相 傘 雨の中を誰かが傘の中へ入ってきた。 「寸暇相傘をお願いしたいんですが、宜しいっすかね」 長い雑木林を往く此の辺りは、雨宿りをするような軒さえなかった。木の下で雨宿りでもすれば良かろうと周囲を見遣ると、此の雑木林は禿ていた。枝には一つも葉がないのである。 荒野だ。 不図横を見た。 絣格子の二重をきている。 辺りが薄暗い所為か、傘の中へ入った所為か、顔が見えなかった。ならば此方も同じように見えているのだろうと、人と顔を合わせることが苦手なので安心した。 「能く降りますな」 軽快な口調である。 「え、ああ。愁霖って言うんですかね」 晩秋の雨は兎角冷たい。 ふるり、と躰を震わせた。 雨が垂れ込めるに連れ、気温が低くなっているのだろう。 「私もね行くところなんですよ」 「え、」 「やあ、連れが居てよかった」 懐から白い和紙を取り出していた。 下世話で好奇心ばかりが旺盛なのでそれを覗き込みたいのだが、如何にも頸が廻らなかった。 朝寝違えでもしたであろうか。 「噫私もね、一時は共に逃げようと思ったんですよ」 「はい?」 「でもねぇあっちはヨシチョの売れっ子でね。一本幾らだったか能くは憶えてないんですよ。でも、眼ん玉飛び出るようなもんだっただけは確かで」 横目で覗く和紙には確かに墨が走っている。 「知ってますか?墨って人の体に刺すと綺麗な藍に成りましてね。私の名を健気にあの痛みに耐えていれたのかと思うとこう…いいもんじゃないですか。あの白い肌に入れるんですからね」 軈て男は和紙を左右に振る。 何かが和紙の上で踊っていた。 「約したのは芝の木戸だったんですよ。前に料理屋があるでしょう?その座敷でね。は、私は端から往く心算はありませんでしたがね、閨での戯言の心算だったんですよ」 和紙を左右に振る腕の動きは段々大きくなって来た。 男の左肘が右側の肋骨を打ち付ける。然しまるで気にした様子は無かった。 「何処に行くって言うんです?伊勢参りですか?第一通い詰めて金も無い。あっちだって幾ら売れっ子たって年季奉公だし、金なんざ有る筈無いんです。一緒に居たってその内筵持って夜の土手歩くのがザマでしょう?」 「それって蕎麦とか――――そういう奴ですか?」 「蕎麦?蕎麦ってあんた。……ああ。――――夜鷹蕎麦。そうそう、夜鷹って奴だよ」 「で、あの…」 一向に揺らす手を止めない。 「だからさ、私は行かなかったんだよ。来る訳も無いって思ってからね」 「来る訳、ですか――――?」 「だろう?誰がそんな先の見えない道を選ぶかよ」 「行かなかったんですか?」 今日の気温は一体何度なのだろう。傘を持つ手が震えている。寒い、寒いのだ。震えが止まない。 「言ったただろう。行かなかったって」 「だったら―――――――――」 「え、」 動かす手を止めた。 そして何か大きなものが和紙の上から、ぼとり、と落ちた。 ―――――――――何故、生首を持っているのですか? 足許を転がる人の頸。 眼を開けて、此方を見ていた。 「貴方は、行ったんでしょう?芝の木戸へ。まさか来る筈も無いと思いながらも、期待をして。そしてその期待を押し隠すように時間に遅れて。否――――――来ていなかった時への保身かな?」 足許で頬を泥に汚した人の頸は瞬きをした。 未だ少年の様な頃合で、酷く美しい面をしていた。 「そして其処で知ったんだ。金で売られた人足が逃げるのは御法度。娼妓も同じだ。それを舖が追ってくるのは当然です。彼は捕まったんだ。貴方が来るまでの間に。そして―――――――――」 足許を見る。雨の跳ね返りで泥が頸を汚す。長い睫毛にさえ泥が付着した。 「咽喉を掻いたんです」 頸は言った。 「さあ、抱き締めてくださいな。一緒に地獄へ往く約束でしょう?」 それは――――――――― 閨で語った戯言だ。 しかし彼にとってはそれだけが、真実だったのだ。 此の世が虚構に飾られた快楽と絢爛の中で。 男は頸を掬い上げ、絣格子の二重の懐に丁寧に仕舞った。 そして――――――――― 雨の音が聞こえた。 くしゃみが聞こえて診療室から緩慢に言った。 「今日の診療時間は終りましたよー」 だが客は無遠慮に上がり込んできた。診療室の扉が開いた。 「千木良、」 声を掛けつつ着流しに羽織と言った儘の普段着で青柳が入ってきた。 「なんだ、青柳か。どうした風邪か?お前少しは摂生しろよ。それで、よく大学の講師なんかやってられるな」 「今は試験中だよ。講師は休み。温かい紅茶でも呉れないか?」 「俺は今仕事中。急須の出涸らし自分で注いで飲め」 濡れた羽織を脱ぎ火の傍の椅子に掛けると、急須から茶を注いだ。本当に出涸らしだった。今日此処に来ると伝えていたにも拘らず持成す気は更々無かったようだ。 「どうした?いつもに増して覇気が無い」 「うん…道すがらね」 「また変なのに遭ったのか?お前」 「まあ、ね」 千木良は書物から顔を挙げ漸く来客を見た。 「顔が青いぜ。少しは摂生しろよ」 「向うが寄って来るんだ。仕方ないだろう?」 書物を覗き込むが独逸語で書かれたそれは到底しがない国文学講師に読めるものではなかった。 諦めて火の傍に腰を降ろすと、書物の紙をを綴に挿んで、青柳に向き直った。 「で、今日は何だったんだ?」 冷たくなった茶を口にしつつ千木良は青柳の話を聞いた。 外の雑木林は静かに愁霖に濡れていた。 「男は地獄へ行ったんだ。彼と連れ立ってさ」 |