蝋梅の花
白い琺瑯に蒼い縁取りをされた洗面器から頭を上げると、薄く開いた窓から薬品の臭気の中に花の匂いが混じった。 台に掛けておいたタオルを項垂れたままの姿勢で頭に載せ、手でがりがりと掻くように髪の水気を拭った。 中庭越しに向かいの棟の明かりが未だ着いていることを確認すると窓を閉めた。 鏡を見ると生え際まで綺麗な金色に成っていて少しだけ満足する。その代わり幾度と無く脱色剤に浸かった髪の先は何だか人の毛髪とは思えない質感を見せていた。医者に止められて今は両の耳に計二つのピアスしか見当たらないことが少しだけ不満だった。 廊下で身震いを一つみせると足早に自室へ向った。旧い家屋の廊下は兎角凍えるようだ。 雨戸を鎖して木製の框の硝子戸をと障子を閉めた。 此の部屋からも向いの仕事場の棟の明かりが見えた。 時計を見れば午前二時を指していたが、未だ仕事中のようであった。 「程々にな」 と呟いて、南雲は床を延べると傍にあった積み上がった本のうち一番上の本を膝に置いてドライヤーを手に取り髪を乾かし始めた。 曜日の兼ね合いで冬至の翌日から冬期休暇に入ることになった。 佐々南雲は成績表を眺めやると少しだけ心が弾んでいるのを自覚した。長い休暇は矢張り魅力的である。 「佐々ー、」 保健委員の女塚と云う体長185cmの巨人に呼びかけられた。140cmちょっとしかない南雲には遥かな巨人だ。一瞥も呉れない南雲の前に女塚が立つと、金髪の少女は漸うとニュートンから顔を上げた。 「何?」 「俺今保健室行ってたんだけど、保健医が来るようにって云ってたぞ」 少しだけ首を傾いだ。 「用件は?」 「俺に訊くなよ。俺は言付かっただけなんだから」 「…なんて云うか…正直面倒…」 「お前ら別れたんじゃなかったのか?」 衆知のことである。 「彼奴ロリコンだよ?もう私は守備範囲じゃないって」 受験を年明けに控えた南雲たちは到底あの保健医の眼中にはない。 「なんだっけなあ。なんか忘れてたかな…?尿検査の再提出?否、あれは…四月の話だし…」 南雲は学期年頭に行われた尿検査で蛋白質がどうとか言う結果が出て再提出を受けていた。 「辞めて!そんな話知りたくないから」女塚は耳を塞いだ。女子学生に夢を見たい年頃なのかもしれない。 「伝えたからな」 南雲は些か怪訝な表情の儘机に置いたニュートンの表紙を眺めやった。 保健室は職員室の左脇、初代校長の胸像を挟んだ処にあった。 「せんせー、佐々南雲ただいま参りました」 机に突っ伏していた保健医福山卓郎は慌てて顔を上げ眼鏡を掛けた。此の男は眼鏡が無ければ本当に世の中が見えないらしい。 「あ…え…あ、いらっしゃい。佐々さん」 少しだけはにかんで保健医は微笑した。 「あ、また髪染めたね?」 「違います。ぬいたんです」 「…女の子が使う単語じゃないよ?」 「先生、セクハラですか?てか下品です。ロリコンのくせに。しかっし、先生てなぁ大変だねえ。未だ仕事なんて。私絶対教師にはならないわ、」 保健医の涎が少しだけ着いた書類を抓み上げた。慌てて福山はそれを奪い返し、足許に合った電気ストーブに翳した。 「解ってるなら虐めるなよ」 「虐められる隙が有る方が悪いのよ?妹さんお元気?」 「うん、多分ね」 「曖・昧」 「仕方ないだろう?あの娘は実家なんだから」 「まあねえ、私も親だったら、ロリコンとは一緒にしたくないよ、ねえ?」 顎を上げてにっこりと南雲は笑った。 「五月蝿いなあ。そうじゃなくて、母があの娘を引き取っているんだよ。僕じゃなくて」 「お母さん大丈夫だったの?」 「何だか君のことを信望しているよ。煩瑣いくらい。君、宗教開けば?」 「じゃあ…大丈夫なんだ。あんな処見ちゃってるから凄いことになったんじゃないかって心配だったの」 「当初はね。でも疾うの昔にあの人は父のこと見限ってたし、あの娘には可哀想だけど女の子って言う玩具が出来て生活に張り合いがあるみたいだよ」 「…じゃあ、まあいいか」 湯気が立上るカップを持った腕が南雲の前に翳された。 