他郷頻夜夢 02 





後頭部が薄くなってはいるが、まだ三十代後半だと言う話だった。
専門科目は音楽。マーチングで此の学校を有名にしたのは此の教師の尽力合っての話だと、転校してきた日に学長から聞いた話しだった。
担任の小此木は出席簿を手にして、小さく溜息をついた。
出席者は五人にも満たなかったのだ。
「中原先生の代理が見つからないから、自習。静かにやれよ」
小此木は苦々しく言うと教室を後にする。
「また、自習か…」
はっきりいって何をすればよいのか解らない。数学の教科書は見ても暗号が書かれているようにしか見えず、皆目見当がつかない。形式はパズルに似ているようにも見える。パズルなら得意だが、これはどうにもなじみの無いパズルだった。
「小此木もどうやって煩瑣くしろっていうのかな」
斜め後ろから声が聞こえ、綾は振り返る。
「なんか言ってることがおかしいよな?」
振り返った二人に西村は同意を求めるように顎を杓った。
教卓近くにいた男子学生が腰上げる。手には黒のデイバックを持っていて、帰る心算だということが見て取れた。余り顔色が良くなかった。黙って教室を出て行くのを見送ると綾は西村に向き直った。
「あんたは怖く無いわけ?」
「まあ、怖いっつたら怖いけどよ…。家に居ても学校に居ても一緒だろう?」
何処か諦観に似た、荒んだ口調だった。綾は渋い顔をした。
慥かに、実際訪れてみると、此の街は奇妙だった。暗い澱が凝っている。そんな不気味な気配がしたのだ。そして同じ年代のコミュニティである学校へ出向いてみれば其処は『不安』の巣窟だったのだ。皆、印で押されたような印象を受けた。人の程度の差はあれ、皆激しく痩せ、青白い顔の目の下が青紫色に色を刺していた。 誰も実際此の街で何が起こっているのか解っていないようだった。 幽鬼のような隈と、恐怖に淀んだ眸子。 彼らが知っていることは─────クラス、否、学校の関係者が次々と死んでいることだった。
 外界の冬色の蒼穹が今日は特に鮮やかに見えた。雲の流れは速く、窓硝子が時折音を発てる。裏門近くに横一列に並ぶ黒い皮の桜の樹も枝を揺らせていた。冬の西日の強さを此処に来てはじめて知った。余りにも夕日が強い日には年代ものの黄ばんだ窓罹を引く。そうすると教室が鳥の子色に満たされて酷く懐かしいような、とても心地が良いことを知った。
尤も、それを体験したのは一度きりであった。
教卓の右横のスペースでは七十pほどの高さのストーブが燃えていた。
私立であるのに然程入学金が高くないのはこうした設備の不十分さにあるようだ。
円谷と名前の書かれた金色の金物薬缶が小さな口から湯気を上げていた。
「伊能たちも面倒なときに転校して来たよな」
西村は薄く笑った。
「そうなのかな?流石にこんなことになっているなんて思わなかったけど、」
何が起こっているのか、知らせなくて良いのか、と綾は少しだけ苛立つ。けれど、大叔父は知らせても何も打開策が無い今、不安と焦燥を煽るだけだと言った。
既に上層部からは緘口令が敷かれている。
綾は自分が何処の組織のどの辺りに組み込まれているのかさえ知らない。総領も何も言わなかったし、殆どを指示する大叔父も詳しいことは何も話さなかった。
「─────夢だよ、」
「何?」
「夢を視るらしいんだ」
西村は自分の座る椅子に左膝を抱えた。
「俺は見たこと無いし、たぶん此処に来てる奴は『未だ』なんだよ」
