愛人契約



そもそも―――――
浮気をする甲斐性など無いのだ。
そのようなこと言ったのはあの能弁家の友人だったろうか。確か春先だったはずだ。桜の情景の中でそんな会話をした記憶があった。
もう大分昔のように思える。
それは紛うことなき事実で、人見知りが烈しいことは誰よりも自覚している。おまけに口下手だ。恋愛にも不向きだろう。実際能く結婚できたものだとも思うのだ。
然し何故今こうした状況に陥っているのか―――――
益田が前髪を掻き上げながら筆を走らせる様を凝視しつつ、自分の敗色が濃いことを感じずには居れなかった。
逃げ出そうか、と出入り口へ目を向けると益田が顔を上げた。
にやりと笑われ、ぎこちない笑みを返す外無かった。
どうしてこうも押しに弱いのか。
幾度目かの溜息を尽いた。
「ままま、そんな顔しないで下さいよ」
益田龍一は筆を置いた。
「榎木津は居ないのかね?」
「居たら困るのは貴方でしょ?関口さん」
鳥渡目を通してください。
と益田は紙を差し向けた。


 此の年下の元警察官、今やあの榎木津探偵の下で助手を務める益田龍一に呼び出されたのは、未だ床に在った時だ。
どうして電話に出てしまったのか。それさえ悔いていた。
家人は仕事に出ていて、関口一人であったし出ないわけには行かなかった。増して取ったのが妻でなくて良かったとさえ今では感じている。
そうして午后に訪れたのは神保町の薔薇十字探偵社であった。
中に入れば相変わらず榎木津は出掛けていて、もう一人の助手安和寅吉の姿も無く、件の益田龍一だけが事務所の応接椅子で寛いでいたのだ。
卓子には湯気を上げた珈琲が用意されていた。
「…僕が来ることが能く解ったね。君、天眼通かい?」
京極にこんなことを言えばまた白地に馬鹿にした表情で延々と皮肉と御託と薀蓄を並べ立てることだろう。
「まさか。其処の窓から見ていただけですよ」
榎木津の背後にある窓硝子を指して言った。
「今か今かと待っていたので」
にっこりと笑って関口は長い溜息を尽くことしか出来なかった。


 差し向けられた紙を見た。其処に綴られた益田の文字は中々に綺麗な文字だと思う。関口よりずっと読み易い。文体も簡潔で簡素だ。警察と言う役所勤めの御蔭だろうか。
一文だけが其処に記されていた。
目が文面を走った。
「『週に一遍はどちらかが訪うこと』で好いですか?」
益田が読み上げた。
「好いもなにも…」
澱んで胡乱な返事に益田は大いに笑う。困惑は未だ続くと言うのに。
「だってそうじゃないと怠惰な貴方のことだ。二三ヶ月逢わないとか言うことがざらにありそうで」
それは事実だ。京極の許にだって毎日通うこともあれば忘れ去ったように足を向けないこともある。
「安心してください。貞操観念なんか盛り込みませんから」
「は?」
関口は顔を上げた。
貞操観念など、ついぞ思いも尽かなかった言葉である。
「関口さんが誰と寝ても好いってことです。勿論僕もですけどね」
「君は―――――何を考えているんだ…」
盛大に呆れる。
「だって関口さん奥さんいるじゃないですか。まさか奥さんと寝るなとは言えませんからね。だったらこれ以上誰とどうなろうと一緒ってことですよ。だったら僕に貞操を問うのも奇妙しな話でしょ」
「あ、あのね…」
「小説家の愛人なんてそれこそ小説みたいで楽しいですしね。趣味小説家愛人とか。ああ此の事務所に入る時に一応履歴書とか出してみたんですけどね、其処の趣味の欄に書きたかったなあ」
「何を考えているんだ!君は」
「主に楽しいこと。書いてもどうせ榎木津さんなんか履歴書も何も見ませんから好いでしょう?まあ誰と寝ても構いませんが、誰が相手だろうと勿論嫉妬は充分に存分にするので宜しく」
語気を荒げれども相手に気にした様子は無く、酷く軽々しく言われペンを持たされる。
益田の本籍地と名前とが記され捺印がされた横に空間があり、其処を探偵助手は指で突付いた。
「此処に宜しくお願いしますね」
指が長いな、と凝視した。
そして脳が卑猥な記憶を引き出す。忘れられるものなら忘れて居たかった。心因性健忘症はどうしてこういうときに導き出されないのか、矢場やにわ腹が立つ。
その指で益田は関口を愛撫したのだ。
酷く巧みで自分が融けて往くのを感じていた。

