フミヲハベンテンブチニシズンダ





辺りは深閑と謐謐ひつひつとしていた。
川の水面が白かった。
人の躰から吐き出される息は一瞬視界に白い煙幕を張る。傘から下駄先に滑り落ちたそれを見遣って視界を広げた。 橋の赤い欄干に寄って人が立っていた。
此の雪の最中に外套も羽織らず、濃紺の衣服だけで其処に在った。
橋の下の緩緩とした流れを見遣っている。
不意に動かした傘から人物の顔が窺えた。未だ推さない、鍛え上げられた刀の切っ先にも似た少年の横顔。十代も未だ若い、可憐とも言うべき年頃である。衣服は濃紺の詰襟制服で、顔が寒気に赤らんでいた。柔らかな黒髪は雪に湿りを見せ、細い銀縁の眼鏡は冷え切って露さえ蓄えていた。
彼の視線は、ただ薄く雪の消え行く緩慢として見える河の水面に注がれていた。
然程に道幅の広い橋ではなかった。
欄干は紅く滲むように剥げ落ちた真鍮の宝珠がその上に冠されていた。足元は石造りである。此の辺りの住人が岸を行き来するためだけに作られた年代物のそれは何処か優美で傘を差して行き違えば、傘の端が互いに接する程に狭い。
金亀町こんきまちはそうした橋を持つに相応しい狭い路地が縦横無尽に走った小さな街だった。
青柳は少年の傍を通り過ぎようと傘を当たらぬよう傾げた。
次の間には、不意に立ち止まらざるを得なくなった。
外套の袖を掴まれたからだ。
「すみません」
少年の玲とした声が聞かれた。
些か驚いて返事をすると
「あちらにいらっしゃるのですか、」
訊ねられた。
少年は何処か切迫した様子に見えた。
彼の指が坂を指差した。青柳の進路方向、坂を渡った先には坂があった。丘の斜面を幾重にも折り曲がりながら上昇して行くその坂は『燈の坂ひのさか』と言った。
金亀町は坂上と坂下でまるで別の町のようだった。
雑把に言うならば、坂上は所謂旧市街であり、幾多の旧い家並みや寺院が並び、細い喰違いをした路地と、清水の堀が廻っていた。坂下は新市街であり新興住宅地であり商業的な地域であった。
その坂上と坂下の間には善知鳥川うとうかわが流れ、其処に掛かる橋を愁和橋しゅうわばしと云い、結ぶ坂を燈の坂と言った。
「坂上、ですか?」
「ええ…一緒に行ってはいけませんか?」
少年はひしと青柳の袖を掴んで離さない。
彼の軆が微かに震えているのを見遣って青柳は空を振り仰いだ。鈍く曇る空の何処から生まれてくるのか、雪が幾重にも重なって螺旋を描いて舞い落ちてきていた。
「そりゃ、構いませんが…何故?」
「……一人じゃ恐くて行かれないから」
燈の坂は鬱蒼とした木々に囲まれている。此の雪中に薄闇を作り出していた。
青柳の眼が細まり横目で少年を見た。
「いいよ、一緒に行きましょう」
雪の中に人の気配は見られない。
愁和橋の上流側には真新しい橋が架かっていて自動車の往来があるのだが、それさえも今は薄暈りとした靄の中で、望むことは出来なかった。
少年は青柳の傘の軒に身を寄せた。袖を掴んで離さなかった。
沈黙に耐えられない青柳は少年の横顔と正面を幾度も目線を往復させた。
「あ、ああー…君は…何をしていんです?」
「淵を、見ていたんです。―――――知ってますか?」
「え、」
「もう水に削られてしまったけれど、あそこには弁天様の摩崖仏が彫られていたらしい。それで弁天淵と言うんです。穏やかに見えるけど、あそこだけは余所よりもずっと水嵩が深くって流れも速い。大雨が降った後などは渦を巻く」
「はぁ、」
少年は河に面した切りだった崖を指差した。崖壁からは何の木であろうか、逞しくも天に伸びて黒色の膚をした樹木が生えていた。
橋を渡り切った。
目の前では坂が緩やかに闇の中へ通じていた。
少年は一層青柳に身を寄せた。
紙のような顔色だった。 死人のような。
「此処が恐いんですか?」
「貴方は―――――恐く無いのですか?」
灯は何処にも無かった。静謐な暗闇だけが辺りに満ちていた。
これ程の闇だっただろうか、と青柳は俄かに恐くなった。
基本的に青柳は酷く恐がりなのだ。
だが隣に少年があるためか、心無しかその恐怖も薄らいでいる。
「……たった一度史生と此処を歩きました」
何も見えなかった。
ただ坂の曲がりに置かれた、石燈籠だろうか、点った燈だけが照って見えた。
「思えば話したことも無かったのに、何故あの時共に行こうと言ったのか知れない」
自分の手も何も見えなかった。
闇と自分の境界が解からなかった。何処から自分で何処からが外界なのか、判らない。もし此の身が液躰であったなら、既に辺りと融合して居る筈だ。 だが此の己の思惟と、掴る少年の感触と語る声だけが己と言う個の存在証明だった。
