昔、とある海の底に、人魚の住んでいる国がありました。
そこに住む人魚姫のカインは、歌と踊りが上手な事で知られていました。
今日やっと16の誕生日を迎え、初めて海の上の、人間の世界を見ることが許され、
カインは、一時の時間も無駄に出来ないとばかりに、大急ぎで海の外へと向かいました。
期待に胸躍らせ、カインが海面から顔を出し、見るもの全てに感動している、そんな時でした。
一隻の、大きな船がカインの目を引いたのです。
その船の上ではパーティーをしているようで、楽しげな音楽や笑い声が流れて来て、カイン興味をくすぐります。
飽きることなく、カインがその船を眺めていると、船べりに一人の男の人が現れました。
闇のような長い黒髪が、風になびいています。
カインはその男の人に目が釘付けになりました。
「・・・あんな人も、いるんだ・・」
思わず、そう呟いた時でした。その男の人がこちらを向いたのです。
「!?」
姿を見られてはいけないと、兄であるマトリにきつく言われていたカインは、素早く海の中へと、身を隠しました。
「・・・びっくったぁ。」
どきどきと、うるさいほどに騒ぐ鼓動を、カインがやっとの思いで落ち着け、もう一度海の中から顔を上げると、
空はすっかり暗くなり、星がたくさん光り輝いていました。
「もう、こんな時間・・・」
帰らなければ、と思ってはみても、どうしても船べりにたたずむ男性から、目が離せないでいるカインでした。
時が経つのを忘れ、カインが何時までもその船を見ている間、空の様子が変わり始め、カインがきずく頃には、
ポツリ、ポツリ、と雨が降り出し、あっという間に海は嵐となってしまいました。
人魚であるカインにとっては、たいした事のない嵐ですが、船の上の人間にとっては、大きな嵐だったのでしょう。
大きな船は荒波に揉まれ、幾度も大きな波を被っています。
「あの人は、大丈夫だろうか・・・?」
目を奪われた、男の人を心配するカインの嫌な予感は当たりました。なんと、船のメインマストが雷に打たれたのです。
雷の轟音、ゆっくりと倒る大きなマストに驚いたカインですが、次の瞬間、大切な事を思い出しました。
「あの人が、溺れてしまう!」
人間は陸の上でなければ息が出来ない、と言う事を知っていたカインは、慌ててあの時に見た男の人を探しました。
その人はすぐに見つかりました。
カインは流れ来る、尖った木材に少しでも当たったら大怪我する事も忘れ、ただこの人を陸へ上げなければ、という思いで
いっぱいでした。
気を失っている男の人を、やっとの思いで海辺に上げる頃には、嵐も去り、薄ぼんやりとした朝日が差し込んでいました。
朝日が差し込む海岸で、カインは、じっと助けた男の人の顔を眺めました。
目を閉じているので、目の色はわかりませんが、綺麗な黒い髪を持っている人でした。
しかし、その顔色は悪く、寒さのためか顔は青白く、唇は紫色になっていました。
カインはそっと、男の人の顔に手を当ててみました。
思った以上に冷えている事が分かります。
カインはどうしていいか分からず、とりあえず男に自分の体を寄せ、体温を分けようと抱きついていました。
男の体から聞こえる鼓動に、何故か顔が赤くなってしまうカインでしたが、
強く、何度も腕を擦ってやると、次第に体に赤い色が戻ってきました。
「よかった・・」
これで安心したと、カインが体を離そうとしたとたん、
男の手がカインの顔へと伸びてきて、そうっと、触れたのです。
びっくりして、カインが男の顔を覗くと、男は目を薄っすらと開けようとしていました。
「・・誰だ?」
男の声は思っていたのより低く、それがまたカインを驚かせます。
「お、俺・・・」
カインはそこでまた、兄の言葉を思い出しました。
『いいか、人間に俺たちの事を、見られたらいけないからな?これだけは守れよ?絶対にだ。』
いつもはお気楽な兄、マトリに真剣にそう言われ、カインはこの約束を守ろうと、心に決めていたのです。
「頼む、見るな!」
慌てて、目を開きかける男の両の瞳を己の手で塞ぐカインに、男は目を塞がれたまま、カインの髪を梳き、話し掛けます。
「お前は誰だ?お前が私を助けてくれたのか?」
人に、正体をばらしていいのかどうか悩むカインのもとに、近くの教会の鐘の音が届きました。
それと同時に、人が近づいてくる気配がします。
「しばらく目を閉じていてくれ!」
