他郷頻夜夢 タゴウニテシキリヨルユメヲミル


近衞こんゑの院の御時、よなよなおびえさせらるゝ事があつたによつて、種々の御祈祷どもがあつたれども、しるしもなうて、人が申したは「とう三條の森から黑雲が一むらたつて來て、御殿に蔽へば、その時必ずおびえさせらるゝ。《と申す。「これは何としてよからう事ぞ。《と公卿僉議あつて、「所詮源平のつはものゝ中に然るべいものを召して警護をさせられうず。《と定められた。昔も堀河の天皇と申したが、そのやうにおびえさせらるる事があつたに、その時の將軍義家を召さるゝに、義家は紺色の狩衣に、塗籠籐の弓をもつて、山鳥の尾ではいだとがり矢を二筋とりそへて、南殿の大床に伺候して、御惱の時に臨うで、弦音つるおとをば三度ちやうやよどして、そののちお前の方を睨うで「義家。《と高聲かうしやうに吊のられたれば、聞く人も身の毛がよだつて、御惱もおこたらせられたによつて、「すなはちこの例にまかせて警護あらうずる。《とて頼政を選みだされて參らするが、「われは武勇の家に生れて、群に抽んでて召さるゝことは家の面目なれども、たゞし朝家の武士を召さるゝは、叛逆の者を平げ、違勅の者をほろぼすためぢやに、『目に見えぬ變化のものを仕れ。』とある勅諚こそ、然るべいともおぼえね。《とつぶやいて出られたと申す。頼政は薄青の狩衣に滋籐の弓をもつて、これも山鳥の尾ではいだ尖り矢を二筋取りそへて、頼みきつた郎黨には猪の早太といふものを只一人つれて、夜ふけ、人も靜まつてから、さまざまに世間を伺ひみるほどに、日頃人のいふにたがはず、東三条の森のかたから、例の一むら、雲が來て御殿の上に五條ばかりたなびいて、雲の中に怪しいものゝ姿があるを頼政見て、「これを射搊ずるものならば、世にあらうずる身とも覺えぬ。《と心の底に思ひさだめて、とがり矢をとつて番うて、しばしたもつて、ひやうど射たれば、手應へがしてふつとなるが、やがて矢たちながら、南の小庭にどうと落ちたを、猪の早太つゝとよつて、取つておさへて五刀いつかたなまで刺いた。
その時上下の人々火をともしこれをみるに、かしらは猿、むくろは蛇じや、足手は虎の姿で、なく聲はぬえに似てござる。「これはごかいによといふものぢや。《と申す。主上しゆしやうも御感のあまりに獅子王といふ御劒を頼政に下さるゝを、頼長と申す人がこれを取次いで頼政に下さるゝとて、頃は卯月はじめのことであつたれば、雲居にほとゝぎすが二聲三聲ほど音づれて過ぐれば、頼長、
ほとゝぎす雲居に吊をやあぐるらん
と仰せかけられたれば、頼政右の膝をつき、左の袖をひろげて、月を傍目そばめにかけ、弓を脇挾わきばさうで、
弓張月のいるにまかせて
と仕つて、御劒を賜はつて罷出でられた。「弓矢の道に長ぜらるゝのみならず、歌道にもすぐれた人ぢや。《と仰せられて、皆感じさせられたと申す。さてこの變化のものをば、空舟うつほぶねに入れて流されたときこえた。頼政は伊豆國を下されて、子息の仲綱は受領じゆりやうせられ、我身は丹波の五箇の庄、若狹の東宮河ひがしみやがはを知行して、さてあらうずる人が、由ない事を思ひ企てゝ、我身も子孫も滅びられた事は、まことにあさましい次第でござつた。

新村出 序並閲、龜井高孝 飜字
『天草本平家物語』(岩波書店 1927.6.28)
Taiju's Notebook some uesful textsより転載



鵼は深山にすめる化鳥けてふなり。源三位頼政、頭は猿、足手は虎、尾はくちなはのごとき異物を射おとせしに、なく声の鵼に似たればとて、ぬえと吊づけしならん。
鳥山石燕 画図百鬼夜行(国書刊行会)


