他郷頻夜夢 04 





唐突に襖が開いた。髪の短い大柄な人物が立っていて、酷く驚いたのは其処にいた皆同様だったようだ。人の入ってきた気配は無かった。インターフォンも成らなかったし、玄関を開く気配さえなかったのに。
「飯、何?」
短くその人物は訊ねた。
ぶっきらぼうな粗雑な口調。
返答をする前に長い脚で大股に台所へ行く。
「ごめん、もう夕食始めちゃってて!一応ね、間に合うように茹でた心算だったけど…来るの遅れたでしょ。あいつら腹が減ったって煩くて」
匡は背後を追う。さながら従えるようだった。
「私たちの所為にするなよ」
野次が上がった。
「勝手に盛るよ」
闖入者は状況をまるで無視していた。
鍋の笊からオリーブの塗された黄色い麺を、食器棚から出した真白な皿に載せる。そしてもう一つの大きな鍋から赤いソースを掛けた。大蒜のスライスは薫り高く炒められ、飴色の玉葱とほどほどに崩されたトマト、一度酒蒸しにされた浅蜊、薄く切られた椎茸と軽く焦げ目の着いたベーコン。紅いスープの端に黄色く透明なオリーブオイルが浮かんでいた。極々普通のトマトスパゲティである。
匡はそれとパスタを絡め、仕上げに台所のプランターで育てているバジルの葉を摘んで乗せるのだが、そんな手を挟ませることはなかった。
茹でた時に使った菜箸を握って、居間の卓子につくことなく、スパゲッティを口に運ぶ。
「ああー!」
声が上がる。
煩瑣いと言うように軽く睨めつけ、蕎麦のように音を発てて口の中へ導入した。
然して租借も無いまま、咽喉の奥へ送り込む。
そして結構な量のスパゲティを所要時間三分も掛からず見事平らげたのだった。
まこと作り手の思いを斟酌しない喰いっぷりである。
最後の一本をつるりと口の収め飲み込むと唇を舐め、ロ愛気おくびを一つ上げた。
口の周りが真っ赤だった。
「…汚い…」
嘆く匡に追い討ちを掛けるように、その人物は彼に向き直った。
そして匡の白いパーカーの裾を掴んでたくし上げた。
「な…何?」
及び腰になる匡だったが、着物の裾を掴まれているため、逃げることは出来ない。

