までが外気なのか、俄かに眩う。
壁も地表を埋める石畳も本来ならば朱いものであるのに、苛烈窮まるその陽光に今は白く暈やけていた。
赤い楼門。その両脇に立つ赤い塔。紅い石畳。弓形の連なる赤い歩廊に、その上の赤い小塔。赤い大きな円天井。赤い路亭。赤い橋。赤い欄。赤い柱が巡るマスシド。
人の鮮血にも似た赤色で構築された世界。
此の藩領は、燦然と赤色に輝く都である。
常時、階段井戸と呼ばれる夕闇の支配する神殿の奥深くにいる関口はこんな日の許へ出ると灼け爛れて死にそうになる。
結果道端で蹲ることとなってしまった。
息苦しく、頭痛がする。
自分が今呼吸をしているのかそれすら判らなかった。平衡感覚も怪訝しい。
壁に縋るセキグチの上腕が持ち上がった。
「おい、手前てめえ大丈夫か?」
「だ…いじょぶ…です」
「へろへろじゃあねえか。ほらよ、掴まれ」
四角い骨格。大きな体躯。巨漢とまでは行かない…偉丈夫とでも言うのだろう。声が少し勘高い。
虚ろな眼でセキグチは観察した。
「何だよ、立てねえのか」
小さな目を訝しげに細めると、男はセキグチを担ぎ上げた。見知らぬ男に担ぎ上げられる謂れは無い。セキグチは何処かに行ってしまいそうな意識下で焦り、身動いた。
「俺の詰所がすぐ其処なんだよ。悪いようにしねえから暴れんな」
汗が頤から頬の曲線を遡って、瞑った瞼を越えて、額を滑り髪先から地面へ滴った。紅い石畳に黒い沁みができるのを暈ける視界の中で確認した。
大人しくなったセキグチを確認して、男は軽い吐息をして颯颯と歩を進めた。


 絳い紗を潜って入ってくる上司をアオキは絨毯に座り報告書を熟視めた儘、目の端で確認した。
「おい、水持って来い」
「なんですか?先輩…」
幼顔の男が漸うと顔を上げると、肩から荷を降ろした上司が其処にいた。
「キバさん…」
「ん?」
「なんですか、それ」
「それじゃねえよ。その辺で打ち上げられてたんだよ。このエテ公がよ」
「エテって…猿は打ち上げられるもんじゃないですよ」
「煩瑣せえな。水、持って来い」
自分の脇にあった頸が鶴のように細長い銅製の水瓶を持ってアオキはキバへ歩み寄った。
「どうしたんです?その人」
小柄な、色の白い…否日に焼けていない男が横たわっていた。
霍乱にっしゃびょうだろうよ。雨も零らねえし此の暑さだ。見ろよ、此の生白なまっちろさ」
水瓶の頸に提げられたあかがねの器に水を注いで、アオキはキバに手渡した。
「どうぞ」
「おう」
キバは低い枕を項に宛がうと鼻を摘み薄く白く乾いた唇が開いた処に器の水を細く少しづつ注ぎ込んだ。口内の白い歯に水が小さく飛沫を上げた。
咽喉が動くのを見て、キバもアオキも軽く頷き其儘座り込んだ。
「何処かで見た奴なんだよな」
「見覚えがあるんですか?」
「ああ」
「何かの式典ですか?総督アミール
アオキはキバを総督と呼んだ。此の藩領で軍事と警察権を一手に責任を負う称号である。国の中枢にあって最高と云っても過言ではない高官である。
「煩瑣え、それで俺を呼ぶな」
「実際そうなんだから仕様が無いでしょう」
不意にアオキの手が握られ、少しアオキは驚いたように躰を震わせた。
「あの…」
呻くようなか細い声が聞こえ、見れば当のセキグチが近場にあるアオキの手を握ったのであった。
「おう、気が付いたか」
「…ずっと意識はあったんです…けど…」
口も躰も動かなかったのだ。
「無理はするなよ」
「あの…宮室サライに…行きたいのですが…」
「宮室?何だよ、何か用でもあるのか?」
「総督、僕…憶えてませんか?」
蒼褪めたその顔をキバは凝凝と熟視めるが、どうにも解らない。
何処かで見た顔だとは思うのだが、それが市場スークの食堂で見たものか、宮室の内廷でみた
ものなのか。云ってしまえば何処にでもいるような猿顔なのだ。
「すまねえな、解からねえ」
「以前、エノさ…否、ええと…殿下と…一緒に、」
「お前レイジロウと知り合いなのか?」
セキグチは小さく頷く。
「セキグチと云います。あの…」
仕切りに何かを云いたそうなのだが、霍乱の為か口が悖り尚且つ滑舌の悪い発音で鈍々と話すので中々用件が出てこない。
「悪ぃな、セキグチ。俺は此れから用があってよ。宮室に往くんなら、そのお前が手を握っている男に言ってくれ。アオキって言う。気は利かねえがそのくらいは出来るからよ。
俺の仕事場ディーワーンから宮室までなら眼と鼻の先だ。無理すんなよ」
キバは笑い絨毯から立ち上がり赤い帳を出て行った。帳の先に人の立つ跫が見えた。誰かが彼を待っているようだった。総督とは忙しい身なのだろう。
「セキグチ…さん」
名前を呼ばれてセキグチは声の主へ目線を緩慢に動かした。
