婚礼の相手は死人だった


そっと横たわる彼を見た。髪も閉じられた瞼の膨らみも凡てが今にも起き上がって来ようかと言う程に、生の侭であった。 その眸が開かれることを不図待ってしまう。
その顔の色が黄色味を帯びて、それだけが生者で無いことを報せていた。
頭が、茫とした。

「ユキヒトです」

老婆が呟いて、急速に現実が色を帯びた。その肉塊が白い衣を纏って、鼻には綿が詰められて、既に死体の装いは出来上がっていた。ただ枕元に置かれた銀縁の眼鏡だけが違和感を醸し出していた。それは生の中でこそ必要なものなのだ。
「ユキヒト……さん…」
繰り返すと老婆はゆっくりと頷いた。
名を聞いて真緒まおは此の死人が自分のつまに成る人物であることを知った。そう、『つま』で良い筈だ。古代には男女の境無く配偶者をつまと呼んだ筈だ。


 別室に連れられ、茶を進ぜられた。
真緒は立ち上る湯気を見つめていた。
静寂に満ちた家内。
死者の居る家と言うものはこのようなものであるのか。
凝乎っと耳を澄ませた。
けれど聞こゆるは寒木立に吹く風音だけであった。次第に鋭敏に成り自分の血液の流る音さえ聴覚は捕らえていた。

 学業の為に家を出て京都に住い、長い月日が経った。開明的な父母はそれを赦した。真緒が兄弟の末であり、上の兄が三人も居て、そのいずれも既に家庭を持っていることも要因の一つであろう。
尤も近年は何時まで経っても婚姻を拒むことに些か苦慮している。
父母には甘やかされてきたが、四人兄弟の末であると云うことは父母が些か年老いていることを意味しているのだ。  其処に降って涌いたような話であった。
怖ず怖ずと話を切り出された時から、慥かに幾度と無く「断っても良い」とそれこそ理を前置いてのことだった。強硬と言うには程遠く、寧ろ断ってくれることを願うような口調に、反対に真緒は興味を惹かれ頷いたのだった。

 父が先方に電話を入れると、すぐに向かえの車が遣された。 余りに急で、当然危ぶんだ。殆ど準備もなく、外套を肩に掛けた以外着の身着の儘だった。  車で連れた来られた先こそが、この家であった。
繁華な通りを過ぎ橡林の中お屋敷が現れた。背の高い漆喰の壁が長く続き、立派な見越し松が顔を覗かせた門柱を潜って車が停まった。扉が開かれると式台に足が降りた。玄関がすっと開き、屏風の前に仄朦りと燈が点っていた。
 柘植は父方の遠い親戚である。
嘗ては御城の茶坊主であったと聞く。
今までその姓さえ聞いたことの無いのだから、親しい付き合いはまるで無い。何故この話を受けたのか俄かに理解できなかった。
いつしか一口も着ける事無く茶は冷め切っていた。
橡林が騒いでいた。




屍を荼毘に付したその昼は、篠付く雨が橡林に降り注いでいた。
「ご自由にお使い下さい」
と老婆囁くように云われて案内された処は、洋室に設えられた書斎であった。その窓から見えるのはただ雨に煙った冬木立である。
背後で戸が閉ざされた。
ツゲユキヒトと云う今や死者と成り遂せた人物は何処を患っていたのだろうか。処方された薬が開封もされず机の上に置かれていた。
袋には大学の名が記されていた。片仮名の羅列された紙も同封されている。薬であった。
何も知らない。
ユキヒトのことを、何も知らない。 何故真緒がユキヒトとの婚姻をしなくてはならなかったのかさえ。 自由に使えと引き渡された部屋には廊下とは別に扉があり、真鍮の把手を握ってみれば鍵も掛けられてなく簡単に開いた。 書斎だった。 三方を書棚に囲まれた部屋。窓際には大きな机がある。 机の上には帳面があり、見ればyukihito tugeと記されていた。 此処は、ユキヒトの書斎なのだ。 未だ、解らない。 何故彼の最期を看取らなくては為らなかったのか。 男である真緒が、何故――――― それから真緒は書斎を荒らした。否、それには語弊があるだろう。
貪り読んだのだ。彼が残した文字を。有りとあらゆる書物を捲った。
他者が目撃れば荒らしていることには変わりないだろう。
 右肩上がりの綺麗な文字を書く人物だった。骨張った指を思い出す。右手の中指には胼胝が出来ていた。
未だ学業の中途であったのだろうか。
真緒とは六歳ばかり離れているようだ。勿論真緒の方が年嵩である。 机の引き出しからは何冊もの日記帳を見つけた。否雑記帳であろうか。独逸語の単語が和訳と並べられていたり、また明らかに講義の復習いである数式が並んでいた。 友人への手紙の草稿や、読んだ小説の所感が認められていた。
何も知らない。
そう感じたことが嘘のように次々と柘植行人の情報が取り込まれていった。小説の所感を読んでは本棚を漁りそれを感じた。
そうして身近に感ずるようになるほどに、時折恐くなった。