「珈琲、」 「どもども、有難う」 受け取り二三すすって南雲は「で」と継いだ。 「で、何の用件?」 「う…ん…」 保健医も自分のカップで珈琲をすすった。眉間に皺が寄っている。咽喉が動いて珈琲が嚥下される。 「君の隣人に用があるんだよ」 「嫌だ!先生、到頭ロリだけじゃなくてショタもですか!?」 白地に南雲は黄色い声を出して囃し立てた。 「違う!何だよ、やだって」 声を荒げた。そして大きく呼吸を一つした。否、溜息か。 「そうじゃなくて…君、親しいだろう?」 「まあ…昔は能く一緒に遊びましたけど」 「もう退院してる筈なんだよ」 「はあ」 また南雲は珈琲をすすった。 「でも先生、今日終業式ですよ。連絡着けるのはいいけど…。駄目じゃん。報告できないじゃん」 「…傍にいてやって欲しいんだよ」 「は?」 「君が傍に居れば迂闊なことも無いだろう」 「それは…どうかなあ?」 薄く笑って南雲は頸を傾いだ。 「なんで?」 「あの子、恋愛中毒だもん」 保健養護教諭福山卓郎は大きく溜息を着いた。 百合屋と言う俳号か何かのような屋号の畳屋は専ら寺院を主な顧客として持つ旧い商家であった。区画整理などで嘗て店舗として使っていた土間や框などは削られ、近隣にある大きな寺院御用達と書かれた額篇などは今は職人の仕事場の壁に埃を被っているだけになっていた。 「ただいま…」 南雲は大抵仕事場を通って母屋へ行く。 藺草の青い匂いが立ち籠めていた。娘が帰ってこようと、屋の主人は手を休めることも一瞥することも無い。ただその存在を無視するだけだった。横暴な父親を疾うに諦めている南雲は他の職人に頭を下げると颯颯と中庭に抜けた。 中庭では冬の香りが馨った。 ローファーを脱いで框を上がると、「お帰りなさい」と云う声が奥から聞こえた。 次いで居間から顔を覗かせたのは、少年だった。級友の女塚とは違い背丈も南雲と10p余程にしか違わない。 それが生まれたときからの昔馴染み、藤井露だった。 母屋は双棟続きであった。玄関を入ると中庭に面して廊下が伸びていた。その左脇に部屋が連なっている。その一番手前に居間があった。 「露、」 「お宅好い匂いがするね、」 「匂い?藺草じゃなくて?」 其の匂いならば、疾うに麻痺している。余程強く嗅がない限り、南雲は気付かない。 「藺草はもう嗅ぎ慣れてるよ。そうじゃなくて、お正月の匂い」 露は目を中庭に向けた。枯れ寝静まった冬の庭が其処にあった。その中に黄色い小さな花がぽつぽつと花を着けていた。 「諾、あれのこと」 「そう、」 柔らかく目を細めた。露は綺麗な顔をしていた。全体的に色素が薄く、年頃だけれど顔面には皰一つ無く色が白くて優しい面差しをしていた。 南雲は廊下に鞄を下ろして居間へ入った。 「何か淹れようか?游林庵に行って白牡丹買ってきたばかりなんだ」 「否。すぐに暇するよ」 「ゆっくりしてけってば」 「電話があったんだ。福山先生から」 「あの保健医」 悪態を着いて南雲は露と座卓を挟んで座った。基本的に此の家には物が少なかった。居間にはテレビと座卓と座布団の他には何も無かった。茶箪笥さえ無い。だから例えば先に南雲が茶を淹れると言った場合には彼女はお勝手まで立つことになるのだ。 「先生、僕に気があると思ったのに。違ってちょっと残念」 「あんたも残念がるな。何だよ彼奴。電話するんなら自分で露に渡しよな」 「南雲ちゃん、前にも況して髪が黄色い」 「ああ伸びてきちゃって、昨日生え際やったからね」 寝転がって南雲は廊下に伸びた。そして鞄を引き寄せた。 「ほらお待ちかねの成績表」 鞄から白い双折になった厚紙を取り出すと、半回転して腹這いになり露へ差し出した。 「別に要らないんだけどね」 「あんた国語意外悲惨じゃん」 鞄から細長い成績表を取り出して渡した。 「見たの?」 「見た。