幼顔の誠実そうな男が其処に居た。白い官服カフタンに腰に長布を巻き、膝脇には細い簡素な剣があった。
「手を離してくれませんか」
「あ、すみません」
関口は己の血管が透いて見える手を離した。陽の下に出ることの少ない身はこうして地上に出ると如何にも貧弱に見える。
「大丈夫ですか?」
セキグチの手が離れた手でアオキはセキグチの額に触れた。掌には僅かに汗が吹いていた。
「外に居るよりは大分。…でも…天井が旋回してる…」
花の文様が連続する梁、そして梁を支える柱の付根も過剰な装飾に彩られていた。
その息苦しいまでの濃密な文様が先刻から狂狂と廻って見えた。
「未だ無理ですよ。もう少し休んで下さい」
「水…」
「はい?」
「水、を下さい」
清々とした水が欲しい。
アオキは横に為っているセキグチの項から背に腕を差し入れその上肢を起こし、銅碗に水を注いで手渡した。両手でその碗を受け
取ると、己の俯く顔とアオキを水鏡の中に見て、
盃を仰いだ。清々と音を上げて流れ込む水に、セキグチは少しだけ安堵し、また横になった。
「少し眠ったほうが好いですよ」
「…ねえ…」
「なんですか?」
睡魔が襲う。
自分の思考が制御できなかった。口からこぼれる言葉さえも。
「…目…醒めるまで…居てくれ……ぅ?」
睡りに落ちる暈けた視界の中で青年がセキグチの戯言に頷いたように見えた。


腐臭に似た甘い匂いが鼻腔を擽っていた。それに気がついたのは朦朧とした覚醒の本の一閃手前で、セキグチは死んで打ち棄てられた己の躯が腐り落ちる夢を視ていた。 泥甘くて、唾液の分泌が已まない。
暑い。
どうにも暑くて身じろぎした。耳にさらさらと触る音があった。
身を捩りながら手を伸ばす。
僅かな音を上げて水に右手の指先が触れた。
「うぅ…」
咽喉が勝手に音を発して、漸うと関口は目を開けた。
掌中に月があった。
縮緬皺に歪んでいる。
月を持ち上げる。
けれども歪んだ月は一瞬にして零れ落ちた。
指の間から零れ落ちる筋に幾つもの月が産まれてやがて大海で一つになった。
「暑い─────」
息を吸い込むと、甘い臭いが鼻を突いた。
甘い果実が熟れて熟れて最も甘味を増したあの泥泥に腐り掛け落ちる直前に発する酷い異臭。自分の口元が唾液で乱れていることに気がついたセキグチは再び水を救って涎を洗い流した。
「暑い─────」
再び身を捩り、下方の水面に寄せていた上肢を起こした。
自分が寝台の上に居ることに気が付いた。
そして風がそっと送られていることにも。
頸を廻らせると、青い大きな芭蕉が見えた。その芭蕉を持つ人物は────
「あ、エノさん…!」
声を上げセキグチは頭部から盛大に血の気が退く音が聞こえた。
よりによって、エノキヅに煽がせているとは────。
何故だ、とセキグチは己の脳を最大限に回転せしめた。
「気分はどうだ?」
労わる言葉ではあったけれど、それは何処か不機嫌そうにも聞こえる口調で、此の薄闇に灰色をした膚のエノキヅは一際強かにセキグチに向かい芭蕉を振った。
風がセキグチの汗で額に張り付いた前髪を持ち上げ背後に垂れていた柱間を廻る絳い紗の帳をも揺れさせた。
「あの…僕…慥か…」
慥かキバと言う大臣ワジールの庁に居た筈だ。
「そうだ、宮室に行こうとして昼の暑さに眩暈を起こしたんだ」
そしてキバの部下であるアオキと言う男に看護され、彼の傍で…
「倒れたんだよ、此処に来る道すがらにね。僕の昼寝の最中にキバの副官が連れてきた」
「エノさん不謹慎だよ」
「何が不謹慎なものか。あんなものは昼寝だ昼寝。何とも退屈。彼らの話していることの内容が僕はいつも分からない。用件だけを云えばいいものを、女の子の喧嘩のような余分なことばかりに時間を費やして」
「でもそれが御前会議(アッサンブレ)でしょう?」
「馬鹿馬鹿しい。実に愚かだね。あんな余分なことをやるのならば人間パチシでもやったほうがマシだよ」
皮の剥かれた白黄の実を榎木津は芭蕉を持つのとは違うもう一方の手で差し出した。受け取ろうとすると、手を払われ、口元にま
で持って来られた。
「口を開けろ、セキ」
薄く開いた絳い紗を背にしたエノキヅはすっと前に腕を伸ばしていた。果物の蜜であろうか、榎木津の白くて長い指は濡れていた。
「僕に煽がせた上に言うことが利けないのか?」
薄く笑った。
エノキヅは黙っていれば実に麗しい男だった。今は硬質な白磁の皮膚も鳶色をした髪も金の粉を散らしたような長い睫毛も、薄く笑った彼を酷薄に見せる要素でしかなかった。
透明な蜜が薄闇に月の細く儚い光が薄く差し、指の腹から滴った。
滴りはセキグチの膝近くの敷布に滲んだ。
芭蕉が空気抵抗を受けて寝台下の水の上に降る。エノキヅが放り投げたのだ。そして芭蕉を持っていた手が素早く関口の顎を掴む。