それだけ言い残すと、カインは急いで海へと引き返しました。
海の中に入る瞬間、男の声が聞こえた気がしましたが、カインはそのまま、振り向きもせずに海の底へと潜って行きました。
あれから幾日か過ぎ、カインはあの時の男がアークと言う名で、この近くの国の王子であることを調べました。
彼は、いろいろな場所で褒め称えられる、頭脳と力の持ち主だと言う事も調べました。
生涯の伴侶を決めようと、城の者が総出で、彼の妻となるべき人を探している事も調べました。
調べれば調べるほど、カインはアーク王子のことで、頭がいっぱいになって行きます。
どうしても、彼の側へ行きたくてたまらなくなったカインは、こっそりと城を抜け出し、魔女と呼ばれるカノトの所へと向かいました。
「カノト・・」
「あら、カイン。どうしたの?私に何か用?」
「・・・人間になれる薬って、あるか?」
恐る恐る聞く、カインの言葉に、カノトは見事に固まりました。
「な、何言ってんの!?人間になるってそんな簡単な事じゃないのよ!?」
「わかってる!どうしても!どうしても、彼の側に行きたいんだ・・・。頼む、このままじゃ、俺・・・」
カインの強い説得に心動かされたカノトは、人間になりたい理由と、一つの代償をカインから受け取ることで、それを承諾しました。
「私が代償として貰うのは、あなたのその声よ。構わないでしょ?」
大きく頷くカインに、複雑な顔をしてカノトは言いました。
「本当にいいの?薬で人間になったとしても、一歩歩くたびにナイフで足を刺したように、痛い思いをするのよ?
それに、もし、あんたの言う、そのアークって言う人とあなたが結ばれなかったら・・・あなたは水の泡となって死んでしまうのよ?」
「構わない」
きっぱりと言い切る、カインの強い意志を持った瞳を見て、カノトはそれ以上何も言わず、小さな小瓶をカインに見せました。
「いい?これを陸に上がった所で一気に飲むのよ?体が熱くなって、意識が無くなるかもしれないけど、目が覚めたら人間よ。」
「・・・すまない、カノト。ありがとう・・・」
嬉しそうで、悲しそうなカインの微笑みに、カノトも小さく笑うと、
「それじゃあ、その声をもらうわ・・・」
そう言って、カインから声を奪い、薬の入った小瓶をカインに渡しました。
カインはそれを受け取ると、ゆっくりとその場を離れました。
声を奪われるなら、兄だけにでも別れを言っておくんだった、と、カインは悲しい思いを胸に抱きましたが、その悲しみを振り切るように 陸へと、急ぎました。
海辺に着いたカインは、緊張した面持ちで手の中の小瓶を見つめました。
これを一気に飲み干せば、もう人魚として海へは戻れません。
もし戻るとするなら、その時はアーク王子の生涯の伴侶として、幸せを胸に抱いて訪れるか、あるいは、自らが海の泡となるときか。
カインは心を決めると、一気にその薬を飲み干しました。
すると、とたんに体中が燃えるように暑くなり、体中が痺れて行きます。
朦朧とする意識の中、カインはただ、これから会えるアークの事だけを思っていました。
「・・・・・・・」
意識が暗闇に引き込まれていく中で、カインは何かを呟きましたが、それは言葉にはなりませんでした。
「おい」
低い、聞きたかった声がカインの耳元で聞こえました。
馴染のある潮の香りが鼻を擽り、冷たい波が無いはずの足から、体温を奪っていきます。
「大丈夫か?」
カインがゆっくりと目を開けると、カインを抱えるように、アーク王子がいました。
「!?」
吃驚して体を堅くするカインに、アークは優しく微笑みかけ、ゆっくりとカインの髪を梳いていきました。
「こんなところで倒れていて、何があった?名は?」
優しく撫でられるたびにカインの緊張は解れていきます。
カインは目の前にいる相手に、自分がどれほど思っていたかを告げようと、アークの服にしがみ付きますが、
肝心の声が出ないのです。
「!!」
必死なって、アークに自分の思いを伝えようとしているカインですが、声を無くした今、アークにその事を伝える事は出来ません。
悲しくなり、泣き出しそうになるカインを、アークは慌てて抱き寄せました。
「すまない。お前、声がでないのだな。何も心配する必要はない、安心しろ。」
優しく、守られるように胸に抱かれ、カインは暖かさを感じました。
そのまま身をゆだねるように抱かれていると、
「私の所へおいで。一緒に暮らそう。」