それくらいの役得が無かったら誰が伝書鳩なんかするかよ」 冬至を過ぎたとはいえ早々に太陽は西の彼方に沈み、夜の気配は瞬きのうちだった。滑車を使った釣瓶のようだ。 「南雲、」 結局白牡丹を淹れ、保健室から巻き上げたちんすこうを肴にしていると、中庭先から声が掛かった。余り聞き慣れ無い、と思ったのは久々に自分の名前を呼ばれたからだ、と庭先の人物を見て感じた。いつもは「おい、」としか此の男は呼ばないから。 「お父さん」 作業着に軍手を嵌めて、顔は黒ずんでいた。 「閑か?」 父親は露に見向きもしなかった。露があんな事件を起こしたからではなく、昔から此の男は常に横暴で人を人とも思わないのだ。 「今?」 「ああ。コレを運んで欲しい」 父親は腕に花を抱えていた。好い芳香がする。いつもならそれは一月を過ぎてからしか見ないものだった。 「あ、蝋梅」 露が声を上げた。蝋梅は正月の花だ。南雲は花木に疎い。何を見ても個別化することが出来ない。木は木と云う概念の下に押し込められそれ以外ではないし、花は花と云う呼称しか持たなかった。 然し鼻腔を擽る芳しい香り。 それはいつも元旦の朝から味わうものだった。 父親が元旦の朝に中庭から花を摘み、床の間に生けるのだ。 「その…蝋梅を?今?何処に、」 「ああ、今だ」 「何で?」 そう質しても父親が答えないことはこれまでの経験上に明らかだった。 「僕も行こうかな」 露が提案するかのように云った。 「は?」 「もう学校はお終いだし、僕も行くよ。家に居ても…ね、」 其処で露は艶やかに微笑んだ。 「仕事に戻る」 それだけ呟いて中庭の闇に消えた。仕事場の明かりが草木の合間から微かに漏れていた。 「…ちょっと…何あれ…何なの!あれ!…信じられない!本気で今から行けって言うわけ!?私中学生よ。夜中徘徊しちゃいけないんだから」 「南雲ちゃん」 「だって信じられる!?あの横暴さ。私、諾とも返事してないのに!」 怒りを露出する南雲に毎度のことながら露は少し困る。父親のことになると、南雲はちっとも治まらない。 「おじさんの仕事場行って抗議してくれば?」 「訊いて答えるわけないじゃない。仕事中のあの人が私なんかと口聞くわけ無いじゃない」 「じゃあ…行くの?」 露は少し苦笑した。それを見ると南雲は急に肩が落ちた。 「行くわよ…。行くしかないでしょう」 そして、父の名代で甲斐へ赴くことに成った。 甲斐は旧い呼び名だ。海の無い内陸地で、武蔵、相模、信濃に接している。その枕詞は「なまよみ」。なまよみのかい、と万葉集に合った筈だ。 車両が前後に大きく揺れて薄く視界が開かれた。 鼻腔を擽る甘く芳しい香り。赤いクッションの座席を見ると小さな黄色い花を着けた幾本もの枝が古新聞に包まれていた。 どうやら眠っていたようだ。 「あ、起きた」 「露、」 目の前のキャップを被った少年はにっこりと笑い、襟にファーの着いたジャンパーの腹から缶を取り出して南雲に差し出した。 「はい、どうぞ」 「っていうかあんた何処から出すんだ…」 「南雲ちゃん、電車乗ってすぐに寝ちゃうんだもんなあ。僕一人朦り外見て」 露が窓の外へ目を転じたので南雲もそれに倣う。 「真暗じゃん、」 「当然だろ。夜なんだし」 そういえば電車に乗ったのも、夜の七時を廻っていた筈だ。 「急激な眠気が襲ってきたからなあ」 南雲は目を擦った。 露は凝乎っと窓の外界を見ている。 「あんた何見てんの?」 「星が─────、落ちて行くから」 「星?」 「うん。どんどん落ちて往くんだ」 天体観測は幼い頃の南雲と露の共通の趣味だった。 「そりゃあずっと空見ていれば流れ星ってのは幾つも見えるけど、どんどん落ちて往くってあんたの表現は変だよ」 「だってほら、見てよ。南雲ちゃん」 露の細くて白い指が窓の外を指し示す。 穹から白くて眩い小さな粒が弧を描いて落下する。白い光、赤い光、青、黄……。星はその色合いによって等級が違う。 「ほら、沈んだだろう?」 