彼には幾つかの婀娜名があった。





Sleeping Lilly





睡りから目覚める瞬間程、厭うものは無かった。朝日など永い間の仇のように思える。
うつらうつらとした薄明。
現つか、夢か―――――。
毎度訣死の覚悟で目覚めを迎える。



「おはよう、関くん」
「あ…」
目覚め頭にその秀麗な美貌が飛び込んできて、関口巽は俄に失語した。
「寝坊猿だな」
「エノ…さん…?」
「そのとうっりだ!何だちゃんと認識しているんだじゃないか。だったら颯颯と起きる!もう午后だぞっ此の…」
少し云い澱んだ。関口は榎木津にしては珍しいと凝乎っと窺った。
「隠花植物が、」
溜めを措いて、口角を持ち上げて不図笑って見せた。
何処までも人を馬鹿にするのが好きな男だ。榎木津の腕には時計が巻かっていて、それを見ると二時を短い針が指していた。
「あの…どうでもいいですから退いて下さい。…重いよ…」
枕元には本が置かれていた。榎木津は敷布越しに関口に跨った儘動かずにその頭にある本へ手を伸ばした。
印を見てそれが図書館から借りてきたものだと知った。
「メルセンヌの『算術』?古典だな、」
関口は理系である。話術は苦手だったが、理路とした数式は得意だった。
「これ、此の間藤牧が読んでたぞ。ああ、借りたのか、」
「又貸しして貰っているんですよ。図書館に往くのは面倒だから。鳥渡退いて下さい、エノさん」
漸うと榎木津は関口の上から退いた。
「中禅寺はどうしたのかな?」
同室の者がいないことにやっと気が付いた。
「はん、僕が来た時にはもう奴は居なかったぞ」
寝台の端に腰掛けて、豪そうに宣う。
「あ、そうだ」
関口は明瞭な声を上げた。
「エノさん、御免。今日、蓮を見に行く予定でしたね」
埃及エジプトの木乃伊と共に悠久の時を経た蓮の胤が開花したと先日新聞で報じられたばかりだったのだ。
長い腕が伸びて寝台脇の窓罹カーテンに触った。そして勢い能く引き開ける。鈍色の天上から沛然とした驟雨が硝子を打ち据えていた。
「雨、」
「諾」
「これじゃ…見られませんね」
蓮は屋外に咲いていると言う話である。
「まあ、いい。雨の中の花見なんか億劫だろ?それに…今も見ている、」
関口は無反応だった。榎木津の手は窓罹を離れ、其儘関口の顔面に迫り、その前髪を掴み上げた。
「未だ睡そうな顔だな、」
「諾…ごめん。何か云いましたか?」
「寝惚け猿め」
「起きたばかりなんてそんなものでしょう?第一…寝起きの悪いエノさんに言われたくないよ」
「馬鹿者。僕はいいのだ」
関口は顔を顰めて、少し肩を竦めた。
「でも、雨だったら丁度いい」
「何がだ?」
「藤牧さんに、其の本を返さなきゃ為らないんですよ」
「そんなの僕が後で返してやろう。先約は僕にあると思わないか?」
「でも。期限内に返さないと藤牧さんが貸出禁止の罰則を喰らってしまうんですよ。面白い問題は書き写してあるし。もう返さないと」
榎木津は少しだけ息を吐いた。
「仕方ない。まあ、花が綻ぶ処も見られたし、藤牧にちょっとだけ貸し出してやろう。だが、君は僕と遊ぶんだ。いいか、絶対だぞ。中禅寺ではなく、僕とだ。いいな、関くん?」
大仰に尊大に恩着せがましく…実に榎木津らしく言ってのけ部屋を出て行った。



一人になると唐突に雨の音が聞こえた。
世界が鈍色に押し包まれていた。低く垂れ込めた雲は灰色で、日を覆い隠し、暗色に満ちていた。
関口巽には青天よりも余程好ましい。
息が吐けるのだ。
雨は日頃暑さに焼け爛れた街を潤し、僅かな冷気を関口の許にまで這わせ届けていた。
寝巻から制服に着替える。洗った襯衣はもう一枚限だった。
廊下に出ると生徒の姿が疎らに見えた。知った顔が幾人かいたが、関口から声を掛けることは先ずありえない。

