互いに押し黙ったまま、相手の出方を伺うようにして向き合っていた時間は、果してど
れ程のものだったのだろう。
ナナリーが自らの心中を吐露し、それに対する返答を非難覚悟で待ち受けている以上、
今度は発言を求められているのは自分の方だった。
だが、この共同生活に至るまでの様々な思いが枷となって、喉奥から咄嗟に言葉が
出てこない。
この二年近い時間、ナナリーに対して抱き続けてきた劣等意識を、いつか彼女と向き
合う時が来たとしても、けして彼女の前で曝け出すまいと思っていた。そこで自分の衝
動を知られてしまったら、それは自分と彼女の間に覆しようのない序列を作り出す事だ
と思っていた。
悟られれば自分が惨めになるだけだと、そう自分自身に言い聞かせて、いつか訪れ
るかもしれないその瞬間を心のどこかで身構え続けた、ルルーシュとの共同生活。想像
上の覚悟を離れ、現実にナナリーと生計を一にするようになってからも、自分の気構え
は変わらなかった。
だが……ここにきて、自分に中に根強く残る暗部が、声高に主張し始めたのを、ロロ
は黙殺することができなかった。
幼いころから身体的な障害を抱え、いくつも年の変わらない兄ただ一人を頼りとして
子供時代を過ごしたナナリーが、精神面でも経済面でも、一切負担を覚えていなかっ
たということはあり得ないだろう。こうして、障害を背負いながらも自活するための努力
を続けている彼女もまた、ルルーシュと同じく様々な労苦を味わってきたはずだ。
それでも、今固唾を呑むようにして自分の言葉を待つ少女の面差しを前にして、考え
ずにはいられない。
ナナリーとのこれまでの仰々しい関係は、お互いけして友好的なものであるとは言
えなかったが、それでも間に挟まれる形になるルルーシュを慮って、自分は極力この
仮住まいで余計な波風を立てないよう努めてきた。自身の周りに見えない数を張り巡
らせながら、それでもあからさまな行動や言葉で自分を遠ざけようとしなかったナナリー
にしても、それは同様だろう。
このまま口を噤んでいれば。あるいは、実のない適当な言葉でこの状況をいなして
しまえば、自分と彼女は、再びぬるま湯の様な関係を続けることができる。ナナリーに
対してこれまで通り無関心を貫くのであれば、わざわざ揉め事の種をまいて余計な
労力を割く必要などないはずだった。
相手の好意を求めないからと言って、敢えて相手の不興を買う言動を選ばなければ
ならない謂れはない。自分に向けられる心証の改善を求めない代わりにそのための
努力もしない、それが対人関係における無関心というものだった。
そういった思惑のもと、不干渉を通してきたこの少女に、今、自分がこの胸襟の全
てを曝け出したら―――彼女は、果してどんな顔をして見せるだろうか。
温和で情深く、それが時に世間に対する仮面になるとしても、大概の場合は周囲
の好印象を得るであろう柔和な笑顔を絶やす事のない彼女が、その心の鎧を取り払
われた素顔を見せる瞬間を……見たいと思ってしまった自分を、ロロは自覚しない
わけにはいかなかった。
「僕は……兄さんや、君に対する感情が自分でよく解らなかったころから、兄さんの
弟を演じ続けてきた。ただの監視役にすぎなかった僕が、見破られてしまってから
それでも、兄さんと共同生活を続けた裏には色々なことがあったけど……始めは、
お互いの利害が一致したから……それだけだった」
それまでの長い葛藤の時間がいっそ滑稽に思えるほどに、一端口火を切ってしまう
と、情動に後押しされた言葉は止まらなかった。
「君の安全を守りたいって言う兄さんの望みをかなえるために、僕も随分兄さんに協
力したよ。君と電話越しに話をさせることで、記憶が戻っていないふりをしていた兄
さんを試そうとした枢木卿の目を、僕のギアスでごまかしたこともある」
覚えているだろう?と問いを重ねれば、それが何を指し示しているか、容易く追憶で
きたのだろう。ナナリーは言葉を発することなく、ただ静かに頷いて見せた。
「始めのうちは、僕自身の安泰な未来が欲しくて、その為の投資として、兄さんのフォ
ローをしていたんだ。だから、兄さんが約束を守ってくれるならそれだけで、何の不