露の声が弾んでいた。それに南雲は茫然とせざるを得なかった。 今沈んだのは 「カシヲペアの…」 ダブリュの一片だったからだ。 「だから云っただろ。どんどん沈んでいくって」 暗い紺青の穹は既に半分の星が落ちていた。 酷く、暗い。暗い穹である。 「呑みなよ、それ。折角買ったんだし」 白い指で指し示されて手に缶が握られていることを思い出した。しかもそれは酷く 「冷たっっ」 座席にそれを放り出すと、蝋梅を包んだ新聞紙の上に落ちた。 「あーあ、南雲ちゃん、花、大丈夫かよ」 「花の心配?あんたがこんな冷たいもの渡さなきゃ…」 南雲は睨み付けるようにまじまじと露を凝視する。此のとても冷たい缶を露は、慥かに───── 苹果の絵が缶の表面を覆っていた。 「花…」 車内は到底冬だとは思えないほどに暖かかった。暖房が効きすぎているのではないか、と最後南雲は蝋梅を見る。 「散って無い…な。良かった、」 何処にも黄色い花びらは見えなかったが、蕾は少し開いていた。 「それにしても…私どのくらい寝てた?」 露が困ったように頸を傾げた。 「能く解らない、」 「結構寝ていた気がするんだよね。でも未だ着かないし…。あ、スイッチバックして進んでいるとか?」 それ程の急な路線だっただろうかと奇妙に感じた。第一此の路線は都心から信州へ抜けるメジャーもので、電化も早かった筈だ。電車が軋んだ。 「南雲ちゃんみて、また星が─────」 それは熊の尻尾の形に並んだ星の一つである。電車の進む方向に流れ落ち、見えなくなった。 「あの位置の星って…破軍…星…?」 嫌な心持になった。咽喉がなる。そうして漸く自分の咽喉が渇いていることに気付いた。 「露、あんたのおごり頂きます」プルトップを押し開けると、中には霙のような半透明のとろりとした液体が見えた。 「あ、これ擦りおろした奴だ…」 「呑まないの?」 「私こういうの、駄目なんだ。舌触りが気持ち悪い」 「へえ、」 「あんた知ってたでしょう?全く気が利かない」 文句を言ったのだが露は俯いき笑った。キャップに隠れて、笑った口元だけが見えるのが憎たらしい。臑を蹴る。 益々露の口元は歪んで、憎たらしさは募り、南雲は露のキャップを奪い取りそれで頭を叩く。両腕で防御しようとする露の顔は満面の笑みだった。 しかし頭の上で交差させた腕の片方、右腕には包帯が巻かれていた。 幾重にも巻かれて、彼の肘の太さと余り変わりは無いほどになっていた。 南雲の動きが止まるのをみて、露は腕を降ろした。 右腕の包帯が長袖に隠れる。 「驚いた?」 いとも易く露は云った。 キャップを彼の膝に乗せて、頷く。 「傷の治りが遅いんだ」 十月の終わりだから、二ヶ月近くになるだろう、藤井露は学校に出てきていなかった。その腕の傷と、それに関わる醜聞の為に。勿論露自身はそれを醜聞などとは思っていなかっただろう。学校側から休むように要請されたのだから。 「君は全然訊こうとしないんだね、」 露を恋愛中毒者だと戯れに言ったのは誰だっただろう。 実際それは正鵠を射ていた。 彼は、自分を見てくれる男が居なければ生きていけなかったのだ。 「大体は聞いているからね、」 「噂で?」 「噂で」 その噂に関しては流石に不本意だったので、南雲は表情固して、緩めない。 「やっぱり噂に成ってる?」 南雲は溜息を着いた。 「どれだけ教師が緘口令敷いたって、人の口に戸は建てられない。そんなくらい知ってるだろう?あんたは私が知ってる中で一番頭の良い奴だもん」 露の初恋は小学校の担任教師だった。告白された時に初めて露のセクシャリティを知った。想いを寄せる相手は男性教諭だった。 それから幾人と付き合ったのかは知れないが、一番最近の相手は彼の従兄だった。 関西方面の学校に在籍する大学生だと聞いていた。 「なんで…そんなことをしたのか、訊いて好い?」 「向うには彼の恋人がいたから」 弾かれたように顔を上げると、露は穏やかに微笑んでいる。 