ぬるり────
セキグチは顔を上げる。エノキヅの手にも汗が浮かんでいた。
唐突に口の中へ甘味が広がった。
舌を強かに刺激する甘さ。
口の中に果物を押し込まれたのだった。
「美味いだろう?」
「……うん、甘い…よ…」
その甘味で粘りのでた手でエノキヅは関口の上腕を掴んだ。そしてセキグチの動く頬に口付けをした。
セキグチは接吻を片目を瞑りつつ受けて、果実を咀嚼、嚥下した。それを見計らうかのように、エノキヅは閉じた片方の瞼にも唇を降らせた。
「暑さに弱いのも困りものだな」
「エノさん、」
「いつも水の中ばかりにいるからだ」
咎めるような口調で榎木津のもう一方の大きな手が汗ばんだセキグチの頭を掴みそして濡れた髪を梳くと、唇を合わせ、エノキヅはセキグチの口内を舐め取った。
「甘い」
唇を緩ませて感想を云った。
エノキヅの汗ばんだ掌が関口の矢張り汗の浮かんだ膚を往く。滑らかとは云えない。深く口付けをしながらエノキヅの手はセキグ
チの胸を弄った。
弄り続けていると先が固くなる。
「その…小芥子に似た男が、君を抱えて此処まで来たのかと思うと…」
「あ…ぁ…」
「腹が立つな。しかも…手まで握って」
頸の汗を味わうと、エノキヅは関口の胸を舌の付根の方からべろりと舌先まで舐め上げた。
「あ、」
咽喉を鳴らした。唇を窄めて胸を吸うと関口は身を捩った。
背筋を撫で、その骨を伝って臀部の割れ目まで到達する。セキグチの背筋が矢庭に震えた。腿を掌が這って、再び胸の下から臍を辿って跫の間に到達した。
「あつい、」
そう呟いて再びエノキヅはセキグチに接吻けする。指はセキグチの跫の付根の熱さに湿った茂みを愛撫しながら。
ぬるりとしたその感触にセキグチは口を塞いだ。
此の都は、その骨格たる柱や屋根は赤砂岩で構築されているものの、その柱間は絳い紗や羅といった幔幕、長布が廻るばかりなのだ。
舌や唇の動き、そして歯の僅かな痒みに似たそれで緩急をつけられ、易くセキグチはエノキヅの術中に落ちて往く。
「セキの匂いでくらくらする」
セキグチを折り畳みその汗の滲んだ膝を指の腹で撫でながら、ゆっくりと腰を使い、エノキヅは耳許へ囁いた。
「あ…ぁあ…ん…」
緩緩とセキグチは頸を振った。
「もう、あそこへは戻るな」
エノキヅは動きを止めた。
「…え…エノさん…」
雄芯はそそり勃ち、その体勢からも腹に着くほどだった。
「君は此処にいればいい」
「な…なぁに?」
困惑の色と云うよりも関口は何を云われているのかそれさえ解らないようだった。
「君は此処に居ればいい。此処で僕の傍で」
唾液と蜜で充分に馴らした其処から一度引き抜き、再び根元まで差し入れた。
今や腐りかけた果実の匂いは関口から発せられていた。口の中に唾液が溜まる。縦にも横にも揺れて関口は淫声を上げ、達した。



白い衣を纏う。
白く清浄な衣である。そして矢張り薄く白い布を頭に巻き、手足には紋様を施されていた。鼠尾草の粉末に檸檬の果汁を混ぜて染料とし、細筆で皮膚に描くのだ。
此の指甲花を描いたのはチュウゼンジだった。彼の性格の几帳面さが出ているのか、夥しい連続性を持った模様が実に細密に描かれていた。
神殿の装飾細部を躰に写し取ったようにも見えるそれは雲立紋や羊歯の葉も見え、蓮や薔薇しょうびや雄孔雀の羽のようでもあった。
それらの紋様が絡まるように手の爪の先から肩を過ぎて胸まで、足の爪の先から臀部と下腹部にまで描かれてた。
セキグチは沐浴へ沈んだ。
白布が水の抵抗を受け常のようには泳げない。
チュウゼンジに云うと「沐浴なのだから泳がなくて良いんだ」と窘められた。
この階段井戸…神殿は、此処に藩都が置かれる以前から在ったとチュウゼンジは嘗て語った。
それならば本来、この井戸は別の思想の人人が違う祈りのために使ったものではないのだろうか。神殿の巫覡に有るまじき思考だ。一介の巫が思い煩うことではない。すぐに忘却した。
日の差し込む八角形…視点によっては十二角形に見える井戸の上部吹き抜けを見上げた。
紺碧の天上。
雨を催すような雲は何処にも見えなかった。
不図吐息しようとすると、視界に端に居たチュウゼンジから鋭い視線に刺される。彼の視線は痛い。人の居る前では呼吸の気配さえ見せるな、忘れろ、といわれていたこと思い出した。
水から上がる。
赤い帳を垂らした四方の壁面からは足だけが見える。
簾中と呼ばれる高位の者たちは気安く姿を見せない。
その中にエノキヅが居る筈だが、同じような長い官服を来た姿ばかりの中ではそれがエノキヅであるのか、俄かに判別がつかなかった。
不意に帳の狭間から一人の男と目が合った。