満もなかったはずなんだけど……だんだん、僕は、強欲になっていった」
監視者としての自分の正体を看破され、保身の為にルルーシュに銃口さえ突きつけ
た、あの対峙の瞬間を思い出す。
望む未来を与えてやるという彼の言質にしがみつきながらも、身の内で絶えず警鐘
を鳴らし続ける疑惑との間に板挟まれ、幾日も過ごした眠れぬ夜を思い出す。
「「保証」じゃなくて。そういう、形式ばったものじゃなくて、もっと違う何かが欲しいっ
て思った。兄さんが、君を取り戻そうと躍起になっている姿を目の当たりにするたび
に、そんな気持は少しづつ強くなっていって……そんな自分を持て余し始めた頃、
枢木卿の時間を止めて、君との会話のフォローをしていた僕の目の前で、兄さん
は、君に言ったんだ。『ナナリー、愛している』って」
政治的見解の相違から「ゼロ」と離反した時ですら、与えられる兄の愛情を疑いもし
なかったであろう、国の庇護下に置かれていた彼女の安泰した暮らしぶりに思いを馳
せる。そんな追憶の何もかもが、自分とナナリーの差異を再認識させられているかの
ようで、ロロは痛みに耐えるかのように、まとった上着の胸元を我知らず握りしめた。
「枢木卿の追及からも、君との『他人ごっこ』からも免れた兄さんは、もちろん後で僕
を労ってくれたよ。褒めてもくれた。よくやった、助かったって。……でも、僕が欲し
かったのは、労いでも賞賛でもなかった」
ナナリーとの決裂を余儀なくされた夜、一晩中うなされ続けたルルーシュが縋るよ
うに口にした、彼女の名前。そんな彼を揺り起こす事も出来ず、監視の建前で付き添
いながら、夜明けまでまんじりともできなかったあの夜の自分が、恐らく彼以上に打ち
のめされた心地であったことを、きっとルルーシュは今でも知らないだろう。
そして、今目の前で自分の言葉に耳を傾けているこの少女にも当然、自分が飲み下
してきた痛みなど分からない。
「協力した、見返りじゃなくて……僕が何かを提供したから、その報酬として与えられ
るものじゃなくて……ただ自然体でそこにいるだけで、無条件に約束されるような、
そんなものが、僕は欲しかったんだ」
「ロロさん……」
「なにも、そんな難しいものを欲しがったわけじゃない。お金や労力がかかるわけじゃ
ない。君みたいに……あの時の君みたいに、僕が僕であるだけでいいって……その
ままの僕でいいんだって、そんな一言が欲しかっただけなんだ」
『ロロ、愛している』
どれほど望んでも、どれだけ「努力」を続けても―――待ち続ける自分を尻目に、けして
振り返ることのなかった兄。与えられることのなかった、たった一言の無償の言葉。
もしも、それが望むままに与えられていたとしたら、きっと自分は、自分の焦燥に駆り立
てられるようにして暗躍を重ねることはなかっただろう。
それは自己責任が問われる契機であり、かつての自らの暴走を兄に転嫁しようとは思
わなかったけれど……
こうして向き合っていると、やはり自分とナナリーに与えられた立ち位置の差を自覚せず
にはいられない。その差異に正面から向き合う事は、そのままこれまで飲み込み続けて
きたルルーシュへの鬱積を突きつけられているようで、ロロは、そんな自分の心の動きを
恐れた。
同時に、できることなら意識の深層下に押し殺してしまいたかった自らの暗部を浮き彫り
にさせてしまうこの少女の存在が、やはり恨めしいと思ってしまう。
どうして、愛してはくれないのか。どうすれば、ありのままの自分を愛してくれるのか。ずっ
と口に出せずじまいだった言葉が、形と対象を変えて喉奥からせり上がってくるのを、ロロ
はとどめることができなかった。
「……あのフレイヤの一件で、君の消息どころか生死まで解らなくなって……それこそ半
狂乱になって君を探す兄さんの姿を目の当たりにした時、これ以上ないくらい君の事が
恨めしいって思った」
曝け出してしまえば自分の負けだと思っていた。悟られれば自分の劣等意識が煽られる
だけだと思っていた。
だが……自分の抱く負の情動の具現であるかのようなこの少女を前に、これまで喉奥に