口を寄せる。

そして盛大に真っ赤な口の周りを拭ったのだった。
匡の絹を裂く悲鳴が上がった。





「デザートは?」
打ちひしがれ、汚れたパーカーを脱ぐ匡を微々とも忖度しなていない。
「……牛乳寒天、」
「甘い?」
「…諾」
「じゃあそれと珈琲」
店にでも来たかのように注文をして、居間へ足を向けた。
其処にいる三人のうち二人の顔が明るい。来訪を喜んでいる表情だった。
「輪、早かったね。今日で来れるなんてさ」
綾は卓子の上に置かれたポットから手ずから珈琲を淹れて渡し、長椅子の自分の右脇を空けた。開けられた隙間に、どかり、と座った。
背が高く、足が長い。冷淡な表情をしてはいたが綺麗な面をして頸が細かった。
「今日の昼に戻ったんだ。そうしてらあんたから連絡があったって聞いて、すぐに新幹線に乗った」
傍で声を聞いて確信する。
「あんた─────女か?」
西村は驚いた。
「誰?彼方そいつ
初めて輪は西村を正視した。心底厭そうな顔をして。
「西村。組の奴」
芽哉に訊かれたときのように綾は簡素に答える。否、そもそも綾は西村の説明を真面目にしたくないのかもしれないし、余りにも知らなすぎるのかもしれない。然し西村とて此処で既に三日目の滞在となるのだ。
「ふうん」
気の無い返答をして輪は珈琲の水面に息を吹きかけた。
「そうだ、此れ持ってきた」
輪は足許に置いていた黒くて長い筒状のものを綾に渡した。野球のバット入れのようなケースだった。
「有難う!レオン良い子にしてた?」
「全然」
横目で黒曜の瞳が綾を睨めつける。
「あんたそいつを甘やかし過ぎ」
「もしかして…何かした?」
怯んだ様子で気色ばんだ。顔が強張っている。
「新幹線を停めた。三十分の遅れだってよ。余程私に運ばれるのが厭だったみたい。お前も飼い主なら、もっと厳しく躾した方が良い」
「りーんー」
情けない声を出した。猫舌なのか中々輪は珈琲に口をつけることが出来ない。匡が盆に五枚の皿を持ってきた。勿論皿の上にはスプーンで掬った白い寒天が鎮座している。芽哉と綾が手を伸ばした。
「此の街、厭だな」
「輪?」
芽哉が寒天を口にしながら怪訝にした。
「抽象的なことを言えば…何か負のものが凝っている感じがする」
「ふ?」
「正負の『負』の方。……穢れ、みたいな…感じ」
「じゃあ具体的には?」
「死臭。凄く濃い、血の臭い。総じて云えば─────やな感じ」
嘯いて、漸く珈琲を口にしたが、慌てて口を離し舌の先を空気に晒した。未だ熱かったのだ。
「伊能の『それ』は何なんだ?」
「西村、伊能って今此処に四人いるんだけど」
「あ?」
「個別に呼んで貰わないと解らない」
西村は頷いた。此の『リン』と呼ばれる女も『伊能』であった。容貌などに似た要素はまるでないが、親族なのだろう。
「その、それは何だ?」
黒い筒を指差した。
「諾。レオン」
黒い筒の上部にあるジッパーを開ける。
「レオン?」
「『ヌエ』を切れる唯一の代物」
いつもの人を嘲るような様子は形を潜め、凛麗に綾は微笑んだ。
ヌエ。一昨日から幾度と無く聞いた単語である。此の家の書斎へ行き、辞書で調べたが『ヌエ』にはトラツグミに異称であるとか、平家物語に出てくるキメラの化物のことであるとか、得体の知れない人物のことであるとか記されていた。まるで要領を得ない。
ヌエとは一体なんのか。
彼らに訊こうとも思ったが素直に答えてくれないような気もして言い出せずにもいた。
その黒い筒からは、鉈が現れた。
「違う。ヌエを切れる唯一じゃなくて『ヌエを断つことができた』だろ?」
柄と刃はほぼ同じ長さをして僅かに「く」の文字を描いていた。熊に向かうマタギが腰を屈めているようでもある。刃には鞘が為されている。腰鉈と呼ばれる種類に入るものだ。
綾は鞘を抜いた。
黒い鎬に研ぎ澄まされた刃。
刃物から美しさと呼ばれるものを感じることはなかった。
西村は少し厭な気分になる。
それは肉を断絶するための、太い骨を砕破の為の、用途にしか見えなかったからだ。
獣を捌くのに適しているだろう。
重くて、少し鈍い、力を籠めて叩きつける為の冬器。
そうした意味で酷く肉感的であり、正直に言うならば─────怖い代物に見えた。
同じ刃物でも日本刀が持つ優美さや官能的なまでの鋭さは見受けられなかった。
刃の肉は厚く、その幅の広さは下品に、目の前のものをただ断つことを遂行するだけのようである。
「昔ね偉い人から名前を貰ったの。この─────鉈に」
鉈と言う綾の唇に薄い笑いが浮かんだ。
「先祖がヌエを切った褒章に「シシオウ」って言う名前を貰ったの。馬鹿みたいに大仰だろう?偉い人って何を考えているのか解らないよな。ところが此の鉈はヌエの血肉を吸ったのと、名前を貰っちゃったのでさ、意思を持っちゃったんだよね。呪を掛けられたの」
柄は幾代も人の手を経たのだろうか、黒く照っている。その柄を綾の労働をしない人間の美しい手が握っていた。
「持つ人を選ぶんだ」
「じゃあお前が選ばれたんだ?」
「とてもとても幼い頃に。そして「レオン」て名前を下して私が呪の再生を施した」
「『レオン』?シシだから?」
横で鉈を持った綾が頷く。
余りの安易さに西村は呆れた。
「昔観た映画の殺し屋の名前も掛けているんだけど」
「じゃあ、お前が…マチルダ?」
親指を立てて綾は幾度が満足そうに頷いた。
「違う。俺のナタリーはもっと可愛い」
小さく小さく西村はつぶやいたが彼の顎へ綾の鉄拳が飛んだのは言うまでも無い。
「で、その『レオン』はあんたを嫌っている訳だ、」
西村は輪を見る。
その目線を受けて、僅かに唇を吊り上げ、艶治に輪は嗤う。
「私にはヌエの臭いがするからだろうな。だから─────此の酷く下品な鉈は私を嫌う」
「輪!」
非難めいた声を上げるのは匡だった。
「余りそういうことを言っちゃ駄目だろ。輪があの島にいたのは仕方なかったことなんだから」
「テレビ着けていい?」
輪は匡の言葉をまるで無視して、誰とも無く訊いた。
「観たって面白くないわよ」
寒天を平らげた芽哉が退屈そうな声で忠告した。何故、と輪から向けられる目線に玲瓏と笑った。
「大量殺人のことばかりが話題だから」
ほら、と空を芽哉は指差す。
警察車の警鐘が鳴り響いていた。そしてヘリコプターの羽が旋回する音もする。
「そういえば駅前に人が沢山居たな」
「漸く、世間さまは騒ぎ出したばかりだから。暫くはマスコミにも新鮮な筈よ、」
そういえば最前から警鐘サイレンは鳴り響いている。だのに、輪は興味の一欠けらも惹かれなかった為に耳に入ることは無かったのだ。
「煩瑣いよな」
この防音設備の整ったマンションでさえこれだけなのだ。
「あのさ、」
と綾が切り出した。
「レオンが来たから鳥渡私学校に言って来ようと思うんだけど」
「学校?なんで?」
匡が声を上げる。
「輪じゃないから、本当に勘なんだけど、厭な予感がする。予測っていうのかな?懸念?」
「何の─────?」
目を細くして輪が冷たく訊いた。
「もし此の犯人がヌエだったとしたら、違う─────ヌエの単独犯だとしたら、もっと問題無いと思うんだよ。違う、問題無いんじゃなくて、それこそ私たちなんて問題にもならない。此の世の中でヌエの障害に成る物なんて殆ど無い。─────そうでしょう?」
綾は輪へ眸子を向ける。
「だから?」
「私は…関わっているがどうか確信は持てないけど、…ヌエだとしたら、これはヌエだけの犯行じゃない」
「あんたそういえば伝言でもそんなこと言ってたよね」
人から伝え聞いたので、輪は確かなことは把握していない。
「そう─────これはヌエの単独犯じゃない。ヌエはあんな殺し方はしない。あんな残忍な…」
「もっと凶悪な誰かが一緒にいるってこと?」
真剣に頷いた。
「凶悪な誰かだろうと、それが只人なら…こんな騒ぎが大きくなったら此の街から出て行ってしまう気がするんだ。違う?」
此の国で陰で生きている限り、騒ぎは最も厭うもののはずだ。
日の光を浴びれば全てが終わるか、はたまた闇で日を飲み込むかだ。
それならば逃げたほうが話しは早い。
「芽哉は…学校なんて論外だろうし、匡は当然連れて行けない。だから私一人で鳥渡行ってくる。犯人は学校にいた証拠を消そうとするばずだから」
「綾!」
西村が声を荒げた。
「なに?」
「お前…犯人は学校内にいるって言うのか?」
綾は芽哉と匡を見比べる。
「学校内部の人間だよ。だって奇妙しいだろ?物質的にも関係性に於いてもあの学校を中心に事件が起こるなんて。外部の人間がそんなことは出来ない。だから恐らく学校関係者の筈なんだ」
その場にいる者で誰も綾の言に驚きはしない。
其処まで考えが及んでいなかったのは西村一人であったということになる。否、彼らは互いに口に出さなくても思考を分かち合うことが出来るのかもしれない。
「三つ子の神秘ってやつか?」
西村は小さく呟いた。
顎を上げて珈琲を飲み干して、口を開いたのは輪だった。
冷めた眸子。白皙の硬質な皮膚の感覚。
彼女に温度を感じることは出来ない。
だのに、綾に向けた黒曜石のような透徹な眸子には、ほむらが埋もれて見えた。
「私も行こう」
「輪!」
「あんた一人じゃ危険だ。私も行くよ」
「輪!」
今度声を上げたのは芽哉だった。
「輪が行くのなら私が行くわ。代わりに」
「あんたには無理だろう?其処─────その学校人が沢山死んでいるんだろ?じゃあ芽哉には無理だ」
「だって─────宗祖さまから絶対に輪を近づけちゃいけないって…」
輪の目が瞠らく。
俄かに頬が紅潮してみせる。
顔中の筋肉が総動員され、頬が更に高い位置へ移動し、唇が吊り上った。
薄い唇に刷かれるは─────笑み。
妖婉として見える。
背筋が凍る程に。