酷く静かだった。木々の騒めきも無い。
「僕の家は、坂上で御屋敷と呼ばれる大きな家です。旧態依然とした慣習の残る坂上でも御屋敷は特異でした。今尚、周囲に財力と権威を振り得る家でした。例えば正月ともなれば辺りの人々は挙って挨拶に訪れる程で――――」
何を話し出すのだろう、と訝しく頸を捻った。だが捻った先に少年が見える筈も無い。
此の、暗闇だ―――――
奇妙なな拾いものをしてしまったのだろうか―――――。
「僕は長子でした」
「というと…」
「僕には同日に数時間差で産まれた弟が居ます」
少々不思議な物言いをした。
双児ふたごですか?」
さざめくような小さな笑いが起こった。
「いいえ―――――」
笑いに続いたのは凛とした声だ。
「…思えば…思えば父も可愛そうな人だったのかもしれない。」
呟いた。
「彼は日本画家として生きた人でした。もっとも然して才能が有るわけでもなく、ただ毎日を、命の消化をする日々の退屈さを、絵を描くことによって紛らわせているような人だったんです」
少年は饒舌だった。
「御屋敷は戦後の財閥解躰や農地解放の憂き目にあっても、まるでびくともしない重厚なものでした。父はそうした御屋敷の財産を背景に、日日を消費していた。日頃は大人しく絵を描いているのですが、世の中には彼の持つ財が酷く魅力的に見える人間が居るんですよ。そうした人人は白地な猫撫で声で寄って来る。…来るもの拒まず去るもの追わずが身上だったのかは知れませんが、兎に角そういう人でした。父は。何に関しても、否とも言わない代わりに諾とも言わない」
少年は言葉を切った。そして息を吸う。
「史生は彼の正妻の子供でした」
少年の話法は、宛ら、話し出す前に凡ての文脈は楽譜のように整えられ、その譜面には息継ぎブレスの記号さえ記されていて、それを正確に実行しているようだった。
「僕の母は月琴をする芸妓でした。霽月亭せいげつていのお座敷に上がった母は上座に居た何事につけて風雅な父に惹かれた。そして愛した。…芸妓風情がとんだ岡惚れだ。御屋敷には古くて良い月琴が有って、父はそれをあげようとお座敷で約したんです。彼特有の気紛れですよ。そんなことをされたら、花柳界で喘いでいるしがない芸妓は熱を上げるに決まっているでしょう?終には彼女は御屋敷に棲むまでに成った。一つ屋根の下に正妻と妾が居るんだ。互いに居心地は悪かったでしょうね。だが父は何も言わない。そして双方をまるで平等にした彼には同日に二人の子が出来た」
それが此の少年とその『史生』なのだろうか。
だが少年は何も言わなかった。
燈が道が曲がっていることを報せていた。
「母はもう御屋敷にはいません。正妻も―――――」
「そ、それはまさか…」
最悪の状態が脳裏を掠め声を震わせると、傍で苦笑が聞かれた。
「正妻と妾が殺し合うのですか?そんな小説のようなことは起こりません、」
鰾膠にべも無かった。
「母は僕を産んだ或る日―――――唐突に悟ったんです。父は誰のことも見ていない、と。だから今は御屋敷を出て別の男に嫁いでます。邪魔にしか成らない僕を御屋敷に置いて」
どうせならもっと早くに悟ってくれればよかったのに、と他人事のように冷静に言って退けた。
それは自己否定ではないのかとも思ったが青柳は口にしなかった。
「僕は史生と口を利いたことも無かった。御屋敷は、兎角広い。十何年共に暮らそうと、ちょっと気を使えば顔を見合わせずに居ることなど容易なんです。何の因果か、学校ではいつも一緒の組でした。こうした醜聞は隠せませんから、近隣諸辺は勿論学校でも皆僕らが胎違いの兄弟であることを知っていた。そして、多分彼らの親から含まれていたのでしょう。僕らを腫れ物のように扱う。僕と史生は一度も口を利いたことも無いのに」
謹厳な冷気の中、語る少年の声は冴え渡った鋼に似ている。
「史生は―――――誰からも特別な人物だった。彼が其処に居るだけで場は華やいだ。無条件で人が彼を愛する。そうした天性の特権を持って産まれたんです。特技は剣玉で、剣玉だったら半永久的に出来ると豪語して憚ら無かった。実際、彼が失敗した所なぞ見たことも無かった」
史生と言う少年のことを、数時間差で産まれた弟のことを語る少年の口調は酷く穏やかだった。
日の終わりを告げる夕暮れにも似て。
劫火の後の細い火にも似て。
青柳は現れた坂の中途に浮かぶ燈の誘導に従った。
その燈だけが道標だ。
「あの日、僕は先生に呼び出されて放課後遅くまで残っていた。教室に荷物を取りに戻ると史生が机に惚と座っていた。僕は鳥渡気拙かった。けれど史生は僕を見て柔らかに笑うんです。何度か咳払いをして史生は僕に寄って来ました」
そして―――――


