第85話「10kmマラソンで得たもの」


井上夢人著「オルファクトグラム」は、姉を殺害した犯人に襲撃された主人公・ミノルが、1ヶ月生死の境を彷徨った挙句に犬並みの嗅覚を得ると言う物語である。2001年度「このミステリーがすごい!」で4位に撰ばれている快作だ。

SFやファンタジーにおいて、主人公が何かをきっかけに突如特殊な能力を得ると言う前提はよく見掛ける。この「何か」は、人間離れした力を得る為に代償として、「オルファクトグラム」の様に生死の境を彷徨うぐらいの事故である場合が多い。例えば、念じるだけで物を燃やす能力を得るきっかけが、父ちゃんにげんこつで殴られたとかだったら、世のカツオは全員そこらじゅうに火をつけまくっていることだろう。

 

 さて、今回何故こんな話しになったかと言うと、実は僕もそういった特殊能力を得たのだ。

またまた、この27歳の会社員は何を言っているのだと僕の脳を疑う常識人も沢山おられるであろう。確かに27歳の会社員が特殊能力を得たとか言っても誰も信じてくれないに違いない。そもそも最初は自分でも信じられなかったのだ。しかし、やはり僕の得た力は本物なのだ。

 

 目を閉じでも景色が見える。

 

のである。

気付いたのは、先日電車の中で寝ようと思った時だった。目を閉じて、うつむいて、いつもの睡眠スタイルに入ったのに、自分の足元が見えている事に違和感を覚えた。そしてそのまま顔を上げたら、視界は足元から向かいに座っている人の顔になった。間違いなく目を閉じているのに。

試しに、今日は目を閉じてJR名古屋駅のコンコースを歩いてみた。元々僕は少々歩くのが早いのだが、いつもの歩くスピードでコンコースを突っ切る事が出来た。前を歩く人の歩くスピードが僕より遅ければ追い越したし、目を閉じて歩いている僕を見て避けてくれた人も居たが、基本的に雑踏で人の顔を見ている人など少数で、何事も無かったように沢山の人と擦れ違った。しかし誰ともぶつからなかったし、柱にも激突しなかったのである。階段も難なくクリアした。

 

 はっきり言って、本物である。僕は目を閉じていても世の中が見えるのだ。

この能力は主に、登山中に突然の雨に降られた為にとりあえず見付けた無人の山小屋に非難した時に役に立つ。

 

「あぁん、服がびしょ濡れだよぅ」

「まったくだ。これは服を脱がないと風邪をひいてしまうな」

「え、でも恥ずかしいじゃない」

「そんな事言ってる場合じゃないって。僕は目を閉じてるから。見えないから」

「そ、そう?ちゃんと目を閉じててね。絶対見ちゃダメだからね!」

 

 と言う訳で、今年の夏、僕と一緒に山に登ってくれる女性を募集する。雨具は絶対に持参しない事。

 

 さて、この様に非常に有益な特殊能力を、僕はどういう経緯で手に入れたのだろうか。

皆さんも参考にされると良いかと思い、ここに特別に掲載する。

 

ある日会社の先輩から「マラソン大会に出ませんか?」とお誘いを受けたのである。

何故先輩から敬語で話しかけられたのかと言うと、その先輩が年下だからなのだがそこは問題ではない。

先輩にそう言われて断れるはずも無く、普段運動など全くしない僕なのだが10kmマラソンに出場する事になってしまったのである。

 

出場するからには少しぐらい練習しておかなくてはと思い、だらだららと歩道を走ったり歩道を歩いたり、主に歩道を歩いたりしている時にそれは突如やって来たのである。その瞬間は僕の身に何が起きたのかさっぱり分からなかった。何か、顔面に物凄く強い衝撃を受けたのだ。しかも、その衝撃の中心は左目にあった。

「うわ、何かに目をぶつけた!」

と思い、左目を押さえながら振り返ると、それは歩道にはみ出した看板だった。看板の角で顔面、しかも左目の辺りを強打したのだ。しかも、夜の暗い時間だったので看板に全く気付かず、徒歩のスピードとは言えノーブレーキで看板の角にぶつかったのだから無事で済むはずがない。通りで左目を押さえる手に涙が滝の様に落ちてくると思い、着ていたジャージの裾で目の辺りを拭って驚嘆した。血まみれだったのだ。左目を押さえていた手に落ちていた液体は血液だったのだ。これには度肝を抜かれた。左目は開けられないし血が止まらないし、もう左目失明必至かと青ざめた。

 

 なんとか帰宅した僕は、洗面所で血を洗い流して恐る恐る目を開けた。普通に視界が開けた。良かった。目は無事だった。とりあえず胸をなで下ろす。では血は何処から出ていたのだろう。よく見ると、眼球の真下にあたる、目の淵の部分の肉が数ミリ削げ落ちていた。もし、もし僕の身長があと2〜3ミリ低かったら、この傷は間違いなく眼球だっただろう。本当に失明直前だったのだ。僕は再度青ざめ、そして不幸中の幸いと言う言葉を身をもって経験したのだった。

 

 僕が目を閉じても景色が見える様になったのは、この事件がきっかけなのである。

なんせ、目の下の肉が一部無いのだから。目を閉じても、小さい穴を覗きこむ要領でその部分からだけは見えてしまうのだ。

 

特殊能力を得る・・・それは大きな代償によるものなのである。

あと、登山は雨の日に限る。

 

[完]


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