「え…」 「あの人とは今年の初めに会ったんだ。ずっと昔に会った限で、普段はそんな存在も忘れていた。偶偶年賀の挨拶に家に来たんだ」 「正月?」 「そう。雪の降った日があっただろ?あの日だよ。両親は出払ってて、僕一人だった。あの人も家の人の使いみたいでさ、駅から歩いてきたみたいで両肩に雪が載ってた。微かにね」 あれは一月二日の筈だ。憶えている。南雲は風邪を引き自分の為に生姜をたっぷり入れた飴湯を作っていたのだから。勝手に立つことが酷く寒くて雪が忌々しかった。 電車が少し揺れた。 「頬も花も真赤だった。苹果みたいに。取敢えず家に上がってもらって、外套を干して、火鉢に当らせた。炬燵なんて風情がないだろう?」 大きな火鉢で、先までそれで餅を焼いていたのだから、炭は真赤に火の粉を上げていた。 「折角だから、酒も出したんだ」 「ワンカップ大関…」 時折藤井家の洗面所に飲みかけが置いてある。 「違う。正月だし丁重に持成したよ」 露は笑っていた。 「金箔の入った奴。勝手で燗をして出したんだ。余り酒に強いようじゃなかった。寒さとは別に顔が紅くなって行った」 床には正月らしく黄色い蝋梅の花が生けてあった。これは露が元旦に風邪を引いた南雲の許へ貰いに行ったものだった。鼻声で綿の入った半纏を着た南雲は何処か朦朧とした口調で好きなだけ持って行けと言ったのだ。 「自分ばかりじゃ、なんだから君も飲めと云われた。彼は僕の手を…腕を取った。猪口を握らされて、呷った。猪口の其処に大きな金粉が沈んでいるのが飲む瞬間に見えた。それは自分の口の中に入ったと思ったんだ」 けれど───── 外界は謐々と静かで、雪の日特有に青色に染まっていた。障子越しにその薄明るさが伝わってくる。火鉢の中で炭の弾けた。 「彼は僕の唇に金箔がついていると云った。少しだけ呂律が怪しかった。そういわれて舌で舐め取ろうと思って薄く開けた僕の上唇に、彼は喰い付いた─────」 電車がまた揺れた。 南雲も露も合わせ鏡のように左へ弧を描く。 「それで─────?」 促した。 「その時はそれ限。お互い、酔いが醒めちゃって、あの人は無言の儘帰ったよ」 南雲は盛大に溜息を吐いた。 「本当にあんたって…頭痛い」 「そっかな?」 「隣に棲んでる昔馴染みがリビドゥなんてさ」 冷えピタが欲しい、と南雲は組んだ足に肘を着き、手を口に当て嘯いた。窓の外は真暗だった。窓に二人の姿が映っている。 其の向うに見える暗闇は、夜の濃藍には見えなかった。 電車の線路を往く揺れだけが、現つを報せている。 果たして、此処は何処なのだろう。 また、星が落ちた。 「冷たっ」 声を上げた。 額に手を押し付けられたのだ。 「嫌がらせ?」 「酷いなあ。親切だって」 「その手の冷たさは何だよ、」 露は南雲の額から手を退けた。 「頭痛いって言うからさ」 「意味合いが違うだろ」 南雲は露の額を指で弾く。 「私がどれだけ心配したと思ってる?あんたのその身勝手さに」 「身勝手?」 「あのねえ、あんたの一等の友達だよ。私は」 「お見舞いにも来てくれなかったくせに」 口を尖らせた。 「拗ねんな、莫迦。行けなかったんだよ」 心底呆れてまた溜息を吐く。相変わらず電車は只管走り続けて、揺れている。 「……南雲ちゃんは、怒った?」 「勿論。余りにもあんたらしくってね」 露は少し俯いて、少し笑った。 「いつもいつも、こうなんだよな。人を好きに成っている間って、周りが見えないんだ。─────自分の起こした行動のために誰かが泣いたり怒ったりするなんて考えられない。あれは病気だよね。正気じゃないんだ」 「自分勝手」 「そう─────。だから僕はただあの人にこっちを見ていて欲しかったんだ。僕だけを。五月の連続休暇にあの人は僕を訪れて、それが決定的だった。夏休みにまた来るって云ってくれて、嬉しかった」 実際従兄は此方に来て、濃密な一ヵ月半を過ごした。 