薄氷−usurahi−


「たっ大変だー!!」
村の駐在所に農夫が駆け込んできた。
「かっ、かかかかぁぁぁ金森の坊がっ」
椅子を倒して警官は立ち上がった。
「金森せしむですか!」
烈しく頷く農夫を追い越して警官は歩み出した。駐在所の在る丘を一直線に下った。
初夏になる。
そろそろだとは俄かに予測していたのだ。到頭この日が来た。
 坂道を下った先には猿女の池がある。静かに鈍色を蓄えた遊水地である。
 此の村に東が赴任したのは人事の季節を大きく外れた晩秋である。愁霖の静かな秋の日だった。
本庁で選良の路を歩む筈であった。
二ヶ月に渡り世間を戦慄で賑わせた凶悪殺人事件があった。その操作の最中、東は誤って犯人を殺してしまったのだ。
誰かに殺されても当然な人物だと誰もが思っていた。
だが如何な凶悪犯であろうとも人権擁護の権利はあるといつしか話題は別の方向に進み、名前こそ明かされなかったが東の進退は窮まっていったのだ。


 一目惚れを言ったらこれほど胡散臭いこともないだろう。


村の巡邏中に東は見かけたのだ。
氷の張った未だ初冬の猿女池の水面に立つ一人の少年を。襯衣に制服の黒色のズボンを履き、裸足であった。
その後幾たびも同一人物写真を見ても美しいとも思わなかったのに、何故あの月も眩い冬の氷の上に立つ金森令に見蕩れたのか。
猿女の池の氷は誠に厚い。
真冬には大人が対岸まで歩いて渡れるのだ。春が来ても中々溶け出すことをしない。
冬の間に夜間に凍り、昼を迎えても溶け出すことも無いまま、また夜を迎える。凝固を繰り返し繰り返し次第次第に厚さを増すのだ。
 初冬に、池は未だその真中は凍りきってはいなかっただろう。
薄い氷が張っていたに過ぎない。
 東は声を掛けた。
「君!何をしているんだ!?危ないぞっ」
振り返った少年は月の白光の中で東を見て、ただ微笑んだ。
言葉を失うくらいに、彼は美しかった。
音がしていた。
細やかな音が何時までも続き、気が着いたときには、金森令の姿はその池の上から消えていた。
彼が池に吸い込まれたと言う思考にすぐに行き着いた。
だが池の氷は真中に行き着く以前に途切れていたのだ。金森令の沈んだ箇所には程遠く。
自分の保身の強さと、無力さを反復させられた。
それが誰であるのか判明するには何かしらの村人の行動を待たなくてはならなかった。
赴任したてで村人を未だ把握しきれていなかったのだ。
 村の外れに城砦を思わせる大きな屋敷が金森と言う土地持ちの金持ちであることは知っていた。
だがそもそも村人と親交を持たない閉鎖された家で、村人は勿論新任警官などまるで無視されていたのだ。その金森家から届出があったのは駐在所ではなく、本庁であった。
「失踪…、ですか?」
東の問いに和服姿の女主人はおっとりと頷いた。
「息は街の学校に通ってましてね。ああ…寮制の学校です。先生も知ってらすんじゃございません?街の人でらっしゃるんでしょう?」
名前を聞けば成る程公立の学校だった。
「あの日は偶々帰宅していたんですよ」
微笑む情景に違和を感じる。此の人では無い。誰かの。…あの少年のものである筈だ、と心に浮かぶ。
「失礼ですが…ご主人は…」
子供の大事に二親が揃わないことが奇妙だった。
「そんなもんありませんよ。私が此の屋敷の主人です。女所帯ですんでね色々至らないんで、何かと村とは疎遠にしております」
「亡くなられたのですか?」
「いいえ。私、婿取りでしてね。離縁しましたの」
「これは…失礼を」
家の深淵部が掠めた。婉然と女主人は嗤った。
「まあ…種付け馬だったら誰でも良かったんですが…コレが中々不調法な野郎でしたんですよ」
「はあ」
むすこに手を出しましたの。自分の息子ですよ?呆れた以外に何があるんです?それも未だ息は十にも満たない頃で」
明け透けに語る女主人は今にも舌打ちをしようとでも言う表情だった。
「あの…宜しければ、ご子息の写真なりとも拝見させていただけないでしょうか?」
女主人は部屋の端へ目線をやると、其処に居た老女が進み出た。
「これが、息でございます」
学校の入学記念なのか、制服を着た少年が、豪奢な椅子に腰掛けていた。
眼前の女主人とよく似た容貌だった。
「令と申します」
「やっぱり…」
東は溜息を落とした。
あの日に視た少年は矢張り此の金森の息子だったのだ。
そしてちょっと違った。
その容貌から受ける印象が。
あれほど美しいと感じた面は、平凡に、口は一文字に結んでいるだけだったのだ。
「息と面識が?」
「あ、…はい……いいえ」
金森の女主人は薄く笑った。
「どっちなんです?」
「面識と言うには余りに儚すぎたんです」
おや、と女主人は片眉を持ち上げた。 「流石に街のお人は表現が詩人ですこと。しかしそれって…どういうことでしょう?」
「…大変残念ですが、あの日見た少年はこちらの令息です……」
東は語った。あの日に見た一部始終を。
それを女主人は黙って微動もせずに聞き続けた。
「…それではあの子は夏に成るまで此処へは戻ってこないんですねぇ」
しみじみと、だが何処か安堵しているようにも聞こえた。
数日後に本庁まで出向することを取り付け、東の辞去に女主人は門まで見送りに出てきた。
「巡査の先生、」
先生と呼ばれて些か面映かった。
「あの子は…手児奈だったんですよ。あれの父親が惑ったように幾たびも同じようなことを学校で繰り返した。あの子に非はありませんよ。勝手に男が惑うのです。何人もの男に愛されて…余りに辛そうでしたねえ。そういう子だったんですよ。だから余計に苦しそうだった。でも私はあの子に男を宛がうことを辞めなかった。非情な女だと思って下さい」
東の目が次第に押し開かれていった。
事の真相を聞いて。
女主人は婉然と笑って門を閉ざした。


猿女ヶ池の薄氷の下に金森令の静かな死に顔を見たとき、東はただ呟いた。
「君が好きだ」
冰の忍びやかに割れる音が辺りに響いた。






03/04/16





令の学校は六高です。
って此処は岡山だったのか。