他郷頻夜夢 04 世界は未だ扶桑の許に在る。 何故こんな躰に生まれてしまったのか───── 嘆いたのは遠い幼い日だ。 沢山の食事をした。 腹が満ちる度に周囲の人間が入れ替わっていた。 それは満腹感と相違して、誰も彼もが目の前で一瞬にして朽ちて行ことと同義だった。 はじめは己に母がいないことを嘆いた。 父が自分の許を訪れてくれないことを嘆いた。 周囲の人々がどんどん入れ替わることに嘆いた。 折角馴染んだ人々だったのに、そんなに早く居なくなってしまうなんて、裏切られた心持だった。 誰も己を必要としてくれないのか───── そう思ったこともあった筈だ。 自分が彼らを喰っている─────と知るまでは。 口を布で覆われる時に訪れる人が居た。 縁者だと名乗った福々とした様子の男性は、自分を可愛がってくれた。 ある日彼に嘆きごとを云うと、彼は後日いなくなってしまった彼らの成れの果てを送ってくれた。 彼らの入った白い壷をが届けられた。 ─────それが酷く恐ろしかった。 暫くして一人の小さな女の子が連れて来られた。 父の子供だという話だった。 彼女は優しく笑い、その笑顔を見てもう食事をしないことを誓願した。 天地神明に。 「おい、何見てるんだ」 背後で紺のブレザーに身を包んだ少年がトーストを頬張っていた。 脇には乱れた敷布の大きな寝台があった。 「自殺願望か?」 おどけて言う彼にまさか、と笑う。 高いところを怖いと思ったことは無い。飛翔には憬れる。 「もう此処とはお別れかと思うと、少し、名残惜しい」 「まあ仕方ねえよ」 凝乎っと彼を見る。 「何だよ」 片目が眇められた。 見詰められることに居心地の悪さを感じたらしい。 「矢張りその格好は似合わないね」 「なんで?」 不満そうな声を上げた。 「とても幼く見えるし、」 「煩瑣せえ。俺はどうせ童顔だよ。未だ未だ高校生で通りますよ」 口の中にパンを詰め、トマトジュースで胃腑へ流し込んだ。 「じゃあ行こうぜ、リン」 部屋の出入り口前の大きな姿見で顔を顰めると締めていたネクタイを外す。 今時律儀な恰好をしていれば猶更目立つのだ。襟からネクタイを抜くと顔をこちらに向けた。 細く開けた厚い窓罹の狭間からは白い光が皓々と指し、彼の顔を白く浮かび上がらせた。 都心で此れだけの緑が周囲を埋めていると、此処へ射す光は月だけだった。 背後でこつりと足音がして、福々とした老翁が緩慢に振り返ると壮年の男性が立っているのを確認した。 近くの椅子へ腰掛けると、その男性にも座ることを促した。 さりとて此処の主人は此の男性なのである。 「今日の玉蟾は兎角白い、」 「ギョクセン?」 「玉の蟾と書く。月のことです」 「ほう、」 「寒さで凍えているようですな」 自分の最近特に肉置きを益した頬を緩ませ円福に笑うと、彼も少し釣られそして一瞬逡巡したようにして口を開いた。 扉の向こうで人の大声が聞こえる。蛩音は無数で限が無い。 「些か煩くて申し訳ありません」 「否、気にしないで下さい」 冷め切った茶を口に含む。 「…アレは手に入りましょうか?」 一重の切れ長の目は弧を描いたまま崩れることはない。持ち上げた口端は下がることをせず、整えられた頭髪は一糸の乱れも無い。もしこの国の国民でなかったら未だ若い壮年目の前の人物を見て、もしや与党の官房長官だとは誰も思いもしないだろう。 彼の口調はいつも冷然としていて、理路としている。周章した様子を一度として臨んだことはない。その沈着さは果たして不惑を体現している。しかしそれとて初めから彼が身につけていたものではないのだ。 それを彼に齎したのは───── 「必死で探索中です」 「或る筋より……『マーケット』が関わっているやも、と聞き及びましたが」 一瞬強張ったようにも見えたが、すぐに老翁の皺には深い笑みが益した。 「届きましたか、貴方の耳にも」 「知ってらしたのですか?」 「数年前に黄翁から直に訊ねられたことがありましてな」 日本の地下に巣喰う、巨大『マーケット』。 黄翁を中心に四方を統べる者たちがいると聞いていた。 彼らに多額の金を支払う覚悟があれば基督の骨も三本足の烏も英吉利王の聖剣も月の石も未だ朏の胎児も揃うと言う。 故に市場を彼らは自認する。 然し何分地下のことであり、概容だけは耳にするが、情報は多くない。 その中心人物と看做される黄翁から使いが来たのだ。 人を悩乱し喰らう妖物をご存知あらぬか、と。 「貴方は─────マーケットとも…?」 壮年の男の眸子に不信の色が出ずる。 「蛇の道はヘビ。餅はもち屋と申しましょう」 「なれば…!」 「此方にも互いの為に不文律の協定がありましてな。最大の盟約は互いに干渉しないことです。…貴方は未だマーケットの者と会うたことは無いでしょう?」 「ええ、」 「近々引き合わせましょう」 邸内に人の出入りする騒がしさがする。壁を隔てても隔てきれないほどに大事になっているのだ。 「死者が…百人近くに上るかもしれないと、警察庁長官が青い顔をしていました」 膝に組んだ手を置いて、顔を僅かに伏せる。 その多くが若者だという話だった。或る高校を中心とした大事件である。長々と調査を最小限にして、報道機関に漏らすことをさせなかったのが大事件になったことの原因の一旦であることは十分に解り過ぎていた。 少子化を叫ばれる中での、若者の大量殺戮。 壮年の男に身震いが走り、再び顔を上げたときにはその眸子には怯えが滲んでいた。 「…報道規制を強いていたのは…正しかったのでしょうか?」 「私が手の者を入れたあの時点ではなんの策もなかった。マーケットも連絡が取れなかったと云う。致し方のないことです」 「宗祖さま」 「此れだけの被害で済んだとお考え下さい。僅か百人の犠牲に対しあなたはもっと大きな益を得る。それは黄翁も約束してくれた」 「本当ですか?」 縋る目は弱弱しい。 「そんな顔はお止しなさい」 老翁は笑った。 「いつもは当方へいらしゃって頂いていたが、今回は此方に獏が参っている。近くあれを呼びましょう」 「…はい…」 歯が震えた。 「貴方の悪夢を喰い取って差し上げましょう。だから心配しないで」 「宗祖さま…」 扉が前触れも無く開いた。 「長官。お話中失礼致します。総理がお呼びです」 若い事務次官だった。 「…解った…すぐに行きましょう」 礼をし事務次官は忙しげに去って行く。 「早く行って差し上げなさい。もう此の騒動は終わる。たぶん犯人が捕まることは無いでしょう。貴方はマーケットに大変な恩を売ったと思えばいい」 「マーケットに?」 「ええ、そうです。だから貴方はいつもの貴方で強気でお行きなさい。道は栄えている」 老翁は柔和な目をして強く頷いた。 その老人の手を壮年の男は握り占め、伏せた額に当てた。 「さあ早く」 囁くと、顔を上げる。 其処には先刻の縋るような弱さは無い。 その姿が扉の向こうに消えるのを、白月を背にしながら眺めやっていた。 今宵の運旋は緩やかである。 01/03/06 話がでかくなってます。 つか元々大きな話なのです。 此のマーケットが本当は書きたいのですよ。 付け足したいこととかもわさわさあるんですが何処に入れたらいいのか… 次かな? そんな感じです。 |