ぞっと。  もう、彼はいないのだ――――――

あの閉じられた瞼が開かれることはないのだ――――――

声を聞くことは、永久に、無い。





 真緒は骨壷を凝視めた。 青磁のそれに隠れてしまうほど小さくなった存在。 遺体を見た時には然程小さな骨格には思われなかった。
寧ろ平均日本男性の身の丈は優に超しているはずだ。真緒よりも長身だっただろう。だが、これほど小さく纏まってしまうのは、矢張り蝕まれていたのだろうか。骨までも。
日記に病気のことが記されることはなかった。日記の中には感情の端々が赤裸々に綴られているのに、何処にも病気が記されてはい無かった。





 まるで性質の悪い飯事に付き合わされているかのようだった。
義理の父母と成った人物は大凡真緒と口を利くことは無く。 食卓も別個であった。
用向きは真緒に宛がわれた室に義母が訪れ、言葉少くなに告げて行くのだ。

「真緒さん」

老婆は名を呼んだ。思わず居住まいを正した。
……義母は実年齢は老婆と呼ぶには余りに若い。だが、一人息子を亡くした痛みが彼女を其処まで変貌させたのか到底信じられないほどに小さく、弱弱しく、老いていた。

「明日、四十九日を迎えます」
勿論それは知っている。
「あの、それでは、」
「はい。お帰りになって頂いて結構です。法要も此方のみですませます」
そうして深深と頭を下げた。
「あ、否。法要には、」 此処まで飯事に付き合ったのだから最後まで、と言う意地が何処かで働いたのだろうか。口からそんな言葉が飛び出していた。 きっと今なら、彼の死を悼むことが出来るだろう。 葬儀の折に亡羊と立ち尽くしていたのとは違い。 「否、どうぞお引取りを。あの子の最期の願いでしたので、無理を申しました」
「あ…」
拒絶があった。 無理を言ったと云うそれは本心だろうが、彼らとて男の嫁を取ることは本意ではないと云う心根が透けていた。 「…解りました…。明日、朝には発ちます…」
「有難うございました」 彼女は顔を上げることなく呟いた。




此処に訪れたのも余りにも唐突であったが、去るのもまた唐突であった。




 帰って好いと聞き、虚しさと悔しさが渦を巻く。 そして、混乱した。真緒は、何もしていないのだ。 ただ夜に此の屋敷を訪れて其の侭居座り、彼の最期を見た。 眠るような様子で生きて、そして死んでいった。真緒が会ったユキヒトには生死境目が見えなかった。 その後に柘植行人と云う人物を『知った』。
彼は何故こんなことを望んだのだろうか―――――
誰も教えてくれない。 人の死が関わっていることで大袈裟に騒ぐことは憚られ、自ら頷いたことなので諾々と流されていたが、何故死者に嫁ぐことになってしまったのか。 何故もっと早く引き合わせてくれなかったのか。 きっと彼とは良い仲に為れただろう。それが彼の痕跡を辿った真緒の所感だった。




 夜半、扉が開いた。此方へ伺いもなく、忍ぶように。
「こんばんは」
顔を出したのは、二人の男性であった。
「…誰、だ……?」
痩せた青い顔の小柄な和服姿の人物と、明朗な様子の背の高い洋装の男性だった。
「あの…マオさんですか?」
和装の男が眼を寸間に合わせて、逸らし何処か辿々しい口調で訊く。
「そう、ですが…」
怪訝に頷くと、その青い顔が俄かに赤く染まったように見えた。
「ああ…うん。そう、ですか…。否、申し訳無い……そうだ、マオでは…埃及語で猫じゃないか……」

幾度と無く頷いた。
「あの、どちらさまですか?」
真緒の怪訝な様子に洋装の男は深呼吸を一つして、すみませんと切り出した。

「僕は千木良と云います。こっちは青柳。あと一人、山田って奴も居るがこいつは今支那で。大学中途退学して今はブン屋でね、何かと忙しい。いずれこっちにも窺うことになるでしょう。名前だけ覚えといて下さい。美人が好きな男で話が旨い。楽しい奴ですよ」
千木良と名乗った男は滔滔と云った。
「…僕、男ですよ」 紛らわしい名前でも姿かたちでもない筈だ。 「貴方を美人と評したのは、柘植です」 「え、」 青柳と千木良と名乗った。それには覚えがあった。
「初めまして。柘植からの紹介も無く申し訳ない」
二人は同時に首を垂れた。
幾度と無く雑記帳に出てくる名前。親密さは微笑ましくもあった。
「高校、大学の同期です。柘植のことは能く知っている。此処にも勝手に上がり込んだけど、勝手知ったる他人の家って奴ですよ、」
第一印象の如く言葉も口調も非常に明朗な人物だった。
「当初は経済とかの学徒だったが、学業の中途で柘植は患ってしまって医者志望に切り替えたんだ。自分の躰くらい自分で診るとか言ってね。幾たびも休学しつつそれでも諦めなかった。何でか解かりますか?」
「……さあ……」
真緒は僅かに頸を傾げた。
「柘植は大学もこっちじゃなくて向こう…京都に行こうとしていたんだ。でも胸を患ってしまった」
京都と云う地名に、俄かに躰が強張った。
「だから志望を切換えた。それも俺の後輩に成るって言うんだ」
くつくつと訪問者らは顔を見合わせて笑った。どんな関係だったのか、察しが着く。
笑ったことで解れたのか、青柳が真帆子を見据えた。
「………霊魂を信じますか………」
「は、」
「柘植の初恋は未だずっと幼い時だと聞いた。遠縁の親戚の人でその人が男性だったとはずっとずっともう寝台から起き上がれなくなる頃に聞いたんですが。貴方は酷く開明的な人だと訊いています。だから…こんなことを訊くのは非常にナンセンスだとは思います」
霊魂を信じますか――――――
押し寄せる情報を如何に処理したら良いのか判じかねた。
千木良は青柳と真緒を交互に見やって口を開いた。

