他郷頻夜夢 01 タゴウニテシキリヨルノユメヲミル





山中の湖は冷冽れいれつである。
故にそれを咸池かんちと呼ぶ。
その只中に浮嶋がある。
故にそれを昆吾こんごと呼ぶ。

十分余りあれば一周出来る広さだろう。二十万平方メートルの小さな敷地である。木々に覆われた島には小さな船着場があった鳥瞰した限り、まるで人の手が入っていないように見えるが、その船着場こそ其処に人がいる証左だった。桟橋を少し行けば平屋の家がある。島の四分の三を占めるは入母屋と瀟洒な数寄な造りであった。
ただその家には窓がないことを、見る者が見れば不審に思うだろう。
そもそも人が訪うことこそ稀なのだ。


徒に風の作る細波と木々の騒めき。――――静寂に悲鳴が轟いた。


青年はそっと目の前の少女の頭部から手を離した。少女は膝が崩れ、その場に尻を着いた。穏やかな面はまるで揺らぐことがない、ただ頬が僅かに赤味を増して、口を手で押さえ、おくを一つ漏らしたのだった。
少女の表情は微動だにしない。
恐怖に。
そんな青年の様子を初めて見たのだ。
今までそんな満足した姿は絶無だった。
だのに―――――


凍りついた少女の顔を覗き込むと青年は少し悲しそうな顔をして頸を傾いだ。
音も無く身を翻す。
そして歩みだした。
彼の行く手には三体の屍が落ちている。
骨と皮になって、魚の干物に似ている。
瞼を開いた儘の姿は、眼球が黒ずんで萎んでいた。
もいでから日にちを過ぎたバナナの皮のようである。
彼はその三体を黙殺し、そのまま歩を進める。
「待って…」
静寂にどれだけ声が小さかろうと、声が届かないことなどありえない。
膝に力が入らず、中々立ち上がれ無かった。
「待って、待って…輪!」
青年の名を呼んだ。
「輪!」
堪らず立ち上がる。
走る。
青年の行く手は壁である。其処で此の屋敷の廊下は行き止まるのだ。
手を伸ばした。
あと、本の数ミリで指先が触れる―――――


霧散した。


指は、手は、虚空を掻く。


そして勢いに壁にぶつかった。不快な壁の漆喰の感触。額を壁に擦り付け、彼女――――輪は泣いた。
彼はもう…戻ってこないだろう。
自由になったのだ。








「人が死ぬ?」
「諾、」
老翁の言葉に溜息を着いて、顔中そばかすの髪の短い少女は白地に呆れた様子で長椅子に背を凭れた。
「なんだ、厭なのか?」
「あのねえ、人は死ぬもんなの!何をそんなに騒ぎ立てるのか解らない」
今度呆れた様子を見せるのは老翁だった。
「此れだからお嬢さん育ちは」
「何か言った?」
「勿論人は死ぬだろう。死なないほうが怖い存在だ。そうではなく、余りにも数多の人間が或る時期に纏まって死んだら奇妙しいだろう?」
「知ってる。それ。大殺戮って言うんでしょう?」
「そうだ」
「医師団を編成したほうがいいんじゃないのかしら?」
隣にいた少女が嫋やかに笑んだ。
「明らかに、病気によるものじゃない」
少し頬杖を尽き考えるような仕草をする。
「―――――証拠は?」
「殺人だ。あれは。事故にも見えるが。此処に写真があるが…見るか?」
「いらない。血だらけで人が死んでるとこなんて見たくない。そうじゃなくってね!」
「綾はそれが『鵺』なのかどうか訊いているんですよ。大叔父さん」
綾と呼ばれた短髪の少女は隣の少女に人差し指を向けて「その通り!」と真顔で言った。
「そういうこと。どうなの?」
卓子に身を乗り出した。
「…幾つかの死体の中に、解せないものが混じっている」
「と言うと、」
「干物だよ。あれは人間のな」
「七年前と同じ?」
二人の少女から覗き込まれ、少し老翁は身動たじろぐ。次代の総領と目される二人には、その育ちも相俟って、若年ながら侮りがたい何かがあるのだった。
「私の見た限りでは、な」
綾は立ち上がり、ブーツのつま先を卓子の端にかける。そして何かを振り払いでもするかのように手を返した。
「おっけー!出向こうじゃないの!初めての外の長期滞在よ!芽哉、婆に電話。あ、匡にも」
「はいはーい」
軽い声を上げると芽哉は携帯電話を取り出し耳に宛がった。
「……大丈夫なんだろうな……」
余りに軽いのりに老翁の顔が不安と歪む。
「まっかして頂戴!見事トッ捕まえてくれようじゃないの」
綾はそばかすの面で不適に笑う。