鼠色の官服に細い剣を佩いた─────アオキだった。
驚いた顔をしている。セキグチは会釈をするわけにも笑いかけるわけにも行かず、其儘幔幕の中へ入っていった。
幔幕から濡れたまま神殿を地上に昇って行く。
今は大司祭の祈祷の声が聞こえていた。
衣を脱いで行く。
祝詞が聞こえるが雨の気配は一向に見えない。
「零って欲しいな…」
脳裏にエノキヅを思い描いてセキグチは吐息した。


「冷たくないかね?」
星を眺めつつ井戸に身を浸していると、声を掛けられた。
それが誰であるのか。この真闇に満ちた地下世界では分からなかった。
「雨は零らなかった。そうだね?セキグチさん」
唐突にセキグチの視界に入ってきたのは、神官の白い装束を纏った見知らぬ男だった。井戸の縁に佇み水に浮かぶ関口を見下ろしていた。
「君は─────何故雨が零らないのか考えたことは無いか?」
「え…あの…」
水から上がる。
濡れた侭服を着て長布で腰間を絞った。
「今回の雨乞いは何度目だか憶えているかね?」
「慥か…四回…」
「そう!だのに一滴たりとて降る様子はない。何故だろう」
「…さ…あ…」
地上へ上る階段の最下部に立つセキグチへ男は近付いた。
思わずセキグチは後退り、階段を二段ほど上った。
「─────あの王子さまの役に立ちたいとは思わないか?」
囁かれ、反射的にセキグチへ顔が近付いた。白い神官の服を纏った炯炯とした眼光の男が其処に居た。
それでも誰なのか解らなかった。
けれどもその姿は端然としていて此の神殿にいる大神官かと思わせた。否、今現在の大神官は一人である筈だ。尤も彼らはみな簾中の人々であってセキグチがその容貌を拝むことは無かった。
「此の儘ではあのアカシ大神官もあの王子さまもまるで徳が無く雨の一つも降らせることのできない役立たずだと言うことになる」
低く柔らかく囁かれて、僅かの間セキグチは朦りとした。
「方法が悪いんだ」
「え、」
「我々ののりでは聞き入れられないのだ。この土地の神でなければ」
思わずセキグチは目を剥いた。
「外道の宗法だと言うのか?寧ろ私は、我我こそ外道だと思っている。此の地では。土着の宗教を廃して我我の則を押し付ける。元来の神に祝福され満たされていて地に外道を持ち込めば歪みが出てるも当然だろう」
滔滔とささやくその声は友に少し似ていると思った。思うことで親近感が沸きセキグチは何故か酷く安堵した。
此の人物の異端の言葉さえ。
「此の神殿だとて本来は我我の持ち物ではない。────知っているかい?君が潜るあの井戸の底には、神の姿が彫られている」
「神────ですか?」
「そう」異端神官は頷いた。「我らの知らぬ土着の神の姿だ。身に蛇を巻き水に微睡んでいる」
地下の水の中は光も漸うと刺さぬ暗い暗い水のほらである。
「雨は通常の祈祷では降るわけは無いのだ。それが此の土地に祝福されたものでは無いのだから」
「…どういうこと…ですか?」
降雨の祈祷は謂わば統治者であるエノキヅとその精神的拠所とする祈りの司祭者アカシの面子を賭けたものであった。そして実質雨が降らねば地は乾き、草木は枯れ、それを喰む人間の咽喉は渇き、餓え、やがて餓死に到り国は滅びるのだ。
此の地下の井戸も枯渇するだろう。
エノキヅがあって国が、民があるのではない。民があってエノキヅがあるのだ。
ならば渇きと餓えに満ちた人々の怨嗟は何処へ向うのか。
自分たちを抑えつける統治者へ向うことは苦も無く到る思考だ。
だからこそ先に此の異端神官は
「王子さまの役に立ちたいとは────?」
と訊いたのだろう。
「貴方は…」
「ドウジマと云う」
蠱惑される低い声だった。
「…ドウジマさま…」
「此処は土着の神の場だ。我らが持ち込んだ神を拝んでも何の利益がある筈が無いんだよ。セキグチさん」
「…では…」
ドウジマは身を翻らせ、セキグチに背を向けた。
そして両腕を左右に開く。
長い袖が優美に拡がった。
暗がりに上部が宝珠型をした背の高い出入口イーワーンが其の天上から降り注ぐ月光に白く輝いて見えた。輝く出入り口へゆっくりとドウジマは歩を進め、その境界で跫を止めた。
「此の場で嘗て異教の神に奉仕した儀礼を再び行う」
その朗と良く通る声が地下の闇に響いた。
「ど…ドウジマさまっ」
神官を呼ぶ声は自ずと震えていた。
「どうした?セキグチ」
ドウジマは少しだけ嘲笑の色を滲ませた。
「それは為してはならないことです!だって…異教の神を敬うことなんて」
「ふ、此処では異教の信徒は寧ろ我我だ。神は怒っている。神を敬うことで神は民に慈悲を齎す筈だった。けれど今や誰も祝うことさえしないのだから」
雨が降るわけは無いのだ。
「でも、」
「勿論…アカシ大司祭にも、あの王子さまにも内緒だ」