「受験生のくせに」 「自分だって勉強もしてないだろ。一応名目は、家庭教師ってことだったから誰も何も言わなかったよ」 「そいつ、あんたの家に入り浸ってたの?」 そういえば夏の間、南雲は隣家を訪ったことは無かった。BSで放送されていたアニメ番組に夢中になっていたためだ。 「だのに─────」 大学に恋人が居て、戻らなくては成らないと言ったのだ───── 露は少し朦りとした。もう正気に戻っている時分だろうと南雲は思っていた。恋は醒めたのだ、と。 「そんなこと迄しなくちゃならないようなことだったの?」 顔が強張っているだろう。 露は微笑んだ。 「諾」 首肯いた。 そして露の漆黒の眸は最後の眩い星を捉える。 「もう、行かなくちゃ」 その声と共に耳鳴りがする。潮のような音が幽かに聞こえている。 「露…」 「星がもう…落ちたから」 見れば其処には黒滔滔とした暗がりが広がっているだけだった。露が立ち上がる。ドアがその向うで開いた。 駅のホームなぞ見えなかった。 「露!」 思わず、彼の手を取る。 とても冷たくて、それは人の体温ではなかった。 「此の先は『なまよみ』だ。南雲ちゃんは睡っているといい」 「私も一緒に行く…」 生まれて此の方、同じような生活を送ってきていたのだ。恐らく南雲を誰より理解しているのは露で、露を理解しているのは南雲だろう。 それほどに互いの距離は近い。 「君はあのジュースも呑まなかったし、連れては往けないんだ」 済まなそうに困ったように笑った。 「じゃあ、」 そういって露が南雲の掴んだ手を丁寧に外す。 立ち上がれない。 露を追いかけられない。 露は一瞥もすることなく、電車を降りそして無情にドアは仕舞った。 大きく揺れて電車は動き出す。 星も月も無い暗闇を何処に進むのか。 慌てて南雲は左の窓に額と手を着いて窓の外を見た。 ホームには既に露の姿は無かった。 僅かに息を呑む。 耳鳴りではなかったのだ。 水が大瀑布を作り四方に注いで、水に埋められてゆく。大量の水による白い飛沫は電車の窓を濡らす。 飛沫によって視界が滲み、そして外界を窺うことはできなくなった。 甲府駅に着くと、南雲は駅員に「警察署」の在り処を訊いた。南口を出て大通りを真直ぐに進み、大きな較差点の角、中央一丁目にあるのだと教えられた。 「こんな夜に警察?どうしたの、何か有った?」 南雲の様子に心配そうに壮年の駅員は訊いた。 「諾、ちょっと」 「それ、蝋梅でしょう?もうそんな時期なんだなあ」 寒さの中に葉よりも先に枝にその黄色い花を咲かせる。馥郁としたその花は毎年正月に蕾のものを露が貰いに来るのだ。彼は此花が好きだった。 「此の冬は暖かいから早いみたいですよ」 軽く会釈をして南雲は冬の満天の星空の下を歩む。 携帯電話には家の職人からメッセージが入っていた。 『永窪です。社長は今、手が離せないので自分が電話しました。お隣の露くんが発見されたそうです。甲府の警察にいるそうです。猿橋で観光客が見つけたらしいです。じゃあ、お嬢さんも気をつけて』 22時25分とぎこちない留守番電話サービスの音声がメッセージの入った時間を告げた。 本来ならばその時刻が此の甲府に着く時間だった筈だ。 だのに、今は23時50分を廻ったところだった。あと少しで日が変わる。 此の一時間のずれの最中、あの電車が何処を彷徨っていたのか───── 目が醒めると22時50分だった。その後大月で乗り換え、此処甲府まできたのだ。 「なまよみのかいのくに、か」 呟くそれは万葉集の枕詞である。 何処までが夢で何処までが現実なのか、南雲には解らない。親父は何故花を持たせ、此処に行けといったのかも。 頭を振る。 あの父親はいつも解らない。 そして、自分は何に乗っていたのか。 少しだけ振り返り浩々と明るい駅舎を望み、寒い、と呟いて襟巻きを鼻の辺りまで引き上げた。 露の安置される警察へまた歩み出した。 24/05/06 |