真夜中のビルの屋上。コンクリートの地面に、身を乗り出せばすぐにでも落ちそうな背の低い壁。頼りのない星の光だけで明りを取っている、この場所が、今夜は少し騒がしかった。無数の、影から生れ出たかのような黒い蝶に囲まれ、首に手をあて息苦しそうに苦しむ、背広を着た30後半から40辺りの男。このビルの社員だろうか。ゼイゼイと苦しみながら、回りを飛び交う蝶を少しでも遠ざけようと、力無く片手を振りまわしている。そして、そんな男を遠巻きに眺めている男が一人。このビルの屋上には、彼ら二人しか存在していなかった。苦しむ男を遠巻きに見ているのは、半分ほどボタンを開けた黒いシャツと、黒い皮のズボン。首に有刺鉄線のような物を巻いた、サングラスを掛けた男だ。全身黒い服装をしているにも関らず、その髪は、人工的に染めただけではまず現われない銀の光を放っていた。サングラスをかけているため、その表情は読み取れないが、男は自分の肘を抱えるように腕を組んだまま、微動だにしない。やがて、蝶にまみれた男がその場に片膝をつくと、銀の髪の男は、高くも低くも無い、しかし響き渡るような声を発した。「鳴神(なるかみ)」銀の髪の男が、その名を呼び終わると同時に、彼の斜め後ろに不思議な気配が現われた。それは最初、薄ぼんやりとした青白い揺らめきだったが、しだいに形を成して行き、人の形へと変っていく。「あの男の体から奴が出る。出た瞬間を狙え。」『御意』腕を組んだまま動かない男の後ろには、濃紺色の着物を着た、男が立っていた。長い髪を一本に結わいているその姿は、今の時代には存在しない人間の姿だ。その体が、半分透けて見えなければ、小さな燐光を発していなければ、着物を着た男は、昔何処にでもいた人の姿だっただろう。目には目を、歯には歯を。悪霊には悪霊を、悪魔には悪魔を。何時の時代から始まったのか、それこそ知る人間はいないだろう。そんな遥か昔から伝わっている、不思議な力。魔と契約を結び、魔を使役する力。一歩間違えば己の魂を食われ、世の中を闇に落とし入れる力。その力を操り、使ってきた人間がいた。いや、人間と、そんな人間に使役されてきた悪魔達が。悪霊に悪魔、日本で言うなら妖怪の類は、普通の人間が思っている以上にその数は多い。必然、そんな彼らと契約を結ぶ人間も多くなる。特に、同じような血を分けた人間には、似たような能力が現れることが多い。パチリ、と鳴神と呼ばれた着物を着た男の右手に、緑色の雷の塊が小さく作られている。銀の髪の男は、風に吹かれながらも動く気配は無い。暗闇の分身のような、無数の蝶に覆われていた男が、力尽き、その場に崩れ倒れた時、男の体から、蝶より暗い影が煙のように噴出してきた。「鳴神」銀の髪の男が、後ろの男にそう呼びかけたと同時に、緑のいかずちが黒い靄に走った。いかずちが黒い靄に直撃する、その直前青白い炎がそのいかづちを止めた。『なっ!?』着物の男が驚きの声を上げ、銀の髪の男が、組んでいた腕を下ろした。その間にも黒い靄は蝶の間をすりぬけ、何処かへと逃げていく。苦しんでいた男の声が止み、辺りに静寂が戻る。倒れた男から、一匹、また一匹と黒い蝶が離れ、夜空へと舞って行く。「ロキ」銀の髪の男は、真っ直ぐと前を向いたまま、別の名を呼んだ。すると、今度は二人の前方に深い緑色の揺らめきが現われ、次第に人の形となっていく。緑の揺らめきから現われたのは、大きなマントを羽織り、楽しそうに唇を歪ませた男だった。『黯主(あんしゅ)我が主。どうして俺を出さない。』『ロキっ!貴様のせいで取り逃がしたではないかっ!』『鳴神、テメェの声は聞きたかねぇ。黯(闇の)主(あるじ)。どうして俺を使わない?』「ロキ、お前の力は必要が無い。邪魔をするな。」『黯主。いや、百済(くだら)深景(みかげ)。苦労して手に入れた俺の力を何故使わない。』銀の髪の男、百済 深景は小さくため息を吐くと、掛けていたサングラスを取った。その瞳は、右が透き通るようなエメラルド、左が澄みきったブルー。「ロキ、お前の力は大きい。大きすぎて使えない。お前自身、力の加減をすることが嫌いなようだしな。これは仕事だ。この辺りをぶっ壊したりでもしたら、責任を取るのはこの俺だ。」「力の加減が出来るまでは、お前は使わない。」魔王の一人だとしてもだ・・・。男がそう小さく呟くのと同時に、ロキは悔しそうに唇を噛みながらも現われた時と同じように、緑の揺らめきとなって消えた。「鳴神、お前も戻れ。」『しかし、黯主・・・。』「戻れ」小さいが、響き渡るような冷たい声と左右の違う瞳に睨まれ、魔の一人が、青の翳みとなって消えた。男はサングラスを掛けなおすと、自分の側を舞う一匹の黒い蝶に目をやった。蝶は不安定にその場に舞っていたが、やがてひらひらとその場から離れ、ビルの外へと飛んでいく。銀の髪の男は面倒くさそうに、小さく息を吐くとビルの屋上から飛び出した。逃げた黒い闇を追って。男の長い夜は、まだ終りそうにない。