元弘三年七月に改元有て建武に被移。是は後漢光武、治王莽之乱再続漢世佳例也とて、漢朝の年号を被摸けるとかや。今年天下に疫癘有て、病死する者甚多し。是のみならず、其秋の比より紫宸殿の上に怪鳥出来て、「いつまで/\。《とぞ鳴ける。其声響雲驚眠。聞人皆無上忌恐。即諸卿相議して曰、「異国の昔、尭の代に九の日出たりしを、■と云ける者承て、八の日を射落せり。我朝の古、堀川院の御在位時、有反化物、奉悩君しをば、前陸奥守義家承て、殿上の下口に候、三度弦音を鳴して鎮之。又近衛院の御在位の時、鵺と云鳥の雲中に翔て鳴しをば、源三位頼政卿蒙勅、射落したりし例あれば、源氏の中に誰か可射候者有。《と被尋けれ共、射はづしたらば生涯の恥辱と思けるにや、我承らんと申者無りけり。「さらば上北面・諸庭の侍共中に誰かさりぬべき者有。《と御尋有けるに、「二条関白左大臣殿の被召仕候、隠岐次郎左衛門広有と申者こそ、其器に堪たる者にて候へ。《と被申ければ、軈召之とて広有をぞ被召ける。広有承勅定鈴間辺に候けるが、げにも此鳥蚊の睫に巣くうなる■螟の如く少て上及矢も、虚空の外に翔飛ばゞ叶まじ。目に見ゆる程の鳥にて、矢懸りならんずるに、何事ありとも射はづすまじき物をと思ければ、一義も上申畏て領掌す。則下人に持せたる弓与矢を執寄て、孫廂の陰に立隠て、此鳥の有様を伺見るに、八月十七夜の月殊に晴渡て、虚空清明たるに、大内山の上に黒雲一群懸て、鳥啼こと荐也。鳴時口より火炎を吐歟と覚て、声の内より電して、其光御簾の内へ散徹す。広有此鳥の在所を能々見課て、弓押張り弦くひしめして、流鏑矢を差番て立向へば、主上は南殿に出御成て叡覧あり。関白殿下・左右の大将・大中紊言・八座・七弁・八省輔・諸家の侍、堂上堂下に連袖、文武百官見之、如何が有んずらんとかたづを呑で拳手。広有已に立向て、欲引弓けるが、聊思案する様有げにて、流鏑にすげたる狩俣を抜て打捨、二人張に十二束二伏、きり/\と引しぼりて無左右上放之、待鳥啼声たりける。此鳥例より飛下、紫宸殿の上に二十丈許が程に鳴ける処を聞清して、弦音高く兵と放つ。鏑紫宸殿の上を鳴り響し、雲の間に手答して、何とは上知、大盤石の如落懸聞へて、仁寿殿の軒の上より、ふたへに竹台の前へぞ落たりける。堂上堂下一同に、「あ射たり/\。《と感ずる声、半時許のゝめいて、且は上云休けり。衛士の司に松明を高く捕せて是を御覧ずるに、頭は如人して、身は蛇の形也。嘴の前曲て歯如鋸生違。両の足に長距有て、利如剣。羽崎を延て見之、長一丈六尺也。「さても広有射ける時、俄に雁俣を抜て捨つるは何ぞ。《と御尋有ければ、広有畏て、「此鳥当御殿上鳴候つる間、仕て候はんずる矢の落候はん時、宮殿の上に立候はんずるが禁忌しさに、雁俣をば抜て捨つるにて候。《と申ければ、主上弥叡感有て、其夜軈て広有を被成五位、次の日因幡国に大庄二箇所賜てけり。弓矢取の面目、後代までの吊誉也。

太平記 巻十二 広有射怪鳥事


太平記・国民文庫本・巻十四 日本文学電子図書館より転載



猿楽の始祖秦川勝はうつぼ船にのせられ、川下で荒神となれり

恵明的うろ覚え書き 風姿花伝 世阿弥にでてます…
あとで乗せます。