「では…」
「我我だけで行うんだ。いいではないか、それであの王子さまの助けになるのならば。王子さまの知らぬところで彼の為に働く。これ以上素晴らしいことがあるかな?」
「…僕が…あの人の助けになることがあるでしょうか…?」
「君は巫だ。神の意思を此の世に顕現させる者だ。君無しでは雨を降らせることは出来ない」
「…本当に?」
「勿論本当だ。さあ彼の為に大衆に雨を降らせよう。甘い雨を。天露を────」
ドウジマの言葉にセキグチの咽喉が鳴った。
胸の鼓動が速くなる。
こっそりとエノキヅの助けになると言う甘美な言葉に蕩けそうだった。
役に立たぬ身だと思っていた。今まで幾度か行ってきた降雨の儀式でも雨は降らなかったのに、それをドウジマは祀る神を間違えていると指摘したのだ。
そしてセキグチは役に立つと言ってくれたのだ。
「……は…諾。ドウジマさま…」
セキグチは暗闇の中光を浴びて輝くドウジマに向い、額づいていた。


夜の階段井戸────神殿は無人と成る。
階段と地下へ下って往く神殿は常闇で、それは暗黒世界を意味して忌まれていたのだった。それでも中には神域を犯す水泥棒もいるので、地上の神殿を入口が開く東南西には守番が置かれている。
井戸から地上まで五重。神殿入り口まで三つの階段と三つの踊り場を下って行く。其の全長は十間に渡る。
つまり地上から地下世界は窺うことが出来ないのだった。
 セキグチは膚を舐め回す男の蠢動する頭部へ手を触れた。一瞬その鈍く炯と光る眼が向けられ、ぐっと身の内に押し込まれたその雄芯を感じた。
硬くなった胸の突起を乱雑にしゃぶり脇腹の横にある腿を撫でた。
暑さに汗が膚と膚の間をぎしぎしとさせる。
上がる自分の声をセキグチは自分で抑制することで最早不可能になっていた。加虐性のある身の上に載る男はセキグチの表情が曇ることを好んでする。
然し此の男が何処の誰なのか、セキグチは知らなかった。
目線を柱間に向けると其処に居る人々の裳裾や草履とそれを履く跫が眼に入った。誰であるのか、それは柱間と壁の後ろに隠れ解らない。皆影の中にいるのだ。だけれど、其処に
居る人々は密密とお喋りをしながら、二人の男の痴態を眺めている。
その中にはドウジマも居る筈である。けれど彼の方が何処に居るのか、何処で眺めているのか関口は知らされて居なかった。
 新月の晩にドウジマはセキグチを井戸へ出頭さ
せた。日中ただでさえ暗い其処は真の闇が満ちていた。
異教の考えでは躰には脊髄に添って力の湧き出る泉があると言う。神を降ろす身であるセキグチが身の内のを目覚めさせ頭頂部に
神の合一させることが必要だとドウジマは語った。
「力の湧き出す泉とは何ですか?」
と訊くとドウジマの背後にいる少年がセキグチの背に回り、尾骨を触った。余りに唐突のことで身が震えると少年は酷薄に笑い、
セキグチの性器の根元を触った。そして臍の下を押え、
胸の真中を眉間を頭の天辺へ手を当てた。
ドウジマが手にしていた小さな燭台の火が消える。
そして男を引き出された。
何も聞かされていなかった。
「殊に、」と闇の中からドウジマの声が聞こえた。
「殊に泉は人の融合の中心より出て溢れ開かれ、やがて頭頂部に至りそして神と合一する」
セキグチは見知らぬ男の、知るのはその臭いだけで、顔も知らず犯された。


 井戸の開いた天上から降り注ぐ朝日に目覚めると其処には誰も居なかった。ただ裸に数多の情事の痕を残した関口が一躯あるだけだった。
躰と清めなければ、とセキグチは躰を起こす。
身が軋んだ。
昨晩の男は酷く加虐的な男だった。快楽と共に痛みの降ってきた。
いつも誰とも知らぬ男を宛がわれる。名前などは勿論しらされない。
この地下世界では誰であるかなど顔も判別できない。
セキグチはゆっくりと水の中へ入っていった。
井戸の中はただ暗く、ドウジマの云っていた神など目にすることなど出来なかった。
「水の嵩が減ってる…?」
水面に顔を出すとセキグチは呟いた。
雨は未だ降らないのだろうか────
頭上を振り仰ぐと、残酷なまでに碧く美しい天青が其処にあった。


水に浸かる。
沐浴をする。
開いた天上には数多の星が浮かび、関口はそれに溺れたような気持ちにされる。
湿度の高いじっとりとした暑さが、夜には此の地下世界にも蔓延るとはセキグチは此の儀式を司るまで知らなかった。玲々と鈴の音が聞こえる。自分の背が震えることが解った。セキグ
チは漸うと水から這い上がった。水嵩が減り、井戸から上がるのは少しばかり腕力を使う。
鈴の音は、『男』が来たことを、水の巫へ知らせる司祭の合図だった。
不意に今宵は薄明るいことに気がついた。