な?と転々と散って席に着く級友クラスメイトに尋ねると、いつから聞き耳を立てていたのか皆此方を見て頷いた。西村の言う通り、此処にいる級友は特定の人々と比較して心持ち血色の良さそうな顔をしてように見えた。それは『健康体』だ。
きっと夢を視ることも無いのだろう。
凝々と西村を見返すと、西村は他の三人に手招きして、今日の出席者総勢五人が集うこととなった。
「最初はなんかノイローゼか、やばい薬でもやってるんだろって話だったんだよ」
「最初に死んだのって慥か三年の八島さんだっけ?」
池谷が言った。
「そうそう。あの人だよ、国立組だって話だったし、ノイローゼだろうって話だったよな」
「『ヤジマ』って誰?」
綾が名前を復唱すると四人が頷いた。
「いつ頃の話なの?それ、」
「十月の頭…だった?」
柘植が右隣の躑躅森に確かめる。
「だった筈だぞ。慥か中間が激悪で阿部さんにすっげー怒られたから。柘植憶えてねえの?」
躑躅森は陸上部に入っていると言った。阿部とはその顧問であると言う。
「正直憶えてない。その『ヤジマさん』っていう人の自殺にも興味無かったし。あの時はこんなことになるって思ってなかったし」
急激に蔓延した死の連鎖は、疫病のようだった。
「じゃあ本当にその『ヤジマさん』は自殺したかどうかは解らないんだ?」
四人夫々の顔を眺めやった。困惑の色が浮かんでいる。
「あの時は自殺だって話だったんだよ。警察も学校もそういってたし」
西村が言葉尻を濁した。
「精神安定剤でイっちゃって屋上から飛び降りたっ聞いたぞ、俺」
池谷が右手で頬杖を着いた。
「八島さんも夢を視たのかな?」
「さあ?夢の話が出始めたのは慥か五人目だったかな?」
「違うって。ハジメだよ。俺はハジメから聞いた」
知らない名前が出た。
「ああ、そうだ。ハジメが言ってたんだ」
「ハジメくんあの頃やばそうだったよね。『今思えば』だけど。如何にも寝てませんって言うような顔してたし」
四人は頷き合った。 「ハジメ?」
そんな人間が学校にいただろうか、と綾は顎に手を当て、名簿を思い返してみる。妹に比べ記憶力の良い方でないことが少し悔やまれる。彼女だったらもっと会話も嘖嘖と進むだろうに、もどかしい。
「伊能は知らないよ。あれ、お前が来る前だったから。あの席に座ってた梶原ハジメって奴」
西村は窓側の一番前の席を指差した。
「ブラバンやってて、」
知らない単語が出てきた。
「ブラバン?」
訊ね返すと怪訝な顔をされた。………全く『外』は未知で溢れかえっている。綾は己の無知を露呈しないよう、曖昧に笑った。
「ブラスバンド部のこと」
「何それ?」
「楽器演奏するやつだよ。渦巻いた奴とかファンファーレ鳴らす奴とかバイオリンのすげーでかいのとかそういう楽器」
西村がいうのはホルン、トランペット、コンドラバスのことだろう。
「それってオーケストラじゃないの?」
「ブラバンとオーケストラは違うだろ。たぶん。お前の中学無かったの?ブラバン」
「ああ…まあ…そんな感じ。─────で?」
怪訝に訊ねる西村に綾は目をぎこちなく目を反らし、自分の短い黒髪を梳いた。
「ほら俺たち大会の度に結構世話になるじゃんよ。ブラバンに。だからハジメとは仲悪く無かったんだよね」
「私もだわ」
「あ、俺も」 「同じく」
四者ともに手を上げた。大会と言うからには何か運動の祭典があるのだろう。綾は推測するしかない。
「だから結構ショックだったんだよなあ」
「血の海だったんでしょ?家の中」
柘植は汚らわしいというような顔をする。
「足跡とか残ってたらしいよ。指紋も」
「でも犯人見付からない訳?何やってんだろうな、警察」
