名残の雪




 榎木津家に仕える関口巽には一つ年嵩の主人がいた。
名を礼二郎と云った。
西洋磁器人形の姿を写すような端整をした面立ちで、賑やか為人だった。秀才の誉れも高いが、他人のそうした評価を歯牙にもせず日々を怠惰にしている。
そして殊に関口に対し彼は酷く傲慢だった。
関口はいつからか「そう遠くない未来に此の人と屋敷を出るのだろう」と思っていた。
けれどそうした為人となりも災いしてか、礼二郎には色恋沙汰が絶え無かった。
 近隣所辺の女学生に取り分け礼二郎は夙に有名で、関口は使用人であることから幾つもの手紙や恋の橋渡しも行わざるを得なかった。
その度に礼二郎は断るだろうと思うのだが、関口の期待を裏切っては、彼は肯く。容易く。
「セキ、おいで」
呼ばれて共寝をしたのは未だ御屋敷へ来たばかりの頃だった。
礼二郎は県下に聞こえた豪商の次男坊である。
況して彼はその眉目の秀でたることや、その秀才…天才ぶりと言っても良いだろうは音に聞こえた。
彼の眼中にあることを歓ばない者など存在しなかった。
関口も、また、その例に漏れない。
礼二郎は当たり前の様に関口を抱き、また関口も抱かれた。
「榎さん、」
あれから幾歳過ごしたのだろう。
百八畳と言う広大な大座敷の書院に肘を着いて、明かり障子から庭を眺めつつ、思いを捲らせていた。
関口は十七に成っていた。
大旦那さまは尋常小学校から兎角勉学だけは良く出来た関口に目を掛け、終には高等学校まで進学させることになっていた。
未だ学生であるのに、礼二郎には縁談も降るようだ。
両親や親戚が挙って幾つもの縁談を持ち込むのだ。その度に礼二郎は縁談を幾つも袖にしすることが常だった。それは彼の心に自分がいる証左だと思っていた。
けれど──────
「おや、」
突然背後から声が降ってきた。
意外だ、と声が物語っていた。
「物思いに耽るなら僕の部屋に来れば良かったのに、」
関口はゆっくりと頸だけを廻して、ただ微笑んだ。
「また遊郭おかですか?」
着崩れた礼二郎の着物姿。彼は遊郭へ赴く時、夙に遊び人の若旦那を気取る。
礼二郎は畳の上に腰を降ろした。畳みは冷たかった。
「すみません、すぐに行きますから。此の御屋敷を離れると思うと…」
もう少し見て居たくて、勝手に大座敷に入り込んでしまったのだ。
胡坐を掻く礼二郎の白い臑が覗いていた。
さり気無く目線を反らせた。
「三高かい?」
「はい、合否通知が来たんです」
礼二郎が遊郭へ行っている間に。
「ふうん。そうか」
礼二郎の声には三高とものも然程の危機感もなく捉えられたようだった。
彼は此の年少の使用人が決して他の人間に靡かないことを知っているからだ。
「此れからおいでよ、部屋に」
「……また……そういうことを言わないで下さい」
「どうしてだい?」
「僕は使用人ですよ。忘れましたか?」
白昼堂々と主人の部屋に行くことは憚られる。
「ああ…」
そういえばそうだったな、と礼二郎は天井を見上げつつ言った。
「雲行きが怪しい。寒いし、また今夜も降りますね」
此の豪雪の地域では、春の跫音も押し迫っているのに、此処数日毎夜のことだった。

 関口が流行の病を患ったのは昨夏のことだ。
その病に寄る死亡者は百万人に達すると厚生省に報告されていた。 牡丹が庭に咲き乱れる、狂乱に満たされた時空で屋敷の最奥の離れに巽は隔離されていた。
あの夏、礼二郎は榎木津の屋敷の何処にも居なかった。下町しもまちの娘と姿を晦ましていたのだ。
病に息も荒い関口など彼の眼中には無かったのだろう。

「本日は大旦那さまも総一郎さまもいらっしゃいませんから、お食事はお一人で」
「ああ…そうか東京だって言ってたな」
礼二郎は火鉢に手を翳した。小さな炭が音を発てて赤く弾けた。
 一人では美味くないからと関口に給仕をさせた後、交猥った。
言葉も無くただ躰を重ね合った。
 辺りは酷く静かで、外界が仄かに薄明るいことが、障子から忍ばれた。雪が降っているようだった。家屋の静寂に互いの息遣いだけで聞かれた。
「…初めて関と逢った時を思い出した」
「え、」
「未だ小さな小さな小僧だった。手が霜焼けで可哀想だった」
「そんなの…全然、憶えてない…です」
「本当に君は忘れっぽい」
静寂に声だけが谺のように響いていた。
「─────行くなと云ったら?」
耳許で囁かれた。
それが何に対して云っているのか解らぬ関口ではなかった。
躰の芯が震えた。
「………僕は榎さんに初めて抱かれた夜のことを憶えている…」
あの日、関口は礼二郎のものになったのだ、と思った瞬間を覚えていた。
「倖せだった」
関口は呟いた。

 爛れたような暑さだった。躰は怠くて、気質は朦朧としていた。そして躰が苦しかった。辺りには誰も居なかった。冷や汗が躰を包んだ。
庭の牡丹が凄絶なまでに美しく咲き誇っていた。不気味なほど美しく、恐ろしく気持ち悪かった。躰を襲う痛みの中、朦朧とそれを凝視していたのだ。
傍若無人で騒々しくて時々とても可虐的で関わりあうことを疎んじてしまうことも度々だった。、でも本当は優しくて思いやりのある為人だと思っていた。
けれどもあの病の最中に、唐突に悟って余りの滑稽さに笑ってしまった。
ただあの人は、ただ自分に興味の無いだけなのだと、と。
自分を抱いたのは、ただの戯れだったのだ。
彼は県下きっての豪商の次男で、態々使用人の、況して見場も良くない男など相手にする必要など無いのだ。
こんな関口の苦しみの中、傍にも、屋敷内にすらいないのだから。

 眠る顔を見詰めていた。
綺麗な面立ちだった。
同じ邸内で育ってきて長い間見ているにも関わらず、未だに時々はっとして見蕩れている。
その色素の薄い毛髪や、眸の色は、関口の憧憬だった。
雪の降り積もる閑寂に耳を欹てながら、関口は礼二郎が再び瞼を開くことを待った。
離れの療養では手に追えず、病院の隔離病棟で目を覚ました時、関口は自分が助かったことを知った。
そして未だ礼二郎が戻っていないことも。
大旦那さまの進めに随い何処か遠い学校を受験し、榎木津の屋敷を出ることを決めたのはその時だった。

 夜が朝と交わるその薄明の中で礼二郎は目を覚ました。関口は飽きることを知らないように礼二郎の面を覗き込んでいた。
「寝ていた?」
関口は黙って頷き、一糸も纏わぬ姿の侭躰を起こして障子を開けた。
嵐が去ったような朝の穏やかさが其処に在った。

「僕、彼処あちらに行くことにしました」

外界には冬の名残の雪があった。
春間近、もう雪は最後だろう。
はだれはだれと夜が明け出した。










もし関口が女性だったら最後の「僕、三高に行くことにしました」は「三高」ではなく「お嫁」だったろうに。
宮尾作品のようにしたかったな。