 「暁生」
初めて史生から名を呼ばれた。
兄弟であっても普段御屋敷では顔も合わせず、遊ぶ相手も違っていた。だから酷く違和感があってまた面映くて、非常に困った。
率直に言えば居心地が悪かったのだ。
けれど互いに同じ姓を「君」付けで呼んでみた所で、如何にも空々しく、他に呼びようが無いのだ。
暁生は幾辺が逡巡して漸うと頷いた。
「大分掛かったみたいだね」
「え、」
「先生との二者面談」
暁生は机の中から荷物を取り出し鞄に詰めていた。幾冊かの帳面には造士館学校の文字が並んでいる。原則として授業で用いる帳面は学校指定のものだった。
もっともそれは原則であり、それを律儀に護る生徒の方が少数マイノリティであった。
「まさか―――――待っていたのかい?」
万一にもそんなことは無かろうと半分笑いながら訊ねた。
「うん、まぁ…そんな処」
史生は鼻の頭を掻いた。
「暁生には知っていて貰おうと思って」
「え、」
短い声を漏らして暁生は初めて史生を正面から凝視めた。
「僕は学校を出たら此処を離れようと思うから」
互いの眸を覗き合う。
眼鏡に映る史生の整った容貌。
「そうしたら少しは暁生とも兄弟らしくなれるのかもしれない、」
よかった、と笑んた。
「口を利いて貰えて。…ずっと、ずっと僕は暁生に嫌われていると思ってた」
「誰も―――――嫌っているとは、誰も言っていないと思うけど?」
突き放した暁生の口調に、はにかむように曖昧に頷いて史生は鼻の頭を掻いた。
「うん…そうだ、そうだね。…誰も言って無い、な」
近くの机に腰掛けた。
行儀が悪い、と咎める言葉が口の中で止まり、出ようとしなかった。
「ずっと夢だったんだ」
「何がだよ、」
木造の校舎の壁に掛かったスピーカから音楽が流れた。音楽に続いて、雑音交じりの校内放送が生徒に帰宅を促している。
「暁生と話すこと、」
二人は校内放送を無視していた。
耳に入ってなかったのかも知れない。
「僕は別に―――――」
疵付いた表情も見せていなかった。それこそが真実だ、と覚りきってもう痛覚も無いのだ。
「だろうね。君が、さ、僕に興味が無いことなんて知っていたよ。でも、僕は…ずっと君と居たかった。兄弟なのに、ってずっと思ってた」
「は?」
怪訝に顔を顰める暁生を史生が眩しそうに眼を細めて凝視めた。
「一緒に帰らないかい?」
史生の提案を拒もうと思えば簡単だった。だが、気が着くと一緒に坂を上っていたのだ。
他愛ない言葉の押収だった。初めは何を話してよいのか判らなかったが、史生は聞き上手であり話し上手だった。身振り手振りを加えて、くるくると変る話題も豊富で、終いには二人で大笑いをしていた。坂を覆う樟は緑だが、遠方に紅いに染まる崖段丘が見え「血の海だ」と言うと「詩人だ」と笑った。磨崖佛が其処に在ることを教えたのも史生だった。
あと少しで坂を上り切る処で史生の足が停まった。
此の先は―――――坂上なのだ。
旧態依然とした坂上。其処では二人がこうして大口を開けて笑い合うことさえ、眉を顰められるのだ。
史生は暁生に口付けをした。
一瞬のことだ。
思わず暁生は躰を引き、二人の間に距離が出来た。
口を閉ざした二人の眸は互いの姿を凝視していた。僅かな二人の距離。
その距離へ、
史生が手を伸べた。
風鳴のような史生の声。
暁生に向けて。
距離を埋めるように。
「共に行かないか?」
そして―――――