四人の話を聞きながら、矢張り怪訝にするのは綾だった。どうも何かがおかしい。
「解らないな。それで『夢』がどう関係するの?」
顔を見回す。困惑とでも言うのだろうか、四人の顔に浮かぶのはそんな様子だ。
「お前─────夢が人に感染うつるってことあると思うか?」
場が静まり返った。
否が応にも此処に五人しかいないことを思い起こさせる情景だった。
「『夢が人に感染る』?」
「それも、悪夢」
夢とは睡眠中に脳内で起こる現実的な仮想体験を言う。浅い眠りに陥るレム睡眠中に見るとされ、急速眼球運動の見られる睡眠であると言う。
脳と言う明け透けな密室で、外部刺激を受けながら起こっている現実的な仮想時間である。中には夢を意識的に視ることが出来る人間もいると聞く。
然し大抵綾自身が視る夢は荒唐無稽なものばかりで、他人とそれを共有したことは無い。
「それは、皆が同じ夢を視てるって言うことでいいのかな?」
「どうなんだろ?」
柘植が頸を傾げる。
「ただ死んでった奴らが…言ってたんだよ。眠りたくないって。厭な夢を視んだって」
「そのカジワラハジメも視たって言ったの?」
「らしいぞ」
「どんな夢だって?」
「それは知らない。話さなかったなアイツ。俺が其処まで親しいってわけじゃなかったし。でも一目見りゃあれは寝てないって解ったよ。顔色、最高に悪かったもんな。隈も出来て、顔が土気色で」
夢は大脳が覚醒時と同様な活動状態を示す脳波になる。それだけ休まらないということにもなるだろう。
─────。
何か異変が起こったのかと思った。
長方形をした教室には廊下に面して二つの出入り口があって、その前方の扉が音を発てて揺れたのだ。
暫くして、扉が開く。
立て付けが悪い。
「綾ー、居るー?」
唐突に名前を呼ばれて反射的に綾は頸を巡らせた。
廊下から吹き込む冷気と共に扉には少年が立っていた。
寝起きに櫛を入れているのか疑問なぼさぼさの髪と細い肢体に高い背丈、不釣合いのような柔和な童顔。綾は目を細ませる。『それ』は片割れの一人だ。
「あんた授業は?」
我ながら保護者のような口調を自覚した。その所為か片割れの顔は少しだけ拗ねた顔をする。
「解るだろ?自習。授業するには人が少なすぎだよ」
綾の肩越しに一箇所に集まっている六人を見ると、笑った。
「自分たちだって一緒じゃん、車座になってさ。何やってんの?」
「伊能さん、誰?」
柘植が訊ねた。
「諾、うん。これ私の弟ね、伊能匡って言うの」
「へえ三つ子の一人?」
感心したような表情を向けられた。然し本来感心するべきは三姉弟ではなく、寧ろ産んだ母親だろう。
「そう、うちの末っ子。匡、扉閉めておいで。寒い」
従順に匡は頷くと数歩戻って扉を閉めた。
「伊能、妹どうしたんだよ、妹」
「芽哉はねえ」
戻ってきた匡に綾は自分の前の席を促す。そして左横を向いて皆の顔を見た。
「初日に来たっきりじゃん。…あ…もしかして…『夢』感染った?」
「それは無い」
断言する綾を不審そうに見る。匡は少しだけ居心地が悪そうにした。その弟の様子に脚を軽く蹴った。
「何で?」
「私たち、夢は見ないの。まあいいだろ。芽哉のことは、」
「可愛いじゃん、メヤちゃん」
「あれは人の手に追えないよ」
綾が自嘲気味に言う。少なくとも姉の目から見た妹は誰より尊大で、そしてその体質は繊細と言ってしまえば聞こえは良いが、酷い神経質だ。
「僕のとこ、今日三人だったんだ。なのにさあ先刻二人帰っちゃってさあ。僕一人なんだよ、」
「何処も一緒だよねえ。こんな時に学校来たくないよね」
柘植は溜息を吐いた。苦渋の表情が垣間見える。
