星の宮
空襲警報は此処でも聞こえるのだと、高く真青な空を見て思った。三月の大空襲から夏休みには疎開が決まっていた。以前幾度か訪ったことのある日光である。 日光は素晴らしかった。 自ら耕し、育て収める生活は此の時期に信じられないほどに豊かだったのだ。 あれ程手に入れることが困難だったバターが毎日食卓に上る。番茶しか口に出来なかったのに緑茶が咽喉を潤した。辺りは緑に抱かれて虫の声が聞こえた。 朝や夕には東照宮から鐘声が聞こえた。此処では鐘も接収されることなく、嘗ての生活が続いている。 霊山に宿る豊穣。 疎開先は大黒山麓の西洋飯店だった。 朝靄に烟る神橋を渡ると、和装の少年が欄干に肘を凭れて川に身を乗り出すようにしていた。後頭部で噛みを結い垂らし、恰好はまるで神官の少年版と言った所だ。 此方を向き、破顔した。 綺麗な少年だった。 「此処で人に会うのは久方ぶりだ」 一瞬気を取られた。 「君は…土地の人?」 鄙にも京にも稀な、何処か違和感さえ伴う美しい、美しい少年。 「まあそんな感じだな」 上方に橋が揺れた。 余りに大きなゆれに尻餅を尽き、上空を振り仰いだ。靄で視界が悪い。 「空襲!?」 何処にも黒い影は見当たらない。 一人恐慌に陥っている横で少年の叱咤が聞かれた。 「オロチ、止めろ」 ぐにゃりと揺れ、橋板も欄も崩れ去るかと思えた。然し少年の叱咤に橋は再び同じ状態で静止した。 少年は困ったように少し笑んだ。 「時々悪さをする。困った奴だ」 俄に靄が霽れだし空が顔を覗かせて始めた。 「さて、俺はもう行くか」 声に顔を向ければ、互いの鼻がぶつかる程の距離に彼はいた。 「此の戦、勝つと思うか?」 と訊いた。此の国が敗れることなぞあるのだろうか。それは恐ろしいことだ。 「そりゃ…勿…」 唇に触れた。一瞬何をされたのか判らなかった。 「また会おう」 少年は林を通り過ぎて往く。靄の所為であるのか。少年の躰は次第にぼやけ、やがて霧散した。 彼に次に会ったのは飯店内だった。大谷石で出来た少し冷りとするホテルのフロント横のラウンジ。大きな窓の向こうは既に闇だった。 時間的に夜と云うには未だ余裕があったが、山との距離は近く、夕暮れの日をあっと云う間に隠してしまったのだ。 「なんだ、惚けているな」 「うわっ」 思わず声を上げ、振り向くと啓の座る長椅子の背凭れ越しにあの少年が身を乗り出していた。 垂髪の稚児姿、とまるで古の絵巻物をみるように思った。 「なんだよ、酷く驚くじゃないか。…母御が恋しいか?」 「別に…お母様とは此間電話で話したばかりだし…」 「今も空襲は起こっているぞ」 思わず口を噤んだ。 その様を見て嫻やかに少年は笑った。 「無理すんな。お前は未だ子供だろう」 「君だって、同じくらいじゃないか、」 唇を尖らせた。 以前神橋であった折に土地の者だと言っていた。父母は健在なのだろう。 「他の児等は部屋か」 「―――――だよ、」 嘯くと少年は「俺の部屋へ来るか」と誘った。 「部屋?」 「諾。此処で厄介になっているんだ」 土地の者であると言ったのに、何故此のホテルにいるのだろう。幾分の謎を解消すべく、彼の誘いに応じた。 フロントの前を通り過ぎ、その脇の階段を上り、未だ閉っているダイニングの階を通り過ぎてその上階へ出た。そして階段からは三本の導線があり、左に進む方向へ少年の跫は進んだ。 後を着いて往きながら、此のホテルが此処まで広いとは思わなかった。 何処までも廊下はささくれ立つように伸びている。 「ねえ、未だ先なの?」 「もう少し」 「…先刻フロントに人が居なかったけど…」 「少し留守にしているんだろう」 仮にも客商売のホテルでそれは有り得ないだろうに。啓は少し上安感に襲われた。 上意に跫を止めた扉には金色の車輪をしたも装飾がされていた。 「此処だ」 と少年が入ることを促した部屋は酷く華麗だった。 船底格子の天井には一つ一つに蒔絵が施され、毛並みの豊な絨毯が足許を埋める。