と、耳元で囁かれました。
吃驚して、カインがアークの顔を覗き込むと、アークは優しく頷きました。
それを見たカインは、とても嬉しくなり、ふわり、と大輪の花の様に微笑みました。
「お前の名前を決めないといけないな、何か良い名はあるだろうか」
城へと連れられ、綺麗な服を着せられ、カインは大きな椅子に座っていました。
まるで人形のようなカインに、アークが微笑みながら優しく話し掛けています。
「そうだな・・。」
アークは、大人しく座っているカインの前に屈み込むと、目を見ながらこう言いました。
「゛カイン"はどうだ?神に愛された者と言う意味なんだが。」
カインは目を大きく見開きました。
何も伝えてはいないのに、彼は自分の名前を言い当てたのです。
「嫌か?」
カインの様子に、心配そうにアークが尋ねました。
カインは慌てて、大きく首を左右に振り、嫌では無い事をアークに伝えます。
「そうか、良かった。」
嬉しそうに笑うアークを目の前に見て、カインは、自分の頬が自然と赤く染まるのが分かりました。
そんなカインに、アークもまた、優しく微笑むのです。
優しく微笑みあう二人は、遠くから見れば、一枚の絵画のようだったでしょう。
普段はそっけない態度しか見せないアーク王子の、カインに見せる態度に城の者は驚きましたが、
二人を包む優しい空気に、王子に良い相手が見つかった、と、囁かれるようになりました。
クリーム色の髪は柔らかく、強い意思を見せる深い銀色の瞳は、まるで月の様でした。
細い体に合うのは、可愛らしいシンプルなドレスで、大人しいその姿は人形そのものでした。
そんなカインに、城の者の大半は彼がこの城の来た事を、大いに喜んだのでした。
しかし、唐突に現れたカインの出現に、怪しむ者もいるのでした。
素性もわからないカインを、当たり前のように側に置くアーク王子に心配をしているのです。
二人の仲が良いのは、誰の目から見ても確かな事ですが、だからと言って、
そう簡単にはアーク王子の生涯の伴侶として決められません。
カインのことを良く思わない者達は、アーク王子に別の姫を紹介させました。
隣の国のイーブ姫です。
カインは、ナイフが刺さるような痛みに耐え、大きな広間で、クルリ、クルリ、と、人々がため息をつくような綺麗なダンスを踊っていました。
イーブ姫が城に招待され、その歓迎にカインは大勢の人の前で踊っているのです。
一歩、一歩足を床につけるたび、とてつもない痛みがカインを襲いますが、今、カインはその痛みよりも、不安の方で胸がいっぱいでした。
イーブがアークに紹介された時分かった事なのですが、なんとイーブは、アークが海岸に倒れていた所を見つけ、助け出した張本人だったのです。
もちろん、アークを、本当の意味で助け出したのはカインですが、あの時の事をアークが憶えているかどうかは、定かではありません。
しかも、カインはあの時姿を隠し、唯一の手がかりとなる声さえ、今は出せません。
何より、イーブが、自分を助けた人だと分かった時のアークの顔が。
その後から、何かを考え込んでいるようなアークの様子に、カインは心が痛むのでした。
踊りを終え、深々とお辞儀をすると、カインはアークの側へは行かず、自分の部屋に戻りました。
痛む足を無理やり動かし、カインはベットに座り込むと、シーツをきつく握り、唇を噛み締めながら、不安と零れそうになる涙を堪えるのでした。
次の日から、確実に、カインはアークと一緒にいる時間が減りました。
夜、カインは一人城から抜け出し、桟橋に腰掛け月の輝く海を眺めていました。
風もなく穏やかな海の水面には、綺麗な月がゆらゆらと揺らめいていました。
静かな夜空の風景にカインは、このままこの海に飛び込んでしまおうかと、心の片隅で考えました。
けれど、アークがイーブ姫を選ぶとも限らないとも、心は叫んでいるのです。
この胸の思いをどうする事も出来なく、カインはただ、海を眺めていました。
叫ぶ事も叶わず、涙を流す事も躊躇われ、漣しか聞こえないこの場所に一人、座っていました。
すると、波の無かった海に小さな波紋が出来、そこからカインの兄、マトリが姿を現しました。
「よお。カノトから話は全部聞いたぜ、何で俺に相談しなかったんだよ?兄ちゃん悲しいぜ?」
そう言って笑う、久しぶりに見る兄の様子に、突然、カインは大声で泣き出したい気分に捕らわれました。