いつ自分が同じ状態に陥るのか─────それは解らないのだ。
極度の緊張状態が見て取れた。
「車座になって何の話してたの?」
一人太平楽な顔をした匡が割り込んだ。
「この学校状態の原因」
冷たく綾があしらう。
「僕も色々考えてたけどやっぱりなんか変だよねえ」
思わず項垂れた。
此の人が死に捲くる状態が奇妙しくないとは誰もいえないだろう。 しかし匡の何より気の抜けた口調こそ問題だった。
「お前って…やっぱり莫迦!馬鹿!単純!」
姉は口吻泡を飛ばす勢いで悪口を投げつけ、皆は哀れみの目を匡へ向けた。
「まあコイツはいいや。それで?夢が感染った人が次に死ぬ。それならなんでハジメは殺されたの?」
「ハジメくんは、殺されてないよ」
柘植が言った。
「え?」
目線が知らず鋭くなっていたかもしれない。柘植が目を反らした。
「ハジメくんの『親』が殺されてたの。二人とも。その血が凄かったらしいんだ。リビングの床一面埋めてたって言うの。ハジメくんはその血の中で頓死してたの」
眉を顰める。
「頓、死?」
綾の雰囲気が変わった。空気が冷たく張り詰め、体感温度が下がったような感覚に西村、池谷、柘植、躑躅森は思わず怯んだ。
「そ、それがこの一連の怪談染みた話なんだよな」
知ったような口調をする縁無し眼鏡の男を見た。
「い、池谷、それどういうこと?」
柘植は右隣の池谷を見た。
「ずっとおかしいなって思ってたんだよ。腑に落ちないって言うか。死亡のそれがさ、一貫してないんだよ。夢を見ることだけが共通していて、死亡原因は自殺したり殺されたり自然死だったりして一貫性が無い。最終的にはどんな死に方でも死ねばいいのかって話になる。もしこれが誰か呪いとかだったら手段だけはみんな一緒でもいいような気がするんだよな。鈴木光司のリングシリーズだったら一週間後に皆凄い表情でとか、天然痘の復活とかだし。でもこれは、そんな共通項もなくて、なんだか性質の悪い冗談に付き合ってるみたいだ」
「でもその論で行くと、個々の事件は別個だって考えた方がいいってことにならない?」
「別個?」
池谷の問いに綾は頷く。
「まるで関係なく、人がどんどん死んでるって。それは偶々ほんとに偶然、殺人と自殺と頓死が頻発して同時に此の街で此の学校の周辺で起こっているだけで、まるで関連性がないってことにならないかな?」
「でもそれはおかしいよ!そんな偶然がいくつも重なるなんて有り得ない!」
柘植が声を荒げて言った。四人から次第次第に余裕が消える。
「どこかの刑務所から大量脱走犯が入り込んでるとかでもなくちゃ」
「荒唐無稽だな。…でも…それだったら、少し納得できる」
「警察は動いているんでしょ?」
「勿論。パトカーのサイレン聞こえない日なんか無えよ」
西村が頭を掻いた。
「でも、ほらみんな夢を視てるじゃない。『夢の感染』!共通してるって」
「でも夢なんて自分の申告制だしな。他人が覗けるもんじゃ無えし。死んだ五十人以上の人たちが皆夢見てるかなんて解らないぜ?第一そんなこと、警察は相手にしない」
「どっちが荒唐無稽だと思う?」
綾が両手の人差し指を上げつつ訊いた。
「偶然に人が全く個々に死んでいっているって考えるのと、夢とか呪いとかであるって言うのと」
その質問に沈黙が答える。どちらも有り得ないほどに荒唐無稽だ。
実に馬鹿馬鹿しい空言に聞こえる。
然し、確実に今も此の街で、此の学校の周辺で人が死んでいる。
どんどん寒々しく、恐ろしい話になって行く。