月が天に開いた円の中央にあったのだ。
白光を此の地下世界までか細く、注ぎ込んでいた。
水から上がり、天を見上げるセキグチの背に人の石畳をするような足音、否気配を感じた。
背後から抱き締められる。
セキグチの顔の右横から現れた大きな手が、顔を覆った。掌が硬い。指の腹も硬い。
指甲花メヘンディの痕…」 男の声が聞こえた。 その声を知っている、と思い関口は男の腕の中でゆっくりと躰を反転させた。
「…ぁ、」
天上から降る仄光に、男の顔が曝された。セキグチの目は疾うに夜に馴染んでいるのだ。男も驚いているようだった。額と鼻の頭
に細かな汗を浮かべていた。
「セキグチ…さん…」
「君は…アオキ…」
互いの耳にしか届かない程に小さな声で、呼びかけあった。
「あなたは何を…此処で…!」
「君こそ」
アオキは少し戸惑ったように目線を関口から離した。その様は逡巡しているように見えた。
「僕は…男狂いの男がいるって言う話を…聞いたんです…」
セキグチは身を竦ませ戦慄した。アオキは警察権を保有するあの大臣の副官である。公序良俗に反す者を取り締まる義務があるのだ。
「僕を捕まえるのかい…?」
アオキは頸を振る。
「その容姿を聞いて、僕は…アナタに似ているから…」
言い澱み、アオキは口を噤んだ。
「アナタに能く似た人間を求めて娼館にも行ったのに…」
硬い指の腹がセキグチの顎と両頬を掴んだ。唇を塞がれた。



ああ、また夜が来るのだ、
暗鬱な心持ちの侭、セキグチは水の中へ深く潜った。
昨夜のことに胸が詰まる思いがした。未だ、彼の息遣いや、その体温が身の傍にあるようで、セキグチは深く深く潜った。
水の底はただ暗い。
日の光も此処には届かない。此処は暗黒世界だ。
その暗黒世界と光に満たされた地上の道が此の井戸であり、奉仕するセキグチであった。
瞑っていた目を開ける。そろそろ、呼吸を止めているのも限界だった。このまま水の中へ居たいと思うのに、いつも息苦しくなっ
てしまう。水の外へ出たいと思ってしまう。
それがセキグチは厭だった。
目を開けると、鱗が見えた。
白銀に光る無数の鱗。
今の水の底は暗黒ではない。月の光が細く差し込んで、仄そめに明るかったのだ。
そして眼前に現れたのは、とぐろを巻く、無数の鱗だった。
鱗の回転をセキグチは目で追う。左周りにセキグチの周囲を巻いている。
そしてその先には、姿があった。

水面に顔を出す。

それと同時に鈴の音が聞こえ、セキグチは頸を振った。
水から上がると、正面に人の気配がした。
今日の男がやってきたのだ。
背筋が戦慄する。その戦慄もすぐに淫楽へ変わるというのに、セキグチは実際日に日に怖がっていったのだ。
暗闇から白い腕がセキグチ目掛けて伸びてきた。天上の月光に突進してくる腕だけが曝される。セキグチは思わず、硬く目を閉じ
た。
「セキ!」
耳に届いた声は能く聞き知ったものだった。
血が引く。
足が接するその石畳が血を吸う魔物で、セキグチの体液を全て吸い取ってしまうかのような脱力感に襲われた。
此処に榎木津がいるということは…全て知れてしまったのだろう。
足元が揺れて、関口が崩れそうに成ると、エノキヅが抱きかかえた。
「ドウジマ司祭────」
朗々とした声が地下世界に響き渡るのを、耳鳴りと共にセキグチは聞いた。
「出て来て下さい」
エノキヅの背後に居たチュウゼンジが四方の闇へ向かって呼びかけていたのだ。
暫くしてふふ、と言う笑い声が響き渉った。
「チュウゼンジ────お前のその嫌悪に塗れた顔は実に愉快だな」
ドウジマは嘯いた。
「異端審問と言うわけか」
白い司祭衣を纏ったドウジマが闇の中からゆっくりと姿を現した。
「異端も何も無い。あんたのやったことは、只の窃視だろう」
チュウゼンジの声は少しだけ苛立っていた。
「下衆め」
エノキヅが続けた。
「あんたみたいのをいつまでも置いていく心算はないぞ」
「────追放、ですかな?…他の観客はどうした?」
「逃げ出しましたよ。外はキバが包囲している」 けれども、それだけでドウジマが崩れるはずもない。
「王子さま」
ドウジマはエノキヅへ不躾に、慇懃に呼びかけた。
「貴方の左の腕にいるその水の巫は実に従順でしたよ。貴方のことを思ってと一言云えば、簡単に陥落した。そして貴方にするよ
うに簡単に男に足を開き臀部を振った。あのよがる
様を貴方は篤とご覧になればいい。全く、とんだ阿婆擦れだ」
セキグチを傍らに抱き、エノキヅはその大きな鳶色の瞳を半眼にさせた。
そして次第次第に顔が険しく成って行く。
セキグチを抱く腕に尚一層力が入った。
「あんた…」
「何人の男にどんな風に犯されたか、そしてそれをどれだけその猿顔の男が歓んだか。分かるでしょう?」