ですが、泣いたら兄が悲しむのは分かっていたので、桟橋の縁を強く握り、その衝動に耐えます。
そんなカインの姿に、マトリは力無く笑ってからカインに小さな短剣を手渡しました。
「?」
首をかしげてそれを見るカインに、マトリは真剣な顔で言いました。
「もし、お前の望みが叶わなかった場合。これでアークを刺せ。
流れ出た血が、お前の足に触れれば、お前は人魚に戻れる。」
カインの瞳を見据え、話すマトリの言葉にカインは目を見張り、じっ、とマトリの目を見つめます。
「死なないでくれよ?カイン」
「こんな所にいたのか」
突然の声に、吃驚してカインが振り返ると、そこにはアーク王子が立っていて、こちらを見て微笑んでいました。
マトリが海に戻った後、動かず、短剣を眺めていたカインをアークが探しに来たのでした。
慌てて、短剣を服の中へと隠すカインですが、その優しい笑みに、また心を痛めるのでした。
「何をしていた?一人でこんな所にいては危ないだろう?何故私に言わなかった?」
探したんだぞ。と言うアークの言葉に、悲しそうに微笑むだけのカインにアークは顔をしかめました。
城の者が、無理やりにイーブと一緒にいる事を進め、自分も、相手はこちらが招待した客だからとは思っていましたが、
最近カインとの時間が減ってしまった事を、寂しがっていました。
少しでも多く、一緒に居たいと思っているのに、最近のカインはたまに自分を避ける様子を見せます。
それどころか悲しそうな顔しか見せず、前のように笑ってはくれません。
自分の前から消えてしまいそうなカインに、アークは不安を覚えます。
「体が冷えてしまうぞ?城へ戻ろう」
差し出された手に、カインは少し躊躇してから、手を取りました。
その手はあまりにも冷たく、アークは、長い間カインがここにいた事を知りました。
手を握っているのとは反対の手で、そっと、カインの頬に触れると、やはり冷たく冷え切っていました。
「・・・こんなに冷えて・・」
呟くアークを、困ったようにカインは見つめていました。
しかし、ふわり、とカインを包み込んだアークには、カインが悲しげな様子は微塵も見せず、嬉しそうに微笑んだことを知るよしはありませんでした。
その日の夜遅く、カインは誰にも見つからないように、城を抜け出しました。 兄から貰った、短剣だけを持って。
カインが消えた次の日、城の中は上の下への大騒ぎになりました。
大事な客であるイーブ姫も放っておかれたまま、城中が、カインを探し始めたのです。
アーク王子も、カインがいないと知ると、城を飛び出し、そのまま行方知れずです。
城中の人という人が、二人を探し回っていました。
そんな中、騒ぎの原因がわからずにいたイーブ姫が、事の発端を城の者に、包み隠さず話すよう、言いました。
「僕がこの城に来てから、王子の様子は何か変だった。綺麗な舞を見せてくれた、王子と仲の良い子も何か変な感じがじ
たんだけど、もしかして、この騒ぎはそれに関係が?」
それを聞いて、城の者は包み隠さず、イーブに教えました。
カインの事を良く思わない者が、イーブ姫とアーク王子を結婚させてしまおうと思っていた事、イーブはそのためにこの城に呼ばれ、
アークの側にいさせていた事、カインはその事に気ずき、悲しんでいた事、アークがそんなカインの様子を見て、不安に思っていた事、
全てを聞かされたイーブは、静かに怒っていました。
元々、イーブにはアークと結婚する意志は無かったのです。
イーブ姫は、前まで教会に住んでおり、そこで教育を受けていたのですが、神の教えに感動したイーブは、その身を神に捧げたのです。
だから、自分には誰とも結婚することは出来ないと、そう告げると、イーブは、自分の城へと帰って行ってしまいました。
結局その日は、カインを見つける事も出来ず、アークが城に帰ってくる事も無く、皆、不安と心配を胸に留めたまま過ごしました。
カインは高い崖の上に立ち、マトリから受け取った短剣を握り締めていました。
城を抜け出したカインは、あのまま海へと身を投げようかと思っていたのですが、
どうせ水の泡となり消えて無くなるのなら、空に身を投げ出そうと、ここまで来たのです。
強い風が、カインの服を大きくはためかせて通り過ぎて行きます。
カインは大きく息を吸い、ゆっくり吐き出すと、視線を胸に抱く短剣に注ぎました。
短剣は光を浴び、キラリ、と輝きます。