人の死の話題をこんなに軽々しく口の端に載せたのも初めてだった。然しそれはすぐ其処まで死の影が忍び寄っていると言う証左でもある。
つまり─────他人事ではないのだ。
冬風に窓硝子が揺れた。
勿論、これが本当にただの殺人事件であったならば、綾も匡も無事では済まない。
殺されれば終わりなのだ。
綾は机に載せた右手を握った。
「怪談て言えば俺、八島さんの時、変な話聞いたわ」
躑躅森が呟いた。
「な、何んだよ、」
大儀そうに西村が視線だけを躑躅森に向けて話を促した。
「八島さんが屋上から落ちた時、二組体育だったんだよ。ソフト。二組に細谷っていたじゃん」
綾は細谷と言う人物は知らない。
だが躑躅森が過去形で言ったことでその人物が鬼籍の人だということを察した。
「俺一年の時、一緒の組でさ。細谷に聞いたんだよ」
「何を?」
「アイツ、その時ショート守ってて、丁度打ち上げられたらしいんだ。その飛んで来るボールを目で追ってる時に、八島さん落ちたらしいんだわ。勿論その時はその自殺した人が『八島』なんて人だとは知らない。その時にさ屋上に他に誰かがいたって言うんだよ、アイツ」
バッターは校舎に背を向けている。よって守備は校舎を眺めていることになる。
「誰か?」
西村の口調が少し強められた。
躑躅森はゆっくり頷く。
細谷は八島の投身に気がつくと、ボールを視界から見失い、取り損ねた。一瞬味方から野次が跳んだ。
「背後に落ちたボールを見て、もう一度校舎の方を見たら、窓から生徒は顔を出すし、大騒ぎになってさ。また屋上見たら─────誰も居なかったんだって」
此処から、短い声が上がる。流石に背筋が冷たくなった。
「そりゃ、出ってたんだろう?あ、でも…じゃあさ、八島さんのも、自殺じゃないって…ことか?」
六人はそれぞれの顔を見渡した。
恐怖の色に染まりつつある。
「さあ─────どうなんだろうな、」
「待って!それだと、益々奇妙しいことになるんだけど!」
柘植が西村に目を向けた。彼女の目は険しい。恐怖にが浮かんでいる。
「屋上って出ちゃいけないじゃない。っていうか実質出られないじゃん!」
「あ、そうかあそこ鍵掛かってるよな、」
「八島さんが飛び降りた時も、あそこ…鍵掛かってたんだよ?」
窓から見える向かいの校舎がその現場である。西村は自殺直後鍵をどうやって開けたのか推理小説紛いの話題が挙がっていたことを思い出した。八島は鍵を持っていなかったらしい。それどころか鍵は職員室の所定の鍵箱の中に収められていたのだ。
静謐が満ちる。

誰かの唾液を嚥下する音が聞こえた。

静謐が場を覆った。
「あ…私、もう帰ろっかな」
柘植が顔を白くしつつ言った。躰が小刻みに震えていた。
「じゃあ、俺も」
池谷が腰を上げる。躑躅森もそれに続いた。
三人は顔を紙のように白くして手を振りつつ颯颯と出て行った。
「お前らは帰んないの?」
机にうつ伏せになると、西村は三つ子の二人に訊いた。
「西村は?」
「俺、帰っても一人だもん」
綾と匡は顔を見合わせる。
「一人?なんで?」
「そう。両親と弟は九州だし、俺部活あるからさ、着いて行かなかったんだよ」
「部活何入ってるの?」
「ラグビー部。二回靭帯切る怪我してるのが誇りです」
上肢を起こして然も誇らしげに脚を三回叩いた。
その様子に心底呆れ「…馬鹿?」と訊いた。 「まあそんな感じデスね」
肩を竦める。
「綾、家に呼ぼうか?」
「は?」と同時に発音したのは綾と西村だった。 「どうせもう授業も無いよ。先生たちもやる気ないみたいだし、四組も僕一人で、一組も綾とコイツ二人じゃね」