人は、苦手だった。

関口は小柄で酷く貧相な躰形をしている。対人恐怖症でそもそも他人と交友を深めるのに時間を要す。だから友人は少なく大抵孤独なのだが、どういう訳か中禅寺も榎木津も好き好んで関口の傍に居た。
俯き加減に背中を丸めて、廊下を過ぎ去る。足早とは往かないところが関口である。
 戸を叩くと内部から声がした。
「失礼します」
ぼそぼそ呟いて戸を開けると、机に向う姿があった。
「入れよ」
穏やかな口調に少し安堵した。榎木津の躁的な騒々しさや滑舌能く捲くし立てる中禅寺の口調に馴染んでいる身には、こうした穏やかさが珠玉に思えるのだ。
「これ、ありがとうございました」
机の脇に立って其処へ本を降ろした。目線は、椅子に座っている藤野に対して関口の方が高い。人と眼を合わせことが好きではない、関口は常に下を向く癖があるが、此の場合それはなんの意味も持たず、結果として藤野と眼が合致することになっていた。
「諾そろそろ返却日だったかな」
「はい。…あの、面白かったです」
藤野牧朗は来年には帝大の理科大学数学科に進むと言う話だった。関口も理系志望だったので、度々勉強を見て貰っていたのだ。関口は独逸語はいけなかったが、数学や物理などは他に引き比べれば得意とする処だった。勿論藤野の進路は関口のように消去法的な撰び方ではなく、純然と数学が好きだと言うことかららしい。
「解いてみたかな?」
「幾つかは。引き写しただけで未だ手をつけてないところも沢山あるけど」
「解らないところがあったら聞きに来るといいよ」
「先輩は解いたんですか?」
「大概ね。古典だけど考えさせられるには充分だったしね。いつか閑があればフェルマのも挑戦してみたいね」
「先日本屋に行ったら帝大教授の解説書が出てましたよ」
「高木教授の整数論講義だろう。僕もそれは素見ひやかしてみたよ。良いところまで入っているみたいだけど…」
「解けていない、」
「そう」
或る三乗数を二つの三乗数の和で表すこと、あるいは或る四乗数を二つの四乗数の和で表すこと、及び一般に、二乗よりも大きいべきの数を同じべき二つの和で表すことは不可能である。
藤野は諳んじているらしく、読み上げた。
「解いてみたいですか?」
「解いてみたいね。大学に行って時間が取れれば挑戦してみる心算だよ」
関口は机の上に広げられた走り書きや整然とした数式がしたためられた帳面ノートに眼を遣り、触れた。
「これ、」
「ちょっとしたお遊びだよ」
「…凄い」
関口の声が少しだけ上擦った。
そして、帳面を捲る。
紙の端を拇指の腹が捉えて、持ち上げて、人差し指とで挿んで、次々と頁を繰る。
関口の茫洋とした表情が僅かに綻ぶ。
未草ひつじぐさ…」
呟きが聞こえて、眼を帳面から藤野の移すと、手を覆われた。
藤野の手で。
「先輩」
「僕から本を強請ねだる時のようにはしない?」
顔に朱が差す。
「あれは…先輩が…」
膝に載れと言うから。
藤野の手は冷たかった。否、自分が温かい―――――熱いのか?こんな風に手を握られることは苦手だった。
顔が、躰が、熱くなる。
「顔が真赤だ」
「見ないで下さい」
「榎木津や中禅寺にも同じようにするのかな?」
「―――――何がですか?」
関口は頸を傾いだ。意味が解らないといったその様子に苦笑するのは藤野だった。
「否、先刻榎木津が来て今日は自分と君が遊ぶのだから君を早く返せと騒々しくね」
「あ…」
握っていたペンを離し、自分の膝を叩いた。
顔を背けながらそれでも横目で藤野を見ながら、関口は躰を捩った。
「座り給え」
手は離さない。
関口は躊躇いつつ、本を借りた日にそうしたように、藤野の膝に載った。
「耳朶まで真赤だ」
「先輩…」
「項も、」
「先輩!」
甚振るのは辞めて欲しい。関口は目をきつく閉じた。
「再来年には君も同じ処に進学しないかい?」
「え?」
眼を開けた。すぐ横に藤野の顔がある。
「数学は得意だろう?」
「そりゃあ、成績は一番マシな科目ですが…」
「それとも榎木津と約束がある?」
「…否…何も?蓮を見に行こうって言う約束なら…」
「蓮?」
「あれ、睡蓮だったかな?」
「……何も態々紛い物を見に行かなくても……」
独語のように呟いた。
「紛い物。どういうことですか?」
「否、なんでもないよ」
薄く藤野は笑った。



部屋を出て往く関口の背を見遣りながら藤野は僅かに嘆息した。唇で触れた関口の頬は熱かった。
それだけで、胸が温かくなる思いがする。
「睡蓮…ね…。何も態々そんな紛い物を、」
睡蓮は午后になって咲く花のことである。大抵午后の二時、ひつじの刻あたりに花開くことで未草とも言った。
またそれは、数多あまた有る彼の婀娜名の一つでもある。
尤もそれを口にしようとするならば、相当の覚悟が必要だ。
彼には鉄壁な防御が在るのだ。
それも双関門にかんもん
人の思慕たるその婀娜名は、握り潰される羽目に陥るのだ。そして握り潰すはそれが正鵠を射ているからだ。
そしてその関門二人もまた同じ穴の狢だと言うことだ。

藤野はいつかその睡蓮が目覚める瞬間を見てみたいと夢想し、再びペンを取った。

鬼子母神の縁日へ出向く二ヶ月前のことである。







31/08/05





ああまた意味が解らない。
不図、午間に目覚める花と云う記述を眼にして
「関口じゃん」とか思ってしまったのが発端です。
いいじゃん!夢みさせてよ!
関口には「睡蓮」と云う婀娜名もあるんだけど、榎木津と中禅寺が互いの間だけで独占して使わせないと言う話だったんですが…
何か違うよね?
あれ?