押し込め続けてきた吐露をぶつけることは、自身が思う以上の衝動と、そしてそれを凌駕す
る解放感をロロに覚えさせた。
それが自分にとって、どれほどの枷となっていたのかを、口にした瞬間思い知らされた積
年の禁句。
今なら……殺し続けてきた思いの全てを、吐き出してしまえると、そう思った。
「君の事が……だから、憎くて疎ましくて仕方がなかった。兄さんの目がなかったら、
それこそ君を殺してしまいたいと思ったくらいに……」
「ロロさん……」
「君さえいなければ……僕は、こんな思いを味わわなくて済んだんだ」
刹那―――適度な陽射しによって十分な明るさが保たれた簡易キッチンの温度が、数度
下がったかのような錯覚を、ロロは覚えた。
日差しが翳ったわけでも、空調が誤作動を起こしたわけでもない。これは、暗殺を生業と
していた頃の自分が「任務」に臨む際、その緊張と、体内の血行に一時的な弊害が生じる
事から起こった体感温度の低下による感覚だった。
排除すべき対象を前にした時に起こる自覚症状に、少女に向ける表情はそのままに、ロロ
は軽い動揺と、それを上回る高揚を覚えていた。
一度は捨てられたと思っていた、暗殺者としての自分が戻ってくる……
体内から湧き上がる不穏な衝動に、総身の産毛が一斉に逆立ったかのような心地になる。
そんな自分を持て余したかのように、ロロはテーブルの上で組んだ両の手に力を込めた。
煩わしいと思う。疎ましいと思う。それこそ、雇われた組織の命令や自らの使命感に起因
しないところから、充分に制御されてきたはずの殺戮衝動が沸き起こってしまうほどに。
まだ自分がルルーシュの監視者として表向きの体面を取り繕っていた時分から、それは
慣れ親しんでしまう程に、彼女に対し抱き続けてきた衝動だった。事故に託けて実行に移
してしまおうとする誘惑に駆られた回数も、指折り数えることすら追いつかないだろう。
こうして安泰した生活を手に入れ、そこに至るまでの過程はともあれ、必要とする人から
必要とされる日常にようやく馴染み始めた今になってなお、この衝動はなりを潜めてはいな
かったのかと……そんな自らの執念のような思いに、ロロは、込み上げそうになる苦笑いを
噛みしめた奥歯の奥に呑みこんだ。
今、この少女を手にかけて、それでどうなるというのか。
この茶席の相伴に預かった当初は、彼女がルルーシュと再び敵対するかもしれないという
危惧と、それを回避するための名分があった。ほんの僅かなイレギュラーでこの隠れ屋生活
が破たんしかねない今の状況であれば、ナナリーの言動如何で自分には彼女を手にかける
理由が与えられるだろう。
三人で踏み出したこの新生活を何よりも大切に思うルルーシュは、ナナリーの変貌とその
損失を、きっと心の底から悲しみ、悔む。手を下した自分の事を彼は声を限りに詰るだろうし、
その慟哭の激しさは測り知れないことだろう。
それでも、そこに至る経緯も同時に知ることとなるルルーシュが、かつてフレイヤの被弾で
実妹の消息を失ったあの時、衝動の余り自分に叩きつけた当時の叫びと怒りだけは、二度
とぶつけはしないだろうという確信めいた思いがロロにはあった。
それが真にやむを得ず必要とされた行為であり結果であるなら、きっと最後には、彼は自
身の激情を曲げてそれを受け入れる。
―――そう。それが、真にやむを得ない結果であるのなら。
だが、今は違う。今自分を支配しているこの衝動は、自分の中で育て上げた負の情念に
他ならない。ナナリーに向けられた様々な劣等意識から生み出された、これは身勝手な自
己顕示欲だ。
ルルーシュに一身に依存するが故に生まれたこの衝動は、自分自身の強欲から育てら
れたものであって、他者に責任を転嫁できる類のものではない。それも、この一年あまり、
まっすぐに自分を見てはくれなかった彼の人に対する鬱積が高じての結果で
あるなら、なおのことこの衝動をナナリーにぶつけることは間違っていた。
欺かれていたことは知っている。トウキョウ大戦の激戦の混乱で生きるか死ぬかの修羅
場を共に乗り越えたあの時まで、彼が自分を弟としてなど見ていなかったことも。