セキグチは目をきつく結ぶ。震えていた。
これ以上ドウジマの言葉は聴きたくなかった。
「そう、一人だけ面白い男がいた」
言葉も無く鋭い目線がドウジマに集中する。
「私は餓えている男を野別無く選んでいたんだが…偶々、セキグチの知り合いだったようだった。そうだね、セキグチ」
セキグチはエノキヅの腕の中で顔を背け、目をきつく閉じたまま身じろぎさえしない。
耳を塞ぎたかった。けれど拘束されそれさえ敵わなかった。
「なんと云うのだろう。あの男は…そう小芥子のような、といえば王子さまにはお分かりなるかな?見えているだろう」
ドウジマを汚らしいと云わんばかりに睨み付けた侭榎木津の返事は無かった。
「その男は実に優しくセキグチを犯した。ゆっくりと味わっていた。そう。一瞬恋人の逢瀬に行き合わせたのかと錯覚するようだった。勿論私はそんな様子など望んでいなか
ったから、全く期待外れだったが。その男が明け方に、暁闇にセキグチに囁いた」
「云うな────っっっ」
セキグチが絶叫した。
エノキヅはセキグチを目線だけで一瞥し、また目をドウジマに戻した。
「『僕と逃げて下さい』とね。あれほど情熱的に誘われたのに、セキグチは諾べなかった。何故だろうね」
ドウジマは其処に集った人人を見渡したが、誰も答えない様子に苦笑した。
「簡単だろう。セキグチは此の行為に溺れたんだよ。見知らぬ男が自分を犯してゆくのを楽しんでいたんだ」
ねえ、と呼びかけた。
「そうだろう?セキグチ。だから君は行かなかったんだ。厭だったなら何故その後も男に抱かれた?何故その王子さまやチュウゼンジに縋らなかった?まさか本当に雨がふるとでも思っていたのか?」
エノキヅの左腕が大きく震えた。
それはセキグチから連動したものだった。エノキヅはセキグチを両腕で持ち、チュウゼンジに向けた。
「チュウゼンジ。あいつを殴る。これ持ってろ」
「エノさんっエノさん!已めて…已めて…」
セキグチが嗚咽を上げる。
「僕を…離さないで…」
切れ切れの声で嘆願した。
その光景を見やってチュウゼンジは鼻で大きく息を吐き出した。
「ドウジマさん、あんたの思惑通りに全てが運ぶと思ったのか?」
「そんな殊勝なことは考える筈も無いだろう」
「あんたのやっていることをエノキヅに伝えた者がいる」
「成程、私の掌から零れ落ちた者が居るということか。誰だ?」
「名前を言ってもあんたが、その人物を覚えているとは思えない」
「侮るな、チュウゼンジ」
笑みを顔に刻んだ。
「昨夜の男だろう。セキグチを恋人のように扱った、」
酷く凶悪な顔をしてチュウゼンジはゆっくりと頷いた。
「此処での、遊戯も終わったか」
「遊戯?」
「そうですよ、王子さま。あなたの好きな人間パチシと同じようなものだ。さて、司祭ごっこも終わりだな」
階段へ向かってドウジマは歩を進める。
「待て」
エノキヅの制止にドウジマは止まることも振り向くこともしなかった。
「此処での遊戯は終わったんだ。すぐにいなくなりますよ。他での遊戯も進行中ですからね」
云うと同時に、大きな飛礫がセキグチの睫毛の先を掠めた。
その感触にセキグチは思わず空を振り仰いだ。
先まで中天には月があったのに今では何処にも光などなく、曇よりと其処は雨を催そうとしていたのだ。「あ、」声を上げると同
時に急激な雨が地下世界を侵した。
「此の雨じゃあすぐに此処は水に埋まるぞ」
エノキヅがセキグチを抱きかかえたまま、階段に足を掛けた。
「セキグチ」
ドウジマが階段上からエノキヅに抱えられた侭のセキグチを見下ろしていた。
「………はい………」
「どんな姿をしていた?」
「とぐろを巻いた蛇と…ふくよかな肢体の…」
「見たのか?」
「慥かか、」
ドウジマの声とチュウゼンジの声が重なった。そしてゆっくりと視線を合わせて、お互いに睨み合った。
「そうかそうか、成程。セキグチ、これは君の勝ちかもしれない」
雨が零ったのだ。
そう云って笑い、ドウジマは地上へ階段を上ってゆく。すぐに、姿は闇の中へ掻き消えた。神殿の周りにはキバが軍勢を引いている筈だのにドウジマに迷いは無かった。
「チュウゼンジ、どういうこと?」
「此の井戸には言い伝えがある」
「え、」
「井戸の底には異教の神の姿がある、とね。だけれど…それがどの深さに在るのか誰も知らないんだ。此の井戸の深さもいかほ
どにあるのかもしれない。数代前の巫が潜って確かめたが、終には底も見えず、そんな異教の神の姿も無かった────」
「チュウゼンジ、後にしろ」
そう云ってエノキヅはセキグチを肩に担ぎ上げ、地上へ駆け上がっていった。