 道は何処までも続くような気がしていた。だがそれは幻想や錯覚に他ならず、実際には坂を上りきり、電燈が雪の中ぽつりと燈っていた。
少年の饒舌は止んでいた。
語り終えた安らぎに静かに息衝いている様だった。
「それで―――――?」
青柳は続きを促す。
「もう史生は…僕に近付くことはなかった。あの広い屋敷の中で会うこともなく、いつもどおり平穏に過ぎた」
雪に閉ざされた通りにぽつりぽつりと電燈が燈っていた。
辺りは暈りと明るい。先までの暗闇が虚構のようだ。
「ああ、彼処だ」
「え、」
「御屋敷です。…どうも有難う御座いました。宜しかったら、上がっていって下さい。寒いでしょう?」
「あ、…ああ。それは…」
言葉を濁していると、大きな門の前に着いた。
黒い板壁と屋根には萱を頂き、緑色の苔が彩っている。松が門の上から覗いていた。
大きな楼門は、それが御大尽の持ち物であることをそれと報せていた。
暁生の手が、白い生きては居ない手が、門に触れる瞬間、青柳は思わず手を取りった。
自分の手を取った青柳をゆっくりと暁生は見上げた。
秀麗な容貌をしていた。
凄絶なまでに、澄んだ蒼い眸が眼鏡の向こうで青柳を見据えている。
青柳の口は自然と動いた。何ものかに憑依されたかのように、言葉が口をついたのだ。
「君は――――――史生が好きだったんだろう?」
「………え………」
暁生は眼を瞠った。脅えているようにも見えた。自分の心の内を人に知られてしまった脅えが其処にあった。
「何故、」
青柳は暁生の冷たい手を力を籠めて握った。
「何故、共に行かなかったんだ――――――?」
「ええ…行きたかった。史生の手を取りたかった。でも――――――」
其処に坂上の人物が通り掛かったのだ。距離を保ったまま、史生へ背を向ける以外出来なかった。そして二度と史生と在ることは出来なかった。
「本当は行きたかったんだろう?彼と。否、行きたいんだろう?」
「………そう、行きたいんだ。あの手を取りたいんだ。で、でも彼は僕の前から消えてしまったんだ。僕を置いて――――――」

「史生は弁天淵に沈んだ」

青柳の言葉に眼を見開く。
そして真っ直ぐに青柳を見詰めた。
「思い出してくれ。彼は弁天淵に沈んだんだ。君を想って、」
暫し其の侭佇んだ。
そして呟く。
ああ―――――
「そうだ。彼は僕の為に彼処に沈んだのだ――――――」


