第26話「2001年9月11日を語る」
私がアメリカで暮らすために単身で日本を飛び立ったのは1978年9月の事でした。 25年以上前に女性が1人でアメリカへ行く事自体、珍しかった様に思います。アメリカで暮らそうと思ったのは、少し前にアメリカにホームステイをした時です。そこでアメリカの素晴らしさを知り、アメリカで暮らしてみたいと思い、ホームステイから日本に戻った後、1年間一生懸命働いてお金を貯め、遂にアメリカへ飛び立ったのでした。
アメリカに渡ったとは言え、いきなり単身生活が出来るほど現実は甘くありません。 普通に生活がおくれるほど達者な英会話が出来た訳ではありませんでしたので、英語学校へ行く必要が有りました。私は、住み込みでのベビーシッターの働き口を見付け、昼間は子守り、夜は英語学校と言う生活を送る事になりました。日本とアメリカの、物に対する考え方の違いを最初に痛感したのがこのベビーシッターの仕事で、大変苦労しました。飽くまで文化の違いに起因するのですが、この前後の日々は今思い返しても最も辛かった時期です。ともかく、今、この様にニューヨークの普通の会社でオフィスワークが出来て、1人で自立して生活出来ている事は、とても幸せですし、アメリカに来たばかりの頃からは想像も出来なかった事です。
さて、2001年9月11日の事です。 その日、私はいつも通り会社へ出勤しました。社内が少し騒々しかったので、何事かと思っていると、どこかで飛行機が墜落したらしいと言う情報が伝わってきました。それでもいつも通り仕事をしていたのですが、少しずつ詳しい情報が入って来たのです。なんと、あの貿易センタービルに2機の飛行機が突っ込んだと言うではありませんか。テレビを見てみるとその通りで、貿易センタービルから煙が出ている様子が生中継されていました。信じられない光景です。そして事務所内が騒然となりました。そう。実は私の会社は、ついこの間まで事務所を貿易センタービル内に構えていたのです。事務所の引越しのタイミングによっては、今テレビで放送されている光景は我が身に降りかかる事態だったのです。
地元ニューヨークでこの様な事件がおこり、しかもテロの可能性があるとあれば、もう仕事どころではありません。 会社から帰宅命令が出ました。しかし、混乱をきたしたニューヨークでは地下鉄もバスも機能しておらず、私を含んだ何人かは帰宅が出来ず、会社の近くのホテルへ泊まることになったのです。 結局家へ帰る事が出来たのは事件から数日経ってからでした。 帰宅してみると、留守番電話が数件と、受診したFAXで部屋が散らかった状態でした。何事かと確認してみると、留守番電話もFAXも日本からでした。ニュースを見た両親や親戚からです。その内容は、私の身を案じる物ばかりです。 どうやら日本の両親や親戚は、私が今でも貿易センタービルで働いていると思っていたようです。事務所が変わった旨の連絡はしてあったはずなんですけどね。勘違いしていた様です。とにかく、あんな事件があった後数日間、電話に誰も出なくて私と連絡の取れない状況が続けば勘違いに拍車を掛ける事は間違いなく、皆さんには大変ご迷惑をお掛けしたと思っています。
さて、これは僕の母の友達による体験談です。 以前は9月11日と言えば、日本で初めて公衆電話が登場した日か紀子様誕生日と言った程度の扱いだったのですが、今はもうとんでもない日になってしまっています。幸い、2002年以降は大きな事件はおきていませんが、どうもこれだけ事件が続くと誕生日に何か事件が発生するのではないかと身構えてしまいますね。
以上。僕の誕生日伝説でした。
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