だが、それでも……一年あまり続けられた偽りの兄弟関係の中で、「兄」として自分に
接した彼が自分に教え諭した様々な言葉まで、偽りであったとは思わない。
真実を知る者の目には空虚にすら映っていたであろうあの短い時間の中で、本来の記
憶を取り戻してからも、彼は自分を手練の暗殺者ではなく、どこにでもいる一人の少年と
して扱い続けた。そこに自分を籠絡しようとする意図があったにせよ、彼が自分に教えた
のは、普通の人間として抱くべき感情であり倫理だった。
突出したしたルルーシュへの依存心に飲み込まれ暴走した自分の強欲によって、そん
な彼の様々な言葉は一度は水泡に帰してしまったけれど……
それぞれが抱く複雑な思惟の方向はどうあれ、とにかく今はこうして、自分は関係を
再構築するための契機を与えられているのだ。
これを最後と覚悟したあの日の衝突を、身を以て味わっているからこそ……自らの先
走りによって、同じ轍を踏む事だけは二度と繰り返したくないと思う。
だからこそ……安易に、かつての自分に戻るわけにはいかなかった。
「……だけど。そんな風に、兄さんの前から姿を消しても、兄さんの中に残り続ける君
の痕跡を追い出したくて、消してしまいたくて……躍起になっているうちに、僕は、
兄さんとの距離の取り方を間違えたんだ」
「ロロさん?」
「君そのものだけじゃなくて……少しでも君の存在をほのめかしたり、それを兄さんに
結びつけたり近づけたりしようとする人間も、僕は許せなくなっていった。……何が
あったかなんてここで言っても仕方がないし、敢えて話したいことでもないから言わ
ないけど……とにかく、僕は間違えて、それで兄さんとの関係も一度完全に破たん
したんだ」
ルルーシュの未来を脅かす存在を末梢するという建前を隠れ蓑に、自分を追い詰め
ていく嫉妬や恐怖をいなし切れず暴走した自らのエゴ。その結果、自分はルルーシュ
の背負う秘密の核心に近づきすぎた一人の少女を手にかけ、そして、ルルーシュとの
間に決定的な溝を穿つ顛末を自ら呼び寄せたのだ。
その後、これ以上ないほどどん底まで関係のこじれた、ルルーシュとのあの決裂の
日を思い返すにつけ、その引き金となった自らの暴走にはせられた苦い後悔の念が
ロロの胸を焼く。だが、それはルルーシュとの関係を量り違えた自身の「誤算」に対し
ての悔恨であり、この手でその命を奪った少女に向けられた贖罪の念と呼ぶには、そ
れはあまりにもおこがましい感傷だった。
こうして、かつての自分が望んだ「未来」を手に入れ、多少の不自由はあってもそれ
を満喫している今になっても、シャーリーの命を心の底から悼めない自分の中には、
ただひたすらにルルーシュの愛情を求め続けたあの頃の自分が根強く残っている。そ
んな自分を抱えたまま、どんな名分を振りかざしてナナリーを糾してみたところで、そ
れはもっともらしい理由を後付けした欺瞞にしかならないだろう。
だから、どれほど自己弁護を繰り返してみたところで、ここでナナリーを害することが
ルルーシュに対する大義名分となることは、けしてあり得ない。
そうして順序立てて自分の中の感情を整理していく作業を繰り返していくうちに―――
ようやく、ロロはこれまで耳目に晒す事を避け続けてきた追憶を、その間接的な要因と
なった少女を前に、解放する心持ちになった。
「……大嫌いだって、言われた。僕は君の代わりにはなれない、偽物なんだって。
君を失ったと思いこんで、追い詰められて憔悴して自棄になって……自分を取り繕
う事も出来なくなった兄さんの口から、その時、初めて聞かされた兄さんの本音だっ
た」
「……っ」
「『本物』の君に対する恨みとか妬みとか、そんなものは正直、どこかに行ってしまっ
ていた。ただ苦しくて、痛くて、僕という存在そのものを兄さんに否定された事を、自
分の中で昇華できなくて……そんな時、黒の騎士団の中でクーデターが起こって、
兄さんは騎士団から追われることになったんだ」
実妹を失った衝撃に取り乱し、人事不省に陥ったルルーシュを彼の私室へと連れ帰
りながら、彼をここまで錯乱させるナナリーの存在を改めて疎ましく思った。それと同時