マトリには、短剣をアークに刺せと言われましたが、カインにとって、アークは既に、自分の命よりも何よりも尊いものとなっていたのです。
彼を殺す事など、どうしても出来ません。
けれど、このまま彼の側にいたら、きっと自分は浅ましくも生き続け、彼の側にいたいと思ってしまうでしょう。
彼が自分とではない、誰かと結ばれれば、きっと姿を消した自分の事など忘れ、幸せに暮らしていくでしょう。
何故だかカインは、ちっとも悲しいとは思いませんでした。
ただ、別れも告げずに来た、家族の事を考えると胸が痛みます。
カインは真っ直ぐに顔を向けました。
目の前には、青く澄んでいる海と空が自分を迎えています。
最期に、人魚であった自分が、空を舞って死ねる事の不思議に、小さく、カインは笑いました。
一歩。 あと少しで、この痛みと別れることができます。
カインは短剣を強く握り締めました。
その時、ふと、自分がどうしてこんなにも落ち着いていられるのか理解しました。
もし、自分が水となれたのなら、海になり、いつでも彼を包み込むことが出来ます。
もし、自分が泡となれたのなら、空気となり、いつでも彼を守ることが出来ます。
そしていつまでも、彼の側にいる事が出来るのです。
それは、カインにとって、とても幸せなことなのです。
目を閉じ、カインは空へと飛び出しました。
「カインッッ!!!!」
何故か、アークの声を聞いたような気がしました。
風を切って落ちる体に、何故か、アークの体温を感じました。
目を閉じていたカインには、その事だけしか分かりませんでした。
アークの腕の中に、守られるように強く抱かれ、空を舞っていることは、目を閉じていたカインには、分かりませんでした。
何故、アークが全てを省みず、カインを追い、崖から飛び降りたのか、カインには、分かりませんでした。
青く澄んだ静かな海が、二人を優しく迎えました。
カインは泣いていました。
生まれて初めて、これ以上無いほどに泣いていました。
声が出ず、ただ涙を流すばかりですが、その瞳から、止め処もなく涙を零していました。
全身が海水に濡れ、ポタリ、ポタリと、髪の毛から雫が落ちていきますが、そんなことに構いもせず、カインは泣いていました。
そして、そんなカインを優しく見つめているアークも、全身、海水で濡れていました。
アークは、カインに張り付いているクリーム色の髪を優しく払い除け、その顔を覗きます。
止まる様子の無いカインの涙に、アークは困ったように笑いました。
そっと抱き寄せると、カインは強くアークにしがみ付き、涙を零します。
そんなカインに、アークは苦笑すると、ゆっくり顔を近づけ、苦しそうに呼吸をしているカインの口に、そっと、自分の唇を合わせました。
「!?」
思わず泣くことさえ忘れ、驚いてカインはアークの顔を見ました。
アークは少し照れたように笑い、
「――――――。」
カインの耳元で、何事かを囁きました。
「・・・アーク・・・・・」
カインはそう、取り戻した声で呟くと、微笑んで、最期の涙を零しました。
「カイン、声が・・・ やはりお前は、あの時私を助けてくれた人魚だったんだな。」
アークの思いもよらない言葉に、カインが驚いていると、
「見るな、と言われても、命の恩人をこの目で確かめないわけないだろう?」
「なっ、だ、って、他に方法が・・・それにあの時は、イーブが近づいて・・・・」
そこで、はたっと、カインが動きを止め、恐る恐る、アークに尋ねました。
「アーク、・・イーブ姫、は?」
心配そうなカインの頬を、アークは撫でると、優しく微笑みました。
「変な心配をするな。きっと今頃は、自分の城にでも帰っているだろう。
さっき言った私の言葉は、お前だけのものだ。城に帰り、一緒に暮らそう。」
アークの言葉に、カインは幸せそうに、見た事も無いような綺麗な笑顔をアークに見せたのでした。
それから、アークの城に帰った二人は、すぐに盛大な結婚式を、大きな船の上で行いました。
船の上の幸せそうなカインの姿を、海の中から、マトリとカノトが嬉しそうに見ていました。
カノトの手の中にある、金色に輝く短剣が、水の泡となって消えたのは、
船の上の二人が、丁度誓いの証を立てた時でした。
この日から、カインは人間として、アークの良き人生の伴侶として、幸せに暮らし始めました。
船の上の宴は、全てのものに祝福されながら、穏やかな満月の夜を迎えたのでした