既に学校の態を為していない。だのにいつまで休校にもせず、こんな状態で教育委員会は放って置くのか。
「芽哉、厭がら無いかな?」
「僕たちが学校来てるんだから一緒だよ。それに、僕たちが此処に中々慣れもしないで、手を拱いているよりずっといい」
「あんたは?」
「大丈夫だよ」
匡は微笑んだ。そしてこの姉弟の間では家に西村を招くことが決定したのだった。
「つーか待て。俺の意見は?」








暗室くらがりだった。
瞬き一つ、燈一つ無い。
此処は、黄泉還る莫れと重石のされた棺の中か─────。
未だ宇宙せかいも目醒めぬ暘谷ようこく虞淵ぐえんの底か─────。
日に灼き尽くされた?ひかげの内か─────。

錯覚する。

否それが錯覚だと知ったのは微かな振動を伝える空調に乗って鼻腔を弄った臭いの為だった。
「血の臭いがする─────」
死臭には敏感なのだ。
「御免。起こしちゃった?」
声に現つを思い出す。
此処は棺の中でも深い水底でも蔭の中でもない。
ただの分厚い遮光窓罹に覆われた暗室の中に過ぎないのだ。
目を開き身を起こすと人工的に作り出された暗がりに、仄白く人が浮かび上がっていた。
「否、睡っては居なかったから」
「あんた満腹になったんじゃないの?」
死臭を纏わり尽かせた少年は楽しそうに笑った。実際腹が膨れれば何処でも眠りそうになるのだ。
然しそれには沈黙で答えだ。
「諾─────成程。今度は腹がいっぱいで睡れないわけねえ」
彼の笑う声は酷く軽薄だ。
知り合った当初は酷くそれが気に障ったと言うよりも悲しくなったが、次第にそれが彼の笑い方と認識するとそれさえ慕わしいように感じるのだから不思議なものだ。
少し人を侮った、彼特有の笑いだと言うのに。
「君はマーケットの集まりじゃなかったのか?だのに血の臭いなんかさせて」 「なんだか浮気を問い詰められる旦那の気分だな。安心しろよ。勿論ちゃあんと行ったさ。白妙が煩くって困った。黄翁がそろそろやばそうってな感じくらいで大して面白くもなかったけど。俺がいないと話にならないからな。余り退屈だったんで、帰りに少しだけ羽目を外させて貰った」
「それだけ?」
「そうだなあ。後は青陽に叱られた。あんまやりすぎんなって」
「じゃあ…そろそろ止めた方がいいな」
また躰を敷布の上に横たえ、躰を少し丸めて足許の彼を見る。大きな寝台の半分は未だ真新で少し冷たい。
「俺はもう少し続けたいな」
少年じみた声の人物はネクタイを解いて、靴下を脱いだ。それだけで開放感がある。肩と頸を回した。
「…似合わない」
「ん?俺様の御召し物?」
「諾。君はそれに嵌る人間じゃないよ。やっぱり」
世界と言う枠から逸脱している。
「夜目が利くよなあ、やっぱ。あんた。猛禽類は伊達じゃないね」
揶揄した。
「颯々と風呂に入って来いよ。私は先に寝てる」
「何だ、待っててくれたんだ。寂しかった?」
一人でいることには慣れていなかったが、正直に孤独が寂しいと告白するには歳を取り過ぎているだろう。
「否、睡れなかっただけだよ」
ふぅん、と言う冷淡な声が聞こえる。
「まあ良いや、横空けといてね」
風呂場への扉を開けると其処だけが四角く、白い。一瞬その少年のような姿が照らし出されて、すぐに扉に遮られた。
すぐに扉の向こうから放水の音が聞こえ、目を瞑った。
水の音は慕わしい。
いつも水の音を聞いて眠っていたのだ。孤独も歓びも水音と共に合った。
そして隣に人がいなければ寝付かれないというのも真実だった。
温もりが欲しい。
深く息を吐くと目を閉じた。