に、今こうしてルルーシュを支え歩いているのは自分なのだと思うと、暗い喜びを覚え
る自分を禁じ得なかった。
これからは世間向けの建前ではなく、本当に彼と二人きりの兄弟になるのだと、あ
る種の期待さえ胸襟を満たしたあの日……しかし、自分は想像すら及ばない愁嘆場
に直面することとなったのだ。
今までも、そして恐らくはこの先も。あれほどの感情の起伏に引きずられる一日は、
きっと訪れないだろう。そう確信すら持てるほどに、あの日は自分の中にある全ての
感情を呼び起され、引きずりだされた愁嘆場だった。
唯一敬愛し、拠り所の全てであったルルーシュに否定され、それまで自分を満たし
ていた、未来への期待にも似た高揚感は瞬時に奈落へとつき落とされた。
出て行けと叫ばれて……残された最後の自我で、床に叩きつけられた携帯電話とロ
ケットを拾い上げた自分が、ルルーシュの私室を出たその後どこをどうやって彷徨い歩
いたのか、ロロには今でも記憶がない。
気がついた時には、斑鳩内部の格納庫で、ルルーシュが専用機として使用するナイ
トメア「蜃気楼」の前に佇んでいた。
そして―――この先の見通しもなく、ただ茫然とその場に座り込んでいたロロの耳朶
に、微かに飛び込んできた数人の話し声。
不穏な空気を纏う、押し殺された端的な会話から読み取れたのは、まさしく、ルルーシュ
に向けられた反逆の宣誓だった。
「……今にして思えば、ああいうのも、巡り合わせって言えるのかな。あのまま兄さん
に追い出されずに兄さんと一緒にいたら、僕は騎士団の裏切りを事前に察すること
もできなくて、何も知らずに兄さんについていった格納庫で……そのまま騎士団の
反逆にあって兄さんと一緒に殺されていたと思う」
だから、きっとあの日の衝突は、必要なことだったんだ―――続けられた言葉には、そ
れを裏打ちするだけの語勢が伴われてはおらず、きっとナナリーは自分の言葉を自分の
虚栄だと判断しただろうと、ロロは思った。
それが必要とされた契機であったにせよ、あの日の自分達を振りかえることは、今となっ
てもそれほどに痛く苦しい。
たとえ偽りの関係を抜け出せなくとも。相関に変化をもたらすためにあれほどの痛みを払
わなければならないというのなら、いっそそのままぬるま湯の様な偽りの生活に浸ってい
たかったと思う気持ちもあった。誰しも、好き好んで自ら苦痛を望んだりはしな
い。
だが……それでもともかく、あの日の決裂がなければ、結果として自分はルルーシュの
命と、そしてその後に続く自分達の未来を守れなかった。それだけは、そこに至る手立て
を誰に謗られようと軽んじられようと、胸を張って言い切ることができたから……
だから―――眼前の少女の目に映らない事を承知で、ロロは笑った。
「僕が兄さんの監視役だったって言う事を知っているなら、君は、僕の持つ能力の事
も知っているのかな」
先刻までとは一転し、ひたすらに聴き手の立場を貫く眼前の少女からは、諾とも否
とも言葉は返らなかった。だが、固く唇を引き結んだままのその様相が、言葉以上に
雄弁な答えとなる。
ロロもまた、それを了承の印として言葉で念押しをしないまま、自ら傾けた話題を続
けた。
「僕の持つ、このギアスという力は、使う度に僕の体に負荷をかける。兄さんにして
も、僕とは制約の方向が違うけど、いろいろな不自由を強いられてきたよ。君が皇
帝派の保護を受けていた間、どんなふうに僕達の情報を聞かされてきたのかは解
らないけど……それだけで、僕達の未来を保証してくれるような完全無欠の力じゃ
なかった」
「ロロさん……」
「それでも……あの時、騎士団の裏切りから兄さんを助け出せたのは、間違いなく、
僕に与えられたこの力のおかげだから。だから、君や君の「保護者」達がギアス
という能力をどう判断していても、僕はこの力に感謝したよ。そうして兄さんをあの
場から救い出せた自分を、誇りに思ってもいる」
見よう見真似で蜃気楼を操りながら、追撃してくる追手を退け続けた自分に向かい、
何度も制止の叫びを上げていたルルーシュ。それが自分の身を案じてのことだと思え