「あんな妄言を吐く老人なぞ棄て置けばいい。次代の総領御自らご出馬なさるのに臣下が此処で安穏としているのも如何と、」

余りにも遜ったその科白は白地に蔑みに溢れ、途方も無い怨念が籠もっている。此処で宗祖の名なぞ出すべきではなかった。
芽哉は激しい後悔に打ち拉がれる。
嘗て何があったのか知らぬが、輪は宗祖を甚く嫌っているのだ。

─────戦慄した。








27/02/06
ファンタジーなので話し口調を軽めにしていたんですが、段々嫌気が差してきたので、変えます。
酷く安易な話なのに、色々な妄想ばかりが膨らみます。
匡の護衛に元K●Bの義兄に育てられた男がいたり。綾と犬猿の仲。
>護衛
日本語が達者で黒髪は癖毛と言うか天パで、短くしてます。瞳は日の下で見ると緑かがっているのが解る身長193cm体重95kgです。
欧州男らしくサッカーとゴルフが好き。車も。
西班牙に彼氏がいます。
「美人?優しい?」
とか綾が興味本位で聞くと
「美人だけど優しくない。此の仕事が終わったらその金でバカンス」と答えてくれます。
笑った顔が可愛いけど、睨まれるとマジ怖い人…
(何処かで聞いた人物設定だけど気にせずに)