 空に浮かんでいた青柳の手が、重力に従うように落ちた。
青柳は門を開き、邸内へ進んだ。
前裁を掻き分けるように露地が伸び、玄関に至った。
入ると帳場から人が出てくる。初老に差し掛かった仲居である。
「まあま。そんなにお濡れになって。傘をお持ちに成らなかったんですか?」
前垂れをした丸髷の仲居は手拭を差し出した。
「持って出たんですが、どうやら川に落としまして。申し訳ありません」
驚いた顔をされた。
「愁和橋ですか?」
「ええ」
外套を取って、雪を払った。帳場の長火鉢から湯の沸く音が聞こえていた。
「じゃあ、燈の坂を?」
「上がりました」
「よくぞ、まぁ!狐にも遭わずお帰りになれましたこと!」
仲居は驚いたように声を上げた。 「狐―――――ですか?」
「坂の中途に洞穴がありましてね。ご覧になりました?」
「ええ…」
曖昧な返事をした。あれほど暗い中で周囲が見えるわけは無い。
「此処らじゃ狐さまをこんこん様って言うんですけどね。そのこんこん様が洞穴に祀られてましてね。大晦日なぞには、あなた、近隣諸国のこんこん様が寄り集まって、あそこは狐火で埋め尽くされましてね。狐ですよ。怖いじゃあり居ませんか!それで誰も近付きゃせんのですよ」
「はあ。貴女はそれ、見たことあるんですか?」
「辞めて下さいよ!そんな怖いこと!ま、何も無くて良かったですこと」
仲居の安堵顔を眺めやって、青柳は濡れて額に張り付く髪を掻き上げた。
「ああ、ええ。でも…幽霊になら、逢いましたよ」
「幽霊ですか?」
「ええ…綺麗な少年でした」
青柳は頭を下げて履物を脱ぎ、框を上がった。
 部屋へ戻ると、躰が酷く重かった。風を引いたのかもしれない。洟を啜った。
室内には女性が会津塗りの座卓に肘を付き、退屈そうに本を繰っていた。
「ただいま」
声を掛けると彼女は走り因ってきた。
「惣一さん!全くもう、何処まで行っていたの?鳥渡雪見の散歩だなんて。何処が寸暇なの!?こんな長い時間まで。まあ、びっしょりじゃないの。丈夫じゃないのだから気を着けなさいな。子供じゃないのよ?傘は持って行かなかったの?宿の人も渡さないだなんて不親切だこと。帰る際にでも一言申しましょうね。さぁさ外套を貸して頂戴。乾かさなくちゃじゃないの。あら、何ぼさっとしているの?さっさと湯に浸かってらっしゃい。此処のお湯は胃に良いそうよ。胃弱さん。その間に布団を敷いて差し上げるわ」
捲くし立てられた。
口と同時に手も動いて、外套と襟巻きを取り上げ、衣紋掛けに掛けて火鉢の傍に吊るした。
「え…と、あの…義兄さんは?」
「お電話です。お仕事よ。年末年始くらいきちんと休んでもいいようなものだけれど、国政を担うお仕事ですからね。いつでもどんな時でも気が抜けないのでしょう」
青柳は室の端に追いやられていた自分の荷物を弄り出した。
「惣一さん?」
濡れた外套を着込み、襟巻きをして鞄を持った。
「僕は帰りますよ。稀には義兄さんと新婚気分も好いでしょう?」
「だって…困るわ。此の年末は一緒に過ごすって言う前々からの約束だったじゃない。違えないで頂戴な。第一、貴方帰っても一人なんですよ。此の年の瀬に」
「普段も大抵は一人です。いざとなったら千木良の処にでも転がり込めます」
青柳は、今は樺山の姓を名乗る八歳年長の姉を見詰めた。彼女の秀麗な容貌は到底姉弟とは思われないだろう。
「姉さん、あなたはいい歳をした弟に世話を焼き過ぎる」
何とか圧し止めようとする姉の肩を支えた。
「―――――姉さん、此処は悲しすぎるから、僕はいられないんですよ」
「何か、あったのね?」
弟の体質を熟知する姉は静かに問うた。
「……すみません」
青柳がこういう言い方をするのに対し彼女は決して逆らわないのだ。深く追求もしない。


駅までの長い道のりを青柳惣一はゆっくりと歩いた。
二人の死を悼みながら





フミヲハベンテンブチニシズンダ







03/11/19

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