る事が嬉しくて、与えられる負荷に悲鳴をあげる心臓の訴えばかりではなく、込み上
げてくるものに胸が痛んだ。
自分がこの人を生かすのだと……それがきっと、生まれて初めて、一切の打算を挟
まずに思えた瞬間だった。
「僕が兄さんの理想とする、兄さんにとって都合のいい弟であり続ければ、きっと愛し
てもらえるとか……これだけ尽くしたんだから報いてくれるだろうとか……そんな「見
返り」なんて、あの時、どうでもよくなった。兄さんさえ生きていてくれれば、もうそれ
だけでいいって」
「…っ」
「さっきまで話していたことと矛盾するかもしれないけど。あの時は、正直、君の事も
どうでもよくなってた。……ああ、生死がどうでもいいって意味じゃないよ。兄さんの
中にどんな形で君が痕跡を残したって、それを僕が消せなくたって、そんなことは
どうでもいいって、そう思ったんだ。……僕は、僕の力で兄さんを守れたんだから、
生かせたんだから……だから、他の事はもうどうでもいいって」
死を覚悟して臨んだあの逃避行の中、挟撃の隙をついて視野に飛び込んできた、
空の青さを覚えている。
断続的に時間を止めるギアスの影響下に置かれた蜃気楼のコックピットで……途切
れ途切れに耳朶をうつルルーシュの制止の叫びを受けながら、ギアス乱用の反動で今
にも意識を飛ばしそうになる自分を叱咤して操縦卓を叩き続けた。
自分がルルーシュの命を背負っているのだという緊張感と、それを上回る言葉に表す
事の出来ない高揚感。
暗殺という生命与奪に関わる裏稼業に就き、常に人の生死を間近に触れる半生を送
りながら、あれほどに「生きている」事を実感した瞬間は他になかった。
「……君の質問の、答えになっているかは解らないけど……そういう色々な修羅場
を通って、僕と兄さんは騎士団やブリタニアの包囲網から抜け出した。そうやって
ひとまずの生活の基盤を固めてから、僕達は消息が途絶えてしまった君を探しに
出たんだ」
以来一月、ルルーシュの望みどおり始まった、三人だけの静かな隠れ屋生活。
ロロ自身、ようやく手に入れたこの生活に不満などないと信じて疑わなかっただけに、
こうしてかつての自分達の暗部に踏み込んでこようとする少女の存在が、始めはひど
く煩わしく、腹立たしいと思った。
だが、こうして始めて言葉に出して当時の自分達を物語ってみると……敢えて振り返
ることのなかった自分達の負い目と向き合う事は、きっと必要なことだったのだとそう
思える。
口にすることがないまま身の内にため込んできた、ルルーシュに対する些細な憤懣
も不信感も、そして眼前の少女に向けられた負の感情も、改めて当時を振り返りそれ
を吐きだしたことで、抱え込んできた溜飲が奇麗に下がったような気がした。
「始めは、兄さんを信じるよりほかなかったから、兄さんの側についた。自分をごま
かしながら、兄さんに協力していた。……でも、いざ生きるか死ぬかの場面に遭
遇したら、利害とか見返りとか、そんなもの関係なしに、兄さんを助けていた。た
だ、この人に生きていてほしいって思った。……それが、兄さんの傍に残った、
自分の出した答えなんだと思ってるよ」
「…っ」
「僕達のしてきたことは、確かに正しいことじゃないかもしれない。それでも僕達は
……兄さんは、自分の信じる道を必死に生きた。命さえ投げ出して、自分の目
指すものの為に必死で生きて生きて……そうして、兄さんは今のこの生活にた
どり着いた。もう世界に対して何の権限も持っていないけど、それでもこの生活
の基盤を手に入れて、危険も顧みずに、敵陣の只中にいる君を迎えに行った。
僕達三人で、もう一度家族としてやり直すために」
ハッとしたように息を呑んだナナリーの容色から、僅かに血の気が消える。そうして
青ざめながら唇をかみしめている少女の姿は、これまでのロロであれば、与えられる
ものを享受するばかりで受け身の体制を崩さない彼女に対する、ある種の鬱積を募ら
せるところだったのだろうが……いっそ不思議なほどに、心凪いだ自分をロロは自覚
していた。
「逃げに聞こえるかもしれないけど……今の生活をこのまま続けていけるなら、
