214.冷

 夜半に降った雪が世界を静謐に押し包んだのを聞いていた。今時分の日の出は六時も半ばの頃だ。未だ世は扶桑の根本にある。それでも何となしに外界が薄朦りとして見えるのは、雪の所為なのだろうか。
それでも障子を開け硝子戸を引き、外界を望もうとしない此の身の横着さに関口は少しだけ笑った。寒いと身を震わせればそれも当然で此の冬の最中に真裸なのである。
布団と言う暖かい領域外に塵紙が丸められて転がるのを寝惚けた目で緩慢に見遣っていた。
妻が帰ってくる前に処分しなくてはならない。
自分のものでない体液が腹の上に撒き散らされ、それを拭った名残である。
夜半まで起きていて、尚且つ衣類を身に着けて、出て行く背を見送ったのだ。厚手の外套に襟巻きをして――― 思い返す。
彼が訪うたのは霙が降り始めた頃合だった。寒くて手が悴み抱え込んだ火鉢に顎と手を翳していた、妻が今日は帰れなくなったと親類の家から電話を掛けてきた一時間ほど後のことだった。
何故あんなにあの青年は妻の不在に聡いのか。
不思議になるのだが、訊いたことは無かった。
「寒い寒い」と呟き、布団の奥へと潜り込めば矢庭に襲う眠気にこんなにすぐに睡魔に篭絡されるのに何故目覚めたのだろうとの思考も薄れつつあった。
物音がした。
玄関の戸を開く音だとはすぐに解った。
帰ってきたのか―――
全身に震えが走った。
布団を持ち上げ、身を部屋に充満した寒気に曝した。
すぐに目線は丸められた塵紙へ向けられた。
まさかそれが他の男の体液を拭われたものだとは、細君も思わぬだろうに、関口には覚醒も半ばに判然とした自体の把握ができなかったのだと後に思い返す。
框を上がり、足音は一直線に此方へと向かう。
塵紙を原稿の書き損じた反故紙と共に屑籠へ放ったならば―――。その家内の塵の一切を取り仕切っているのは妻なのである。
雪が降っているからと、計算していたのに此の時分の帰宅に、関口はその丸めた塵紙を口へ、押し込んだ。
そして食むようにすると、紙の間から関口の舌の上に。
 跫音は部屋の前で止まり、襖が開けられた。
関口は押し込んだ塵紙を口から出そうか迷い、半端に開けていた。
慌てて口を閉じた。
けれど既に遅く、その闖入者は状況把握を敏く訓練されていたのだった。

「…まずくないですか?」

勤めて冷静に訊いていた彼に、全身に毛穴が開いた。
腕に抱えていた紙袋を脇に置き、布団に膝を尽くと、そっと指を関口の口へ宛がいその口腔から唾液で表装された闖入者の体液入りの塵紙を摘出した。
そして、その塵紙を別のものへ包み込み自分の外套へ押し込んだ。
「大丈夫です。あとでちゃんと余所に棄てます」
笑うと一層その幼顔が強調される。
「それにしても、挑発的な格好ですね」
関口は昨夜彼が去って以降其儘に真裸で、跫を崩して臀部を敷き布団へ接して座り込んでいたのだ。
当然陰茎も常態のまま彼―――青木文蔵の前に曝されていた。
「まあ今更ですが、少しだけ目の毒かもしれません。仕事明けで、疲れているから」
そういうと、自分の襟巻きを外し青木は、関口の頸部に巻いた。
「っ、冷たい」
「あ、すみません。雪払ってきた心算だったんだけど」
未だ残っていたんですね。
「それだけじゃないよ。君は冷気を吸い込み過ぎてる」
現在の勤務地と関口宅では遠回りをし過ぎている。青木の下宿は水道橋にあるのだ。そう言外に伝えたのだが、青木はそんなことは気にも留めていないようだった。
「昨夜勤務途中で抜け出してきた不良刑事に言いますか?」
そう、それすら関口のジレンマであるのに。
いけないことだと思うのに、嬉しくて堪らないのだ。
「実際には署に戻らなくても良かったんで気にしないで下さい。戻ったのは小用が片付いて無かっただけで」 青木は外套を脱ぐと丸めて脇へ置いた。
「起きてください。せめて何か羽織って。火鉢の炭ももう白いし、寒いですよ。朝食を買って来ましたから、食べましょう」
「朝食?」
「ええ、駅前のパン屋。ほら教会の近くの」
「ああ、うん。そう言えば、あったね。パン屋が」
「電車は辛うじて動いていたんだけど、パン屋は未だ焼き上がっていなかったみたいで、待っている間ちょっと教会で坊主の説教なんかを聞きました」
「日曜でもないのに礼拝?」
「何でも今日は殺された男を悼む日だそうで、信徒の人が何人か居ましたね。雪の所為で出足は悪かったみたいですが」
「ふぅん、基督教の聖人かな?殉教とか」
「……中々面白い説経でしたから、食べながら話します」
お勝手借りますよ、と青木は立ち上がった。
「あ、そういえば鍵締めて下さいと言ったのに、錠をしなかったでしょう。無用心ですよ」
刑事としてのだろうか、防犯上の諸注意を口にして青木は襖を閉じた。
今日は何日だっただろうか、と曖昧に暦を思い出しながら昨夜解き放った衣類を掻き集めた。
舌の上に未だ残滓が残っている。
分泌される唾液と共に飲み込みながら、関口は首に巻かれた襟巻きに顔を埋めた。








雪は気紛れに止んだり降ったり、弱かったり強かったりしてに降っているのだと思ってください。
電化された後の国鉄が強いとは思えないけど。