店を辞めた、雨の日だった。 赤い傘が動きを止めた。 プチールと言うメルヒェンな洋菓子やの前の車道に人が落ちていた。短髪で屈強な躰。野球をやっていればいいのに、と思いつつ眺めていた。 此の雨の中を口をあけて大鼾だ。 どうしようか、と寸暇悩んだ。 傘を持ったのとは違う腕が伸び、男の太い二の腕を掴んだ。そして引き摺って行った。 男を眺めていた心算だったが本当は雨の描く斑紋を眺めていたのかもしれない。 幾重にも繰り返される円の連続が目に焼きついて離れない。 未だ雨が降っているようだ。 何時まで降る心算なのか。嘲笑いやがって。水音が撥ねたりして不自然だった。子供が遊んでいるのだ。 畜生、ムカつくぜ。 不意に大音量の雨音が止んだ。急に。不自然だ。 思わず瞼を開くと、コースケが丁度風呂から上がって来た処だった。 髪の長い淡白な面の半裸の男が「あら目覚めたのね」と言い、自分が素っ裸なのだから生まれて此の方初めての衝撃だった。 「あ、あんた、誰だ?」 「あんたこそ誰よ」 コースケの後ろに黄緑色の冷蔵庫が見えて、何故かとても安心した。 現実だ、と。 「あのさー、その布団アタシのなのよね。見苦しいもん颯颯としまって帰ってくれない?朝くらい喰わせてあげるからさ」 「…かま?」 「コースケよ。あんたは?」 失礼な質問に否定も肯定もせず自らの名前を名乗り、コースケは濡れた頭を掻くように動かしてタオルを擦りつけた。 「ケイイチ」 「おっけ」 笑った顔は少年のような爽やかさだった。 黒のセーターとジーンズを貸してくれた。脚の丈が少々余った。 「外、雨は?」 コースケの作った塩焼蕎麦を喰らいつつ訊ねた。 カーテンが引きっ放しだったのだ。 「諾。未だ降ってるわよ。鬱陶しくて」 くさくさする――――― 塩焼蕎麦は感激するような美味さだった。過剰なほどに褒め称えると 「そう言う食べ物なの。アタシの手柄じゃないわ」 にべも。無かった 暫しの沈黙。 コースケは顎を摩る。 手も仕草も明らかに男のものだった。 「髭、伸びてきたみたい」 長い髪と眉を整えていなければ矢張り只の野郎にしか見えない。 洗面所に発って、俄かに室内が静かになって雨の音が聞こえてきた。 雨の中拾った男を雨の中放逐することは流石に気が咎め、雨が止むまでの期限付きで家に置くことになった。 野球好きで、今時ドームを嫌い、テレビの野球戦はトンと視聴しないが、ニュースで結果だけを仕入れていた。何処のチームが好きなのかと問うとホエールズだと答えた。 「横浜?」 のことだろうか。 「大洋ホエールズ。」 ケイイチは頸を少々左に傾けながら言った。 「もう無いわよ。それ」 「知ってる」 夜になっても雨は止まなかった。布団は二組も無いので掛け布団とそれに負けないほど薄い敷き布団を肩に掛け、花札をすることに成った。 ケイイチがトランプもウノも出来ないからだ。 何故花札が出来るのかと訊くと、高校時代花札の勝敗でレギュラーが決められていたからだと答えた。 呆れた。 「弱小部だったんだよ。三十四の粋も甘いも知り尽くしたようなおっさんが顧問で」 ケイイチは頸を少々左に傾けながら言った。 「ふーん」 興味もなさそうに返事をしたが内心とりとめも無い教習と言うものなのか。心がじくじくと疼いた。 「出身は何処なの?」 「関東の外れ。お前は?」 「九州」 左手で札を取ろうとし、損ねた。 「菊に盃」 九月の札をコースケは床へ落下させた。 夜半を割り込むまで、花札は一向に止まなかった。 「げえっ…。ぜっんぜん役出来ねえ」 頭を掻く。 「もしかしてあんた、賭、弱いなんじゃないの?」 「も一回」 頑強に粘ってもケイイチが役を作ることは無かった。 花札を天井に放り投げて寝転び、その落下を顔面に受けると、静寂に雨音が響いた。 嗄――――――――っと。 「ねえ」 「ん?」 「あんた左眼見えないの?」 「……気付いてたのかよ」 「まあ…ね」 明らかに左眼を庇っていた。しかしそれは長時間頸を突き合わせていなければ気付かないほどにそれは自然だった。 「俺さぁ、一晩で三十万敗けたことがあるんだ」 唐突に何の前触れも無くケイイチは言った。 「賭場の花札で」 呆気らかんと、其処には自嘲さえない。 「知ってる?ああいうとこ?凄え持成してくれるんだよ。至れり尽くせり。賭場って。ほら、俺って向こうにしてみりゃ、カモじゃん」 「それ知ってて何で賭場なんか出入りすんのよ」 「何でだろうなぁ」 再た黙る。 雨が少し烈しさを益したようだ。 「別に女の恰好が好きなんじゃないのよ」 コースケが呟いた。低い声音は幾ら女言葉を駆使しようとも矢張り男のものだった。 違和感しか憶えない。 「女になりたいなんて思ったことないし。ただね、昔好きに成った男がアタシを好きに成らないことだけが…悲しかったの。恐いくらい悲しかったの。で、何の因果か―――――こうなっちゃった」 二人して部屋に寝転がる。 「化粧してスカート穿いて踵の高い華奢な靴履いて。爪塗って」 玄関に靴の箱が重なっているのが見えた。その箱の頂点には、黒色の踵の高い華奢な靴が鎮座していた。女の象徴のように見えた。 雨音が聞こえた。 「今――――――」 「ん?」 「今借金幾らなの?」 「四百万」 四百円と変らないような軽々しさで言った。 「どうするの?」 「どうすっかなぁ」 雨の中倒れてのは死ぬ心算だったのか、単に偶然寝ていたのか―――――― 疑問は泡沫のように浮かんでは消えた。だが口には出さない。 「―――――好きな奴がいるんだ。…一回はキスもした。でも…奴は結婚して、先春子供も出来た」 眠りに落ちる中聞いたので、それが夢の中なのか、現なのか、知れない。 昼過ぎまで寝ていた。 花札が散らばった中で寝転がっていたのは、コースケ一人だった。 ケイイチの姿は無かった。書き置きもなく、貸したセーターとジーンズも、着の身着の儘姿を晦ませた。 カーテンを開けると強い日差しが照り付けていた。 ベランダの欄干に露が光る。 働きに出ようとコースケは顎を掻いた。 ケイイチの相手は顧問です。 03/11/13 back |