世界が僕達をどう思っていても、正直どうでもいいな。兄さんはやっと手に入れ
たこの生活を、何に変えても守っていきたいと思っているし、僕も、そんな兄さ
んに協力したいと思ってる。―――君が僕達をどう思うのも、僕の言葉の何を
判断材料にするのも君の自由だけど、とりあえずは、これが、僕が兄さんの傍
に残った理由かな」
今の僕に言えるのは、これだけだ―――そう言葉を締めくくったロロの独白を、僅
かに俯いた姿勢で押し黙ったまま、ナナリーは長いこと言葉を発しなかった。問われ
るままに答えたロロもまた、そのさらに返答を求めることもなく、テーブルの上で放置
されたまま冷めてしまった紅茶を飲み干して手持無沙汰の時間をつ
ぶす。
先刻のナナリーのように、紅茶のお代わりを給仕するのもなんだかわざとらしいか
と、そんな風に、自分の取るべき次の行動をロロが考え始めた頃、ナナリーは僅かに
伏せられていたその容色を、ようやくロロへと向けた。
「……私は…自分からお願いしたことなのに本当に情けない話ですが……貴
方のお話を伺ってもまだ、自分がどうするべきなのか答えを出す事ができま
せん。それでも……」
言って、改めて向き直った少女の表情には、それまでの彼女にはなかった決
意のようなものが見え隠れしている。
それが何を示しているのか、少女の出方を内心身構えるロロの前で、彼女は、
ありがとうございましたと頭を下げた。
「ありがとうございました……今伺ったお話の中には、きっと二度と思い返した
くない記憶もあったのでしょう?お話しくださって、ありがとうございます」
「ナナリー……」
「それから……お兄様を命がけでお助け下さって…本当に、ありがとうござい
ました。貴方がお兄様の傍にいらっしゃらなかったら、お兄様は今、こうして
この家にはいらっしゃいません。……シュナイゼル義兄様から伺ったお兄様
のこの二年間を自分の中でどう昇華していけばいいのか、まだ分かりませ
んが……二年前にお別れしたきり、もう二度とお兄様にお目にかかれない
ような事態にならずに済んで、本当に良かったと思います。今のお兄様と、
そして、貴方と……こうしてお会いできて、本当に、良かった……」
それまで固くこわばっていた少女の口元に、どこかほろ苦さを感じさせる笑みが
浮かぶ。そうして、自身の複雑な思惟を持て余しながらも笑んで見せた少女の白
い容色を、ややして、静かに伝い落ちていったものがあった。
「……ナナリー?」
その視力は制御されていても、涙線は機能しているのかと、どこか冷静な部分
で思わずそんな事を考える。呼びかけたものの、かけるべき言葉を見つけられず
二の句を失ったロロを前に、ナナリーは、眦から零れ落ちたものをそのままに、再
び笑って見せた。
「まだ、この先どうするべきなのかは解らなくても……貴方が時間をかけて、
お兄様の人為を理解して下さったように、私もここで、貴方とお兄様の傍で、
私達のこれからを、考えていきたいと思います。……やっぱりお兄様の行
為が許せなくて、お兄様と衝突することもあるかもしれない。お二人が迎え
に来て下さったままに、この家に移るのではなかった後悔することもあるか
もしれない。……それでも。私は私にできる方法で、お兄様という人物を、
見定めていきたいと思います」
「ナナリー」
「この目で直接見ることはできなくても……受け取れるものは、きっとありま
すよね。貴方だって、お兄様の外面だけで、お兄様を理解なさったわけで
はないのでしょうから。……時間はかかっても、私も与えられるばかりでは
なくて、私自身の意志で、お二人を理解していきたいと思います」
直接お二人の姿を見ることができれば、もちろんその方が良かったですけれ
ど―――
どこか冗談めかした口調で言葉を切った少女の独白に……ロロは、それま
でとはまた違った意味合いで、動揺を覚えている自身を知覚した。
少女に乞われるままに昔語ったルルーシュとの追憶には、意図してその方
向に流れることを避けていた話題がある。それは、ナナリーが非道と感じたで
あろう程の「悪事」を、ルルーシュが何故働いたかということだ。
目も見えず、足も不自由な少女がなんの束縛を受けることもなく、余人と変わ
