35,欠片




時々青木が口ずさむ唄がある。



花は霧島 たばこは国分



大概は二人で過す夜のことである。
彼は実に吶吶と口にするが、どうやらその節回しから何処かの民謡ではないかと関口は思っていた。勿論関口は唄のことなぞに詳しくは無い。青木が意識しているのかは知れないが、ほんの一節を口にして声は消える。
青木の出身地のものだろうか。
関口は上掛けを引き寄せながら眼を瞑り青木の呼吸とその節回しを凝乎っと聴く。
それが感染るのは自然なことだった。

今日も今日とて彗星が途端にその軌道を変えて地球に垂直落下してきたような兇悪な顔をした男はその鷹の目で以て馬手に居る小説家を見遣った。
「な、なんだよ京極堂」
関口は津軽塗りの座卓に臨川書店のむろまちものがたり巻四を広げていた。
「否、先生はどうもご機嫌みたいだな」
「機嫌?」
良いも悪いも無いだろうに。
「君が本を読みながら唄を口ずさむなんて初めて聞いたよ」
長い付き合いに此の古書肆はどうでもいい細かいことまで記憶している。だからきっと関口が自然無意識に唄を口ずさむ処など未だ嘗て無かったことなのだろう。
関口だとて己が音痴だと云うことは自覚しているのだ。
「う、唄っていたかい?」
「その癖は辞めた方がいいぜ」
「何故だい?」
「唄には聞こえなかったから。何かの経文でも唱えているのかと思ったよ。まあそれにしても唱和と言うものはもっと美しいけれどね」
自分で経文を唱えているようにも聞こえると云いながら、読経の美しさと関口の唄紛いを同列に扱うことは赦せなかったらしい。
「何処で憶えてきたんだ?」
「何をだい?」
「その小原節だよ」
「小原…?」
問い返すと中禅寺は怪訝な顔をした。
「知らなかったのか」
関口は戸惑いながら頷いた。
「節回しは大分…否壊滅的に違っているが、雨の降らんのにそむたがわ濁る…草牟田川は鹿児島の甲突川ことだろう?」
中禅寺は関口より余程上手だった。
世界のはじまりを発音して、関口はその口を覆った。血の引く音を聞いた。

青木から感染ったのだ。此の唄は──────。

「関口くん、大丈夫か?」
中禅寺の腕が伸びてきて蒼褪めた関口の頬に鳥渡触れた。
「あ…うん。否…なんでも無いよ」
恐らく関口の状態は大丈夫などではなかっただろう。中禅寺は益々怪訝にした。
「丁度誰も居ないし寝転がるのなら」
「あ、否本当に大丈夫だ」
中禅寺の言葉を関口は遮って立ち上がった。
「もう、失礼するよ。千鶴子さんにお茶をご馳走様と伝えてくれ」
逃げるように京極堂を立ち去った。

関口には鹿児島の友人などいなかった。否、友人知人みなの出身地を把握している訳ではないので断言にするには少々心許ないが知り得る限りではいなかった。
だから此の唄の感染源は青木でしか在り得ない。
青木は東北の出身だ。
民謡が趣味であるとも聞いていない。
その彼が何故鹿児島の唄を歌うのか。

青木は──────戦中を鹿児島で過したのだ。生きたのだ。

彼は共に在る中で漏れ出でることはあるけれど、それを積極的に話題にすることは一度もなかった。
覗いてはならないものを見てしまった。
関口は眩暈坂の坂下で歩を留めて、両掌で顔を覆った。