「こいつ、変なんですよ。なんていうのか、解かるんです。そういうものが。お陰で躰は弱いは寝込むは、変なことに巻き込んでくれるは……」呆れたように吐息する。「俺も山田も柘植も…散々迷惑の掛けられ通しだ…」

青柳はただ真緒を凝視する。
「…僕…否、私は、生前の彼を、知りません……。正直記憶の中の人々のどれがユキヒトさん、なのかそれすらわからない。ただ、もし貴方達が信じろというのなら、信じましょう」
あの瞼の下を臨みたい。 声を聞きたい。 あの胼胝に触れたい。 何でも良いのだ、彼の口から聞きたい―――――
青柳は凝々と真緒を見たがやがてその顔が柔和に崩れるた。
「………柘植の相手が貴方で良かったです………」
どうぞ信じてください


寝台の上でただ寝転がり、高い天井を見上げる。 信じたのだろうか。あれは戯言ではないのか。からかわれたのではないのか―――――
様々な悪辣さに満ちた思惟にまで及ぶ。
だけれど、眠りにつくことは出来なかった。
信じたいのだ、彼らの言葉を。
「どうぞ、眠らないで下さい。柘植は貴方を待っている」
青柳の気弱な声が耳に谺する。
真緒の掌には眼鏡があった。あの屍の枕元に置かれていた代物であった。彼の眸に一番近かった存在を燃やしてしまうことが何故か出来ず、柩の中から誰にも見られない瞬間を狙って取り出したのだ。
寒気は室を否応無く覆い、羽織を引き寄せて身を震わせた。
指の先が凍えるように赤かった。


いつしかうつらうつらと意識が幽界とを行き来はじめた


寒い、と掌を握る。


不図、眼が覚めた。
手に握っていたはずの眼鏡が………


俯いた視界の端に、何かが、見えた。差し込む月明かりであろうか。だが眠る前に襖も障子もきっちりと閉めた筈だ。
頭が、茫とした。
青柳の声が谺した。
顔を上げた先には





「……やっと逢えましたね……」




綺麗な滑舌をしていた。
そして眼鏡越しに臨む、優しい眼差し。
ゆっくりとその人は笑んだ。
瞬きも出来なかった。視界の閉ざされたその一瞬で、彼は消えてしまうのかも知れない。
痩せぎすの体躯は縦に長く、洋装をしていた。
眼が細まる。そしてそっと眼鏡を取って真緒に渡した。




「有難うございます」




何故礼を言うのか、解からなかった。そしてそれがただ悲しくて悔しくて、真緒は深く眼を閉じた




何処にも柘植行人はいなかった。




何処でやり直せば良いのか、それさえも解からない。記憶の糸を手繰る。柘植行人は何処で真緒を見たのか―――――――
そんな記憶など真緒には存在しないのだ。
気が付くと彼を求めて家内を駆け巡った。
何処にもたった今柘植行人の存在したと言う証拠は無かった。
無いのだ、何処にも
あの眸が自分を見詰め、声を聞いた証左など何処にも無かったのだ。
裸足の侭庭へ降り、林の中へ駆け出した時、義父母に捕まえられた。
「真緒さん?真緒さん!」
「ユキヒトっ…ユキヒトさんっっ…」
真白い頭をして皺を深く刻む面をした老父。
「行人はもう死んだ。貴女まで私たちみたいに囚われることはない」
初めて義父と顔を見合わせ口を利く。
「何故そんなことを言うの……」
老父の顔が険しく成る。
「……僕は、柘植行人の、伴侶です……」
颯然と風が啼いた―――――

それは人の声のようで





「ユキヒトっっ」





涙に顔を濡らし、真緒は呼吸も荒く呆然としていた。











彼は己を置いて何処へ行ったのだろう











「追いかけなくては………」

真緒は義父母の腕を振り切った。
そして羽織さえ脱ぎ捨てて文目も尽かぬ橡林の中へ駆けて行った。













それが人々が見た最後の真緒の姿だった














颯然













彼は己を置いて何処へ行ったのだろう













風が、啼いた―――――

















冥婚[me-i-co-n]


未婚の侭死んだ者に花嫁・花婿を娶らせる冥界婚
死靈結婚・死後結婚とも云ふ
東亜細亜の各地で見られる習俗