らずに幸せな未来を求めること。それを、誰憚ることのない世界を作り出すこと。
それが、ルルーシュの望みだった。
その話題を突き詰めていけば、たどりつくのは、ナナリーに長く障害を強いた
そもそもの要因と、それを補完したブリタニア皇帝のギアスの存在だ。そこに至
れば、彼女は己の視力が人為的な力で封印されていたことを、知ることになる。
経緯が経緯であるだけに、ルルーシュもまた、この事実をナナリーにどのよう
な言葉で告げるべきか、思い悩んでいるようだった。ロロが敢えてこの話題を出
さなかったのは、そんなルルーシュを尊重し、その決意の時に任せようという思
いとは別に、経緯はどうあれ、最後にはナナリーにとっての希望ともなりうる布石
を、敢えて自分から投じることに抵抗があったためだ。
その視力が戻ることで、自分達三人のこれまでの生活と、どれほどの差異が生
まれてくるのかは想像の及ぶ限りではなかったが……仮定の話として思い巡ら
せてみても、それはロロにとって、けして楽しい想像とは言えなかったから……
だが……
唐突に、もうそれでも構わないと、ロロは思った。
ナナリーの視力が、将来的に戻っても。その事で、自分達の今の生活に変
化が生じても。ルルーシュの関心事の比重が、よりナナリーへと傾くことになっ
たとしても。
『兄さんの中にどんな形で君が痕跡を残したって、それを僕が消せなくたって、
そんなことはどうでもいいって、そう思ったんだ』
当時の自分達を追憶しながら、問われるままに当時を物語った自分自身の
独白。
ナナリーに向けたあの言葉の中で……自分の出すべき答えは、もうちゃんと
形になって用意されていた。
命さえ投げ出してようやく思いを返してくれた、ルルーシュに対する言葉にな
らない鬱積はまだ根強く残っている。ナナリーに向けられた複雑な感情もまた、
これで完全に払拭されたわけではなかった。
だが……もう構わないと、そう思う。
「……できるかも、しれないよ」
「ロロさん?」
「君自身の目で、直接、兄さんや僕を見て判断できる日が、君には来るかも
しれないよ」
自分を無防備に晒す事は、自分を惨めにするだけだと思っていた。これまで
抱えに抱え続けた負の情動は、それこそ墓の下にまで持っていかなければ、
自分はナナリーにもルルーシュにも、自分自身にも負けるのだと思っていた。
それでも、こうして感情のままに吐き出した様々な本音が、自分の抱え込ん
だ憤懣までも、一緒に解放してくれたのは確かだった。
だから……もう、それで構わない。
「ナナリー……君のその目は、君自身の負った障害によって見えなくなった
訳じゃないんだ。君の目は……」
ナナリーの気持ちを慮って積み重ねてきたルルーシュの優しい嘘を、そんな
彼を心底から理解したいと願ったナナリーの為に、敢えて自分が崩す。そのた
めに必要な情報と言葉を、自分はすでに手に入れていた。
この言葉を告げることで、自分達三人の関係は、また少なからず変化し、摩
擦を生じさせるだろう。何も口にしなければそのままこの安穏とした日常に浸っ
ていられるものを、敢えてその均衡を崩す必要があるのかと危惧する思いも、
当然ある。
だが……表向きは至極穏やかな、しかしその実、誰もがぎくしゃくとした思い
を抱えあったこの生活に、自分達がいつまでも耐えられるとは思わなかった。
変化を望むなら、それに伴う摩擦や衝突を避けてばかりはいられない。それ
を耐え凌いでこそ、望む変革は完成するのだから……
思いもよらなかった言葉に総身を強張らせ、一度は笑顔を見せたその表情を
驚愕に歪めた少女に向かい、ロロは、一語一語噛みしめるように、続く言葉を
紡いで見せた。
けして優しくはない、聞き様によってはひどく冷徹ともとれる、事実のみを端的
に繋いだ言葉の羅列。
だが、それでも……三人の未来に変革を呼び込むその言葉は、ナナリーへ
の、ルルーシュへの、そしてロロ自身への……全霊の祈りと願いを込めた、確
かな寿ぎの言葉だった。
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