門扉を開け、ささやかな前栽を抜けると玄関がある。戸を引き屋内へ身を入れると変な気分に陥った。
「ただいま…」
頸を傾げる。
上がり框に腰掛ける。すぐ横に手入れのされた男物の大きな皮靴が置かれていた。もう一つはスニーカーである。
誰の――――靴だろうか。
「…友達…?」
呟き、靴を脱ぐ。
母の帰宅は7時過ぎが常で、父は8時に帰る。残業や付き合いの飲みによっては帰宅時間は変わるが、何もなければ概ねそんな時間帯だ。
然し屋内には人の気配がする。
「お帰り、」
若い男の声が掛かる。
「あ、」
一瞬地面が揺れたのかと思った。
「どうした?久しぶりの兄には挨拶もしないのか」
柔和な顔が不図微笑んだ。
「鳥渡眩暈したんだよ…。あ…お帰り……」
「友達?」
黒い靴下を履いた足は四つ並んでいた。
「そう、黒人」
背後には未だ幼い面影の残る男がにやにやと笑いながら立っていた。長い前髪である。
「こんにちは、お兄さんにはお世話になってます」
「どうも…」
初対面の人間に馴れ馴れしくされるのは少し苦手だった。それも年上となると余計である。
「あれ。あの、怪我してるんですか?」
二人の背後には赤いの足跡が見えた。
黒い靴下でよく解らないが、怪我でもしているのだろう。
二人は自分の背後を振り返った。
「ああ…」
「ほんとだ、血の痕だね」
軽妙に黒人と呼ばれた前髪の長い男は言う。
「ちょっと救急箱見てくるよ、どこか座ってて」
二人の横を過ぎて、居間へ脚を進める。
「ハジメ、」
兄は呼んだ。
「何?」
振り返ると彼は微笑んだ。
「気をつけて、」
この先に硝子片でも落ちているのだろうか。それを誤って踏んでしまい、足から血が出たのだろう。そう考えると辻褄があった。 居間の襖へ手を掛ける。
「ハジメ、」
「…何?」
黒人から呼び捨てにされて少し居心地が悪い。
「ハジメってどう書くの?一?それとも創世記の創?」
「違う。春って書く。春で、ハジメ」
近くの神社の神主に着けて貰った名前であると聞いた。諸物の根源、一年の始まり、物事の隆盛になることを春と言うのだ。小学生のときなどはからかわれもしたが、今はいい名前だと胸を張れる。
此の家の長男だから、と―――――
「え…」
小さく声を上げた。
玄関先からの…奇妙な心持。何かが違うと言う…違和感。今日は何日だっただろうか、と頸を傾げる。二月十二日。昨日は友達の誕生日だった。土曜で部活の帰りに祝ってやったのだ。お陰で今日は二日酔いで部活を走る羽目になったのだから。
今日は日曜日。
父親も母親も家に居るはずだ。
だのに、静まり返っている、屋内。
―――――そもそも、自分に兄弟など居ただろうか―――――
居間の襖を開ける。
足元まで赤い液体が迫っていた。
白い腕が転がっている。
掌が上を向き。
そこに仰向けに見る顔は
「母さん…」
思わず二人の方を見ると、黒人は耳を塞いでいた。
もう一人の男は、少しだけ困ったように笑って、口を開いた。空気を吸い込む。
そして、鳴いた声を聞いた。
声も無き。