赤い都は雨の沁みと夜に黒く犯されていた。キバが立ち尽くしている。その背後に、アオキが見えたが彼は部下に指示を出してい
て此方を一瞥もしなかった。
「シュウちゃん」
エノキヅが呼びかけると、軍人らしくキバは漸うと進み出た。
「誰がシュウちゃんだ莫迦野郎」
然し口にする言葉は自分の主人に対するとは思えないほどに乱暴だった。
「ドウジマはどうした?」
エノキヅが問う。
「は?」
キバは怪訝な顔をした。
「出てきただろう。白い司祭服を着た…」
「出てきてねえよ。そんな奴」
「消えた、か────」
チュウゼンジが呟いた。
「旦那もエノさんももう包囲は解いていい筈ですよ。もうあの人は此処に居ないだろうから」
「ふぅん。そうなのか?」
「あの人はそういう人だ」
雨の勢いは激しさを増す。驟雨だ。
今まで頑なに神に許されなかった甘露が過剰なまでの性急さで地を潤そうと降り注いだ。
「僕はアカシ司祭の下へ行く」
「え、じゃあ僕も…」
手をチュウゼンジへ泳がせたが、それをエノキヅが許す筈も無かった。
「君はこっちだ」
「エノさん!」
「煩いぞ黙れ、セキ」
その苛立ったかのような口調にセキグチは口を噤んだ。
颯々とチュウゼンジは身を翻させ、マスシドへ向かっていった。


宮室は、久しく零らなかった雨の到来に大童だった。雲隠れしていたエノキヅに近習や大臣の叱咤が飛んだ。
「何処に居たのです!殿下っ」
「殿下!先刻、西部の山肌が崩れたとの報せが…」
「早く御前会議にお着き下さいっ」
「誰ぞ殿下に長布を、」
「雨の被害が甚大です」
「堤が決壊しました」
けれどもそれを完全に無視しセキグチを担いだまま、エノキヅは外廷に入った。
「何処に行くのですか!殿下!」
「お待ち下さい!」
外廷と内廷を隔てる扉の向うでエノキヅを引き止める怒声が聞こえたら、それにすら一瞥もない。
エノキヅは内廷も過ぎる。
エノキヅが歩を進めるその先に流石のセキグチも入ったことは無かった。妻女を持たない藩主であるエノキヅ のちょうでは閉られて久しい、後宮ハレムだった。
高い天井の広間に赤い円柱の森が其処に広がっていた。
「エノさん、此処…!」
セキグチと言う『男』が入って良い場所ではない。
沙のような心地の絨毯の上に放るように関口を置いた。
「行かなくていいんですか?大臣たちが、」
「君は此処ハレムにいればいい」
「エノさんっ」
「アオバヤシから聞いてどれだけ、呪ったと思う?」
「でも…」
「僕は妻を娶らない。此処には君だけだ。そう約束しても…駄目?」
未だメヘンディの痕が残る手の甲をエノキヅは撫でた。あれほど水の中にいるのに、降雨の祈祷の際に施された刺青は未だ消えない。
「エノさん、エノさん!僕は…あなたが好きだけど、でも…。とても好きだけど…」
胸が熱い。昂奮に、唇が震えた。紅粉を叩いたように頬に彩りがあるだろう。己に正直になるのならば、脳天に雷を喰らった程に
、嬉しいのだ。神経が泥泥に溶け合って、正体を無くしているほどに。
けれど、エノキヅは藩主であり、此の土地を治め、護る義務がある。セキグチは一介のしがない巫なのだ。
今も外廷の扉の向
うで彼の臣下たちが、エノキヅの命を受くべく待っている筈だ。
「……逃げるか、セキ」
「え」
顔を上げる。そして其処にエノキヅの酷く珍しい表情を見た。
「僕は王様などいらない。王様などには成りたい奴がなればいいんだ」
エノキヅは膝を着いてセキグチの肩に額を乗せた。
「────肝を、冷やした。こんなのは…もう充分だ。君は僕のものなのに…」
そう呟いた彼の噴飯はとても静かだった。
静かだからこそ、それはセキグチを余計苦しめた。
セキグチはそっとエノキヅの項へ両腕を回す。じっとりと項に汗が浮かんで、淡い色の毛髪を幾筋か張りつけていた。此の湿度の
高い暑さの中にも、常に清涼の中にいるような印象のあるエノキヅだのに。それだけ彼は焦っていたのか。
まんまとドウジマの思惑に嵌った愚かなセキグチを、それでもエノキヅは愛しいと囁いてくれる。
セキグチは彼の貝殻のような耳へ唇を寄せた。
「エノさん、」
「………ん…」
「もう、他の人間には触れないよ。触れない。し触らない。絶対に。」
エノキヅの両腕がセキグチの背を抱き締める。
「……エノさん、」
呼び掛けるとエノキヅの腕に力が籠もった。
「僕と逃げて下さい────」
稲妻の光が天を割り、セキグチの耳には氾濫する川の水の音が聞こえた。








06/06/06








オーメンの日ですよ!今日。
やばいですよ。
完成しましたよ。これが完成形です。誤字脱字とか文法の妙なところは直しますけど。
つかさぁ、
もう榎関じゃねえよ。
では。


タイトルはオペラアリスさまからお借りしました。