大きな窓にはそれぞれ御簾が垂れて、部屋の中央に小部屋らしきものがある。恐らく寝台だろう、今は帳がされていた。 卓子と椅子は志那製のように細い脚をしていて、卓子には星図が螺鈿で施されていた。少年の頬にも似た夜光貝。 能く眺めればそれが星宿二十八宿であることが解った。 その上に載る硝子瓶は薄らと水滴を佩びていて、中の入った水がそれだけ冷たいことを報せている。硝子瓶と碗は明らかに日本製の切子ではなく、よく見ればバカラの綴が刻まれていた。 四方の壁には七つの星が散っていた。その内の一つには輔星まで附されている。 「長椅子に座るといい」 丸い卓子を挿んだ一人掛けの椅子に腰掛け少年は脚を組んだ。 白い臑と綺麗な踵が目の前にさらされた。 恐々と長椅子の端に腰掛ける。思えば、此の西洋風の部屋と少年は余りに異構図だ。 「……君は誰なの?」 啓が一番上思議に思ってたことを訊ねると、少年は思い切り笑った。 白い真珠のような歯列が覗いた。 「大胆だな、」 「…だって…君は先日神橋で土地の人間だって言ったじゃないか。だのに、此のホテルのこんな飛び切り上等な部屋に…」 何故居られるのか―――――? 「そんなことか。有態に言えば、井上に乞われたのさ」 「いのうえ?」 井上とは此の館の総支配人一族の姓を言った筈だ。 「此の戦は負けるぜ 「君!」 「本当のことだ。まさか神風を信じてるわけじゃないだろう?」 あんな御伽噺、と少年は呟いた。 「俺は三度乞われた。一度目は勝道だ。彼奴は兎角山登りが下手で、乞われたと言うより、あれは俺が手を差し伸べに行ってやったんだな。二度目は南光坊と名乗った奴だ。強かな奴だった。俺を使いたいと言った。丁度退屈を始めていた時だからそれも簡単に赦した。三度目は井上だ。此処に西洋人の集る宿を造りたいとか言った。面白そうな話だったからそれに乗った。そして今も此処に居る」 夜だというのに部屋は明るい。空襲の目標物になるからとこれほど明るくすることは長く禁じられていた。 電燈を捜したが、何処にも無かった。 「君は…誰?」 「もうすぐ、勝道が作った道も鎖される」 「鎖されるとどうなるの…?」 「お前の名は?」 「…啓…」 少し人が悪そうに笑って、少年は立ち上がり啓の前で少し屈んだ。顔が近い。奇跡のように美しい少年である。 「啓、祝福を授けよう」 「祝福…?」 傍にある少年の面に赤面して啓は思わず眼を逸らした。 「そんな厭な顔をすんなよ。俺から祝福を授けることは先ず有り得ないんだからさ。過去に三人だけだ」 少年の顔がもっと近付いてきて、その形の良い唇が降って来た。とても冷たくて、そして迚も心地好かった。 彼からは甘い好い馨りがした。 気が着けば再びラウンジにいた。周りでは従業員がせかせかと働いていたし、学校の生徒もあちこちを飛び回っていた。 『彼』は何処にも居なかった。 ダイニングの食事の後に、再び彼の部屋へ行こうとすると、留められた。 「そちらには行かれませぬように」 支配人の慇懃な口調は仮令子供にも崩されることは無かった。 「あのでも、あっちに…知り合いが」 「そちらに部屋はございません。物置と従業員の寮だけでございます」 「え、」 啓が声を上げると、支配人はその厚い顎を摘んで少しだけ思案気にした後、再び恭しく言った。 「…仮令、何を見ても、何かがあっても、決してお気に為されませんように」 最敬礼のように支配人は頭を下げた。 そしてそれから数日後、疎開が終わり、ホテルを発つことになった。戦争が終るのはその一ヵ月後のことである。 『彼』の言ったように日本は負けて。 了 色色書きたいことがあってその殆どを削り取った話。 判る人には解るでしょうが、少年は妙見菩薩です。 ただ此の妙見と云うのは非常に難しくて…。 童形であるらしいんですよ。 神さま(佛?)なんだから、非常に美しいか、醜いかのどちらかで、 書くのが樂しいから美しい人にしてます。 一応『彼』の部屋の間取りは曼荼羅の心算です。 |