酔った勢いだったのだ―――――

此の事務所に来たならば木場と榎木津は既に幾本か酒瓶を空けていて、榎木津が訪った関口に酒を勧めた。アルコホルに弱い関口は勿論辞退したのだが、酒に理性を失ったのか木場までも酒を勧める有様だった。
そして強かに呑んだのだと、思う。
余り記憶には無い。
有耶無耶に覚醒した時には益田と同衾していたのだ。
勿論裸で躰の彼方此方が軋んで悲鳴を上げていた。
榎木津も木場も酒が此のビルヂングの何処にも無いことを知ると夜半にも関わらず出て行ったらしい。酒に関してはあの幼馴染は底なし沼である。
益田と何があったのか、徐に黄泉還る記憶たちに、関口は慄然と恐怖した。
「顔、赤いですよ、関口さん。あ、思い出しちゃった?」
関口は顔を逸らした。
「あれは…どうかしていたんだよ、君だって解っているだろう?」
「解ってますよ。どうかしていた時の関口さんはどうしてどうして中々好かったです」
「何が好かったんだ…」
此の真冬に汗が滲んだ。
背骨の辺りが火を噴いたように熱い。
「関口さんて、中々兇暴ですよね」
「それは…」
言葉を継げ無い。
「特に、極まった時なんか―――――」
記憶が黄泉還る。
あれは本当に自分なのか。
恐怖に満ちる。
何も益田で無くても好い筈だのに。
榎木津が居なくて本当に良かった、と関口は泣きたい気分に成った。
「今思い出してもぞくぞくします」
思い出したくは無いのだ。関口は肩を窄めて顔を俯けた。
その耳元で風を切る音が聞こえた。
甲高く、何処か神経を苛むような音だ。
厭な予感がした。
恐る恐る顔を上げてみれば、矢張り案の定、益田はあの鞭を手にしていた。乗馬用の鞭で、大磯の時に護身用に仕入れたものだった。
元警察官ならば些少に武術の心得もあるだろうに、それでも護身用が欲しいくらいの何かに遭ったのだろうか。
関口は初めから関わっていたとは言え、其の辺りの事情は聞いていない。
「持ってみます?」
益田は鞭を手渡した。
黒いなめした革の鞭だ。
「使ってみたいと思いませんか?」
「や、余り…僕は…」
痛いのも人を疵付けることも好きではなかった。
「成る程」
一旦探偵助手は頷く。
だがすぐに笑みを浮かべて関口を見た。
「でも、アノ貴方なら、それも使用できるでしょうね」
「え…」
「アノ、兇暴な貴方なら、」
言葉を区切り、益田は卓子に身を乗り出して関口の耳元を弄るように囁いた。
「僕の皮膚をソレで舐めてくれると思うんですけど?」
躰が烈しく揺れた。
―――――怖い、怖いのだ。
「ま…ま……益田、くん…?」
声を震わせて、恐る恐る顔を向けると、にっこりと笑んで再び腰を降ろした。長い前髪が揺れる。
「まあ、前にも言いましたがそれはおいおいって言うことで」
「何がおいおいだ。君って奴はもっとまともな…」
「どうでも好いですから颯颯と署名捺印しちゃって下さい」
もう一度益田は紙を指し示した。
「ああ、愛人とは言え、囲い者ではない訳ですから、お手当ては頂きませんよ」
「あ、当たり前だろう!」
何処にそんな金があると言うのだ。関口は卓子に鞭を置いた。
「じゃあ何が不安なんです?」
何故不満ではなく、何故不安なのかと益田は訊いた。関口が断ることを念頭に入れていて居ない。
「あのね…僕は男だし、君だって男色家じゃなかろうに」
倫理に照らし合わせての説得を試みるがまるで気にした様子も無く珈琲を啜った。
「そりゃあ僕は男色家じゃあないですけどね。でも出来ないことは無いですし。実際あの時、好かったでしょう?僕も貴方も。奥さんと切れろとか言っているわけじゃないですし」
許容量キャパシティは大きいほうなのだ、と自慢気に益田は豪語した。
「でもアルコホルが入っていたし、素面だったらどうか解らないじゃないか」
益田は寸暇黙って時計を睨んだ。
そして指を折って往く。
「じゃあ、これから実践しましょうか?」
「実践?」
「ええ」
「…何の…?」
「だから、此の間と同じこと」
平然と簡単に口にする。どうやら時計を見て和寅か榎木津が帰ってくるまでの時間を計算したらしい。
「馬鹿じゃないのか。君は…」
精精の罵倒が此れだった。
益田の苦笑しか買わない。
手を講じることが出来ないのことを知ると関口は兎も角席を立った。此処に訪れた時から未だに外套も襟巻きも装着したままなので、其の儘扉へ向おうとするが、不意に咽喉を絞められた。
それに続いて安定を欠き、背中から転んだ。
仰向けに倒れると、眼前一杯の天井が見え其処に益田が侵入した。
彼の手には関口の襟巻きの端が掴まれていた。
笑いながら関口を起こして益田は椅子に座った。膝に関口を乗せて。
「あのね、僕は髭だって濃いし汗っかきだし口下手だよ、鬱だし」
自分のことは何より解っている。
「そりゃ男なら髭も生えるでしょうし、そんなの剃れば良いだけじゃないですか。汗っ掻きも今は冬だし、まあ裸に成っちゃえば余りに気にもなりません。鬱だって人の特性でしょう。気にしませんから」
益田の膝に乗せられた儘ペンを握らせられる。彼の掌着きである。
「さあ、颯颯と署名捺印下さい。そうしたら今日はすぐに帰して上げますよ。暫くすると榎木津さんが帰ってきますからね」
血の気が引いた。
慌てて書類に署名捺印を施す。
署名する背後から益田は囁いた。
「それに、関口さんの重さは中々心地好いですよ」
厭な男である。
関口は顔を紅潮させたまま顰めてみた。


そもそも―――――
浮気などする甲斐性など何処にもないのだ。
無いのである。







ますだせきぐち
私生活では主旨?違うなと思いコッチに持ってきてみた
しかし恥かしい内容だ
一応私の書く益田は
攻めだけどMなんで
関口は…総受け(たぶん)でお願いします
つかベタですんません
03/12/17